推測になりますが園部藩が京都に建設した藩校かなとは思いました。
園部藩の藩校は享保の頃に作られていますが当時は名前が無く、明治初年に教先館と称されました。
ただし、京都に作られたのではなく園部城下に、であったろうと思います。
「水明館は普請中」の言葉から京都にも作られた藩校のようなものとの推察は出来ますが、園部藩専用の旅籠であった可能性もあります。
昭和の50年代まで全国各地の県の人たちが泊まる専用の旅館が京都市内には散在しました。(**県旅館、或いは**県講ご宿泊所と看板が出ている)
これらの旅館は県の講や東西本願寺の祖、親鸞聖人の大恩忌、浄土宗本山の法然上人大恩期忌時に全国各県からの入洛した方々が泊まる自分の県専用のものでした。
今でも少しは残っています。
もっと古い来山陽の「山紫水明所」は史跡として建物も未だ健在である事を考えると、それよりも新しい明治初年、京都にあった藩校とは考え難いと思います。(もしそうなら何らかの形で石碑などが残っているはず)
すでに明治に入っていますから専用の旅籠であろうかと私は考えます。
更に、京都市内は新しく町制が敷かれ、市民の手で浄財が集められ小学校を各組(学区)争うようにして建築する動きにありましたから廃藩置県が明治4年だとしても明治の初め頃にわざわざ藩が園部から離れた京都に藩校を作ることはあるまいと思います。
日本で最初の小学校、柳池校は明治元年9月に開校授業、学舎は翌年5月完成です。現在は市立御池中学として日本でも5指に入るほどの充実した学習環境で存続しています。