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戦国武将?堀尾某について教えてください。

子どものころに時代劇(多分NHK大河ドラマ)を見ていたら堀尾姓の下級武士が出ていました。 信長・秀吉・家康のエピソードのどこかに一瞬登場する人です。 もしかして秀吉の毛利責めの時の使者かもしれませんが、記憶があいまいです。 最近になって調べましたが、どうしても分かりません。 ご存じの方は、どんな物語に登場し、どんな役割を果たした人物かを教えてください。

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回答No.1

堀尾吉晴1543(天文12)~1611(慶長16) 尾張の国、丹羽郡御供所村(現大口町)に生まれ、豊臣秀吉に仕えて、三中老の一人となった人です。 松江城を築き、初代城主となりました。 織田信長による浅井氏討滅後、近江攻め一番の功労として秀吉が近江長浜12万石を拝領すると吉晴は秀吉より、しばしば軍功を挙げた功績で100石を近江長浜に与えられた。 その後も軍功を挙げ、丹波国黒江に3500石→丹波国高浜1万7000石。1585年には、丹波坂本で2万石、1586年には、近江国佐和山で4万石と出世していった。 九州征伐、小田原征伐に従軍。小田原の役では山中城攻略に参加した。小田原の役後、吉晴は豊臣姓を許され、豊臣政権の中でも重きを成した。1591年、遠江浜松城12万石に移封となり、中堅大名となり、福島正則や浅野長政ら豊臣家重臣と肩を並べた。 1598年、太閤秀吉が没すると吉晴は、豊臣家の長年の功労者として重鎮の席に就き、生駒親正・中村一氏らとともに豊臣家の中老職を務めた。 同年8月、豊臣家五大老の筆頭・徳川家康と豊臣家五奉行の石田三成とが対立すると吉晴はその仲裁に入り、和議を調えた。 吉晴がこの仲裁に活躍した際、徳川家康は吉晴の抱き込みに力を入れ、次の天下人が徳川家だと予見した吉晴は、これ以後、急速に家康に接近した。

totan
質問者

お礼

どうもありがとうございました。 そうです、この人です。 思ったよりずいぶん大物でしたね。

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  • toro321
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回答No.3

以下の方の補足。 堀尾茂吉といい、信長の岐阜城(当時は稲葉山城)攻めに秀吉の傘下に功績あり。 信長が狩猟の時に拾った山住まいの猟師で、父は岩倉織田氏の浪人だったそうです。 秀吉は信長にねだって、自分の家来としたらしいです。

totan
質問者

お礼

茂吉の名は何となく記憶にあります。 どうもありがとうございました。

  • jakyy
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回答No.2

堀尾吉晴(ほりおよしはる)1543‐1611 のようですね。 尾張御供所に生まれ。 豊臣秀吉に仕え、1590 年 (天正 18) 遠江浜松の城主となった。 のち徳川家康に通じ,別に越前府中を与えられた。 1600 年 (慶長 5) 会津出兵に子忠氏を従わせ、 自身は命により上方北国の動静を探るため浜松より越前に向かった。 途中水野忠重の謀殺に遭遇し刺客を討った。同年出雲松江 24 万石に移った。 下記のHPに詳しく載っています。 http://www.ni.bekkoame.ne.jp/ca005338/busyou1/d2/d2-b23.htm

参考URL:
http://www.ni.bekkoame.ne.jp/ca005338/busyou1/d2/d2-b23.htm
totan
質問者

お礼

どうもありがとうございました。 参考HPは非常に参考になりました。

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