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花魁の身受け代の行方

花魁の身受けには莫大なお金が動いたそうですが、身受け代が本人の借金より多かった場合、残金は花魁のものになるのでしょうか。 それとも、雇い主のものになるのでしょうか。 どなたか教えてくださいませ。

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回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 遊女の階級としては: 、「花魁」そして「格子」、「散茶」、「梅茶」、「五寸局(つぼね)」、「三寸局」、「なみ局」、「次(つぎ)」の8階級です。 史料として残るのは、元禄年間(1688~1704)で「梅茶」あたりで40~50両(約1千万円余り)。「梅茶」の借金が30両位で後は忘八の取り分。「花魁」になると借金は500~600両で、身請け金額としては、それまで世話になった人々への「ご祝儀」も含めて、1,000両(約7,500万円位)かかったと言われています。 花魁の借金の返済とご祝儀、残った銭は楼主の取り分となりました。 身請けの日には、妓楼(ぎろう)では、「赤飯」を炊き、豪勢な食事を用意し、一通りの「祝いの膳」を終えてから(全て、身請け人の銭で)、大門の前に用意された「籠」で廓(くるわ)を去った。 天明年間(1781~)に入ると、松葉屋半左衛門という楼主は、これまでの26年間に渡り、2代目花魁の瀬川から5代目瀬川までの4人を身請けさせ、5,000両という大金をせしめたと言われている。そこで幕府も、余りにも高額過ぎる、と判断をし、以後は「500両以内とする」と言う通達まで出している。 身請けするには、まず、客から楼主に「だれだれを身請けしたい」との相談があり、楼主は、一応は花魁の親元に確認をとり、異存のないことを確かめたうえで、客に身請け証文を入れさせ、さらには、身代金と本人の借金を支払わせました。 天明13年(1793)に身請けされた薄雲太夫の身請け証文は以下のように書かれてあります。 「証文之事 一 其方抱之薄雲と申す傾城 未年季之内に御座候へ共 我等妻に致度 色々申候所に無相違妻に被下 其上衣類夜着蒲団手道具長持迄相添被下忝存候 則為樽代金子三百五拾両其方え進申候 自今已後 御公儀様より御法度被為仰付候 江戸御町中 ばいた遊女出合御座舗者不乃申道中茶屋はたごやへ 左様成遊女がましき所に指置申間敷候 若左様之遊女所に指置申候と申すもの御座候はば 御公儀様え被上仰 何様とも御懸り可被成候 其時一言之義申間敷候 右之薄雲若離別致し候はば 金子百両に家屋舗相添へ 隙出し可申候 為後日証文如件 元禄十三年辰の七月三日 貰主源六 請人平右衛門 同半四郎 四郎左右衛門殿」 要約すると、 「薄雲という太夫(または、花魁)はまだ年季の途中であるが、私の妻にいたしたく、色々な所へ相談し許可を得ました。また、衣類や夜着、蒲団、手荷物、長持ちなども一緒に引き取ることといたしました。酒宴のための酒樽代金350両をあなたに差し上げます。私は今後、御公儀より御法度とされている町中(の女郎)やばいた、旅の途中の茶屋やはたごの遊女がましき所へは出入りをいたしません。もし、そのようなことをして薄雲と離別するようなことがあれば、金子100両に家屋敷を添えてひまを出します。後日の証文といたします。元禄13年辰7月3日 貰主源六、証人平右衛門、同じく半四郎。四郎左右衛門殿」

daliya
質問者

お礼

ありがとうございました。 正直、私が想像していたのとは違って、非常にまじめなやり取りなのですね。身受けするというのは、妻(正妻)にするということでしょうか? 私は、御大尽の遊びなのかと思っていました。 また立派な太夫を育て上げ、多額の身受け代を受け取るのは、愛情を持っていい商品を作り上げるような感じでしょうか? また、わからないことがあると思います。よろしくお願いします。

その他の回答 (3)

回答No.4

bungetsuです。 >>昔は花魁道中ではなくて、太夫道中と言ったのでしょうか。 江戸では、吉原の始まりと同時に「花魁道中」と呼びました。 「太夫」が無くなり「花魁」になった・・・と書きましたが、「花魁」と言う言葉は最初からあったのです。 「太夫」という位は、京都や大坂にならって付けられた「称号?」だったのです。 (参考) http://okwave.jp/qa/q4810078.html >>太夫になるには、試験? お金? 推薦者? 何か、必要だったのでしょうか。 これは、前にも書きましたが、容姿だけが資格ではなく、声曲、お茶、お花、香合、そのほか芸事全般、和歌、文字の上手さ、などを身に付けていました。中には「八代集」や「源氏物語」、「竹取物語」を覇読したり、漢文を「レ」(れてん、または、かえりてん)なしに読める者までいて、妓楼の楼主たちが集まって審査をし「太夫」の称号を許しました。 また、「太夫」(花魁)を抱える妓楼は、それに見合った造り(見世構え)をしました。 http://bungetsu.obunko.com/newpage509.html にあるように、大籬(おおまがき=惣籬・そうまがきとも言う)・・・太夫(後に、花魁)と格子しか置いていない第一級娼家(見世)。私のページです。

回答No.3

bungetsuです。 >>正直、私が想像していたのとは違って、非常にまじめなやり取りなのですね。 遊女になるのには、さまざまな理由がありました。貧しい農家に生まれ売られた者、商人や武家であっても借金のカタに奪いとられた子女、同棲中の男に騙されて身売りさせられた者。 しかし、吉原は幕府公認、そして、幕府は「人身売買」を禁止していたため、公には「売買」ではなく「奉公」と呼ばれていました。 そして、幕府公認でしたので、身請けをする時にも「きちんとした証文」を入れました。 結構「制約」があったのです。 >>身受けするというのは、妻(正妻)にするということでしょうか? 正妻の場合もありましたし「妾」の場合もありました。 一夫一婦制の概念ができたのは、明治の中期から大正初期の頃でしたので、江戸時代は「妾」を持つことは男の甲斐性としてうらやましがられました。 >>また立派な太夫を育て上げ、多額の身受け代を受け取るのは、愛情を持っていい商品を作り上げるような感じでしょうか? 極端に言えば、楼主に愛情などというものはありませんでした。 あくまでも「稼いでくれれば良い」という考え方でした。 ですから遊郭の楼主を「忘八」(ぼうはち)と呼びました。これは、中国の古典に出てくる「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」の八つの人倫を失った、強欲で人面を被った野獣のような「あくどい」商売をしていたからです。遊女は楼主のことを「親方」と呼んでいました。 (よもやま話) なぜ「太夫」はなくなったか: 「太夫」は容姿だけが資格ではない。声曲、お茶、お花、香合、そのほか芸事全般、和歌、文字の上手さ、などを身に付けていた。中には「八代集」や「源氏物語」、「竹取物語」を覇読したり、漢文を「レ」(れてん、または、かえりてん)なしに読める者までいて、当時の最高インテリ女性であった。だから、客も大尽らしく振舞わなくてはならず、寝るためだけに買うと大恥をかいたという。大名気分にはなれたものの窮屈極まりなかった。そこで、「太夫」がいなくなった時点で、そこそこの容姿、教養を身に付けた「花魁」へと替わっていった。 しかし、京や大阪では「太夫」の名称は残りました。これは、京や大阪では、踊りや芸事に優れた者を「太夫」と呼ぶ習慣があったからです。ただし、江戸の「太夫」のような教養はあまり必要ではなかった。 花魁(おいらん): 宝暦年間(1751~1763)以前は、遊女の最高の位は「太夫」または「傾城(けいせい)」と言ったが、格式が高く教養も良家の子女をうわまわるほどだったため、「遊び」には、かなりの物入りだった。そこで、もう少し「安く」遊べるようにと、「太夫」を廃止し「花魁(おいらん)」が遊女の最高ランクとなった。しかし、やはり「高値の華」だった。ちなみに、「花魁」の語源は「おいらの姉御」から「おいらんの」「おいらん」と呼ばれるようになり、「花魁」という漢字が当てられました。 遊女たちは腹をすかしていた: 太夫(後に花魁)や格子クラスでは、それなりの「揚代」があり、楼主も遊女も潤っていたが、散茶以下の遊女になると「揚代」も少なかった。そこで、いかに客から銭を引き出すかが勝負であり、客に酒食の注文をさせ「バックマージン」をもらうことに必死であった。妓楼でもそれを見越して朝飯などは少量しか食べさせなかった。従って、遊女は常に「すきっ腹」であった。 遊女の借金と取り分: 遊女は借金だらけであった。遊郭では、衣装や蒲団、化粧品、簪(かんざし)、櫛(くし)、鏡台、座布団、火鉢、煙草盆などなど、全てが貸与で「1日幾ら」というように銭がかかった。 遊女の取り分は、75%が楼主、25%が遊女であったが、その内15%は借金の返済に充てられ、結局、手元に残るのは10%であった。「遊女の揚代」としては、太夫=1両=25万円位でしたが、太夫の手元に入ったのは10%=2万5000円位で、酒食のバックマージンがあっても、せいぜい、3万円位だったのです。「太夫」以下の遊女は押して知るべし・・・。 さらには、「太夫」や「格子」になると、毎日同じ着物を着ていることはできず、自分の稼ぎの中から着物などを買ったが、遊女は街中の実情を知らないため、楼主は呉服屋などと結託をして、10両位のものを15両などと言って売りつけ、楼主は「まんま」とバックマージンを取り、結局、遊女も1回では支払えないため、ふたたび、楼主からの借金をしなければならなかった。 現代でもそうであるが、高級な着物になると100万円位はしますが、楼主はそれを150万円と騙して買わせましたので、「太夫」の手取りが3万円位では、何日かかれば借金を返せたのでしょうか。まあ、それでも「苦海(くがい=苦界)10年」も勤めれば、まあまあ、何とか借金は返済できて、「年季明け」の自由の身になれました。

daliya
質問者

お礼

またまたありがとうございます。 遊女たちの悲惨な暮らしを考えると、こう言ってはいけないと思いますが, 文月さんのお話は本当に面白いですねえ。 >>>「太夫」を廃止し「花魁(おいらん)」が遊女の最高ランクとなった。 というと、昔は花魁道中ではなくて、太夫道中と言ったのでしょうか。 太夫になるには、試験? お金? 推薦者? 何か、必要だったのでしょうか。 すみません、お時間がある時で結構ですので(*^_^*)よろしくお願いします。

noname#180427
noname#180427
回答No.1

花魁を身請けした事がないもので、 これが、正解!とは言えませんが・・・・、 普通に考えると廓の側が、身請けには、これこれのお金が必要です。 客は「ああ、そうかい」と言って支払うわけですから、 過不足は出ないと思いますが・・・・。 ずるい雇い主なら、色々名目をつけて金額の上乗せをしたかもしれません。 それは考えられますね。

daliya
質問者

お礼

ありがとうございます。 「ああ、そうかい」って、いいですね。 鷹揚な感じで。(笑)

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