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神、仏性について
あらゆるものに神、仏性は宿っているといいます。それらは驚異的観察力により発見した秩序なのか、秩序の発見へ導いた自己の内面の奇跡的作用なのか、たまたま気になった文字列が、その後の運命を暗示していたといった我々の解釈を利用したメッセージシステムなのか、また別のものなのか。皆様の解釈を聴かせてください。
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知る働きなのか 知る働きによる知られたものなのか 誤認をも含む相対的認識性なのか 或いは全く別なものなのか・・・ 知る働きは、その度合いを「覚性」ともいいます。 知る働きと知られるものは不可分であることから、覚性とは理智の同一をも表すものです。 この覚性の違いは多様な存在を生じさせている、という可能性があります。 また、低い覚性しか持たないと考えられる存在でも、高い覚性に至る可能性もあります。 因位には識といい、果位には智という、智即ち覚なるが故に・・・という言葉があります。 「識」というものが、知る働きの根源的なものであるという解釈です。 「識」は遍満しているものである、という見方は、高度な覚性に通じるものが遍満している、という見方にも通じます。 法身の解釈における、六大一実の体という内容においても「識」の解釈は特に重要だと思われます。 一即多、多即一という面においての「識」の有り様が、覚性と仏性との関係を表すものと考えられてきたように思います。 実際には、単に「識」のみが仏性ではないようにも思われますが、理智を重視する面からそのように解釈されてきたのでしょう。 曼荼羅(胎蔵界)においては、覚性の違いにおける法身の多様な顕現が表現されています。 そこには描かれていない人や物にも、仏性と呼ぶべき覚性があるように思います。 「識」あるところに、覚性があり、仏性もある、というように考えてみました。 ご自由に解釈なさってください。
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- o-sai
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ずいぶん難しい言葉を使いたがるんだね。 >あらゆるものに神、仏性は宿っているといいます という宗教観についての解釈(考え方)を訊かせてくれ、ということでしょ? そういうふうには全く考えない、西洋の一部の選民思想はともかく、 インドやタイや日本のような農民文化における自然観で説明できます。 例えば裏山に大きな木がある。 誰が生やしたわけでもないのに、そいつは微生物や環境に育まれて大きく育ってる。 そこに多くの鳥や獣が集い、ひとも神秘的な存在感を意識する。 そういう神秘性の本質とはなんぞや?ということです。 ひとの力の及ばない自然力で世界は成り立ってるのではないか、 我々が闘って変えようとしても変えられない力がそこにあるのだ、 それはひとの神(日本じゃ天皇)すら超える「何か」ではないのか、 それをひとは何と呼ぶのか・・・ ひとが観察力を発達させれば、己の未熟に気付きます。 「前向きな無力感」とでも言うものが、神聖なるものへの恐怖でしょうね。
お礼
回答ありがとうございます。
- tumaritou1
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神、仏とは自分自身の「無意識の働き=命そのものの働き」のことを云っています。命を働かせている働きの事です。 具体的に詳しく書くなら「心臓や肺や脳内ホルモン等」生命活動に関する事を、自分が眠っていた場合でも、休みなく行っている者の事です。 心や精神活動においても「自我意識は気が付かないとしても、」心や精神にも影響を与えている者です。腹が減った事を教えている者の事です、或は寒い時では血管を収縮させながら、暖かい所を探すように「指示」さえ出しています。 高い所に上がった場合その高さに応じて「直接心にその高さを」怖いという情報を通して、教えています。 スピードを出し過ぎた場合では、「心に直接的に」どの程度の危険かを教えている者の事です。 納期が来た場合にも、教えています。身の毛もよだつ様な時には「本当に身の毛がよだつようにして」直接教えている者の事です。 ですが自我意識たる顕在意識たる「自分の心は」この事に気が付き難くなっています、何故ならばこの者は「無意識の中に、封印された形で」存在しているからです。 この場合の封印された形と云う事を説明するならば「意識は、無意識の時の自分を意識出来ない」と言う意味です。 つまり人間には二つの意識が共存していると言う意味になります。 一つは自我意識です、顕在意識の事です。この意識は「左脳に存在する人格です」 もう一つの意識とは「無意識の時の自分の身体も心も支配している意識」です。この意識は言葉以外の情報伝達手段で「自我意識」とコミュニケーションを取っています。 この情報交換は脳梁を介して行われています。この人格と出会う場合を「キリスト教においては」=「神に会って和解する」と表現しています。 仏教においては「自分自身を知る」=見性=「悟りを開く」と表現しています。どちらも心的、或は脳科学的には同じ事を表現しています。 脳科学的な言い方をするなら、「自我意識が感じる感情を湧き上がらせている者の正体が分かる事」が自分自身を知るという意味です。この経験以後「心には限り無い静寂が訪れる事」を意味します。この「心の矛盾が解消した心境=境涯を」=「涅槃」(識られざる自分自身の神と和解が成立した事)と言う意味になります。 心を病む場合でも、強迫行為や強迫観念に悩ませられている場合でも、悩み苦しむ場合でも、恐怖症で苦しい想いをする場合でも「いつも自我意識は」心に圧迫を加えられている感覚が在ります、或は「罪悪感」と表現した方が分かる人もいるかも知れません。 これらは全て「自分の脳内に存在する二つの意識の落差、或は、ずれ、或は不信感」を心の矛盾や対立や分裂と言う「漠然とした不安感」として感じている事を意味します。 何処から湧き上がるのかが分からなくて、不安感として、或は罪悪感として感じているという意味ですが、この場合「医師の元に云った場合」薬が処方されます。この薬の効能は「脳梁を介して送られる情報」を送られないようにするか、或は感じないようにするのかと云う事になります。 従って「意志の処方する薬は」その時々において、「時押さえの役割しかしない」ことを意味します、言い換えるなら「根本的な治療には程遠い」と言う意味があります。何故ならば「心が感じる、生き難い想いの原因が分かっていない」と言う意味が在るからです。 人間には顕在意識が在りますが、その他にももう一つ意識(人格)が存在しています、その人格は生まれるや否や「誰に教えられなくとも」既に怖い事も泣く事も笑う事も全て知っているという意味です。 そうして自分が人間と云う事も、悲しい場面では悲しい気持ちになる事も、楽しい場面では楽しい気持ちになる事も「教えられなくとも全て脳内に刷り込まれて」知っている事を意味します。 一切衆生悉有仏性と言う意味は、人間に限らず「全ての命あるものはその生命を授かった瞬間から」その命の働きそのものを生き始めるという意味になります。 蜘蛛にはその働きがあり、カラスにはカラスの働きが在ると言う事です。桜にもその種固有の働きが存在するという意味です。 全ての命には、細胞分裂から始まっている「命の働きを」働く遺伝子か、或は脳内の記憶かを、生命の芽生えた瞬間から持ったままで生まれてくる事を意味します。 言葉にするなら「命そのものの意志」と云う言葉でも可能と感じます。命が芽生えた時には既にそこに存在する者という意味です。生まれた訳では無い事から滅する事もないと言う意味です。言葉を替えて云うなら「永遠の命」と言う表現に鳴ってしまう者の事です。 人間の苦悩とは「心の矛盾」です。二つの意識の落差を、その苦悩の深さとして感じています。自我意識たる人格はは有限の身です。もう一つの意識は「永遠で出来ています」この落差を人間は「一番深刻に悩んでいます」 人間の脳の半分は「永遠の命」で出来ています、もう半分は有限で出来ています。この落差を人間は「心の矛盾」として、「生き難い想いとして感じています」 漠然とした不安とはもう一つの意識との落差を「心の矛盾」として感じているという意味になります。 人間は誰でも脳梁を切断した場合「二つの意識」が存在しています、一つは顕在意識として言葉を持っています。 もう一つは言葉以外の表現方法を取っています。「禅問答」が難解という理由は、言葉以外の思考方法を採る事が出来ない間だけと言う意味になります。 言葉を持たない人間の脳が提出した問題が「禅問答」と言う意味があります。
補足
回答ありがとうございます。 一点質問があります。無意識といいましても、悪さをするものから仏性と呼べるものまで様々あると思います。そのあたりは、どう解釈されておりますでしょうか?
高められた観察力によって、 あらゆる嘘を嘘と見抜いた結果、 明らかとなった真実の姿。 それが仏性であり、神性です。 悉有仏性。 山川草木悉皆成仏。 修行というものは、 煩悩を克服して仏になる為に行うのではありません。 本来、仏ならざるものは無いという、 ただ一つの真理に目覚める為に、 修行をするんです。
お礼
回答ありがとうございます。 為の修行への評価に同意します。
宇宙は神が決めたルールすなわち法則に従って運行されており、 自然も人も動物も神様によって生かされているのだと思います。 神様はキリストやお釈迦様、アラーの神などがあり、細かく言えば 天照大神、阿弥陀如来、大日如来・・・などたくさんあります。 仏様と言うと亡くなった方が仏様になるということを教える宗教も あります。 私は宇宙における真理は1つであり、それぞれ信仰する対象が 違えど神は1つしかないのだと思っています。 また、人間は死んで「仏様」となっても何か子孫や肉親の思いを 叶えるような力などないと思います。すべて神様が行っていること であり、人間は生きていても死んでもそのような力はないのです。 では、なぜ幸せな人間とそうでない人間がいるのか?それは、 神が決めた法則に沿って生きている人間には良い事が、悪い行い や良い行いをしない人間には不都合な事が起きるのです。 それは、今は良くても行い次第では180度変わってしまうことも あるでしょう。ただ、神様は人間をすぐ懲らしめようとしているので はなく、行いが悪いと少しずつサインを送ってきます。たとえば、 つまづいたり、ものを無くしてしまったり。それでも行いを改めない と、最後には病気や事故などにあい、命を落とすこともあるのです。 ちょうど、ハインリッヒの1対29対300の関係に似ています。 自分にとって不都合な事が起きることを神様のサインと考えて、 行動を改めることによって大きな災難から逃れられるかもしれない のです。世の中の事物現象はすべて神様の力で起こっていると 考えて行動すると、自分進むべき道が見えてくるのだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 経験上からも同意できる内容でした。
- pianishimo
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神:少し目立つとなれる。 天皇とか東条英機とか、場合によっては性器の形をした石ころや木でもなれる。 仏:本来は人間がどう生きるべきかを説いた道徳みたいなもの。国家の治安にも利用されたことがある。 死後の世界の事はもともとは言及していない。 要するに、神も仏も本来の趣旨とは関係ないところで、「死後の世界」の事に利用されている。
お礼
回答ありがとうございます。
補足
回答ありがとうございます。 例えて言えば、本自体の潜在的情報の重層性が仏性であり、読み手の読解力の程度が覚性であり、それら全体の仕組みが識であるという認識でよろしいでしょうか?