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次の扉

哲学系の皆さんに朗報です。 皆さんは一般的ないわゆる普通の人よりはるかに自我の確立がされているだろうと思います。 人並みの悩み事で眠れぬ日々というのはもう遠い昔のことではないでしょうか。 現時点で自分に振り回されるという事も少ないだろうとは思いますが、どんなに理性的になろうとも完全な制御は出来ませんでしょう? なぜだかわかりますか? それは制御している者、観察者がいるからです。 私たち哲学系がある意味最も重要な存在としている心の中の観察者がそもそもの分離の混乱の原因だったのです。 われ思うゆえにわれありの「我」のことです。 私たちがどんなにうまく心理を制御しても制御しているという事実が分離し混乱しているという証拠なわけです。 分かりますかね? 恐怖を制御するために私たちは恐怖を観察します。 理性的に考え感情が大きく動かないように間接的に制御します。 しかし、観察するという行為自体が恐怖を生んでいるんです。 だから観察者がいなければそこにはもう制御するべき恐怖はないのです。 この心理的トリックを悟れますか? たぶん普通の人にはわからないでしょう。 哲学バカなら恐らくわかると思います。 実際にやってみてください。 3秒後に次への扉が開きます。 どうですか?

みんなの回答

noname#177872
noname#177872
回答No.12

おひさしぶり。 >観察するという行為自体が恐怖を生んでいるんです。> まさにその通りです。これは内容によって解決する場合と危険になる場合の2パターンあると思われます。 まず人間関係と怪我や事故、などの物理的弊害などの危険以外に置いての恐怖は >観察者がいなければそこにはもう制御するべき恐怖はないのです。>これで解決します。 つまり怖いと思わなければ怖くないという訳です。 しかしなぜその観察者が表れてきたのかというと(特に人間)物理的、人間的弊害によって苦渋の目にあわされる危険が存在する(した)からです。その危険性が本当に危険である場合はその手法では未解決になり車が通ってもそのまま引かれて死にます。(無意識にでも車に引かれて死ぬ危険性を感じない為)。しかしながら危険性が未来永劫発生しない場合。ご自身の仰るように恐怖を恐怖と思わなければそれで解決です。 単純に解決策の視点で語りましたが、 >恐怖を制御するために私たちは恐怖を観察します。 理性的に考え感情が大きく動かないように間接的に制御します。 しかし、観察するという行為自体が恐怖を生んでいるんです。 だから観察者がいなければそこにはもう制御するべき恐怖はないのです。 この心理的トリックを悟れますか?> これはとうの昔に悟ってますよw

shift-2007
質問者

お礼

ひさしぶり・・・ 誰だっけ? 私もまだよく分かっていないので受け売りを書きますが、恐怖には2種類あるようです。 一つは動物的な恐怖、高いところで足がすくんだりする危険を察知する恐怖です。 もう一つは心理的な恐怖、失業、他人の評価、恋人に捨てられるのではないか・・・そういう恐怖です。 今回、問題にしている恐怖は心理的な恐怖です。 観察者はいなくても当然意識はありますから命にかかわるような危機に対してはきちんと反応するのです。自分から車に突っ込んだりはしません。 問題なのは意識がありかつ観察者がいるという2重構造なのです。 意識を消せば当然恐怖も消えますがそれでは意味ないです。 観察者はソフト的に作り出したものですから消すことは可能なのです。 ただし、それなりの理解度、精神の感受性等が必要なのだろうなと思います。 ご回答ありがとうございました。

shift-2007
質問者

補足

では皆さん、お先に

回答No.11

>哲学バカなら恐らくわかると思います。  扉が開いた我にはわかるわけないし、わかったつもりの我じゃ扉は開かない。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やってみればわかる 今回はそういう話でした

noname#177870
noname#177870
回答No.10

あれっしょ? 「ノットシンクフィール!!」てヤツっしょ? 酒飲んでました?てかオレ、カラッポにしてアタマ…音楽系そうですもん。ダンス系のとか、踊ってるだけですもん。つーと「すぐ、ラップは?」っしょ??しょ!!ごめんラップくわしくないオレ。元気してると踊りますよ。 で…アタマてか?言葉あるのの脳…バカーてあれっしょメッセージ、みんな外からな、感じ?そうかもよ、オレ?よくテレビとかうぜーてなるし、よく絵描くヤツのくちパカーだしあれ扉っしょ、 で…家…。「すげー!物!!物おおい!」になる… 外…。ふつーに、すげー!!っしょとくに緑とか…「すげーーー!!!って でも…てかそれ…今たぶん、春だし、夏もすげー!!でも秋…つーか冬…「すげー!!しんでる!!」しょ?? 海…ボンヤリする。ってかボンヤリした日によりますけど。 ひょっとして「アン」っすか。すよね?なつかしー。 パカー療法?パネェwwwてかアタマ止めてすげーなるのが珍しーの、カシコイっすね。なんか。つか哲学の人に単純に、考えんのやめ言うの皮肉しょ?メンヘラあんま知らんすけど、頭カラッポ、しやすい、失礼っしょ。知らんすけど、使ってますよたぶん、アタマ使いすぎ?やっぱダンスとか、音楽系以外に使うらしいす。いるとたまにカラッポっすが… やっぱなんつーか、アタマとかカラッポラッポで踊るのが道っしょ。人の道っす?次の扉って。でも家だと物おおい!!すよ?冬は…死んでる!!ですよ?しゃーないっす、むなしいすもん、実際コップっしょ。鏡っしょ。やっぱいろいろあんのは外っす。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 哲学系・・・頭の交通整理が出来ているので意図的に車の流れを変えることができる。 宗教系・・・日常的に精神状態が神秘体験モードになっているのでたぶん”ああこれね”と理解できる メンタルヘルス系・・・理屈はよく分かっていないが観察者が作り出している恐怖は人一倍なので必要に迫られているという意味で実行可能 ロック系・・・ドラックと間違える可能性があるためお勧めしない まぁこんなところかな

回答No.9

 たぶん、「同化」という体験をしたんだろうと思います。  でも、その体験をよく解ってないようにも思えました。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 悟りとは気づきと考察と理解の連鎖です。 別に超常的な体験ではないのです。 私も哲学バカですからそんなことは珍しくもないんです。 だからその体験にしがみつくなんて馬鹿げています 悟ったからと言って終わりではないのです。 まぁ確かに今回のは強烈でしたが。

shift-2007
質問者

補足

3日くらい前の体験なので考察と理解はまだまだ十分ではないですね。

回答No.8

> 今回は理屈ぬきなんです。 > やってみるとわかるんです。 > バッカンと扉が開いて世界との一体感と自信が満ちてきます。 > 3秒で世界が変わるんですが・・・ > 無理かなー やはりただの自慢したい構ってちゃんスレでしたw

shift-2007
質問者

お礼

ははは

noname#180507
noname#180507
回答No.7

コギト  (我思う) 観念 エルゴ (ゆえに) スム   (我あり) 存在 観念→存在ではなく、観念(思考)→感情(恐怖)というベクトルでしょうか。 哲学というよりは、精神病理学・心理学といった分野からアプローチしたほうが、たぶんいいような気がします。 》恐怖を制御するために私たちは恐怖を観察します。 》理性的に考え感情が大きく動かないように間接的に制御します。 感情と思考を分離させる、一種の防衛機制ですね。 》しかし、観察するという行為自体が恐怖を生んでいるんです。 》だから観察者がいなければそこにはもう制御するべき恐怖はないのです。 感情に囚われず、突き放してみることも、ひとつの方法でしょう。 感情に翻弄されている間は、ものの見方に歪みが生じやすくなります。 囚われると、負の感情循環スパイラルに陥るだけです。 もしくは、森田療法のように感情をあるがままにするという方法もあるでしょう。 質問者さんは、こちらの考え方に近いのかもしれません。 こちらも、感情に囚われないということが基本にあるようです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 今回は理屈ぬきなんです。 やってみるとわかるんです。 バッカンと扉が開いて世界との一体感と自信が満ちてきます。 3秒で世界が変わるんですが・・・ 無理かなー

shift-2007
質問者

補足

>哲学というよりは、精神病理学・心理学といった分野からアプローチしたほうが、たぶんいいような気がします。 おっしゃる通り ただやってみろと言ってできるのは哲学系、宗教家、メンタルヘルスに重大な問題を抱えているような人たちだけでしょう。 普通の人にはたぶん無理です。

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.6

哲学バカは理解してから実践しようとします。 まさに、恐怖を制御するためにw それは正しいのですが、反面、自分が理解可能なことしかできない。 極めて効率が悪い。 それにあなたが付き合う義務は微塵もないのです。 人生は何かを成すには短いのですから。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 バックミラーを見ながら運転するようなものですね。

回答No.5

Shiftさんがここで言おうとしている世界は、やっぱり釈尊が到達した“悟りの境地”を言っているように思います。 我、イコール観察者、と言うことですよね?

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 それぐらいの驚きはあったんですがそれはまぁいいんです。

回答No.4

#1の者です。 >観察者がいるかぎり分離は避けられないという話です 観察者が見ている対象とは、観察者自身なのです。 鏡に映る自らの姿を恐れて、油汗を流すガマの油売りのガマ。 しかも、遠目には確かに在るように見えるその「ガマ(=認識 可能性)」自体も、確かに見ようと近くに寄れば、それ自身が 鏡(仮説としての時空に有限な大きさを占める)であり、無限 鏡映の中に実体を失うのです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ですから観察者を消して御覧なさいと言っているわけです。 それが出来るはずなんです哲学バカには。

回答No.3

  >だから観察者がいなければそこにはもう制御するべき恐怖はないのです。 >この心理的トリックを悟れますか? あなたに一つゆーておきます。 そのよーな問題設定のやり方は認識論とゆーて、何の価値も生みださないことは昔から分かっているのである。 このよーな認識論は昔から哲学の中に紛れ込み、あたかも哲学であるかのごとく振る舞い、哲学を腐敗させてきた張本人である。 何の意味もない。 いい加減にしてもらいたいな。 もちろん我々は過去の行いとか間違いを振り返って反省したり、内省したりするがこれは心の中に何か観察者を設定して行うものではありません。 認識論は哲学ではありません。  

shift-2007
質問者

お礼

哲学の定義などどうでもよろしい 哲学のために哲学しているわけではないのだから 貴方は自分の頭の中にある「哲学」という偶像を崇拝しているだけでまったく本質的ではない 安息日に病人を癒したキリストを責めるユダヤ人のようだ ご回答ありがとうございました。

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