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韓国の城郭について。
ソウルには城郭が街をぐるりと囲むように 建築されています。 城の周囲を囲むのではなく、街全体を囲むような城郭は 日本にはない独特なものがあり興味があります。 この城郭が出来た経緯などをお教えくださいませ。
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最近ソウルに行ってきましたが、修復中の南大門や現存する東大門など、これらを通りながらぐるりとソウル(漢城)を城郭が取り巻いていたことに驚きを感じました。 城壁都市は古くはトルコ・ギリシャなどの都市(城壁都市)にも見られ、大体紀元前1千年ぐらいには、発達し始めていたようです。 これらの都市を作る必要があったのは純粋に軍事的な必要性からで、トルコ・ギリシャあたりでも中国・朝鮮半島あたりでも、都市を攻略・侵略しようとした敵はほぼ確実に異民族だったからです。 日本人にはなじみがない考えですが、ヨーロッパもユーラシアも大陸には「強者の権利」という考え方があり、民族同士の戦いで負ければ民族そのものを全員殺して(または奴隷に売るなどして)民族を丸ごと街ごと抹殺することも行われていたのです。 そのため、異民族が攻めてきたときに守りの要となる城=城壁を築き、平時は朝になると門から外に出て周辺の土地で農業を行い、夜は城壁内の住居に帰って寝るという暮らしだったのです。もちろん子供や母親、年寄りなどは常時市街(城壁内)にいましたし、商人や店舗は城壁内にありましたから、日常でも都市としての機能は重要だったわけです。 またその民族が発展し城壁内に囲えないぐらい人口が増えれば、一定の人数が出て行って周辺に新しい城壁都市を構えることもありました。 中国でもイタリアでも「街道」というのはそういう都市と都市を結ぶために(特に非常時にはすばやく応援の軍隊を送るために)整備されたのです。 逆に日本で城壁都市が発達しなかったのは、7世紀の大和朝廷の成立により統一国家が成立したことと島国だったために、統一国家ができた時点で異民族がほとんいなくなったことが原因です。 それより以前の弥生時代などの集落跡には城壁を持ったものやいわゆる環濠集落などもありますので、日本国内でも民族同士(部族同士)の争いがあったのだと推測されます。 また、鎌倉幕府成立時点で日本国内がバラバラになる可能性もあったものの、一応朝廷から「征夷大将軍」の名前をもらって(つまり許可をもらって)武士政権が誕生したこと、その後の南北朝の乱も、朝廷の正統性を争う戦いに終始したこと、それ以外に外部から海を渡って進攻する勢力がほとんど無かったことが、日本に城郭都市を作らせなかった原因といえます。
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- nogul2n
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別にソウルが独特なわけではありません。世界的に都市(特に首都・都(みやこ))は、周りを防御のため城郭で囲むのがごく普通のことです。 日本が城郭で囲ってないのが、むしろ珍しい、異質です。 日本は平城京を作る時に唐の長安を手本にして作りましたが、城郭でぐるりと囲むことは取り入れませんでした。 「条坊制」などと並んで、中国始祖の「都城(とじょう)」の作り方の基本の一つがこの「城郭」なのですが、なぜかこれは手本通りにしませんでした。 新羅でも高句麗でも、中国式に城郭のある都城(とじょう)を作りました。 大陸の人間の常識からしたら、城郭を作らないで王のいる都を作るなんて考えられないことです。 韓国人はよく「平城京も韓国人が作った。」と自慢しますが、城郭を作らなかったなんてとても大陸人の発想とは考えられません。 城郭を作らなかったのは島国人らしい考えからのように感じます。城郭をわざわざ作らなくても、海という天然のお堀が日本の周りを囲っていますので。
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ありがとうございました。
- oska
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>城郭が出来た経緯などをお教えくださいませ。 1895年まで、朝鮮半島は歴代中国の属国・植民地として政治・文化を受け入れています。 (下関条約第1条。清国は、朝鮮の独立を承認する) この過程で、城郭都市としての建築・土木様式が流入したのでしよう。 現在のソウル城は、高麗王朝を謀反で滅ぼした李成桂将軍が「明国皇帝(洪武帝)から朝鮮という国号と初代朝鮮国王任命」を受けて発展した城郭ですよね。 冬至には、歴代中国皇帝のもとに朝貢していますから中国城郭の影響を強く受けているのです。 中国大陸の戦闘様式も、学んでいます。 古代は、一族郎党が住む地域を塀で囲む程度(城・館)でした。 敵が攻めて来ても、城・館から出て郊外で戦えばよかったのです。 城・館が出来ると、ここを中心に人が集まり町・都市が出来ますよね。 敵は、直接城・館を攻撃するのでなく「市街地を攻撃対象」とします。 (日本でも、城攻めの時には城下町を焼き払う戦術があります) 城主は「市街地も、防衛しなければ!」となります。 市街地入り口に城門を設けたり、軍駐屯地(要塞)を設けたり、市街地全体を塀で囲んだりしました。 つまり、塀で囲んだ地域が領主の支配地を意味したのですね。(一種の都市国家) その後、抗争などで都市国家間の統廃合が行なわれ規模が拡大。現在の状態になります。 これは、一種の悲劇でね。 都市国家間の抗争だと、戦闘員だけでなく「住民全ても戦闘対象」なんです。 歴代中国王朝の誕生時には、数千万人が戦闘で死亡していますからね。 有名な物語「三国志」でも、戦闘後の城内(都市)は悲惨な状況になっています。 余談ですが・・・。 貼付画像は、1895年のソウル南大門と南大門大通りの写真です。 英国人女性旅行家 Isabella L. Bird女史によると。 ・貨幣制度が(ほとんど)ない。 ・ソウルは世界有数の汚く悪臭のする都市。 ・一般民衆の住む場所は藁葺きのあばら屋で、通りからは泥壁にしか見えない。 ・道はとにかく悪い。 のだそうです。 今のソウルからは、信じられない光景だったのですね。
お礼
ありがとうございました。
- misa-on28
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ソウル観光旅行ガイドにあらましの説明があります。 http://www.seoulnavi.com/miru/1467/ 現在は都市発展に伴い取り壊された部分も多く、門だけが残っている部分もあるようです。 日本では都市をぐるりと城壁などで防御した城塞都市と言えるものは 後北条氏の小田原城の惣構え 豊臣秀吉が京都の外郭に築いた御土居 戦国期の堺市 などをのぞくとほとんど見られませんが ヨーロッパやアジアの大陸に見られる都市はほとんど城壁に囲まれた城塞都市として発達してきました。 そういう意味では日本の無防備な都市(平安や平城京も羅城門など立派な門は造ったが都市を巡る城壁はほとんど見られない)のほうがむしろ独特なのかもしれませんね。
お礼
ありがとうございました。
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ありがとうございました。