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戦で名乗りあってから戦う流儀はいつ頃から
古いイクサの流儀で、戦う前にお互いが名乗り合うというものがあったそうですが、 それはいつごろ、誰が始めたものでしょうか? 戦国時代にはすたれていたのでしょうか? よろしくお願いします。
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十二世紀前半の「今昔物語」に、源充(みなもとのみつる)と 平良文の軍勢の戦で、多勢の兵士を殺すのは忍びない。 大将同志の一騎打ちで決着を付けようとして、名乗り合い 戦い引き分けに終わった話があります。 両者とも実在の人物ですが、この話が事実かどうかは不明 です。 名乗り合いの一騎打ちは一般的でなく、起これば珍しい話と して伝わったものと考えられます。 一の谷の合戦、平敦盛と熊谷直実の一騎打ち、直実は首 を取って初めて敦盛に気づきます。 室町時代足軽の出現で、一騎打ち自体少なくなり、まして 名乗り合う暇などなかったでしょう。 名乗って価値の高い首と知られれば、餓狼のような集団に 襲われます。 他方「氏文読み」という、敵軍を前に一騎先駆けして、大音声 に「氏素性」を名乗るのが一般的でした。 源平時代以降「いくさ物語」に多くの例があります。 多くのいくさ物語より、やや信憑性の高い「吾妻鏡」に次の 「氏文読み」の記述があります。 「遠くは音にも聞き、近くは目にも見給え。…足利太郎俊綱 が子、又太郎忠綱。… 我と思わん人々は寄り合えや。 見参せん」 勇ましいセリフで、武勇を誇示しようという訳です。 これは戦国時代もよく行われたのです。
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- oska
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>それはいつごろ、誰が始めたものでしょうか? 1156年保元の乱以降に始まったようですね。 この戦いで、貴族の支配下にあった武家が独立した存在になります。 自らの存在をアピールする為に、名乗ったとも言われます。 1274年1281年の蒙古襲来(実は、高麗軍(現在の韓国))でも、鎌倉側武士は「名乗り」を行なっています。 (高麗王は、元皇帝に執拗に日本侵略を進言した。先陣・食料・舟の提供も、申し入れた。皇帝は、しぶしぶ日本侵略を決めた。高麗王朝記より抜粋。韓国国定教科書では、意図的に無視している文章です) 戦闘前に名乗りをする風習が無い高麗軍には意味がありませんから、名乗りの最中で多くの鎌倉武士が戦死しています。^^; 誰が?は、記録にありませんね。 >戦国時代にはすたれていたのでしょうか? 個人戦いから集団でも戦いに変わりましたから、戦国時代では既に廃れた制度ですね。 1467年応仁の乱頃には、無くなっています。 余談ですが・・・。 源義経が、何故強かったのか分かりますか? 「奇襲」が、得意だったからです。 今では、奇襲は一般的ですが「当時は、名乗りも無くいやらしい戦い方」なんです。 正攻法で武家の作法にしたがった平家では、勝ち目がありません。 作法といえば、当時は「非戦闘員に対しては、攻撃しない」という不文律がありました。 が、奇襲攻撃を得意とする義経は「非戦闘員も、攻撃対象」にしたのです。 流石に、鎌倉側も非難したようです。 結果、名乗り作法を最初に破った有名人は「義経」という事が出来ます。