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織田方面軍
織田信長は家臣に大名並みの所領を与えて方面軍としていますが謀反などの危険性は考えていなかったのでしょうか? それとも謀反などが起こしにくい体制になっていたのでしょうか?
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何度も何度も離反されていますから考えていなかったとは思えません。 ただ、方面軍と言っても、主だった重臣に他の有力な家臣を付けて構成していましたので、方面軍の指揮官には軍勢指揮権はあっても独自の軍勢動員権はありません。 秀吉の指揮下には蜂須賀正勝や黒田孝高がいますが、彼らは信長の家臣という意味では秀吉と一緒で、秀吉から所領を与えられているわけではありませんので、たとえば秀吉が信長に謀反を起こそうとしても従う義務はないのです。 荒木村重の反乱の時も、軍勢指揮下の高山右近や中川清秀は最後まで従いませんでした。 明智光秀も自分の軍勢のみで信長を襲撃しました。しかし、軍勢指揮下にあった細川藤孝や筒井順慶は光秀に従わなかったのは周知の通りです。 それまでの信長への反乱は、自分の所領で挙兵して他国の支援を待つやり方であったため、次第に孤立して鎮圧されました。謀反を起こしても鎮圧できる体制は構築されていたのでしょう。 しかし、本能寺の変のような信長の居所を直接攻撃するやり方は想定外だったかもしれませんね。
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- tanuki4u
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信長 普通論 信長を異能の持ち主として、特殊視する歴史観もありますが、私は 天下人史観を疑う―英雄神話と日本人 にあるように、他の大名と差はあってもちょっとだと思う。 信忠への家督に関しても http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E5%BA%B7 先代が亡くなる3年前に家督を継ぎ、息子に家督を継がせてから10年以上隠居として実権を握っていた。 元就が元気なうちに http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%9A%86%E5%85%83 家督を継承しています それなりの大名にとって、家督争いを防ぐためにも、早めの隠居はあたりまえだったのかと
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- jkpawapuro
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織田信長は早くから嫡男に家督を譲っています。 名目上のこととはいえ、これを行っておけば本来信長が倒れても家督争いは起きません。 信長の首一つとっても嫡男が織田家を率い謀反人を討ち取る体制を作ることにより、織田家の安泰と謀反の抑止を図っていたわけです。 ところが本能寺の変の際、信長と共に嫡男信忠もなぜか京都妙覚寺に入っています。これが油断なのか明智を信頼しすぎていたのかわかりませんが、謀反を誘発するきっかけになります。 というわけで早い段階で謀反が起こしにくい体制はとっていたが、なぜか本能寺では大名本人が嫡男と一緒に軍勢無しで行動するという失敗を起こしてしまったというのが定説で、家康はこれを教訓としています。
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- takeko85
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まず戦国時代に寝返りや裏切りは日常茶飯事であったにも関わらず、信長を裏切った者の大半は、信長が上洛してからの家臣であり、尾張・美濃時代からの家臣の中で、信長に背いた者はほとんど見受けられない。 国持ちで謀反・離反したもの 浅井長政 北近江 足利義昭(2回)山城 波多野・赤井 丹波 松永久秀(2回)大和 荒木村重 摂津 別所長治 播磨 明智光秀 丹波 基本的に他家と比較して重臣の権限や裁量余地が大きい。柔軟であると同時に体制・統治に関する成文が非常に少なく一面では杜撰とも言える。 これらのことから基本的に尾張・美濃時代からの家臣は信用されていて謀反をあまり心配してなく、外様が離反・謀反したときは機動力で打ち破れると思ってたんじゃないでしょうか。 本能寺の変も直営軍2万と行動を共にしていたら防げたはずです。 一応、人質は取ってました。また与力を付けることで監視・監督はしていました。 実際、明智光秀の配下筋の細川親子、筒井順慶は明智方にはつきませんでした。
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回答ありがとうございました。
私見ですが、考えていたと思います。 だからこそ、佐久間信盛や安藤守就等の突然の追放が起こったと思います。時期的にも、石山本願寺との戦いが終わり、一応の安定が確保された時期ですよね。 事実かどうかは分かりませんが、明智光秀の謀叛の原因に、国替(近江の一部と丹波→出雲と石見)を指示されたから、という説もあります。国替の指示が事実なら、正にこの視点だった可能性も考えます。
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- tanuki4u
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実際に信長は、多くの謀反に遭遇しています。 さらに言えば、どこの大名も謀反に遭遇しています。 制度としては、近習による監視システムを行っていたようですが、謀反はあるものと考えて運用していたと思われます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E7%A7%80%E4%B8%80 このへんです。 男色関係者は、当時の武家社会では何よりも深い信頼関係にありました。
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- RKwarawara
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織田信長は泣かぬなら殺してしまえホトトギスのような男です。 弱肉強食の世界を自分で実現させておきながら自分の身辺を警備させているようでは、配下の武将に示しが付きません。 ですので、強さの誇示の表れなのではないでしょうか。 織田信長に逆らう者などいない!的なね。
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