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考えるとは何か
- 考えるとは何か、と考えてみると果たして私は考えているのだろうかと思い当たります。
- 考えているそのプロセスを観察すると、思考というお芝居を鑑賞している存在(意識)がおり、それがお芝居中で起きた出来事を第三者(他人)に自分の考えはこうだと説明するわけです。
- 思考とは何かの前に「私」と「思考」を分けてみましたが、皆さんは自分の思考についてどう感じますか。
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仏教において思考についての考えがあります。 感情も思考も停止することを無所有処といいます。 ここでは「私」と「思考」が分離されています。 仏陀曰く 「やってみたら出来たけどそれといって変わった気もしなかった」 その後ウッダカ仙人の「非想非非想処」 で「識別しない」を「識別」さえ意味を成さなくなる停止を体得します。 「私」そのものもなくなります。 仏陀曰く 「やはりなんの益もない」 で苦行してやめて得たのが ふつうの人間には自覚できない因果をはっきりと自覚すること。 そして根本的に無知だった状態から最終的に脱出すること。 すなわち智慧を得る。 解脱であったとのことです。 瞑想により多くの思考を分析し 原因と結果を自覚して 常日頃から私を思考に囚われなくすることが 出来ればいいなあと思ってます。
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no10 です。 >我を忘れて何かに夢中になる。 夢中になっているのは誰なのでしょう。 茫然自失(フリーズ)→何かに夢中(フル・スロットル) 夢中になっているのはあなたです。能力一杯使っていて考える余裕(チェック機能)がなくなっているだけで、何の矛盾もありませんn。 火事場の馬鹿力という不可思議現象はありますが。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- littlekiss
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こんばんは、shift-2007さん。 元気にお暮しかい 考えているのかときかれりゃ いやー、話にききいってるね ついこのまえも、仕事そっちのけで 向かいの席の○○さんと 絶縁体、ゴムの話で大盛り上がり 網掛けのなんじゃらかんじゃら 高分子の話にききいっていたね。 考えるというよりも想像 イメージわかせてたよ。 仕事も上の空。 次の日出社したら、案の定、隣の席のひとから 「昨日はえらく○○さんと盛り上がってましたね」チクリと。 Y(>_<、)Y やっちまったー。 【は 行】 http://taki.cool.ne.jp/di/Te/ha.htm 【スライムとゴムの性質】 http://polymer.apphy.u-fukui.ac.jp/~kuzuu/KuzuuPage/Education/ExprmtShow/Slime/SlimeText.pdf
お礼
ご回答ありがとうございます。 ずいぶんお久しぶりだねー 高分子と言ったら高分子ポリマーがマイブームなのさ。 オムツに使っているあれね。 土に混ぜて使うと水やりがさぼれるって代物。 夏の植木鉢にぴったりの商品なのね。
NO.7です。 前回は思考を思い切って単純化しましたが、確かに私達の脳は単なるノイマン型のコンピュータと割り切るには複雑すぎます。少なくともパラレル処理が出来ることは間違いありませんが、それで私の中に私が複数いると結論付けることは出来ません。見た目パラレルのようですが、単にタイムシェアリングしてヴァーチャルな虚像を後追いしているだけなのかもしれません。舞台は沢山あっても、中で演じるひとも、鑑賞者もみな同じかもしれません。私はそのほうが近いと思っています。 >我を忘れるという言葉があります。 もしこれが本当なら、我(私)を忘れる存在がいるということにならないでしょうか。 これこそ単にメインコンピュータがフレーズして思考停止しているだけでしょう。 我を忘れて、それを冷静に別の自分が眺めているという状況などきいたことがありません。それは我を忘れたのではなく、単に自分に酔っているだけです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 我を忘れて何かに夢中になる。 夢中になっているのは誰なのでしょう。
- 雪中庵(@psytex)
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「考える」とは「何」か?という問いには、「考える」以外の「何か」 があるという前提があるが、そもそも我々が見ているのは「考え =感受」以外の何物でもなく、その相互作用パターンの向うに、 空間的広がりを推定しているに過ぎない。 「全ては脳内の現象に過ぎない」と言えるが、その脳内の現象たる 宇宙に、その「脳」が有限な大きさを占めている事が、「公理系は その系内で証明されない要素の参入(=不完全性)によってのみ 無矛盾であり得る」という不完全性定理に相同である(確定性を 追求する物理が、不確定性原理に依存して実体を記述するのも)。 つまり、世界=心は“量子相互作用(光量子=静止質量を持たない 運動量だけの実体)”であり、それは自我仮説(時間的流れ)と 相補分化する時空仮説(空間的広がり)に対する無の射影である ‥‥「何かあるんじゃないか」に対する「本当は無いんだけどね」という。
お礼
ご回答ありがとうございます。 かなり難しいです。
- atomonados
- ベストアンサー率31% (55/174)
>思考とは何かの前に「私」と「思考」を分けてみましたが、皆さんは自分の思考についてどう感じますか。 自分の思考は,誤謬に満ち,不十分,不完全であると思われる。現実問題を思考するのは苦手であると感じている。メタ思考,メタ認識が好きである。思考を思考する私について,これが本当の私だとは思えない。本当の私は私によっては気付かれないと思われる。以上,非思考の雑感をまず述べてみた。 思考することを意識した場合に,私は次のような論理的な手続きをとる。矛盾対をベン図に表す。たとえば善の円と悪の円を描くのだが,わざと互いに交わるようにする。4つの領域ができる。 (1)善でも悪でもない。 (2)善であり悪でない。 (3)善でなく悪である。 (4)善であり悪である。 人間尺度論は(4)の領域を現実に受け止めている。絶対的な答えがないとする相対主義である。しかし,相対主義も人間の尺度ならば,非相対主義すなわち絶対主義も許容される。すると,相対主義は絶対的でない。かような自己言及のパラドクスに陥る。 相反する意見を相対主義的に受容し,なおかつ絶対的な意見(当面のところ対立する意見者の同意がなされる程度の)を模索する。弁証法の類と思われるが,一般的な解決法は,矛盾対を表裏一体性の構造で捉えることだと考えている。 顕在するものと潜在するものに矛盾対を分け,交互に表出するものとする。対象である矛盾対を表出しているのは,悟性の動的形式(カントのコペルニクス的転回参考)なのだと考えている。 考えるとは何かをこの手続きで考える。 (1)思考でもなく,非思考でもない。 (2)思考であり,非思考でない。 (3)思考でなく,非思考である。 (4)思考であり,非思考である。 (4)の止揚は,考えたり考えなかったりする,心の主体の動的態様である。 さて,私はこう考えたのである。私はこの考えを物語の筋書きのようには表現できない。私の考えがお芝居だとしても,その内容はどうでもいいのである。私の考えは,ヒーローとヒロインがおり三場からなる劇程度の規定である。したがってマイナス思考もプラス思考もない。他人への警句にもならない。 なお考えるとは何かを深めたいとする。今度は別の矛盾対を用いる。ここからは,何を選択するかさまざまで,思考の自由度が高まる。たとえば,善悪のフレームを重ねてみよう。自他のフレームを用いてもよい。 関心のある領域はいずれも非論理領域(4)で,「思考であり,非思考である」と「善であり悪であり」を重ね,他の組み合わせは省く。 考えることの是非が問われても絶対的な解がないのは,悟性の動的態様のためである。あらかじめ限定的な解が存在する問いならば,悟性は静的になる。 思考の手続きを限定し,私はこう考える者であると自己規定しているうちは,対象レベル(思考内容)では,揺れうごく解となることがあっても,メタレベル(思考の思考)としては一定の解が得られるというわけだ。すなわち(といっても飛躍するのだが),解を表出することは,自己を表出することであり,考えるとは自己を外部に表出する過程である。また,考えるとは自己を内部に表出することでもある。考えるとは黙示的自己表出である。(自他,内外のフレームを吟味せず曖昧な表現だと思うが) 思考の手続きが一定でない者(私のこの文章の後半の無意識的な運びもそうだが)は,対象レベルで矛盾を言うだけでなく,メタレベルでも一貫しない。これは自己表出としてあまり好ましくないと思う。本当の自己が表せないものだとしても,表す限りは一体何者であるのかが分かりやすいように,一定のものとするなり,不定であっても調和を図るべきなのだろう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 次の段階としての考えるとはについて考えてみたいと思います。
思考とは一種の計算です。 複数の材料を計算式に掛けて答えを出す。 材料も計算式も私の記憶の中にあります。 それぞれ私の一部分です。 もちろん「はい答えは○○です」という私もわたしですが、 私から記憶を退けたら私(と言う全人格)はなくなる。 ただの肉体(植物人間の状態)になります。 これだって立派な私だ、と仰るのならそれもありでしょう。 私はそれを採りません。 悩む私も私の記憶の中のいちぶぶんですし。
お礼
ご回答ありがとうございます。 我を忘れるという言葉があります。 もしこれが本当なら、我(私)を忘れる存在がいるということにならないでしょうか。
- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
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>「私」と「思考」は分離可能だと思われますがどうでしょうか。 その「私」とは「意識」と言うべきです。 その「思考」とは「脳内のアナログ電流作用」のことです。 意識とは神経的ネットワーク上に自然発生するもので、何も有機体とは限りません。近未来のホストコンピュータにも発生するものです。 分離もなにも、意識は「網(あみ)」であり、思考は「その網に流れる幾千もの回路」です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >意識とは神経的ネットワーク上に自然発生するもので、何も有機体とは限りません。近未来のホストコンピュータにも発生するものです。 チョッとオカルトじみていますね。
- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
- ベストアンサー率11% (26/222)
脳の中のアナログなシステムに、論理的な電流を流してみること。 あくまで「流してみる」だけなので、精神的な幸福感につながるとは限らない。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうかもしれませんね。
・・・言語思考をやめてみるのはいかがでしょう? 「思考」は記憶の新陳代謝です。 ●~であるから~である式の論理的思考も、 ●あれはあんな印象だった→これに印象が似てる的な 非論理思考も、 いずれの思考も必ず何かしらの「動機」に沿って 行われます。 ただ気の向くまま茫漠と連想の海に漂う小船のように 気ままな妄想を重ねていても、そこには自分にとって 今継続して感じていたい快感、或いは不快感が 動機になっています。 「私」とは何か?ということについては、ここでは 細かく書きませんが、外界の情報を「解釈」という 光学変換を施した「ぼんやりした鏡像世界」として 内包する暗箱、合わせ鏡の構造を持つカーメラ・ オブスキュラのような情報処理系だ、ととりあえず 述べておきます。 「私」という内部感覚は、系の内部の情報処理が 外部からの操作では行われずに、内部の「動機」に 沿って行われる所から生まれます。 空腹・飢餓・性欲・自己防衛など様々な内部生理と 外界の環境状態に対応した基本プログラムに従って その都度、「思考」という情報処理は為されます。 同時に、情報の解釈、関連付け、記憶、再構成など 「私」という「系」の維持と代謝のためにもそれらを「動機」 として情報処理の内部プログラムが動作します。 操り人形のように完全に外界から内部の情報処理を 操作されている場合は、内部の情報系と時間は 外界と区分されません。 「内側」は存在しない、と 言えます。 でも、内部で独自の情報処理を自律的に行う「系」は 情報空間的にも情報時間的にも外界と切り離されて 独立して動作できます。 自らの物理的・生物的欲求に従って自らの内部構造を 直接操作する自立系・・・クラインの壷のように、プログラム それ自身が処理対象のデータ群でもあるという、相互補完的な 完結性の仕組みが、「私」という感覚の根源です。 詩的表現で言えば、世界から切り離された鏡像の世界を 内包する、生きている記憶こそが自意識の姿です。 故に死と不可分な・・・一時的な孤独。 最終的に外界に回帰する宿命を持つ、それが「私」だと 言えるかも知れません。 さて、であるなら思考は意識的であれ無意識的であれ 「私」内部の「動機」に沿って自律的に行われる情報処理の 総称と言うことが出来ます。 記憶の中の、あの「体験記憶」、それを求めて「風景」や 「曲」、或いはもっとプリミティブに「光や色」「音や匂い」 「味や肌触り」を手がかりにして、この手の指をすり抜けて しまうあの、「記憶のニュアンス」を追い求める作業・・・ それは単純に他の情報に変換しうる「感覚的知覚」では なくて、あの日、あの時、あの風景の中で、私は確かに 息づいていた・・・という、それを表現するのはもはや タイムトリップしかないと思わせる、誰もが大切に持つ 「あの日の記憶」のニュアンスのことです。 そのニュアンスの中に確かにあの時の「自分」がいる。 ニュアンスそのものに直接アクセス出来るなら、 それを思考だと、拡大解釈して常態化出来たなら、 より超越的な、異次元の思考を手に入れることも 出来ることでしょう。 難しいことを考えなければ、現実にそれが出来る人は 沢山いるはずです。 画家も音楽家も、シェフもお百姓さんも、言語を使わずに 思考する暮らしが根付いている人は沢山います。 いささか「ニュアンス」からスピンオフした感じはあるけれど、 創造する作業には言語によらない起源的な感覚思考は 絶対に必要なものだからです。 稀に垣間見える「あの日の記憶」のニュアンスは、 あたかもケン・ソゴルが消し去り切れずに残した、 ラベンダーの花の香りのようです。 それを追い求めている時、そしてかすかにあの感覚が 蘇った瞬間は、今の「私」とあの時の「私」が、不思議な 等時性を持って一体化しています。 その意味で、「私」と「思考」は不可分です。 劇場型の自己=他者的な認識感覚は、言語思考が いわば二次思考であることに起因すると思います。 「感覚」を直接言語として思考する一次思考は論理的 アルゴリズムを必要としませんので、高速連鎖反応の 様な思考となります。 自由落下しているごとく。 考えることを止める事が出来ない時は、この自由落下の 状態にあるわけです。 何かの考えに取り付かれてそこから抜け出せない時は、 一見文字による言語思考をしているように思えますが、 実際は感覚思考が循環状態に陥っているために自分で 止められなくなっています。 コンピュータで言うニモニックのような低級言語の暴走です。 人間の思考も、言わばコンパイルされたコード構造が 走る部分と、逐次解釈→実行を繰り返すインタプリタの 構造に分かれると思われます。 よく言われる、脳は凄い力を秘めている、というのは 言わば低級言語/アセンブラのようなものを走らせる ことが可能だ、という意であると解釈できます。 言うまでも無いことですが、言語による思考は文章構造を 持ちます。 それゆえに、文法と文脈の整合性に束縛されます。 人間は、思考して言葉を紡いでいる錯覚を持ちますが、 これらのコトバの制約によって、逆に一次思考が縛り 付けられている、とも言えます。 語彙が不明瞭な単語やイディオムを多用することで 文章構造は容易く破綻しますので、どうしても日常的に 使い慣れている文章や権威の借用が増えてきます。 そのために、コトバに執着しすぎる人は度々コトバに よる奴隷化を余儀なくされ、自由思考を停止してしまう 病的な偏執傾向と視野狭窄を起こしがちです。 今書いているこの文章も参考例としてガチガチに 書いてみました。 頭が固い、というのはこんな状態かも知れません。 コトバに縛らずに、あらゆる感覚をそのままダイレクトに 使って高速思考をする。 或いは、コトバさえも音やリズム、味わいとして 感覚言語として扱う。 そう、例えば歌がそうだし、都都逸や五七五もそう。 片やガチガチかつ中途半端な論理思考の言葉、 片や心を謳う歌としてのコトバ。 人と人との会話がとても難しくなるわけですね(^^_); 翼を広げて飛翔するような快感を伴う・・・ まるで白昼夢ですね。 いいんです。 天気の良い日の野良猫は日向ぼっこしながら白昼夢です。 おそまつさまでした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 非言語による思考について考えてみたいと思います。
現代哲学では、心身は「私」の必要条件でも十分条件でもないそうです。 そういえば御釈迦様も、身体は当然、感覚や記憶や識別や判断作用なども「私」ではないと言っていますね。 さてさて、そうすると「悩み」というのはどこに生ずるものなのでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 だいぶ「私」が小さくなってきました。 悩みの原因はやっぱり一体化が原因でしょうね。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 仏陀は何の益もないと言いましたか。 さすがだと思います。