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わび・さびとは何か?その美意識への変化を知りたい
- わび・さびとは、生気や活気が失われ、荒れたり古びたりする状態を表現する言葉であり、日本の美意識の一部である。
- ワビ・サビの美意識は、世俗を遠ざかって淋しく貧しい暮らしに安らぎを見出すことや、修練を重ねて俗気のない清らかな精神になることを追求するものである。
- ワビ・サビの思想は、一般的な生活の状況を削ぎ落とし、本質を見ることを意味し、社会から除け者とされた人々によって生まれたものである。現代においてもワビ・サビの達人は存在し、その美意識は今でも魅力的である。
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こんばんは。 要らぬ投稿に辟易なさっていることと存じますが、お礼方々付け足しをご容赦下さい。 "less is more"って、ご存知ですか。 ミースというモダニズム建築の巨匠がそう述べたと伝えられています。 一見、わびさびに多少なりとも通じるものがあるように思えなくもないですよね。 そして、その言葉を噛みしめながら、今春バルセロナの地で彼の復刻パビリオンを見学する機会を得ました。 乾いた風と伸びやかな木々、強烈な陰影の対比に加え、中世ゴシックからガウディ等そして現代建築まで混在する街だからなおのことそう感じたのかもしれませんが、彼のパビリオンがおよそわびさびとは似て非なるものに映りました。 過去の建築群に対して"less is more"と今なおその斬新性を誇らしげに湛えているように思われたのでした。 翻って日本のわびさびを思いおこせば、"less is more"とは独自に主張し得ない心許なさを感じずにはいられないのは何故なのでしょう。 でも、どこか心和み癒されます。 それはやはり、少なからず対人的な関係性を重視する美徳、美意識ゆえではないでしょうか。 先にご指摘くださいましたが、白氏文集の壮大な世界観を日本の庭に凝縮して気持ちや情緒を託した遊び心ともとれるアレンジによって、二人の間に互いの尊敬の念や親密性が増したであろうと察せられます。 それと同じで、枯山水や能舞台にしても、研ぎ澄まされた削ぎ落としの結果、人(観客)と自然や世界、物との親密性や一体感に訴えかける作用をもたらし、時としてそれが何とも心地よく感じられるのではないでしょうか。また待庵はどうでしょうね。 このたびのわびさびが転じてアウグスティヌスというあなたのお説はとても斬新でユニークなお説だと思いました。 あなたの強い気概と思いがひしひしと伝わってきます。 お若くて頼もしいかぎりです。 これからも前に進めていっていただきたいと願っております。 そしてこのたびの多くのご教示につき大変参考になりました。 本当にありがとうございました。
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- Tefu_Tefu
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こんばんは。 bragelonneさんは、全てお分かりのようなので、私のような者が答えてもどうしようもないのですが。少しだけ考えてみました。 「もののあわれ」=諸行無常における美とは、「他人を生かすことにより、自分を生かすことでないのか」ということです。万物は変化しています。空間を物とし、時間を変化と考えると、自分も含め全てのもの宇宙まで変化しています。そして、諸行無常感を身に付けた物は、万物に生命の本質を見出します。 千利休の死は、家康の心に強烈な恐怖を与えたのではないかと。「死せる孔明生ける仲達を走らす」みたいなことではないのかと。 日本は、将棋(とった駒は使える)と言う考えの国です。死は、誰にでも許されるものではなく、切腹とは武士にとって名誉なことでした。 家康は、大奥を造り、御三家を造りました、それ程深く、子孫の繁栄に執着したのです。 世俗から離れた者は、日本ではエントロピーを小さくし彼らが新たな時代を造るのではないかという考えだと思います。 すでに、日本のオタク、引きこもり、漫画、アニメ、アイドル、寿司、温泉文化等が外国の若者に支持されてしまっていす。彼らは、「生かされエントロピーを小さくした次の世代の者」また、そうならなくても、次の世代が。すでに、世界は、日本の美「空間の変化」に飲み込まれているのではないのでしょうか。
お礼
そうですね。ご見解について反応してまいります。 てふてふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 「もののあわれ」=諸行無常における美とは、「他人を生かすことにより、自分を生かすことでないのか」ということです。 ☆ いえ 前半の ★ 「もののあわれ」=諸行無常における美 ☆ は 厳密には 思想の筋が違うはずです。 ○ 《もののあはれを知る》のは よそから来た儒教や仏教をいちおう排除するわけですから 諸行無常の考えを取り扱わない。 ☆ と考えます。ただし 《あはれ》には 無常感と同じような情感がともなうということかも知れません。 ★ 「他人を生かすことにより、自分を生かすことでないのか」ということです。・・・諸行無常感を身に付けた物は、万物に生命の本質を見出します。 ☆ という積極的な美の感覚を ここでは確かに問い求めて来ています。 わざと難を言えば ★ 他人を生かすことにより、自分を生かすこと ☆ というのは そのように規定することは出来ますが その規定をしているのは 《わたし》です。そのわたしは 果たしてそのとき何を望んでいるか? 何をたくらんでいるか? それは 《自分を生かすこと》あるいは自分が社会にあって自由だということ だと思われます。その意味で 人間は かなしいかな 自己中心的に生きています。 その自覚と言いますか その《自己》についても無常だと見極めることが 大事でしょうし しかもその無常観は その観念じたいも 無常であり移ろいゆくものだと見なければならない。こういう事情だと考えます。 その上で やっと少しは 人は相身互いであるという《もののあはれを知る》境地に到るのではないか? とは考えます。 ★ 千利休の死は、家康の心に強烈な恐怖を与えたのではないかと。「死せる孔明生ける仲達を走らす」みたいなことではないのかと。 ☆ まだ利休や家康について勉強しようという気が起こりません。あしからず。つまり よく分かりません。 ★ ~~~~ すでに、日本のオタク、引きこもり、漫画、アニメ、アイドル、寿司、温泉文化等が外国の若者に支持されてしまっています。彼らは、「生かされエントロピーを小さくした次の世代の者」また、そうならなくても、次の世代が。すでに、世界は、日本の美「空間の変化」に飲み込まれているのではないのでしょうか。 ~~~~~~ ☆ そうなんですか。それは おもしろいですね。そこには負の側面もなきにしもあらずだと思いますが これをも積極的にどんでん返しすることは あり得ると思います。次のような質問をしたことがあります。 【Q:ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6191141.html 負の側面つまりネガをポジにしていけばよろしいでしょう。
自給率100% 未熟さは人の子の自然で、それを補うために社会や国があるのだから、大人やさらに社会や国ならますます自給率100%以下の未熟なものであってはならない 貿易依存は戦争依存で、買い物依存は暮らしの技術の未熟さや自己価値感の不足からくる不安のせいで 石油 ガソリンや石油が必要な日本なら胡散臭くても水燃料なんかを本気で研究するか、あるいは武田邦彦さんが言うように石油の残量がほぼ無尽蔵なら、石油企業や油田の所有者は石油を高額で売ることに依存せず、余剰としての石油をうんと安く融通したら素敵なのに 熟女のわびさび 非自然は心身や社会における病いで、自然がそこから治るはたらきなら、権力者ももっと自然に浸かって治れればよく 美はみつめて摂取したいもの、力が欲しいのは非力だからで、私がしかばねを好むのは熟女好きだからというか婆専なのでというかわびさびへのエロス、という非モテの悲しみ 共感が仲間意識なら、美=共感ということは自分=美であり、自分を摂取させたいという自惚れやお節介のような母性あいですか 人の寿命が延び、力が尽きかけているお年寄りがよく生きていて、とにかく生きていくのに必要なもの(美)はちから 若人にとりちからは前提であり目的ではなく、むしろちからの整いが美。制御、抑制、自制心、修身 最も美しい時期に死ねばほろ美 自然に湧いて巡ったり自然や健やかな意識に整えられる力が美であって、整いから外れたちからは美ではなく捨てるか、他に与え
お礼
★ 貿易依存は戦争依存で、買い物依存は暮らしの技術の未熟さや自己価値感の不足からくる不安のせいで ☆ ちょっと舌足らずではないかと思います。(いえ 分かって言っているのではなく よく分かりませんという意味です)。 ★ 余剰としての石油をうんと安く融通したら素敵なのに ☆ そうなんですか? いまのところその点 無知です。 ★ 共感 ☆ というのは だいたい心理的なうわべの感情の共通性を言います。浮動性のものです。《同感》というのは 根拠にもとづく同意です。 ★ 自然に湧いて巡ったり自然や健やかな意識に整えられる力が美であって、整いから外れたちからは美ではなく捨てるか、他に与え ☆ これは 次の課題とかさなると考えます。 ☆☆(No.22お礼欄) ~~~~ ( n ) あともう一つ 《ゲルニカ》のように一般には醜悪と見られてしまう作品が 美として提出されるその現象について どう考えるか? これは 心の傾きとしての・つまりはうわべの心理としての反応にしか過ぎない。と言い切っておいてよいか? 心が(つまりは 厳密には 心理が)ムカツクというときに 醜悪なスキャンダラスな内容の作品を見て そのまま反応することはあり得る。こういった生活の中のひとつの側面の問題だと言っておいてよいものかどうか。――課題です。 ~~~~~~~~~~ ☆ 《整いから外れたちから》を《醜悪》に当ててみましたが どうでしょう? 言いかえると それでも人はさまざまであって 一時的にはこの醜悪や無秩序なるさまを 心理的に欲しがることもあるということのように考えます。 しかも ところが 二十世紀になってからでしょうか 現代人は この《一時的なゲテモノ食い》が 一部においては 慢性的な姿になったかに見えます。悪貨なるガリ勉資本主義が 良貨なる勤勉にしてふつうの資本志向を駆逐して 美の感受においてもこのゲテモノ志向が 自然ないし人間自然にもとづく美学をぐいぐいと引っ張って行っている感じになっています。 ガリ勉資本主義は 交換価値なる貨幣など象徴ないし普遍記号によってのみ――その意味でアマテラス象徴語によって満たしたあたまでその思惟を繰り広げ 資本の力にものを言わせ―― 市場経済に台風を起こし 勤勉なる資本志向のスサノヲ人間語を飲み込んでしまっています。商品には わづかに使用価値として スサノヲ人間語の部分もあるというかたちです。 この情況にあって 気分が晴れずむかつく気がするなら それにあたかも響き合うかたちの美術が求められるという寸法です。閉塞感のただよう内容の文学作品が 売れるという寸法です。 このような情況に対する一点突破は うつくしいものを示すことです。人間自然としての美を作り出して行きましょう。
こんばんは工場労働者です 敗北主義者ではないのに負け組ですから悔しいかぎりで 美は力ってマッチョ思想ですか 琴線に作用する力のこと 鳥居とか 知らない人がラジオかテレビで神社の鳥居や石段をわざと不完全に作るのだと言ってましたから、ほんとかなと思って外で鳥居や石段を見たら確かに継ぎ目がありました 自然美 自然以外に美ってあるんですか キリスト者にとって敗北からの復活という抗自然の美が壺ですか 有終の美って言葉いちおうありますが 死んだ虫や蛇の脱け殻は綺麗ですよ形が。力の流れすなわち水や光や熱や風をさばききる形の美。生き物の屍は機能美の極みだったもの 心の動きにかなう作文にもそんな機能美が宿ることもあるとうっとり 記述も脱け殻も屍も動きに処する仕事が済み休らかなもの 最も美しかった母は遠くで自然にときめいている時の母じゃなかったですか 最も美しかった姉はそばで微笑む美ではなかったですか 茶 ひよわな利休がうはうはの秀吉に抱いたヒエラルキアな同族嫌悪がわびさびを殊更このんでみせる嫌がらせみたいなパフォーマンスを産んだんですか 同世代や少女から相手されない私が熟女などを好んでみるように 去勢 去勢はひきこもりの専門家齋藤環が書いてた語で人間自然というか人間の社会化で ひとり部屋で万能感に満ちる青年が社会でようやくたたかれて万能でない自分に気づき、限界と折り合いをつけ心理的に去勢され、より実効性ある努力をこつこつしはじめる契機になるとか ちから 貧しい人や古代人はとにかく生きるために神に頼ってでもパワーを欲しがりますか 力を求めるのはやり残したことがあるんですか マリア信仰者ってあのポーラさんですか ポーラさんに当たって砕ければそれも必要かもしれない去勢と再出発ですか 戦争しかできない国々 戦争しかできない国がありますか アメリカはもうはじめから戦争しかできない国なんですか 他の国々もそうですか 自給率が100%以下の殆どの国は軍事戦争や経済戦争をして他から資源を奪うしかないですか インディアンやアボリジニやリビアやアフリカが犠牲になり 自給率100%を超えないと自立した国ではなく、寄生したり強奪したりしますか 地球規模の助け合いが素敵であるには各国自給率100%以上であることが前提で 余剰を融通しあうぐらいで良いのに でないと戦争しかできない国がますます増え地球規模の奪い合いが終わりません キブツ半資本主義 嫉妬深いのでキブツみたいなのの平等なところが好きで 出世したいというか安定したいですが 日曜日なのに/なのですることがなく ありがちで純粋な脱資本主義ではなく『半』資本主義で妥協です マネーは人や自治体の余剰どうしを融通しあう交換券でしかなく、必需品未満くらいの重要度にまでマネーの価値を去勢すれば、実に地味な暮らしのための努力を人々がしはじめる契機となり 多少貧乏でも恋人や恋人を持つ勇気を持てるような社会や自分を求めます 茶 茶道は茶室に逃げこんだ狂った人々の精神療法ですか 茶を飲むだけのことにわざわざ不自然なルールからみつけて狭い所で同じ顔でガチガチになって頭おかしくなって、思いあまって茶碗のでこぼこなんかにみとれ、殺し合いの中で見失っていた甘い部分、律しきれない自然が生む不完全さへの許しに逃げ、溜め息の吐きさきを見つけたのか わび・さび ゆくものを眺める感じ
お礼
すでに のなめ氏になっていて 何てお呼びすればよいかさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 今回取り上げられている話題については ほとんどよいお応えが出来ないものが多いようです。 ★ ~~~ (あ) 美は力ってマッチョ思想ですか (い) 琴線に作用する力のこと ~~~~~ ☆ この二つは 互いに別々なものですから (あ)の系統は これまで問い求めて来た美の中身とは違いますよと まづ言っておきたいと思います。(い)を採ります。 さて ★ 茶道は茶室に逃げこんだ狂った人々の精神療法ですか ★ ひよわな利休がうはうはの秀吉に抱いたヒエラルキアな同族嫌悪がわびさびを殊更このんでみせる嫌がらせみたいなパフォーマンスを産んだんですか ☆ 茶道も利休も くわしくなく 申し訳ないですが お手上げです。 ちょっと考えたところでは 社交の場をあたらしく作ったということなのかも知れません。残念ながら 分かりません。(いまのところ 調べる気になっていません)。 ★ 鳥居とか / ほんとかなと思って外で鳥居や石段を見たら確かに継ぎ目がありました ☆ これだけでは 話がすすみません。と思うのですが どうでしょう? ★ ~~~ 自然美 自然以外に美ってあるんですか ~~~~~ ☆ ないんですか? ★ キリスト者にとって敗北からの復活という抗自然の美が壺ですか ☆ これは ひととおりの議論が必要でしょうね。ひとことで済ませられるかどうか そうですね。 ★ 敗北からの復活 ☆ ではなく そうではなく 次のようでしょうか。 ○ 敗北そのものが 勝利であり すでに復活が織り込まれていた。人間は 聖職者も権力者も この十字架上の敗北に勝てなかった。(その意味では 磔という言わば呪われた者になるという手段を採ったにもかかわらず 基本的に言って人間の自然本性にさからうものではなかった。その闇をかえって照らし返すことになった)。 ★ 万能感に満ちる青年が社会でようやくたたかれて万能でない自分に気づき、限界と折り合いをつけ ☆ これは 人間誰もが通る道です。 ★ 貧しい人や古代人はとにかく生きるために神に頼ってでもパワーを欲しがりますか ☆ これは 初めに取り上げた(あ)の思想のようですから だめでしょう。次の捉え方も 同じくですよ。 ★ マリア信仰者ってあのポーラさんですか / ポーラさんに当たって砕ければそれも必要かもしれない去勢と再出発ですか ☆ (い)の思想に観点を変えれば 済むことです。 ★ 戦争しかできない国がありますか ☆ このくだり よく飲み込めません。 ★ 自給率 ☆ というのは 国境を前提とした議論ですよね。この前提が近い将来になくなるとは見ていませんが それでも考え方としては そこを柔軟に捉えて新たな議論ないし展望を得ようとしたほうがよいかなと。 ともかく これぞ うつくしさであるという作品を生み出してください。その美が世界をすくいます。というよく分からない応えでお茶をにごします。 ★ キブツ半資本主義 / ありがちで純粋な脱資本主義ではなく『半』資本主義で妥協です ☆ 論証しませんが 《脱》も《半》も同じぢゃないかな? ガリガリ亡者と同じくらいに資本主義資本主義していると自覚してことに当たるならそれで ちょうどよい湯加減だと思うのだけれど。その立ち位置で あたらしい施策を打ち出して行きましょう。殿(しんがり)にいて 最前線のことを考えその施策を実行して行きましょう。 冷酷さを身に着けるくらいに分かって ことに対処して行きます。要するに右翼よりも右に左翼よりも左に思索を伸ばし 資本家よりも資本家の思惟の形式を理解してしまいましょう。 ★ ~~~~ マネーは人や自治体の余剰どうしを融通しあう交換券でしかなく、 必需品未満くらいの重要度にまでマネーの価値を去勢すれば、 実に地味な暮らしのための努力を人々がしはじめる契機となり 多少貧乏でも恋人や恋人を持つ勇気を持てるような社会や自分を求めます ~~~~~~ ☆ 資本主義の極致をしっかりと理解しそれを前提としてことに当たるのがよいでしょう。もっとも冷酷なマネーゲームの中に身を置き(置いたと想定し) その極端を突き抜けて みづらかの愛をつらぬき通す道を模索しましょう。と考えます。そうすれば 負けても勝ちます。 ★ わび・さび / ゆくものを眺める感じ ☆ うしろ向きに前へすすむ。という姿勢と同じですか? ちがいますか?
ブラジュロンヌ樣おはようございます。 先日ノックアウトされたKOMaas88 です。 またカウントが残っている間に起き上がってきました。いや、もうカウントアウトされたかもしれませんが、ともかくここがなお閉店されていないようですので、投げ込まれたタオルを無視してへたの足掻き、へぼ書きを続けます。 > 永遠性としての本質は ないが 全面的に世界は無常だとも言い切っておくべきではない。けれども 流行から自由な不易としての美(その感覚・チカラ・ハタラキ)は 人は経験することがあるのではないか? のご提案に付いてちょっと触れさせていただきます。 同じ方向からずっとアプローちしている間に、こういったものはとかく同義反復に陥いってしまうものです。 少し退いて違った方向から探ってみます。 ここでのご質問は、侘しい、寂しいという本来美とはなりえなかった反生命的なマイナスの事象が、なぜ日本で新しい美として立ち上がったのか、その必然性はあったのか?という疑問から出発していると思わせていただいております。 それに対して、私はそういったマイナスの観念の中にもキーワードとして美に通じる要素はある、という提案をさせていただきました。わびからは孤立(孤高)、孤立している故の目立ち、特異(他との差別性)、さびからは古さゆえの得難い時間的物理的積層、悲しさという強い感情的なストレス状況、消え入る瞬間に着目するという動き、強弱を伴う強い微分的インパクト などです。 ギリシャ悲劇などに見られる崇高美に通じるこの美意識、また強弁すれば、演奏が終われば静寂の中に消え去ってしまう音楽という美の芸術など世界共通のものでありましょう。そういった古今東西誰にも共通な美をわびさびに見ることは可能であり、そういう意味ではこれを不易と呼ぶことも全くさしつかえはないのではないか、と私も思います。ただ、以下のことは言えるとおもいます。 繰り返しになりますが、こういったものが無常という観念に近いがゆえに中世の日本で見出されたのは偶然とは言えないでしょう。しかし、そういった美が不易であるがゆえにどこでも、どんな場所ででも容易に再現できると考えるのはいささか甘いといえるのではないでしょうか。 それらわびさびの芸術美が単なる偶然性で現れたとは私も思ってはいませんし、深い哲学思考の結果として形作られたとも思いません。まだまだ理論的に(例えば黄金律や遠近法などのように理論化されていないことは認めざるを得ないとは思いますが、それができるとは思えませんし、絶対必要だとは私は思いません。 ひとはとかく美を自分のモノにしてずっと獲得し続けたいという欲望のためにそれを分析し、再現できるものならしてみたいという希望から自由にはなれません。そういったあらわれとしてこのようなご質問も出てくるのではないか?と私は思っています。いや、ブラジュロンぬ様の純粋な真理への情熱に水をさすつもりは全くありませんが。 ぐだぐだつまらないことを書いてしまいました。 失礼居いたしました。
お礼
こむああす88さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 思えば遠くに来たもんです。水入りということは 《永遠性に触れられている不易》としての美いかんを除いて おおむね合意に達したという意味でした。ノックアウトだとすれば 《負け惜しみからのワビサビ》論でわたしがノックアウトされたあとの巻き返しだったでしょうか。 さて 考えてみれば いまの段階で課題となっているこの《――経験的に人びとに共通の不易としての美ではなく それをさらに超えて・つまりは経験世界を超えて――永遠性につつまれるような不易の美》 これは言ってみれば ほかでもなく・けっきょくむしろ感覚的に捉えられたところの《仏性》なのです。と思い至った今日この頃です。 ブディズムは よそからの思想ですから 自前の思想としては 《もののあはれを知る》そのアハレ観になりましょうか? ひと言で言えば よくもわるくも――縄文・弥生・古墳時代と経て来てやがて国家を築くことになるそのあたりまでの歴史とその伝統であると考えられるところの――シントウでしょうが もしこれを《かむながらの道》と言いかえるなら その《〈かみ〉のこうごうしさ(=かむかむしさ=神神しさ)のまにまに》ということになるでしょうか? 分かったような分からないような。 言いかえると やはりほかでもなく一般に昔風に《真善美》のおおむね一体としての《美》だったのだ。ということになるかも知れません。(古臭い議論に見えましょうが)。(あるいはまた 神道に 真理だとか善だとかの概念は持ち込まれていないでしょうが)。 なら 初めに言っておけ! ということではありましょうが 設問からの経緯については 次のようにうまくまとめてもらっています。 ★ ここでのご質問は、侘しい、寂しいという本来美とはなりえなかった反生命的なマイナスの事象が、なぜ日本で新しい美として立ち上がったのか、その必然性はあったのか? という疑問から出発していると思わせていただいております。 ☆ したがいまして 美だと言われている侘び寂びの皮を剥いて行ったら ふつうにはけっきょく玉ねぎの皮を剥くごとくその芯は イデアといった概念のごとくには ないということ。これがひとつの結論であり すでに確認されたと思われます。 その上で その上でです 誰かさんは一歩すすめたいと我を張り もし不易の性質を持つのならばその美は 真理や善といっしょに伴なって 永遠性に どこかで接しているのではないか? それゆえその不易と言えども移ろいゆく経験的相対的な美ではあるが それでも どこかでナゾにおいてのように永遠性によってつつまれている。――そういう性質も まぼろしのごとくにでも 持つと捉えられまいか? こう言っています。 そうでなければ 神ながらの道と言ったところで くだらない或る種の日本的なイデアの創出であるに過ぎないと言って捨て置かれましょうし また仏性があらゆるものに宿ると言ったところで 何を寝ぼけたことを!と一笑に付されることでしょう。 直感という感覚が――美としても 或る種の善としても そしてさらには永遠性と同じ意味になるところの真理としても―― 人びとに なぜか・どこかでナゾのごとくに 共通である。という可能性については けっきょく一人ひとりが積極的に発言しあって 或る程度は一般的な合意を得ておくことも有意義なのではないでしょうか? そのように往生際のわるいそのわけは 仏性や超自然としての神々の息(息吹き)という――或る意味で無責任な――言い方見方を 人びとは捨てきれないし これを否定してその実証も論証もし切れない。ということにあり それゆえ いつまでも 課題として残っているということではないか? いっそのこと このように課題として残っているというそのこと自体を 現実として受け容れればよい。のかも知れません。つまり 永遠性につながるような不易としての美は 一人ひとりの主観においてそのことを言い張ってもよいが 誰もに証明しうるようなものとしてはないであろうというかたちで 保留しておくこと自体が 現実なのであると。 美は そのような宙ぶらりんの現実世界の中にあって 一人ひとりの主観において捉えられているのだと。 * このように見たということは 《不易》の意味が微妙になってきます。 ★ ~~~~~ ギリシャ悲劇などに見られる崇高美に通じるこの美意識、また強弁すれば、演奏が終われば静寂の中に消え去ってしまう音楽という美の芸術など世界共通のものでありましょう。そういった古今東西誰にも共通な美をわびさびに見ることは可能であり、そういう意味ではこれを不易と呼ぶことも全くさしつかえはないのではないか、と私も思います。 ~~~~~~~ ☆ この古今東西に共通に見い出される不易としての美は 侘び寂びの系統としては まだまだ経験的で相対的な移り変わりのある美である。ということに 厳密には なります。 言いかえると 枯れた美も華やかな美も それらは――世界に共通であって しかも――うわっつらの美のかたたちであると。永遠性につながる不易の美は ミヤビについてもワビサビについてもそのような外観を超えたところに息づく何ものかであるのではないかと。まぼろしの玉ねぎの芯としてのように。 言いかえると このような限りなく湧き出る泉の水のような美は まぼろしとしてあるほうが 現実的である。言いかえると われらが心は 玉ねぎの皮を剥いて・剥き切ったところで おしまいだとはならない。ということを ぎゃくに言っているし そう言っているのみだと。 まぼろしが存在するとは言っていない。その存在の可能性を 否定し切るなかれと言っている。 心は閉じられておらず 開かれているのだと。 永遠としての不易の美は 心の伸びあるいは明けとしてのみある。窓が閉じられていない・つまり開いているというのことにのみ 現実性がある。だから まぼろしのままである。 けれども 仏性だとか 神ながらの道というのは そもそも そういう絵空事でしかない。絵空事でないとすれば そこら中に 聖りやブッダがうようよ歩いていることになる。歩いていないから その美がウソだとは言えない。 この宙ぶらりんの世界に 美は位置しているのではあるまいか? それが 現実世界なのでは? ★ ひとはとかく美を自分のモノにしてずっと獲得し続けたいという欲望のためにそれを分析し、再現できるものならしてみたいという希望から自由にはなれません。 ☆ 《この永遠の美を 人は獲得することは出来ない》 この前提の上で その可能性を全面否定することも 人間の能力によっては出来ない。このような宙ぶらりんの状態です。それが 現実であり 現実であるのなら それが むしろ答えであるのかも知れない。 ふうーう。ここまで来ましたが 果てさて どうでしょう? いったいこの先どうなりましょう? * 侘び寂びそのものについて詳しい分析をしてもらっています。しかも そのワビサビかそれともミヤビかの二分法を超えて どちらにも通じる美のあり方を 上では問い求めた格好です。この点 あしからずご了承いただけるならさいわいです。 ★ ~~~~~ それに対して、私はそういった〔* 侘び寂びにかんする〕マイナスの観念の中にもキーワードとして美に通じる要素はある、という提案をさせていただきました。 わびからは孤立(孤高)、孤立している故の目立ち、特異(他との差別性)、さびからは古さゆえの得難い時間的物理的積層、悲しさという強い感情的なストレス状況、消え入る瞬間に着目するという動き、強弱を伴う強い微分的インパクト などです。 ~~~~~~ ☆ このような要素分析を超える・もしくは突き抜ける というのが すでにご指摘の《美はこれだと定義づけすることが困難である》との観点そのものではなかったでしょうか? (むろん このワビサビ論はそれとして精緻なものであると感服した上でのことです)。 紆余曲折を経て 《うつくしいとは どういう現実か?》の探究に入ったでしょうか? この問い求めは 拙速を嫌いましょうから たぶんあらためて 切り口を変えて問うことになるかも知れません。 というところまで来ましたが いま少しこの質問にて これまでのやり取りを整理したりして――あるいは ほかの視点のあらたな導入がもしかしてあったりするかも知れません(《もののあはれ》論は 不易の芯としてのまぼろしの永遠性を提起してくれたと思います)――とどまることにします。やはり ふうーう。
- Tefu_Tefu
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こんばんは。 あ~紅葉狩り楽しかったです。 共通の美、感動だそうです。 でも、哲学で幾ら言葉で表そうとしても無理ですね。 やはり、人と人の出会い、会話、の中での美の分かち合いにはかないません。 特に自己中の美が最高。 間違っていても、私は、この回答で満足です。(笑)
お礼
てふてふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ やはり、人と人の出会い、会話、の中での美の分かち合いにはかないません。 ☆ その中身を じつは無理だと考えずに 言葉に表わして行こうという問いではあります。 ★ ~~~~~ 特に自己中の美が最高。 間違っていても、私は、この回答で満足です。(笑) ~~~~~~~ ☆ ま こうおっしゃるなら 無理にとは申しませんが。
歌は物のあはれをしるよりいでくるものなり(石上私淑言巻一)。 「物のあはれをしる」の「しる」の意味を考えてみられたらいかがでしょう。 西洋の芸術は知的な要素を含んでいる。 プラトンにあっては美とは感覚の世界にイデアを写すことであり、そのイデアは知の対象となるものである。またカントにあっては美は一種の快感だが、その快感は対象の形式と主観の認識能力すなわち知的能力との合致によって生ずるものと考えられている。 このように西洋のでは美の根本に知的なものを置くが、日本の「物のあはれ」は純粋に感情的なものであって知的なものではない。「物のあはれをしる」の「しる」は決して知的な働きではなく純粋に感情的なものである。「さび」や「わび」は「幽玄」という美意識から生まれたものだが、すべて純粋感情たる「あはれ」がそれらの特性をになっているのである。
お礼
あほお007さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 基本的に――と言っても たぶん ご見識の広さから行けば ひじょうに乱暴なまとめになるかも知れませんが―― どの民族どの地域の人間も 美については その知覚とさらにその認識を深めることとの二つの段階(次元)を持つと考えます。 ただしたぶん 西欧では美についてどちらかと言えば 第二次の認識のほうに重点を置いて捉える傾向がつよいのではないか。 言いかえると わが日本人は 美についてわざわざ議論するなどということは好まなかったようです。 さらにこの対比を色眼鏡で眺めてみれば おそらくヨーロッパ人は 美にかかわる感性を理性よりも下に置くくせがある。人間の自然本性として劣った能力であると。 われわれは どうでしょう? 情感を重んじ情感の共同性といった人間関係において生活している。理性による論理的な話は 小賢しいとして嫌われる。 もっともパスカルでしたかは 《幾何学の精神と繊細の精神》というふたつの側面を捉えて どちらをも重んじるのがよいと言っているはずです。これに沿って言うなら 片や おのれの意志行為についてその理性的意識の流れをとらえ そのわざわざおこなう構築をもって互いに立ち場を明らかにしつつ その意味で対立しつつ しかも弁証法的に互いに同感(合意)を得て行こうとする知性のあり方と 片や 情感の共同性がすでに人と人とのあいだに(あるいは 当人にとっての内と意識される集団とそして外とのあいだに) あたかも観念の運河が穿たれたかのように或る種のつながりを作っていて 情感の共同性の 共感と反感とが・つまりは 破綻とその統合とが――おおむね非論理的に――構築・再構築されつつ 生活をいとなむ半知性のあり方と。 いま《非論理的 / 反知性》と言いましたが これは そうは言っても 理性をも――感性だけでなく理性をも――よく用いる知性なのです。あるいは《理性的意識の対立とその総合》と言っても そこに感性や情感が忘れ去られているわけのものではない。こう考えます。 * ★ 西洋のでは美の根本に知的なものを置くが、 ☆ ではなく 根本はやはりどこでも《情感の繊細さと理性の幾何学的精神》との全体としての自然本性なのです。その自己表現の仕方が どちらに重心を置くかで違っている。となりませんか? ★ 日本の「物のあはれ」は純粋に感情的なものであって知的なものではない。 ☆ ヨーロッパの繊細の精神も 同じくゆたかな感情を持ちます。 ★ 「物のあはれをしる」の「しる」は決して知的な働きではなく純粋に感情的なものである。 ☆ これはですね 複雑です。いくつかの段階があると考えます。 《あはっ! または あはれ!》とつぶやいてイメージによる直感を持つとき そこではすでに モノゴトのいわゆる本質をも見通すような直観をも得ることがあり だとすればそこですでに理性的な世界観の萌芽をも得ていると言ってよい。 そして 次に引用するように日野龍夫によると いちどこの初めの情感として得られた直感をたしかに生活態度として身につけることをおこなうと言います。つまり そのときには 直感を――つまりは《もののあはれ》を――実際の生活上に活かすためには知性による仕立てがほどこされて初めて 身にまとうことができるのだと。 ▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~ 宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅びやかに詠まねばならない》・・・。 歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。 前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。 右(上)の歌論は この認識に対応するものである。 つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。 意識下にまで儒仏の〔* あるいは身分制の・もしくは シガラミの〕影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。 (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説) cf.【Q:もののあはれ――あは!という感嘆――というエポケー】趣旨説明 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7029049.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たしかにこれについては おっしゃるように 但し書きが要るようです。 もし《もののあはれ》の直感をそのまますんなり社会における人間関係に表現して行ってもよい場合なら 人為的な知性は必要としないかも知れないからです。 そういう場合というのは 宣長によれば《古道ないし古神道》が社会にそのまま生きている世界であったようです。そしてこれは 宣長にとっては具体的には天皇制であったようです。おそらくひとり天皇についてだけは 特別の身分にあり そのほかの万民はひとしく《もののあはれ》のままに生きるといったところなのでしょうか。 ということは この但し書きを超えて けっきょくは もののあはれにしたところで 知性を交えていますし 知性がその直感を統括していると考えられます。のではあるまいか? ★ 「さび」や「わび」は「幽玄」という美意識から生まれたものだが、すべて純粋感情たる「あはれ」がそれらの特性をになっているのである。 ☆ この情感を活かすために 知性をも必要としている。この知性を あまり表に出さない。理屈をこねないようにしている。それは 情感の共同性が じつは 人びとのあいだの・けっきょくは広く解した身分の関係として 何かと気を使わなければ生きて行けないという空気をつくっており それは すでにその空気が示唆するところの観念の共同性として成り立っている。 人びとは互いの交通において すでに〔流動的な〕身分感覚をもとにして 互いのあいだに《観念の運河》が敷かれていると感づいている。この社会で生きて行くためには この運河を通行するための手形が必要である。それは その場や所属団体や社会全体やのクウキを読みこれの示唆するところを行動するというその経験が 通行手形を得させることとなる。つまりは 要するにエライ人もしくはお二階さんの言うとおりにしなさいというクウキであり このクウキと《もののあはれ》とは それぞれが観念と情感とであることにおいて対応するかたちで 中身を同じくしているかと思われる。 観念は しばしば 古くなり 黴が生えてくる。観念の運河は 水が汚くなる。 こういった情況にあって 美とは何か? 日本人として経験してきた美とは何か? 人間にとっておそらく同じだと思われる美のその表現の仕方は どうだったか? と尋ねてみたい。なお こう思います。
補足
おぎないます。 お礼欄の前半 うしろのほうのくだりで 打ち間違いがありました。 ☆☆ ~~~~ ・・・おおむね非論理的に――構築・再構築されつつ 生活をいとなむ半知性のあり方と。 いま《非論理的 / 反知性》と言いましたが・・・ ~~~~~~~ ☆ これは 半分という意味で《半知性》と言おうとしています。反対の反は 打ち間違いでした。おわびします。 なお《もののあはれを知る》という主題をめぐっては いささか問い求めて来ています。えらそうに勝手な掲載ですが まとめておきたいと思いました。参照しうるところがあったらさいわいです。 ※【Q:「さかしら」の定義】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5775996.html ・その回答No.〔7〕・8・10・12・13.15などです。 【Q:もののあはれは 安全保障には通用せぬか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5748942.html 【Q:権利と義務という次元を掘り下げることはできないか? (もののあはれ)】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5949269.html ※【Q:本居宣長はなぜ天皇制を肯定しているのでしょうか】回答No.5 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5551881.html
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失礼しました。 黄金の茶室は、豊臣秀吉です。 資料を見なくて曖昧でした。
お礼
了解しました。
- Tefu_Tefu
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美のとらえ方。 個人個人違うのでは。 千利休は、茶道で詫び、寂びとして朝顔一輪みたいにとらえたけど。 織田信長は黄金の茶室。弟子の織田有楽斎は華やかだったそうです。 お茶は、人と人の出会いが大切であり、偶然の出会い(一期一会)を思いやり、おもてなしの心で迎えることが本質なので、全てはそのための演出なので、相手が喜んでくれれば自分の気持ちがあればいいのではないですか?私は、癒しの空間を楽しむことだと思いました。 足利義満の金閣寺は、権力の象徴です。それに対して、銀閣寺は、そうでないでしょう。 何故違うかと言えば、四季のせいではないでしょうか。春、夏、秋、冬全て違う。おまけにお月見なんかもあるし、豊臣秀吉の桜の宴も有名。
お礼
てふてふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。たとえば茶道を例に出せば その話題が出たから しゃれた応答を返すといった芸にとぼしいのが 質問者のわたしです。 主題として立てたなら その問い求めには心の態勢が出来て進めて行きますが 利休と出たかたちで まだどのようにその主題に入って行けばよいのか 迷っています。(音楽に手が出ないのと同じように 茶道にもしり込みします。きっかけか もしくは見通しが持てたら そのときには足が軽くなり動きも軽やかになるかとも思うのですが)。 ★ 金閣寺 ☆ が出たところで まづは ちらっと次のように言ってしまっているところを見直します。 ☆☆(No.25お礼欄) ~~~ 存在感は どちらかと言うと 枯れたワビサビのほうに不易の美としては 感じられるものかも知れません。金閣寺は それが達成されて もう美はおしまいであるといった感じを与えるのではあるまいか? それを見て わが存在ないしその《わたし》を しみじみと味わうというものではないように思われます。巨大古墳や奈良の大仏の系譜ですね。 ~~~~~~~~~ ☆ 考えてみますと 絢爛豪華なほうの美を好むという人びとには 失礼な言い方だったかと反省します。 そういう華やかな雅びの美のほうには どこかヒケラカシがあるであろうというのは それほど間違った見方ではないと思いますが・つまり ★ 足利義満の金閣寺は、権力の象徴です。 ☆ であろうと思いますが いづれにしましても 侘び寂びのほうにも 過去の何らかの事件についてそれを根に持ってしまっているとか その今の境遇に不満たらたらの生活を送っているとか そういうドラマもあってそれを隠しているということも考えられます。 ということは みづみづしい息吹きを引き出されて みづからの存在を――ほかの人びとと同じ存在として――知りこれを自覚するといった不易の要素を持つ美については・その意味で 本質としての美については けっきょくその見てくれとしての華やかさや枯れたすがたといったことは たしかに見てくれであって うわべの事であるに過ぎない。こうも考えられます。 中身で勝負であるということになりましょうし その中身も しかも 流行だけに終わらない何か――これが 不易の本質であろうと思われ―― この何かが欲しい。ということになるでしょう。 金閣寺にも銀閣寺にも 大仏にもお地蔵さんにも 黄金の茶室にも街のカフェにも 人それぞれにひょっとしたら《萌え》を感じて うつくしいと思うところがある。ということかも知れません。ワビサビかミヤビか どっちかに限るということはないのだと。 ★ ~~~~~~ お茶は、人と人の出会いが大切であり、偶然の出会い(一期一会)を思いやり、おもてなしの心で迎えることが本質なので、全てはそのための演出なので、相手が喜んでくれれば〔という〕自分の気持ちがあればいいのではないですか? 私は、癒しの空間を楽しむことだと思いました。 ~~~~~~~~ ☆ この《癒しの空間 あるいはその時間 を楽しむ》ということには つねに言わば心の泉が感じられている。それが チカラないしそのハタラキとしての美であるのではないか? したがいまして ★ ~~~ 美のとらえ方。 個人個人違うのでは。 ~~~~~~ ☆ であると同時に――すなわち 音楽か美術か 美術でも 絵画か建築物かその空間かあるいは何々か そしてしかも 枯れた美か華やかな美かなどなどに応じて 個人差があると同時に―― 美の中身としては或る程度の共通のものが見出されるのではないか。とも考えられて来たのですが どうでしょう?
- Tefu_Tefu
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そうですね、西洋の美と日本の美の違いですね。 かなり難しい質問ですね。 私は、あまり歴史には詳しくないもので、個人的な意見になりますが。 西洋は、やはり古代ローマの彫刻からではないでしょうか。 神と人間を忠実に力強く、躍動感あるように再現し、まさに当時の人間の生き方がすぐ其処にいるかのように伝わってきます。当時の哲学者が目に浮かびますね。 神のもとで生きる人間の喜びが伝わってきます。それが、今のピカソまであると思います。 個人的には、印象派のモネの睡蓮の絵に惹かれます。(日本人だから。) 日本の場合は、仏教彫刻から始まりますね。運慶、快慶、薬師三尊、奈良の大仏等思い浮かびますね。其れに、水墨画、そして、書道。 やはり、日本の四季が諸行無常と結びつき、お寺、庭園の美、まさに空間としてとらえた動的自然の美ですね。 庭の池の鯉、滝、枯山水、盆栽等凝縮された美ですよね。 何より、動的なものだととらえています。俳句、短歌にも必ず季語が入っていると思います。 そして、封建社会で抑圧された庶民にも、園芸、浮世絵、芸能などで受け継がれました。 それらが、本音、建前の文化や思いやり文化が生まれる原因になったのかもしれません。 さらに、究極の庶民の楽しみが漫画(動的絵)になったのかと思います。 今の引きこもりは、現代の出家ともいえるかと思います。 何しろ、アメリカの黒船(ペリー)により、士農工商が逆転し。 さらに、第二次世界大戦の敗戦で、地主、家族、が解体し、アメリカの資本主義に変わり。 今、TPPにより、ますます、ヒエラルキー化が進んでいます。 日本は、自然災害(地震)の多い国ですので、天地がひっくり変わることをみんな分かっているんですね。 だから、諸行無常の対策として思いやりや詫び、寂びにより国民は生き延びてきたのではないでしょうか? ほとんど、根拠のない私の意見です。
お礼
てふてふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 まづ お断りしなければならないことには ★ さらに、究極の庶民の楽しみが漫画(動的絵)になったのかと思います。 ☆ これについては 前回にも ★★(回答No.26) ~~~ 庶民は、士農工商と言う身分制度や今の地方に繋がる小国に閉じ込められることにより、自分達も寺小屋、温泉、園芸等でエントロピーを小さくする方法をしたのではないでしょうか。 それが、今の引きこもり漫画文化と繋がるのでは。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ というふうに書いておられますが この漫画文化――アニメもふくまれましょうか――について どう捉えてよいのか 考えたこともなかったので まだうまくお応えしかねています。アニメは見ませんし そもそも今のように流行する前に わたしは若いときを過ごしています。 ★ 引きこもり ☆ じたいについては やはりお上との関係があろうかと考えています。お二階さんと言っていますが。実際に接する相手としては 上司ですね。ガミガミ電波を発するとき 下にいる者は それをアース役となって受け留めたり処理しなくてはならなかったりする。これを嫌いこれを避けるようになった結果のひとつであるのではないかと。 たしかに 引きこもった部屋に居る者にとって 漫画やアニメは 一つの好都合なものだとは見られます。 雅びとしての華やかな美に対して たしかに侘び寂びの枯れた美は――初めは 没落貴族が始めたとしても―― 一般に庶民の生活に無理なく入って来ましょうし 楽しむようにもなるでしょうね。 ★ ~~~~~ 日本は、自然災害(地震)の多い国ですので、天地がひっくり変わることをみんな分かっているんですね。 だから、諸行無常の対策として思いやりや詫び、寂びにより国民は生き延びてきたのではないでしょうか? ~~~~~~~ ☆ なるほど地震と台風は 人びとの生活態度のあり方に影響を及ぼしたでしょうね。そういう影響としての諸行無常に対して対策を立てなくてはならない。侘び寂びの生活様式が 思いやりあるいは助け合いとつながっているとすれば 生活としての美でもあるかも知れません。 ★ ~~~~~ 何しろ、アメリカの黒船(ペリー)により、士農工商が逆転し。 さらに、第二次世界大戦の敗戦で、地主、家族、が解体し、アメリカの資本主義に変わり。 今、TPP により、ますます、ヒエラルキー化が進んでいます。 ~~~~~~~ ☆ つまりは 民主主義が入って来たおかげで 戦後何十年かまでは 人びとは欧米に追いつくために努力し国も繁栄することになったが 同じ民主主義のもとで アメリカ資本主義経済によると 高度に成長した段階にあっては いわゆる格差経済がすすんで行くという。民主主義に逆行するかたちとなる。 ・・・いまこの主題について扱う余裕がありません。あしからずご了承ください。 あと西欧の美ですとか そして日本の美術史ですとかに触れておられますが うまくまとめられずにいます。美が 主観の中でいったいどういうハタラキをしているのか? こういう細かい点にいまは注目しています。そのゆえでしょうか。 そして お応えは そういったところになりましょうか。
詩(言葉)のボクシングというものが最近あるそうですが、ブラジュロンぬ様との対話ゲームもそれに似て、デスマッチとなった感がいたhします…(汗;)。 さてこの最初の設問である >(1) わび・さびとは何か? これを知ることもさることながら どうしてそれらが 美として起こるようになったか? に内包する疑問として、当然起こりうる、 わび、さび は本当に美なのか?なら美とは本来なにものなのか?という本質的な疑問に行き着くのはけだし当然であろうと拝察いたします。 ブラジュロンヌ様の真摯な論考を眺めさせていただくうちに、私にも思いが浮かんできたものがありましたので、ともかくかかせていただきます(冷や汗?)。 私の立ち位置としましては、美が生命のほとばしりであるとされるブラ様のお説にはいたく同感するものですが、美がそれ以上の実質を備え、本質を内在したものであるとされることにはいささか同意しかねるものです。 基本線として、美は人間が自身の真摯な心の共鳴体として、快感、あるいは驚きを持って時間の過ぎ行くなかで感受するもので、美自身が(私たち生命体のように)何らかの本質を備えたものでは必ずしもないだろうと思うものです。 ですから、あるものには美と見えても、同じものが別の目には一向に美とじはみえない(共鳴体を持たない)という事象も当然あってしかるべきではないかと思うのです。 極端な場合、一部のものにだけ見える 「美しい幽霊」といったものもありうるわけです。 もちろんわびさびの美が幽霊だというわけではありません。 そこで >>わび:孤立、目立つ、特異 >> さび:古い、悲しい、消え入る ~~~~~~ > ☆ が 例によって無常感とともに 人間の存在のあり方として《本質》であるとすれば 上の仮説は これまた大幅に修正しなければならなくなります。 わたしの感触では 無常感は うわべの心理に属する。こう見ますが 無常観、つまり何事も永遠ではありえないということは、日本という移りゆく四季があり、大いなる異変や天変地異の多い地域で巨大な石造りの祭殿やらゆいつ無二の厳しい1神教が根を下ろすことのなかった人々にはぴったりの思いなのでしょう。殊に天災の多かった中世で起こったわびさびの精神(美と芸術のブーム)が一種の価値転換によって、特にみずみずしい生命力に欠けていることを特徴としていたとしても不思議ではありません。いずれ美の経験というものはうわべの事象(目と耳、まれに匂いや味が加わることもあるでしょうが)に対する人間の心の共鳴、驚きなのであり、孤立し、完結した小宇宙なのですから。 美とはこれだと定義付けられるものではありませんね。美は人間の体験の中に、おそらく記憶でしか存在できない無常のものであり、その実体は本来存在せず、体験者がその印象を語るしかないものではないでしょうか。
お礼
★ デスマッチ ☆ と言いますか ガブリ四つですね。 こまあすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 論点ごとにお応えしてまいります。 § 1 無常感ないし無常観が どこまで人間の存在にとって本質であるか ★ ~~~~ 無常観、つまり何事も永遠ではありえないということは、日本という移りゆく四季があり、大いなる異変や天変地異の多い地域で巨大な石造りの祭殿やらゆいつ無二の厳しい1神教が根を下ろすことのなかった人々にはぴったりの思いなのでしょう。 ~~~~~~ ☆ この内容でしたら 無常が人間存在の本質であるというご見解ではないように思います。 言いかえると 人間は 永遠の存在ではないが あたかも永遠なる無時間にどこか触れられている・・・かも知れない存在であるとまでは言えるのではないでしょうか? この問題は 質問者としてながら いちおう答えを出しました。吟味ください。無常観は 空観と同じだと見ますが その空観によれば 無常観という見方そのものも 空と観ることになる。こういう趣旨において 《無常〔観〕は 人間の存在にとって 本質であるのではない》と結論づけます。次のようです。 ☆☆(No.23お礼欄) おそらく 無常感のその観念(想だけではなく 色も受も行も識も)についても空と観るのではなかったか? いやしくもブッダの徒だというのであれば。 ☆☆(No.25お礼欄)~~~~ 無常感という観念が 現実を覆うとは見たくない。現実は 無常であり空だと観るなら その観念としての無常感ないし空観をも 空と観なければウソである。ということまでは言えるであろうし そこまでとしては まぼろしではなく現実である。 ~~~~~~~~ § 2 美に《本質》はあるのか ★ ~~~~ 私の立ち位置としましては、美が生命のほとばしりであるとされるブラ様のお説にはいたく同感するものですが、美がそれ以上の実質を備え、本質を内在したものであるとされることにはいささか同意しかねるものです。 ~~~~ ☆ これはですね。本質という言葉を使ったわたしがわるいのですが あるいはまた《不易》という語をも用いたので 前項の《永遠》につながる本質を美が持つのではないかと疑われたのだと考えます。 たしかに次のように言うときにも ひそかには(ほんとうには) その本質が 永遠性につながる(もしくは わづかに一点 接点があって 言わば触れられている)とは憶測において見通しているのですが でもやはり定義としては 相対的なものに属します。と確認します。 ☆☆(No.22お礼欄) ~~~ ここで《本質》とは おおむね――相対的なものごとの世界にあって おおむねである―― 一度味わったらだいたいにおいて生涯変わらない性質のものを言う。 ~~~~~~~~~~~ ★ 本質を内在したものであるとされることにはいささか同意しかねるものです。 ☆ これも 微妙にそうではない(つまり美は 本質を内在させるものではない)ということを 次の項目で説明します。 § 3 美は そのモノゴトに本質として内在しているのか 次のいくつかの定義を一つひとつ見てまいります。 ☆☆(No.22お礼欄) ( a ) 美とは おもに視覚および聴覚をつうじて知覚されるその描像(イメージ)が わが心にうったえるときの《はたらき》である。 ☆ ここで語弊があったようです。このハタラキは その描像を与えたモノゴトに内在するものではないかと見られかねないからです。 けっきょくモノゴトとわたしとの相関関係として チカラのようなもの――すなわち みづみづしい息吹き――が感じられる。それが 美であるとは言おうとしているのですが。 すなわち ☆☆(同上) ( b ) 美のハタラキは 〔モノゴトにおける〕おもに色と形が 要素ごとに互いに織り成すその構成のあり方 これを〔わたしが〕全体として見て わが心がいかに感じ 響き合うかにかかっている。 ☆ つまりは 天上界かどこかに不滅の《イデア》としてのように《美》が 存在していて それが 経験世界のモノゴトにも内在するのだというようなことは いっさい言っていないわけです。 次の見方に同意します。 ★ いずれ美の経験というものはうわべの事象(目と耳、まれに匂いや味が加わることもあるでしょうが)に対する人間の心の共鳴、驚きなのであり、孤立し、完結した小宇宙なのですから。 ☆ 《孤立》は どうでしょうね。それとしてハタラキがある。と同時に そのハタラキは わたしに作用して 生活に息吹きをあたえる。という開かれたあり方を言っておいたほうがよいかとは考えますが どうでしょう? § 4 美とは何か の問い求めは なおも続く。か? ★ ~~~~~ (あ) 美とはこれだと定義付けられるものではありませんね。 (い) 美は人間の体験の中に、おそらく記憶でしか存在できない無常のものであり、その実体は本来存在せず、体験者がその印象を語るしかないものではないでしょうか。 ~~~~~~~ ☆ これは まづ(あ)は わたしのたたき台が 《美の要素分析》でしかないことを示しているのだと考えます。 だいたいにおいて《色があざやかであったり そのいくつかの色の間の対比があざやかであったり あるいは形が一般に整っている》 こういう簡単な定義も持ち得ます。そしてこれも要素に分解してそれらの役割を示そうとしたものです。 言いかえると あざやかな色によって・あるいは整ったかたちによって《美》と感じたその美とは 何か? と問えば 一般に《快感》とかいう言い方がされていますが・そしてどうもその言い方はしっくり来ないので 《みづみづしい息吹き》だと言いかえていますが その感覚そのものを言葉であらわすのは むつかしいでしょうね。 へたのすけさんは 《存在感》だと・つまりはほかでもなく《わたし》の存在をあたかも証拠立てるようなその感覚でしょうか だと説明されていましたが。 たぶんこれら二つを総合すれば こうです。《わたし》が確かに いま・ここにいるという感覚(また自覚)は それがみづみづしい息吹きに裏づけられるとすれば このことが ほかの人びとのそれぞれの《わたし》にもつながるということ。このような世界観として ものごとが見えて来るようになる。のではないか。 息吹きは 《わたし》たちに共通である。言いかえると 美は 不易としての美は 人びとに共通である。 といったところまでは 話を伸ばして行けるのではないかと考えますが さてその美とは何かと問えば これこれだよと取り出して見せることのむつかしいものでしょうね。 ★ (い) 美は人間の体験の中に、おそらく記憶でしか存在できない無常のものであり、その実体は本来存在せず、体験者がその印象を語るしかないものではないでしょうか。 ☆ 美はそのチカラもそのハタラキも いま相い対しているその対象をめぐってその場における《人間の体験の中に〔生じて そのあとは〕 おそらく記憶でしか存在できない無常のものであ》る。と同時に そうでありつつ そのハタラキの効果は 案外強いものがある。のではあるまいか? 根強いチカラを 記憶に残すのではあるまいか? 一生に一度の体験としての美も あり得るのでは? これが わざわざ《本質》という言葉まで持ち出して来て 問おうとした視点です。不易としての美ですね。そんなものは ないか? あるか? そしてこの問いは § 1の《無常観は 人間にとって本質なのではない》という見方に呼応しているかとも考えます。 永遠性としての本質は ないが 全面的に世界は無常だとも言い切っておくべきではない。けれども 流行から自由な不易としての美(その感覚・チカラ・ハタラキ)は 人は経験することがあるのではないか? これを 課題としています。 どうも水入りみたいですね。 一たん休憩つまり 質問をあらためようというお考えがあるようでしたら そうおっしゃってください。たしかに長くなって来ています。ふうーーう。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 まづは お勉強です。 ▼ (ヰキペ:ミース・ファン・デル・ローエ) ~~~ ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe、1886年アーヘン - 1969年シカゴ)は、20世紀のモダニズム建築を代表する、ドイツ出身の建築家。 ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトと共に、近代建築の三大巨匠と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加えて、四大巨匠とみなされることも)。 “Less is more.” (より少ないことは、より豊かなこと)という標語で知られ、近代主義建築のコンセプトの成立に貢献した建築家である。柱と梁によるラーメン構造の均質な構造体が、その内部にあらゆる機能を許容するという意味のユニヴァーサル・スペースという概念を提示した。 § 略歴 1929年のバルセロナ万国博覧会で建設されたドイツ館、バルセロナ・パヴィリオンは、鉄とガラスで構成され、大理石の壁を配したもの。モダニズムの空間を実現したものとして、建築史上有名。・・・パヴィリオンは、博覧会終了後に取り壊されたが、1986年に同じ場所に復元され、「ミース・ファン・デル・ローエ記念館」となっている。 ▼ (ヰキペ:妙喜庵)~~~~~~~~~~~~~~ § 待庵 国宝。日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。現在一般化している、にじり口が設けられた小間(こま)の茶室の原型かつ数奇屋建築の原型とされる。 ・・・ 茶室は切妻造杮葺きで、書院の南側に接して建つ。茶席は二畳、次の間と勝手の間を含んだ全体の広さが四畳半大という、狭小な空間である。南東隅ににじり口を開け、にじり口から見た正面に床(とこ)を設ける。室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げで、藁すさの見える草庵風とする。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ ところで 《能舞台》は 神社に設けられた青天井の舞台が起こりであるとのこと。そして能楽は 1881年(明治14年)の能楽社の設立によって それより前の《猿楽》が名称を変えて伝え続けられたとのこと。 少しその歴史をひもといてみます。 ▼(ヰキペ:猿楽)~~~ § 奈良時代 中国大陸から、散楽と呼ばれる芸能が移入されたのが、猿楽のはじまりと考えられている。 § 平安時代 延暦元年(782年)、桓武天皇の時代に散楽戸(=散楽師の養成機関)は廃止される。朝廷の保護から外れたことにより、散楽師たちは、寺社や街角などでその芸を披露するようになった。そして散楽の芸は、他の芸能と融合していき、それぞれ独自の発展を遂げていった。 *(ぶらじゅ註) おそらく《かみやしろ(神社)》はその昔から あって そのまつり(祀り)に芸能が伴われていたと思われます。 それと散楽とが 融合していったと解しましたが。 * だとすれば――つまり 朝廷の保護から外れてみづからの生活を 営まなければならなかったというのならば―― 大きくは《わびさび》 の系譜だと思われ その歴史の一環であるようにも思われます。 このあとの § 猿楽の演じ手 の項でその身分について記されて います。 § 南北朝・室町時代 鎌倉時代の猿楽が発展し、観阿弥や世阿弥らの登場によって現在の能楽とほぼ同等の芸能としての猿楽が形作られる。 § 猿楽の演じ手 もともと猿楽は大和において「七道の者」であった。漂泊の白拍子、神子、鉢叩、猿引きらとともに下層の賎民であり同じ賎民階級の声聞師の配下にあった。・・・ * 《七道の者》と何故言われるのか 土一揆との関連で説明する 説を見かけましたが よく分かりません。 一部の猿楽の座は、社寺の庇護を得て、その祭礼の際などに芸を披露した。 最初は余興的なものとして扱われていたが、やがて社寺の祭礼の中に、猿楽が重要な要素として組み込まれるような現象も起き始めた。 社寺の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために、猿楽の座が寸劇を演じるようなこともあった。 これらがやがて、「猿樂の能」となり、公家や武家の庇護をも得つつ、能や狂言に発展していったと言われている。 ~~~~~~~~~~~~ 《枯山水》については いま へたのすけさんが設問しておられますが いまのところその専門的な問いかけにも 一般にその歴史をたどることにも 手が出ないでいます。たのしみに取っておきます。 * 単純に言ってしまえば 脳細胞に書かれた歴史を黒板消しで消してしまい白紙還元するという作業 これがどこかにかかわっていましょうか。わびさびの歴史にはです。 そうして お上のほうからの引き(あるいは 贔屓筋)があるといういきさつにもなるのでしょうか。 ▼(ヰキぺ:観阿弥) ~~~~ 1375年(永和元年 1374年説もあり)に京都今熊野で観阿弥が息子の世阿弥とともに演じた猿楽能を足利義満が見物、以降、将軍はじめ有力武家、公家らの愛顧を得、観阿弥が率いる観世一座は幕府のお抱え的存在とみなされるようになる。 ~~~~~~~~~~~ * ところが・ところが この白紙還元――タブラ・ラサ / 本質直観 / 純粋意識――には まさにおっしゃるように 《人と人とのつながり・きづな》が問われなければ何にもならないということ これを忘れてはいけません。ここまででは 忘れていました。 ★ 翻って日本のわびさびを思いおこせば、"less is more"とは独自に主張し得ない心許なさを感じずにはいられないのは何故なのでしょう。 ☆ 確かに侘びしく不如意で 寂しく独りいるという境遇とその心境を通過しているのでしょうね。身分制度のさらに外の身分に落ち入るというのは かたちとしてワビサビを象徴してます。そこから立ち直るという過程を経て来ていると やはり思われます。すなわち ★ でも、どこか心和み癒されます。 ☆ 現象学的に白紙還元して行ったその先にも つまりけっきょくその純粋意識たる《超越論的主観性》においてもやはり《相互主観性 Intersubjektivitaet 》――共通感覚? あるいは 共同主観?――を見るということに到らざるを得なかった。 ★ それはやはり、少なからず対人的な関係性を重視する美徳、美意識ゆえではないでしょうか。 ☆ アウグスティヌスは この世のしがらみや愛着としての 愛の膠を それでも剥がしてでも 精神ないし《われ》に還れというとき 神の愛を介して 隣人〔どうし〕の愛を言おうとしているようです。まだるっこしい。 ★ ~~~~~~~~~ 枯山水や能舞台にしても、研ぎ澄まされた削ぎ落としの結果、人(観客)と自然や世界、物との親密性や一体感に訴えかける作用をもたらし、時としてそれが何とも心地よく感じられるのではないでしょうか。また待庵はどうでしょうね。 ~~~~~~~~~~ ☆ ですね。そして《待庵》は どうでしょう? 画像も見ましたが 説明を聞くと どうもずいぶん凝った造りのようですね。二畳なのですけれど 柱や壁の造りやあるいは天井の――工夫を凝らしたものなのでしょうけれど――贅沢なと思われるような造りになっているようにも思われます。 言いかえると 一たんすでにワビサビの思想が完成したあとの段階で 一層うつくしいものをこしらえようと思って作っているようにも思われました。 ここらあたりまででしょうかねぇ 質問者が勝手な文章をしたためうるのは。かえって中途半端になってしまいましたが あとは自然史過程にまかせることにしましょうか。つまり しばらくして閉めることにします。 重ね重ね感謝申し上げます。