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なぜ神を勘違いしたままでいるのか?
A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか? A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか? B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか? B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか? B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか? B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか? C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか? C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか? D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか? D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか? 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。 E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか? * ○ (神を哲学する) ~~~~~ §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y=考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X=考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。 人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。 §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の 歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。 これに対する答えは むしろ簡単である。 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。 介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。 いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。 もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。 以上の定義だけの理論は 次が その心である。 吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 ~~~~~~~~~~~~
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こんばんは、ひどっち でございます。 かってながら、(臨時的にではございますが)こちら側に移ってまいりました。 > A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか? 当初はそうでなくとも、知らず知らずの間に、偶像化・崇拝化してしまうものと考えております。下記に示しておりますアリストテレス等もその一例かもしれません。 > B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか? [自然科学とキリスト教] ・宇宙とそのなかのすべてのものは、神によって創造され神によって支配されているという根本的な考え方があった。 ・宇宙や自然を研究すれば、その根底にある原理・秩序を見出すことは、そのまま神の創造の御業の素晴らしさを見出すことができる。 ・さらにそれを人々に知らせれば神の栄光に帰することになる。 近代科学を作り出した人々のなかには、多かれ少なかれ上述のような動機が働いたとされています(定説)。 例えば、ガリレオ(敬虔なキリスト教徒)は宇宙と聖書を同一視し、宇宙を“聖書”とのアナロジーで、いわば第二の聖書のように考えていました。 また、ニュートン(プロテスタント)は、“ダニエル書”や“ヨハネの黙示録”を解釈した独自の終末論を展開していました。ただ、目的論には重きを置いていなかったとされています。つまり、万有引力の法則も、なぜ引力が発生するか、もしくは何のために引力が存在するのかということではなく、どのような法則によって引力が機能するのかということに興味を持ったとされています。その背景には、「神の行い・御業について、人間の持つ理性では理解不能であるという思想を背景としていた」とも言われています。 ではそれ以前はと申しますと、スコラ哲学が主流を占めていました。極論を申しますと、アリストテレスがこうだ、と言えば、それが絶対であるとされていたわけです。 長々と綴ってきましたが、”教義”=”聖書の記述内容”、と致しますと、自然科学の流れを引き継いでいるように推察されます。 > B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか? 宗教=教義(集団)と解しますと、おかしいと考えられます。残念ながら、愚生にはわかりません。 > B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか? 理性万能主義の所産かと存じます。 もはや、率直に“信じる”ということができなくなったのかもしれません。 > C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか? 教団にとりましては、それが都合がよいから、また一方では、人は自由なるものを恐れているからと思われます。 > D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか? D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか? おそらく、これは無心論者に多く見られる傾向かと察せられます。特に、“宗教組織”の失敗(魔女狩り等でございます)に対しまして、少なくとも日本人は嫌悪感を抱いてしまうのかもしれません。もちろん、神=宗教組織、ではないのですが・・・ > E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか? “信じる”という行為が、現代では“愚かなこと”という風潮が、その根底にあるのかもしれません。ヴィトゲンシュタインではありませんが、「神はこの世界にはいない」のですが・・・ 何かご参考になるところがございましたら、幸いでございます。
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こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。ひどっち でございます。 > ☆ この参考サイトの議論に注目しました。わたしの見方に引き寄せてのものですが つぎのようです。 ご紹介いただきまして、どうもありがとうございました。 ☆ 日本社会における《ラべリング》は 次のようではないかとうたがっています。 ○ ~~~~~~~~ > 1. ラべリングや ムラハチブや KY や《異端分子》やの扱いを その管理者の次元ではいっさいオモテに出してはしない。オモテに出すときは アマテラス予備軍――すなわちその管理者になびく一般の人びと――にそれとなくやらせる。軽くやらせておく〔だけとする〕。 憲法下での制約もございますので、あからさまには、おそらくできないという事情もあるかもしれません。 > 4. というような手がひとつ考えられますが もっと問題なのは むしろ初めから敵対する相手をしかるべく決めて はっきりとこちらは追い落とす作戦に出るというときです。 おそらく、事実かと思われます。敵対する相手は、案外偶発的なものにより選ばれるのかもしれません。ですが、決定はされた後は、そのまま作戦に打って出ると思われます。 > 5. そのための手は 案外《不良》の場合に似ています。ただしそのきっかけが違っています。相手に不良事件を犯させるというわけではなく 一般にちょっとした悪いうわさを流したりしてその相手をまづは怒らせることから始めるようです。 はい、悪い噂の出所はもちろん極秘としまして、上述のような“挑発行為”はしているものと考えております。そして徐々にエスカレートさせていくものと思われます。 > 6. 怒らせたなら その手を緩めずなおもむしろ同じ手を使ってますます怒りをたくわえるかたちに持っていく。それは こちらが企んでいると分かられてもよいけれど それをはっきりしたかたちでは示さない。まさにうわさを流すといったように 何となく悪さが仕掛けられているなと分かる程度で しかもそのたくらみとしては 一つひとつ明らかなかたちで行なっていく。 おそらく、はっきりしたかたちでは示さない形でもって、着実に外堀を埋めていく、四面楚歌に陥れていく。このような手口は、もちろん、あろうかと察せられます。 > 7. 途中で じゅうぶん相手が怒ったと見たころ こんどははっきりとそのような悪さないし企みは こちらがやったのだと知らせる。言いかえるとつまり その相手からの何らかの報復を むしろ期待する。 8. つまりは その報復は およそはっきりと危害を加えるというほどの事件になるような中身になると期待している。 “こちらがやったのだと知らせる”、これは親玉よりもその家来たちにさせると思われますが、“報復”、つまり、できれば“明らかな犯罪・反社会的なもの”を期待しているかと考えております。 > 9. この期待が裏切られなければ その或る種の犯罪があったということをもってそのとき初めてきちんと《不良ないし犯罪者》のラべリングをおこなう。 おそらく、その犯罪の一部始終に対しまして、恐ろしいまでの入念な記録をつくっているものと思われます。 > 10. その後は このラべリングをした相手は 活かさず殺さずの状態においておけば 必要なときに何かと人びと一般の敵をこしらえるときに便利な存在となる。大いにこれを活用することができる。 はい、組織内(もしくは社会全体)でのいざこざがあった場合にでも、その相手を仮想敵国のように仕掛け、矛先をそちらに向け、利用するという方法はよく採られるものと推察しております。 > 11. その相手は 怒りを行為には表わさなかったとしたら どうか?――失敗である。ほかに色仕掛けという手もあるが だいたいにおいて失敗である。 いかなる挑発にも乗らなかったならば、美人局。ですが執拗なもの達は、意外と単純には諦めてくれないとはおもっておりますが・・・ > 13. 簡単な日本式アマテラス管理理論でしたが ここでは《悪魔》論は むしろないと考えられるのではないだろうか。アマテラス普遍抽象語による教義や規範が登場するのではなく アマテラス秩序体制が 或る種のラべリング理論として――いくつかの既成のラベルのもとに秩序を保とうとする共同自治理論として――考えられていまいか? > 14. この日本方式にも悪魔論がもしあるとすればそれは すでに――何ものか抽象普遍としての・社会の統合たるしるしとしてのアマテラシテのもとに――ラべリングが成され終わっていて・という意味で《審問》が終えられていて その階層秩序を守ることが 求められている。 はい、全く意見を等しく致します。“秩序体制の維持”を第一と考えていると推察しております。 > 15. 彼の地での火あぶりの刑は こちらでの《干されること》である。この社会秩序や組織秩序に従いたくないなら お前の好きな階層に行けばよいと突き放すことである。それがいやなら いまは当分干されたままに大人しくしていろと。 《干されること》が一番近いと思われます。ですが、仮に別の階層に突き放したとしましても、また別のものをターゲットとしていくものと考えております。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
当たらずと言えども遠からじ でしょうか。 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ひどっちさんは 社会の秩序をつかさどるお偉方たちは それほどあきらめが早いとも思われない。その欲において淡白だとは考えにくい。ゆえに しつこく迫り狙った相手は逃さないであろうとお考えですね。 島田紳助の事件もありました。 フジテレビ系「とくダネ!」の小倉智昭キャスターが 暴力団を擁護するような発言をしたとのニュースもありました。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110826-00000001-jct-soci 風通しがほんのちょっとでもよくなればよいがと思います。 今回は ネタが切れたみたいです。エアポケットにはまったみたいですね。 たまには こういう場合もあると見ておきます。
- BuffaloAndJtp
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気付いた重要な内容が御座いまして、御意見を伺いたくなりましたので、私の質問の展開の中でも触れましたが、此方にも同一の内容を綴らせて頂きます。 つまり、たとえ『受け入れられるべき境遇への納得が難しい』と感じられましょうとも、【疑われ得ない真実(イデア)】が目の前に立ちはだかっているのでしたら、信じられずとも【(疑わない)容認】が可能なのではないでしょうか?
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 【疑われ得ない真実(イデア)】が目の前に立ちはだかっているのでしたら、 ☆ この場合《立ちはだかる》と言っても 特に妨げになっているのではなく ただ目の前に横たわっている(つまり 見えている)という状態を言うのだと解します。 それはそれとしまして 問題は ★ イデア ☆ ここにすべての誤解の出発点があるように考えます。 ○ ヒラメキは イメージとしての直感から何らかの言葉を介する直観――つまり或る種のさとり――にまで熟すれば すでに言葉であり概念であり観念にもなり得て たしかにイデアにまでつながることがあり得ます。あり得ますが 基本的には イデアとは別だと捉えたほうがよい。 ☆ こう考えます。 どういうことか? イデア論への批判として言えば ○ ヒラメキは 思考やその行為において得られる理解を超えている。つまりその意味で ヒラメキは(信仰はという意味に取っていただいてよいと考えますが) イデアを超えている。もしくは イデア論とは別である。 ☆ こう考えます。 どういうことか? ○ ~~~~ 1. 或る晴れた日 ふと《わたし》の心の窓をノックする者がいる。指の先で触れられたような感覚をおぼえた。たとえば良い香りがするような感覚であったとする。 2. そこでわたしは このおとづれた者を心に受け容れた。ようこそお出でいただきましたと。 3. 非経験の神を信じるというのは これだけの行為です。非思考の庭が わがこころに成ると表現しています。 4. このノック事件は いったいどういうことだったのか? これは 信仰が成立したそのあと 思考においてあれこれ考え整理しつつ理解しようとすることです。 5. その段階で 思考なり観念なりイデアなりが持たれます。 6. たとえば《神》とか《愛》とか《慈悲》とか《真理》とか まして《正義》とかのイデアが どこかにそのモノとしてあって 人がこれをやっと捉えて心に受け容れるといったことではまったくありません。 7. そういうイデアの方程式が仮りにあるとしたら――あると主張すること自体は自由ですから あるとしたら―― それは けっきょくすべてが思考(われ考える)ないし精神の領域におさまっていますので すべてが経験行為であり 内容として倫理思想であったりその種の修行のための哲学行為であったりするのだと見ます。 8. すなわち イデアもマテリアも 非思考なる信仰とは その源において別です。 9. そうしますと けっきょく神にかんするかぎり・ということは信仰にかんするかぎり 条件は一切無しとなります。 10. ★ たとえ『受け入れられるべき境遇への納得が難しい』と感じられましょうとも、 ☆ というときの条件は 信仰の成立にとって 先立ちません。 11. ★ 【疑われ得ない真実(イデア)】が目の前に立ちはだかっているのでしたら、 ☆ という条件を問いません。 12. ★ 信じられずとも ☆ という条件は この《信じる》が たぶんやはり《イデア》のような思考における確実な何ものかにその初めからかかわっているという前提を匂わせていますから やはり要りません。 13. ★ 【(疑わない)容認】 ☆ 《容認》もしくは単純に《受け容れる(つまり はっきりするように言えば 領収証を切る)》というのは そのとき非思考ですから・思考を伴なっていませんから(えいやっと決める賭けのような行為ですから) 《疑う・疑わない》とはかかわっていない。こう言わなければならないと考えます。 ~~~~~~~~~ ☆ イデア論は 《われ考える》を重んじるというだけではなく それよりは特に精神を――精神主義といった極端な主義主張においてではなく――とうとぶというふつうの思想において 一般に人びとに受け容れられていますから なかなかこれを 信仰論においてうっちゃることはむつかしいのかも知れません。 けれども 《経験世界およびその経験思考》とそして《非経験のナゾおよびそれの非思考における受け容れである信仰》とは 厳然と峻別しなければ話は始まらない。これが この質問のひとつの焦点であると思います。 相対性の経験世界において 人間の思考能力によって――たとえそれが有限なものであっても なお限りなく尽力するかたちにおいて――すすむといういわゆる無神論の信仰があるのだと思います。 ただしこの無神論は 非思考のナゾを想定しているという前提を忘れているのだと考えます。これも 有神論とまったく同じ形態において 信仰であるということをです。 なぜなら 人間存在と経験世界とは 有限だとすでに誰もが認識しています。この有限の世界を超えたところの何ものかについては 思考は及ばないということ。 思考を超えてしまっているナゾに対しては それは無いと想定するか 有ると想定してこれを心に受け容れるか どちらかの道があるというかたちです。 無神論と有神論とです。どちらも 非経験の領域について あくまで思考を超えて 有るか無いかを想定しただけのことです。ゆえに どちらも信仰であり 互いにまったく同等であり対等です。 こういった問いを問うています。
こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。ひどっち でございます。 > ジャンヌ・ダルクの記事の中から さらに抜き書きをしておきます。 ▲ (ヰキぺ:ジャンヌ・ダルク) ~~~ 詳細なるご説明を賜り厚くお礼申し上げます。 > ☆(5)では 一たん悔悛し改宗したのですね。極刑は免れたとか。 そのようにきちんと《審問》の内容ないし結果が決められているというのも 何ともおかしく感じます。空想をあつかっているわけですから。 はい。悔悛し改宗を誓ったことにより、極刑は逃れることができました。ですが、以下の2点の罪で死刑が確定されたとされています。 ですが、 イングランドの強引な介入に反発を示す者も少なからずいたためでしょうか、敵国の軍人でもあり、またジャンヌダルクによりそれなりの損失を被ったにも関わらず、即極刑にならなかったのがある意味不思議でございます。 これは逆説的でございますが、『《審問》の内容ないし、その結果が厳密に決められていた、もしくは(反発者により)求められて」ため、即処刑されずに済んだのかもしれません。 ですが、以下の行為により極刑は避けられなくなってしまうのですが。 ・男装という不当な行為をした ・教会を経由せず、直接、神と対話したと信じた > (4)では 《声》の正体を突きとめようとしています。遅れてるウって感じです。中世が闇の世紀だというのは もう古い見方ですが それにしても古代市民のほうが こんな話には笑ってしまうのではないかと思われます。天使を特定するとか いや それは森の精霊であるとか。 もはやスコラ哲学も下火になっておりましたし、コペルニクスが生まれたのが1473年ということを鑑みますと、確かに古さを感じさせられます。 > (2)の言うように《声》の内容を果たしたあと おっしゃるように権力闘争に翻弄されることになったのですね。 はい、そのようになってしまいました。十代の一女性に過ぎなかったため、とても酷だったかと思われます。 > (4):ジャンヌは悪魔崇拝や神の冒涜を犯した異端者であると結論づけられた。 ――なのですね。《悪魔論》は 絡んでいます。つまり 領主ら為政者の次元では 聖職者を巻き込み はっきりと《教義》の問題としても推移しているようです。 はい、そのように解することが可能と考えられます。 > ということは 民衆レベルの排除運動とは別の動きもあったということかも分かりません。 はい、民衆レベルの問題ではないものと考えております。身内に裏切られ(援軍要請が却下されました)、しかもジャンヌダルクが支持したシャルル7世にも疎まれ(イギリスに身代金を払えば済んだ話だったのですが)、全く不運だったかと思われます。 > あるいはつまり どのレベルの動きにしても その普遍抽象の規範のようなものとしては 悪魔論というアマテラス語教義があったとも考えられて来ます。ちょっと勇み足で考えてみました。 はい。 一種の”ラベリング論”にも通じるところあるのかもしれません。まだ、頭の中で整理ができておりませんが・・・ 参考:http://allabout.co.jp/gm/gc/294049/ 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ > あるいはつまり どのレベルの動きにしても その普遍抽象の規範のようなものとしては 悪魔論というアマテラス語教義があったとも考えられて来ます。ちょっと勇み足で考えてみました。 はい。 一種の”ラベリング論”にも通じるところあるのかもしれません。 ~~~~~~ ☆ この参考サイトの議論に注目しました。わたしの見方に引き寄せてのものですが つぎのようです。 ▲ (逸脱行動論とラベリング理論) ~~~~ 「予言の自己成就」 とはいえ、殺人のような犯罪を犯した者は、えん罪などではない限りその犯した罪によって「殺人者」というラベリングをされてしまうわけですから、仕方がないといえます。 しかし、そうではないラベリングによって、殺人者を社会が作ってしまうことも考えられるわけです。 つまり、ちょっと悪いことをした少年に「不良」というラベリングをしてしまう。最初はそれをはがそうとしても、うまくいかず、やがてあきらめて本当に不良少年になってしまうということです。 これが「予言の自己成就」、つまりラベリングの通りの人間ができてしまうという理論です。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 日本社会における《ラべリング》は 次のようではないかとうたがっています。 ○ ~~~~~~~~ 1. ラべリングや ムラハチブや KY や《異端分子》やの扱いを その管理者の次元ではいっさいオモテに出してはしない。オモテに出すときは アマテラス予備軍――すなわちその管理者になびく一般の人びと――にそれとなくやらせる。軽くやらせておく〔だけとする〕。 2. 言いかえると その異端分子を上にある者としては 泳がせておく。好きなように行動させておく。ということは すでにウラでは ラべリングを済ませてしまっているとも見られる。 3. 《不良》というラベルを オモテ立っては貼らないけれど ウラでは監視をつづけているというとき そのような注意を持つことになったきっかけとしての初めの不良事件をもしふたたび犯すことがあったなら そこからは 公私ともどもウラオモテ一体の監視体制に入る。 4. というような手がひとつ考えられますが もっと問題なのは むしろ初めから敵対する相手をしかるべく決めて はっきりとこちらは追い落とす作戦に出るというときです。 5. そのための手は 案外《不良》の場合に似ています。ただしそのきっかけが違っています。相手に不良事件を犯させるというわけではなく 一般にちょっとした悪いうわさを流したりしてその相手をまづは怒らせることから始めるようです。 6. 怒らせたなら その手を緩めずなおもむしろ同じ手を使ってますます怒りをたくわえるかたちに持っていく。それは こちらが企んでいると分かられてもよいけれど それをはっきりしたかたちでは示さない。まさにうわさを流すといったように 何となく悪さが仕掛けられているなと分かる程度で しかもそのたくらみとしては 一つひとつ明らかなかたちで行なっていく。 7. 途中で じゅうぶん相手が怒ったと見たころ こんどははっきりとそのような悪さないし企みは こちらがやったのだと知らせる。言いかえるとつまり その相手からの何らかの報復を むしろ期待する。 8. つまりは その報復は およそはっきりと危害を加えるというほどの事件になるような中身になると期待している。 9. この期待が裏切られなければ その或る種の犯罪があったということをもってそのとき初めてきちんと《不良ないし犯罪者》のラべリングをおこなう。 10. その後は このラべリングをした相手は 活かさず殺さずの状態においておけば 必要なときに何かと人びと一般の敵をこしらえるときに便利な存在となる。大いにこれを活用することができる。 11. その相手は 怒りを行為には表わさなかったとしたら どうか?――失敗である。ほかに色仕掛けという手もあるが だいたいにおいて失敗である。 12. あるいはつまり いわゆる暴力団という存在は きちんと当局の管理のもとに置かれて接触があるかたちとなっている。これは すでに社会の約束としてラべリングをしてしまったかたちを取っており 《予言の自己成就》がすでに成った段階から むしろ制度として 始まっている。 13. 簡単な日本式アマテラス管理理論でしたが ここでは《悪魔》論は むしろないと考えられるのではないだろうか。アマテラス普遍抽象語による教義や規範が登場するのではなく アマテラス秩序体制が 或る種のラべリング理論として――いくつかの既成のラベルのもとに秩序を保とうとする共同自治理論として――考えられていまいか? 14. この日本方式にも悪魔論がもしあるとすればそれは すでに――何ものか抽象普遍としての・社会の統合たるしるしとしてのアマテラシテのもとに――ラべリングが成され終わっていて・という意味で《審問》が終えられていて その階層秩序を守ることが 求められている。 15. 彼の地での火あぶりの刑は こちらでの《干されること》である。この社会秩序や組織秩序に従いたくないなら お前の好きな階層に行けばよいと突き放すことである。それがいやなら いまは当分干されたままに大人しくしていろと。 ~~~~~~~~~~~ ジャンヌ・ダルクは 出ないでしょうね なかなか。どうなんでしょう。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > (1) 共同自治における排除の問題 そして(2) この排除が 異端あるいは異教徒といった異者を相手にするとき 排除に理論があって正当化されうると言うかのように 裁きというかたちを取るという問題 さらには(3) その理論に悪魔論が使われることがあるという問題。 でしょうか。 あるいはそして 主体は 大きくは三者になりましょうか。 民衆と 領主らの為政者と 組織宗教ないし聖職者。 はい、定説が存在しないことを鑑みましても、相当複雑もしくは各地域により背景がかなり異なったものであったように考えられます。 > あるいはそして いじめ論や排除論と 悪魔論とは たしかに別だと見られますね。 幾分、いじめ論に近い可能性はございますが(転校生等、外部からの影響を阻止し、いじめることによって、従来の仲間でうまくやっていこうとする)、仰られますように、別と考えるのがよろしいかと思われます。 > そうですね。いづれも大きな主題で どうしましょう。この質問においては質問者は 受け身でいましょうか。こちらが展開するかたちを取らないで。 申し訳ございません。勝手に愚生の方が出しゃばってしまったようでございます。まずは、以下のご質問にご返答していきたいと思います。 > スペインでは 少々茶化した言い方をしますが ヤハヱーとキリストとアッラーとが入り混じっているという情況だったのでしょうか。上のいろんな視点や論点が もろに詰まっていたということのように見えます。 セルビア大聖堂(世界で3番目に大きな大聖堂なのだそうです)も、モスクを改造してつくられたそうでございます。おそらく、イスラムの痕跡を残したくはなかったものと推察しております。ですが、アルハンブラ宮殿は、当時の面影をある程度残しているようでございます(かなりの改修が施されたようでございますが)。 > かのジャンヌダルクは どうなんでしょう? 悪魔と見なされ 火あぶりの刑に処されたというのは 単なる伝説であって 史実ではないのでしょうか? 気になることが 出ては来ますね。 おそらく、史実かと存じます。百年戦争(1337-1453)という複雑な戦争の中(基本的には英仏戦争なのですが、両国国王はフランス語を話してましたし、戦争初期では、ローマ法王はアヴィニョン捕囚で実施的な権限は制限されていた状況だったかと記憶しております)、そんな中、権力闘争に翻弄された一女性だったかと思われます。 ブルゴーニュ派のフィリップにより、彼女に恨みを持つイギリス軍に金貨2万で売り飛ばされ、14回にもわたる異端審問を受け、1431年に火刑にされたといわれています。 ただ、その後は、ローマ法王カリストゥス3世は裁判のやり直しを命じ、1455年、ジャンヌの復権裁判が行われ、1456年、ジャンヌが火刑にされた地であるルーアン(セーヌ河河畔の都市)にて、処刑裁判の破棄が宣告されたそうでございます。 そして、20世紀(1920年)になって守護聖人に列せられることになりました( 長年忘れられていたジャンヌを国民的ヒロインとして広報したのはナポレオンだと言われています)。 「点火されるまでのジャンヌは「神様、神様」と泣き叫んでいたが、火の勢いが強くなると「全てを委ねます」といって無反応になったと記録されている。 <中略> ジャンヌは死してなお、性器を晒されるという女性としての屈辱も受けたのである。その後約4時間をかけて燃やされたジャンヌの亡骸の灰は、セーヌ川に流された。」 (Wikipedia ジャンヌダルクからです) 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。 ジャンヌ・ダルクの記事の中から さらに抜き書きをしておきます。 ▲ (ヰキぺ:ジャンヌ・ダルク) ~~~ (1)ジャンヌは1425年、初めて「声」を聞いたとされる。 後の処刑裁判での答弁によると、聖女カトリーヌとマルグリット、そして大天使ミカエルの声であったという。 (2)ジャンヌの神託であるオルレアンの解放とランスでの戴冠式の両方が成し遂げられたことになる。 (3) 1431年2月21日、ルーアンで異端審問裁判が始まる。 (4) 審理の大きな争点はジャンヌが聞いたとする声の正体だった。 ジャンヌは声の主を天使である聖カトリーヌ(カタリナ)、聖マルグリット(マルガリタ)、及び聖ミシェル(ミカエル)だと主張したが、審理の結果それは森の精霊であり、ジャンヌは悪魔崇拝や神の冒涜を犯した異端者であると結論づけられた。 (5) 5月24日、サン=トゥアン修道院の仮設法廷で判決が言い渡され、ジャンヌは火刑に処されるはずだったが、判決読み上げの途中でジャンヌは異端であることを認め、教会に指示に従って改宗することを告げた。この時ジャンヌが署名した誓約書は読み聞かされた内容ととラテン語の正式の文面は大きく違っていたと言われる。ジャンヌは改宗に応じて悔悛したため極刑は免れ、永久入牢とされた。 ~~~~~~~~~~~ ☆ (5)では 一たん悔悛し改宗したのですね。極刑は免れたとか。 そのようにきちんと《審問》の内容ないし結果が決められているというのも 何ともおかしく感じます。空想をあつかっているわけですから。 (4)では 《声》の正体を突きとめようとしています。遅れてるウって感じです。中世が闇の世紀だというのは もう古い見方ですが それにしても古代市民のほうが こんな話には笑ってしまうのではないかと思われます。天使を特定するとか いや それは森の精霊であるとか。 (2)の言うように《声》の内容を果たしたあと おっしゃるように権力闘争に翻弄されることになったのですね。 (4):ジャンヌは悪魔崇拝や神の冒涜を犯した異端者であると結論づけられた。――なのですね。《悪魔論》は 絡んでいます。つまり 領主ら為政者の次元では 聖職者を巻き込み はっきりと《教義》の問題としても推移しているようです。 ということは 民衆レベルの排除運動とは別の動きもあったということかも分かりません。 あるいはつまり どのレベルの動きにしても その普遍抽象の規範のようなものとしては 悪魔論というアマテラス語教義があったとも考えられて来ます。ちょっと勇み足で考えてみました。 たぶんもっと広いフィールドワークにもとづいて捉えなければならないのでしょう。 といったふうに思いました。
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有り難う御座います。 前回の私の回答では、説明が不足し過ぎていましたので、申し訳無く思われましたから、反省の意図をも込めまして、再度の投稿を試みますが、御容赦を御願い申し上げます。 先ず、少なくとも、現代の欧米人達は(家族の中でも)『御互いへの信頼度』を言葉に翻訳し続けていたがる様ですので、真実在への態度さえもが大袈裟になりやすいですよね。 でも、人類が【本来の健康的な感性】を取り戻す際に、 果たして『信念の内在への自覚』が必要になっているのでしょうか? 矢張り、たとえ信念を知りませんでしても、若し真実在への疑念が沸き起こっていませんでしたら、【大乗の船】への搭乗を許可して貰えるのではないでしょうか?
お礼
ばっふぁろうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ちょうど過去の質問を見ていたら 同じような趣旨のやり取りがあったのを見つけました。 まづそれを掲げてみます。 ○ 【Q:滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6646197.html ● (ANo.5 TheGoodSmell さん) ~~~~~ 和らがしめられている我々の状態は良い香りになっているので、 尊しと為さずとも、平等に、 大乗の船への搭乗券を割り当てて貰えそうでしょうか? (投稿日時 - 2011-04-08 01:48:22) ○ (お礼=ぶらじゅろんぬ ) ~~~~~~~ よいかおりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 和らがしめられている我々の状態は良い香りになっている ☆ ということは ★ 大乗の船への搭乗券を割り当てて貰え ☆ ただけではなく すでに 搭乗しているということでしょうね。 (投稿日時 - 2011-04-08 03:57:07) ~~~~~~~~~~~~~~~ ですから わたくしの考えでは: 1. まづすでに――前回のアダムとエワの話のあと 個人的な見方によりますが キリスト・イエスが歴史に登場したということ・それだけにおいて―― 人びとは・いえ人類はみな《マハーヤ-ナの船に搭乗してしまっている》と見ます。 2. その航海において 個々にボートを出して漕ぎ出す人びとも現われるとすれば 順風満帆の日々もあれば 嵐の中を航かねばならないときもある。 3. よって経絡と心の状態とが たぶん相互作用するかたちにおいて 順調なときもあれば失調する場合もある。 ★ 【本来の健康的な感性】 ☆ を見失ったり 見失うだけではなくそれに傷をつけたりして遠ざかってしまう場合も出て来る。 4. そういうときには 或る日或る時ヒラメキとともにその感性を取り戻す。というのが 基礎にある基本的な方程式ではないかと見ます。 5. ヒラメキは 実際においては一般におのれのあやまちに気づいたときに来ます。《われあやまつなら――そのあやまちに気づき〈われに還り〉―― われあり》という事件として起こるはずです。身も心も 感性も 自然本性としてよみがえります。 6. もしこの方程式によるとしますと ★ 果たして『信念の内在への自覚』が必要になっているのでしょうか? ☆ の問いに対しては 否 そのような自覚や信念やあるいは思考または修行などなどはいっさい要らない。という答えになります。 7. ★ 矢張り、たとえ信念を知りませんでしても、 ☆ われに還ることは出来ると見ます。ただし 8. ★ 若し真実在への疑念が沸き起こっていませんでしたら、 ☆ というこの条件さえ要らない。こう考えます。無条件でヒラメキは 《わたし》に来ます。 9. ★ ~~~~ 先ず、少なくとも、現代の欧米人達は(家族の中でも)『御互いへの信頼度』を言葉に翻訳し続けていたがる様ですので、真実在への態度さえもが大袈裟になりやすいですよね。 ~~~~~~~~~ ☆ これについては まづ《大袈裟になりがち》なところは 実際の事実だとわたしも見ます。 ただし 互いの信頼関係を 確かめ合うかどうか。その必要があるかどうか。その確かめのためにいちいち言葉に出して言わなければならないのかどうか。――これについては どっちもどっちではないでしょうか? 10. どちらでもあり だと思われます。《大袈裟な態度や表現》は われわれにはごめんだという感じが強いですが それはそれぞれの社会としてのナラワシの違いだと思われます。 11. いちいちわざわざ言葉にして口に出して自己表現するかどうか これは どちらであっても ヒラメキの起こることについて妨げにはならないと考えます。 12. 大乗の船は あまりにパーフォーマンスや個人プレーに走ると もうおまえは船から海の中へ放り出すぞとは言わないと思います。 13. むしろあまりにものタコツボ型の寡黙に対しては 船をゆすって船酔いにでもさせて 分かったか? おまえはもっと自己表現をするようにしなさいと叱咤するのではないでしょうか? 14. とは言え 自己表現のあり方については 言語の類型に応じて――たとえば英語と日本語の類型的な違いに応じて――違いが出ているとも考えますが それは ここでは触れません。 何か言い落としているようにも感じますが ひとまづお返ししましょう。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > ★ そこで、もしかしますと、一種の“スケープゴート”にされたのではないかとの疑問はもち続けておりました。そして、単に権力者の意向のみで裁判にかけられたものでもないとも思えてきました。 ☆ ううーん。だとしますと 広い意味でのムラハチブだと考えられませんか? それに姥捨て山のごとく処置(処刑)がくわわったかたちにおいてです。 はい、そういうことになろうかと存じます。少数の排除が、その集団の安定化に寄与するものと考えていた人達がいた、ということが実際にあったものと考えております。 > つまり それでしたら 信仰に〔かかわっているでしょうけれど 社会現象としてだけ見れば〕関係なく 共同自治の問題であるとなると考えます。 ただし 魔女を悪魔に――まったく形式的にだけとしても――関係づけているのならば やはりローマ教会は 見解を出すべきだと考えます。 自治問題も多分に含まれていると考えております。小領主が特に天災、つまり飢饉や疫病による民衆の底知れぬ不安、さらには暴徒の沈静化に対しましては、なす術がなかったため、あえてスケープゴートを求めたとも考えております(大きな連邦型の領主ではほとんど魔女狩りはなされなかったことからも、それが支持されるかと考えております)。 > スペインの異端審問の歴史において途中でその《回勅》というのですね それを出していると分かりました。 ▼ (ヰキぺ:スペイン異端審問) ~~~ § スペイン異端審問の変遷 1484年に死去したシクストゥス4世の後を継いだインノケンティウス8世は2度にわたって回勅を発布し、スペインにおける異端審問の行き過ぎを批判し、被疑者への寛大な措置を願っている。 そもそも異端審問のシステムにおいては裁くのは教会関係者であっても、処罰を行うのは世俗の権力であるのが通例であった。 ~~~~~~~~ ☆ ここだけから判断するなら やはりその内容は《裁きについての是非としての見解》ではないようにも 残念ながら うかがえるかも知れません。 《行き過ぎを批判》なら 行き過ぎなければよいとなります。 はい、全く正論かと思われます。なぜ、行き過ぎでなくとも、魔女狩りが実施されたのかは断定できないのですが、おそらく、ヴァチカンの弱みを握っていたものと思われます。 「フェルナンド2世にとって国内の一致のためにも、表面上はキリスト教に改宗しながら実際には自分たちの信仰を守っていたモリスコ、コンベルソの存在が邪魔なものになっていた。フェルナンド2世は異端審問のシステムを用いれば、これらの人々を排斥し、政敵を打ち倒すことができると考えた。」 「「もっともカトリック的な王」という称号とは裏腹にフェルナンドは教皇を徹底的に利用し、教皇に対しては従順を装いながらも強圧的に臨んでいた。教皇がフェルナンドの要求を断れなかった背景には当時の地中海情勢がある。勢い盛んだったオスマン帝国がギリシアを支配下においてイタリア本土を脅かし始めたのだ。」 (Wikipedia スペイン異端審問 からです) ヴァチカンの肩を持つつもりはございませんが、スペイン国王は、教皇の足下を見ていたものと考えられます。そして、国内での権力を得ようとしたものと考えております(コロンブスがスペインの力を借りて、新大陸を発見したのは1492年のことでしたから、相当の力を持っていたことが伺えます)。 > 《処罰は世俗の権力が行なうのであって 異端審問の制度において裁くのは 教会関係者である》のならば その《裁く》という行為の問題が いちばんであると考えます。 悪魔ではないかと思ってしまうことと 悪魔として裁くこととは 別だと考えますから。 はい。たとえ、スペインとの関係には妥協せざるを得なかったとしましても、《裁く》ことを拒否し続けるべきであったと考えております。 > ★ ~~~~ 愚生も、宗教の教団化・組織化には、反対でございます。 ご質問者様の質疑に回答するのは、一回答者と致しまして義務と考えております。従いまして、また、何かございましたら、引き続きお願い致します。 ~~~~~ ☆ 二点 いづれにつきましても ありがとうございます。 宗教の組織化につきましては、進行の形骸化を招く結果となりますため、反対なのですが、ただ、魔女狩りにつきましては、可能な限り、事実を突き止めたいという想いから、回答させてもらっております。 > ★ あまりにも人気(?)がありすぎ、ヴァチカンとしましても当惑しているようでございます。 ☆ せっかくですから 挙げてくださった記事を掲げておきます。 どうも、ご説明賜りまして、厚くお礼申し上げます。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
(1) 共同自治における排除の問題 そして(2) この排除が 異端あるいは異教徒といった異者を相手にするとき 排除に理論があって正当化されうると言うかのように 裁きというかたちを取るという問題 さらには(3) その理論に悪魔論が使われることがあるという問題。 でしょうか。 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。 あるいはそして 主体は 大きくは三者になりましょうか。 民衆と 領主らの為政者と 組織宗教ないし聖職者。 あるいはそして いじめ論や排除論と 悪魔論とは たしかに別だと見られますね。 そうですね。いづれも大きな主題で どうしましょう。この質問においては質問者は 受け身でいましょうか。こちらが展開するかたちを取らないで。(もったいぶっているように見えるとしたら それは違うのですが。つまりただちにその展開の用意があるのではありません)。 スペインでは 少々茶化した言い方をしますが ヤハヱーとキリストとアッラーとが入り混じっているという情況だったのでしょうか。上のいろんな視点や論点が もろに詰まっていたということのように見えます。 ここは わたしは受け身でいますとすれば それにしても かのジャンヌダルクは どうなんでしょう? 悪魔と見なされ 火あぶりの刑に処されたというのは 単なる伝説であって 史実ではないのでしょうか? 気になることが 出ては来ますね。 今回 こんな感じでお受け取りしました。どうでしょう。
- BuffaloAndJtp
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考えさせて頂ける機会に恵まれています事情に感謝を致しまして、度々ながら畏れ入りますが、続きの投稿を致します。 そもそも、現代の地球の人類の殆どが言語を習得した途端に、其の言語(認識・記録・伝達)によって一生を支配されざるを得なくなりますよね。 でも、そうは申しましても、何かを信じる場合にも我々は其の言語を利用していますので、其の言語の価値を訝れる別手段・比較対象群を外部から獲得しませんと、其の言表内様の真贋を(比較的に)公正に評価することは難しくなるのでしょう。 従いまして、自分達の【母語(敢えて『母国語』に致しませんでした。)】を幼児期に覚える際に、たとえそれの価値を信じる技術を私達が備えていませんでしても、其の言語の価値への【疑念】を抱かずに、私達は周囲の共同体から其の言語を学んでいきますね。 そして、其処からも窺われます通りに、極限的な真実在への帰依の場合にも、本来的には、信じずとも絶対者の事を疑っていませんでしたら(比較的に)適切な関係が成り立っていたのではないか、と思われますし、若し経絡的に完璧な健康状態が取り戻されましたら、言語思考等の『あらゆる欲望・情動からの解脱』が人類によって果たされ得る(※1)のですから、そういう意味でも、信じる行為は【天地人の一体化】の必要条件にならないでしょう。 ※1 大阪府八尾市では、15年以上もの期間に渡りまして、複数名の方々が食事を為さらずとも病院に掛からず健康的な生活を営まれていまして、特に有名な鍼灸師の女性は、そういう栄養状態の下にいらっしゃいながらも、フルマラソンを好タイムで完走なさり続けています。 http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%A3%AE%E7%BE%8E%E6%99%BA%E4%BB%A3%20%E7%94%B2%E7%94%B0&sp=1&aq=-1&ei=UTF-8&fr=sb-kingbrw1&SpellState=
お礼
ばっふぁろうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 今回は 決まった主題です。その意味では 簡単だと考えます。 ★ 極限的な真実在への帰依の場合にも、本来的には、信じずとも絶対者の事を疑っていませんでしたら(比較的に)適切な関係が成り立っていたのではないか、と思われますし ☆ これは 《エデンの園におけるエワとアダムが 食べないようにと禁じられていた善悪を知る木から採って食べた。そのあと 二人に死を死ぬことが現われた》の物語が扱っています。 要するに 人は 誰もが物ごころがついてから 一度はウソをつくという話だと思われます。 みづからの心〔の思い〕に逆らって何かを思ったり言ったり行なったりするウソ・イツワリです。このように《へそを曲げること》を起こすので ★ 絶対者の事を疑っていませんでしたら ☆ という条件――つまりそのような生まれてからの身と心の状態――は 破れている。こう考えます。 アダムもそしてエワも その木から採って食べたあと 或る日の風の吹くころ 《アダムよ きみは どこにいるのか?》といった声を聞いた。そのように ウソをおこなったことを悔いるということが起こった。 したがって ★ 本来的には、信じずとも ☆ よかったのでしょうが そうは行かないというのが いわゆる自由意志の問題です。 心に従う自由意志もあれば それに逆らう自由もあるというのが 人間の生まれたままの自然本性である。こう考えます。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > 魔女とされたなら もうその窮地を抜け出す道はなかったという話として聞いていました。 体に重石をつけて川に放り投げる。もし浮き上がって来なければ それが魔女として正当にも処罰を受けたという証拠だと見なされた。 つまりこのことは 被告に少しでも弁解の余地を与えようとしてのことに見えて じつは 死をまぬかれる余地は残っていなかったのだと。 すなわち もし仮りに万が一川に投げ入れられても浮き上がって来たなら それは それこそが魔女の使う魔法なのだと見なされ やはり魔女であることが立証された。ゆえに 処刑だ。となったのだと。 お示しになられましたことは、一般的に流布している説と思われます。愚生も以下の書籍を読むまでは、残虐極まる汚点と考えておりました。 浜本隆志著「魔女とカルトのドイツ史」講談社 をざっくりとではありますが、読んだことがございました。そこでは、“穀物の収穫の減少と魔女狩りの件数に相関関係が見られる”ことが記載されておりました。そこで、もしかしますと、一種の“スケープゴート”にされたのではないかとの疑問はもち続けておりました。そして、単に権力者の意向のみで裁判にかけられたものでもないとも思えてきました。 最近の調査でも、このことが示されつつあるのを鑑みますと、魔女狩りの残虐性が誇張された背景には、“キリスト教批判”、“女性差別運動”があったものと推察しております(犠牲者の約9割が女性とされています。因に、密告者の9割も女性であったとされています)。 > ~~~~~~ ただ、上述のスペインのように、為政者が積極的に魔女狩り(異端者の排除)を進めたこともあり、政治的な問題も多分に含まれておりました。従いまして、「《裁き》の回避」は簡単ではなかったようにも見受けられます。 ~~~~~~~ ☆ 《裁き》についての見解を発表するだけでもしておけば ローマ教会という存在は まだ歴史において意義を持ち得たという見方です。 ヴァチカンとしては、断固とした“声明”を発表しておくべきだったと思われます。 なお、余談ではございますが、当時の列強国スペインを陥れるための政治的陰謀も見られた可能性もあるようでございます。 「最新の研究によれば、スペイン異端審問において12万5千人近くが裁判を受けたが、実際に死刑を宣告されたのはそのうち1200人~2000人程度で、ほとんどの被告は警告を受けるか、無罪が証明されて釈放されたとされている。どうやらスペイン異端審問には(スペインを批判するために用いられた)「黒い伝説」の一部として、誇張され過大に語られてきた部分もあると見られる。」 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F からでございます。) > ○ ガリレイやニュートンら ☆ については けっきょく一人ひとりにかんして そのそれぞれの信仰の姿勢を――もし他人からでも見ることが出来るものならば――見つめて 何らかの評言をあたえることになると思いました。やはり宗教一般の観点を持ち出しても それほど(もしくは ほとんど)生産的ではないようだと。 宗教一般的観点から致しますと、仰られますように、生産的ではないものと思われます。 > いやぁ けっきょく教会の非をなじったわたしのあやまちを正しさらにそれを受けてまとめてくださいましたのに それに対してもかえって食いついています。食い下がっているのではない。つまり 議論を尾を引かせるように話を引っ張っているのではないとは思っていますが。 愚生も、宗教の教団化・組織化には、反対でございます。 ご質問者様の質疑に回答するのは、一回答者と致しまして義務と考えております。従いまして、また、何かございましたら、引き続きお願い致します。 > 聞くところによりますと いまでもローマ教会には 悪魔憑きを治す悪魔払い(エクソシスト)がいるそうですね。 あまりにも人気(?)がありすぎ、ヴァチカンとしましても当惑しているようでございます。 参考:http://mediasabor.jp/2008/01/post_305.html 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。 ★ そこで、もしかしますと、一種の“スケープゴート”にされたのではないかとの疑問はもち続けておりました。そして、単に権力者の意向のみで裁判にかけられたものでもないとも思えてきました。 ☆ ううーん。だとしますと 広い意味でのムラハチブだと考えられませんか? それに姥捨て山のごとく処置(処刑)がくわわったかたちにおいてです。 つまり それでしたら 信仰に〔かかわっているでしょうけれど 社会現象としてだけ見れば〕関係なく 共同自治の問題であるとなると考えます。 ただし 魔女を悪魔に――まったく形式的にだけとしても――関係づけているのならば やはりローマ教会は 見解を出すべきだと考えます。 スペインの異端審問の歴史において途中でその《回勅》というのですね それを出していると分かりました。 ▼ (ヰキぺ:スペイン異端審問) ~~~ § スペイン異端審問の変遷 1484年に死去したシクストゥス4世の後を継いだインノケンティウス8世は2度にわたって回勅を発布し、スペインにおける異端審問の行き過ぎを批判し、被疑者への寛大な措置を願っている。 そもそも異端審問のシステムにおいては裁くのは教会関係者であっても、処罰を行うのは世俗の権力であるのが通例であった。 ~~~~~~~~ ☆ ここだけから判断するなら やはりその内容は《裁きについての是非としての見解》ではないようにも 残念ながら うかがえるかも知れません。 《行き過ぎを批判》なら 行き過ぎなければよいとなります。 《処罰は世俗の権力が行なうのであって 異端審問の制度において裁くのは 教会関係者である》のならば その《裁く》という行為の問題が いちばんであると考えます。 悪魔ではないかと思ってしまうことと 悪魔として裁くこととは 別だと考えますから。 ★ ~~~~ 愚生も、宗教の教団化・組織化には、反対でございます。 ご質問者様の質疑に回答するのは、一回答者と致しまして義務と考えております。従いまして、また、何かございましたら、引き続きお願い致します。 ~~~~~ ☆ 二点 いづれにつきましても ありがとうございます。 ★ あまりにも人気(?)がありすぎ、ヴァチカンとしましても当惑しているようでございます。 ☆ せっかくですから 挙げてくださった記事を掲げておきます。 ▲ (エクソシスト(悪魔祓い師)が足りない) ~~~ ━ イタリア青少年の間に、悪魔崇拝者が増加 イタリア在住ジャーナリスト 小池 弘美 <記事概要> 「ローマ教皇、悪魔に宣戦布告」 ローマ教皇ベネディクト16世は、各司教区にエクソシスト(悪魔祓い師)を必要なだけ、少なくとも1人は配置する、と明らかにした。 ヴァチカンのニュースサイト、「パパニュース」によれば、各司教に配布されるエクソシスト任命のためのマニュアルが現在準備されつつあり、2008年前半には出来上がる予定だという。 各司教区に悪魔祓いのスペシャリストを配置する目的は、悪魔を抱えて苦しむ人たちを救うことにあるが、活動中のエクソシストたちが教区を超えて悪魔祓いをしなくてもすむようになる、という利点もある。 2007年12月28日付 日刊紙LA STAMPA より ~~~~~~~~~ ありがとうございました。
- BuffaloAndJtp
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詳しい説明を下さいまして、有り難う御座います。 折角の機会ですので、畏れ入りますが、更に続けさせて頂きます。 先ず、鍼灸医学の研究結果によりますと、次の通りの事情が判明しています。 つまり、御存知でいらっしゃるのかもしれませんが、【経絡的な歪みの残留(筋肉の過剰な攣縮の慢性化)】は無駄な『情緒不安定』の温床を容易に拵えてしまいます。 しかも、陰陽五行図の一覧へは【思考】さえもが盛り込まれていまして、若し本来の超越的な健康状態を人類が取り戻せるのでしたら、其の場合には、思考からの解脱が叶うのだろう、と其処でも諭され続けてきました。 従いまして、疑う思考の停止・無効化の為に、経絡的な機能の面での滞りを自分達の身体内部から徹底的に除去するべく、本来的には、精進に励む方針へ人類が迎えますと、非常に望ましいのかも知れません。 でも、残念ながら、限られた資源(物質・情報・技術)の奪い合いでの勝利が世界史上で高く評価され続け過ぎましたせいで、既得権益の分量の比較による【相対的な優越感】が差別を暗示させるのでしょうから、相対的な優越感を味わいたがる『不純な動機』の完全な『駆逐は、今後にも難しくあり続けるのではないでしょうか?
お礼
ありがとうございます。こんにちは ばっふぁろうさん。 まづ素朴な質問を提出するかたちで お応えしてまいります。 (1) 身(経絡)と心(情緒の状態)とは 互いに影響し合っているのではあるまいか? ★ 【経絡的な歪みの残留(筋肉の過剰な攣縮の慢性化)】は無駄な『情緒不安定』の温床を容易に拵えてしまいます。 ☆ このような場合において その逆の順序での現象は あり得ませんか? すなわち ○ 何らかの情緒不安定があって その結果 《経絡的なひづみ》が起こる。つまり 双方向的であるのではないか? (2) 陰陽五行説における《思考》とは どういう事態か? ★ 陰陽五行図の一覧へは【思考】さえもが盛り込まれていまして ☆ 次のような理解しか得られませんでしたが どうなりましょう? ○ 陰陽の相関する関係において あるいは 五行相生・五行相剋において それなりに身にもそして心にも対応する現象が起こり そこに《思考》も起こっている。 (3) 人間の自然本性としての身のあるいは心の状態とは 何か? ★ 本来の超越的な健康状態 ☆ たとえばエデンの園においてアダムとエワは もし善と悪の知識の木から採って食べなければ 死ぬということは起こらなかったと言われることがありますが そのような《始原の健康状態》を想定しておられましょうか? ただし 善悪を知る木から採って食べたことは もうそれとして取り返しのつかない事件であったわけで しかもそれよりもすぐれた心身の状態になるとも言われています。それは 現在時における《精神と身体》の復活という希望です。 科学的に医学的にそうなるというものか よく分かりませんが そういった健康状態のあり方が 問われているのでしょうね。取り敢えず。 (4) 思考は 人間存在(ないしその自然本性)においてどう位置づけられるか? ★ 思考からの解脱が叶うのだろう ☆ 単純に言いまして 《思考からの解脱》が どうして必要なのか。これが分かりません。なぜなら ヒラメキ あるいは 無根拠のナゾがわが心をおとづれるときの非思考の事件 これにとって《思考》は何ら邪魔にはなりません。それは ただ《思考にあらず》というかたちで取り扱われるのみだと考えますが そこのところはどういうふうに捉えられていましょうか? (4-1) 非思考なる信仰(あるいは ヒラメキ)にとって 思考は何ら邪魔にはならない。 ★ 疑う思考の停止・無効化 ☆ つまりこういった施策(ないし修行)は 要らないと思うのですが どうでしょう? (5) 経絡の問題を どう取り扱うか? ★ 経絡的な機能の面での滞りを自分達の身体内部から徹底的に除去するべく ☆ これは どうなんでしょう? ひづみは ほぐせばよいと考えてはいけませんか? (6) 思考の純不純は 経絡に影響を与えるであろうが そして思考としてそのまま心にも影響しているであろうが 非思考の信仰(ヒラメキ)は 非思考というごとく 経絡(身)と思考(心)とを超えている。 ★ 限られた資源(物質・情報・技術)の奪い合いでの勝利が世界史上で高く評価され続け過ぎましたせいで ☆ これは そのとおりでしょうね。 情報は 知識や知恵という意味では限界はないとも思いますが。 その意味では 技術も 長い目でみれば知識や知恵としての情報のごとくであるようにも考えられます。 ただし 経済活動として 世界の中でその主体どうしのあいだで奪い合いといった様相を呈していますね。 ★ 既得権益の分量の比較による【相対的な優越感】が差別を暗示させる ★ 相対的な優越感を味わいたがる『不純な動機』 ☆ これらも そうでしょうね。そういう事実が見られるでしょうね。 ただし それでは何故 ★ 相対的な優越感を味わいたがる『不純な動機』の完全な『駆逐 ☆ が必要になるのか? 《不純な動機》のどこがまづいのか? つまりそのような感情としての志向性とその認識にもとづく思考を 経絡にとってのおよび心にとっての言わば悪だと見るのは どうしてか? ★ ・・・『駆逐は、今後にも難しくあり続けるのではないでしょうか? ☆ そうかも分かりませんが そうであっても 神のおとづれにとって 何の差し障りもありません。神の手がノックする音を聞くのに 何の支障もありません。その音を聞いて受け容れるのに では 支障があるか? ありません。そのときには 神の力に限りがあるという考えによって支障が出るかも知れませんが 《不純な動機や心や あるいは 経絡のひづみ》によって妨げられることはありません。 (7) 思考のひづみと 非思考の庭(つまり 心)の閉鎖とは 別である。〔≒(4)および(6)〕 思考は 不純であれ悪であれ あるいはそうでない健康なものであれ ヒラメキにとって・スクイにとって 何ら邪魔にはならない。こう考えます。 スクイは 思考に非ず。思考をそしてモノゴトの善悪を超えて ヒラメキはやって来ます。人はそれを 無根拠のままに受け容れるだけです。神として・あるいは無い神として。 これで 言うとすれば 経絡のひづみもやがて直って来るでしょう。 (8) だって ヒラメキに対して《無心》とおっしゃっているぢゃありませんか。 あるいは 無心だ有心だといったことは この人間のはからいですから どうでもよいと突き放せばよいはずです。・・・
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > 魔女狩りは 教会ないし聖職者が先導かつ扇動したという見方は 間違いでしたか。 現在の調査結果では、否定されているようでございます。 > たしかに異端審問といった裁きを問題にしたかったのですが 魔女呼ばわりも 大きくはその裁きに入ると思っていました。 異端審問も ご指摘のようにむしろ民衆のあいだにおける不安つまりは治安秩序の問題から発しているかに伝えていますね。 はい、以下のスペインにおける治安維持が惨劇を生んでしまったため、悪評がつきまとっているものと考えております。 Wikipedia 異端審問 スペインの異端審問 からです 「当時のスペインにはキリスト教に改宗したイスラム教徒(モリスコ)やユダヤ教徒(マラノ)たちが多くいたため、”国内の統一と安定において、このような人々が不安材料になると考えた王は、教皇に対してスペイン国内での独自の異端審問機関の設置の許可を願った”。これは教皇のコントロールを離れた独自の異端審問であり、異端審問が政治的に利用されることの危険性を察知した教皇は許可をためらったが、フェルナンド王は政治的恫喝によってこの許可をとりつけることに成功した。結果としてスペイン異端審問は多くの処刑者を生んだことで、異端審問の負のイメージを決定付け、キリスト教の歴史に暗い影を落とすことになった。」 > ☆ 考えてみれば 魔女に対する民衆裁判にしても それが 異教徒の問題であれ異端のそれであれ けっきょく――司法権や処罰権が教会にはなかったとしても―― その公式の見解を発表して《裁き》を回避させることは出来たかに推し測られます。 つまり 民衆のあいだの動きをそうだとしたら 放っておいたことになり それは 《未必の故意》のような振る舞いになるかに思われるからです。 仰られますように、もしそれができていれば、こんなにもイメージが悪くなくなっていなかったと推察しております。 ただ、上述のスペインのように、為政者が積極的に魔女狩り(異端者の排除)を進めたこともあり、政治的な問題も多分に含まれておりました。従いまして、「《裁き》の回避」は簡単ではなかったようにも見受けられます。 > 次の文章については 《魔女》は 削除しまして 《悪魔》〔およびそれを悪魔として裁くこと〕の問題として考えようとしていると読んでいただければさいわいです。 ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~ ( d-1 ) 魔女や悪魔は 神の心を――どういう中身としてかはまだ別として――おぼろげにこの世界のものごととして映し出しているのかも知れないとまでは 見てみることが出来るかも知れない。 ☆ と思いや考えを推し進めるひとがいても それほどおどろくことではない。 つまりは そこから《魔女狩り》には発展し得ない。と言わねばならない。神の心が知りたいという心つもりだったはずだ。あるいは すでに初めにすべてを神の みこころにゆだねていたはずだ。 ~~~~~~~~~~~ 悪魔の存在が想定できたかもしれない。しかし、このことが直接そのまま”魔女狩り”に移ったとうのには無理があろうかと察せられます > ☆ すなわち 自分にとって《悪魔》と思えるような相手が現われたとした場合 それは 単純に言って神からの叱責であるかあるいは注意を促しつつ何らかの助言を与えようとする神の手紙であるか と捉える見方も成り立つかに考えられるからです。 《悪魔狩り》には発展しない。むつかしい問題があるかとも思いますが 基本は互いに自由なやはり批判を含めた対話に活路を求めるということだと言おうとしていました。 ご質問者様のご趣意、理解致しました。 > ガリレイやニュートンらに 現代からその現代の信仰論を当てはめようとするのは ほどほどにですね。 はい。不退転の決意と情熱を持って神を知ろうとした人達は、現代には受け入れ難いものかと思われます。ですが、皮肉なことではございますが、過去の諸賢人がかような熱意で科学を発展させてきたのですが、その科学が宗教とは対義語のようになってしまいました。もちろん、対象は異なりますため、同列に並べることには無理がございますが、敵対するものではないものとも考えております。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
こんにちは。 ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。 のっけから茶飲み話ですが。 魔女とされたなら もうその窮地を抜け出す道はなかったという話として聞いていました。 体に重石をつけて川に放り投げる。もし浮き上がって来なければ それが魔女として正当にも処罰を受けたという証拠だと見なされた。 つまりこのことは 被告に少しでも弁解の余地を与えようとしてのことに見えて じつは 死をまぬかれる余地は残っていなかったのだと。 すなわち もし仮りに万が一川に投げ入れられても浮き上がって来たなら それは それこそが魔女の使う魔法なのだと見なされ やはり魔女であることが立証された。ゆえに 処刑だ。となったのだと。 そしてこのような魔女裁判を教会とは別に民衆がおこなっていたとすれば それに対して《裁き》という一点において どういう基本的な考え方をすべきかを 教会は発表すべきだったと考えます。 発表しても 民衆の動きを止めようにもどうしようもなかったとすれば それもひとつの歴史だと思われますが 見解を出さなかったとすれば 歴史にならないと思われます。つまり教会の存在意義がその事件にかんして なかったということだと見ます。 ★ Wikipedia 異端審問 スペインの異端審問 からです ☆ の中でも けっきょくローマ法王は 許可をあたえることで(《裁き》についての公式見解を発表しないことで)スペイン国王のやりたいように異端審問をさせたことになると考えられるからです。 これだけは 言っておきたかったことです。 くどいように重ねて申しますと: ★ ~~~~~~ ただ、上述のスペインのように、為政者が積極的に魔女狩り(異端者の排除)を進めたこともあり、政治的な問題も多分に含まれておりました。従いまして、「《裁き》の回避」は簡単ではなかったようにも見受けられます。 ~~~~~~~ ☆ 《裁き》についての見解を発表するだけでもしておけば ローマ教会という存在は まだ歴史において意義を持ち得たという見方です。 ○ ガリレイやニュートンら ☆ については けっきょく一人ひとりにかんして そのそれぞれの信仰の姿勢を――もし他人からでも見ることが出来るものならば――見つめて 何らかの評言をあたえることになると思いました。やはり宗教一般の観点を持ち出しても それほど(もしくは ほとんど)生産的ではないようだと。 いやぁ けっきょく教会の非をなじったわたしのあやまちを正しさらにそれを受けてまとめてくださいましたのに それに対してもかえって食いついています。食い下がっているのではない。つまり 議論を尾を引かせるように話を引っ張っているのではないとは思っていますが。 聞くところによりますと いまでもローマ教会には 悪魔憑きを治す悪魔払い(エクソシスト)がいるそうですね。
お礼
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。(そう言えば あいさつをしないでお礼欄に返答をしたためている場合もあります。機械的にていねいであるよりは ましだと考えてのことと答えても お叱りを受けねばならないかも知れません)。 ★( a ) “信じる”という行為が、現代では“愚かなこと”という風潮が、その根底にあるのかもしれません。 ☆ たしかに《神の弱さは人間の強さよりも強く 神の愚かさは人間の賢さよりも賢い》と言ったところで 人びとは何のハタラキをも受けないほどになっているのかも知れません。 《たましいの復旧と復興を!》と言っても 《暑苦しい。やめとけ》と返されるのが関の山でしょうか。 ( b )★ ヴィトゲンシュタインではありませんが、「神はこの世界にはいない」のですが・・・ ( c )★ ・宇宙とそのなかのすべてのものは、神によって創造され神によって支配されているという根本的な考え方があった。 ☆ ふたつをまとめるならば ( d ) この世界のものごとは 神の足跡であるかも知れず 神の姿をおぼろに映し出す鏡であるかも知れない。 ☆ といった命題が導けると思われます。 したがって ( d-1 ) 魔女や悪魔は 神の心を――どういう中身としてかはまだ別として――おぼろげにこの世界のものごととして映し出しているのかも知れないとまでは 見てみることが出来るかも知れない。 ☆ と思いや考えを推し進めるひとがいても それほどおどろくことではない。 つまりは そこから《魔女狩り》には発展し得ない。と言わねばならない。神の心が知りたいという心つもりだったはずだ。あるいは すでに初めにすべてを神の みこころにゆだねていたはずだ。――にもかかわらず むしろ聖職者たちのほうが先導しかつ扇動して 《魔女》を決めつけこれを狩り根絶やすというマチガイを犯すまでに到った。よほど《偉かった》のでしょうか。 ( d-2 ) 《偉くなかった》と言いたい人びとは この魔女狩りのあやまちを まるで神の罪だと言わんばかりに取り出し取り上げる。 ☆☆(趣旨説明) D-1 それを批判するために 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに 神を論じる。 ☆ に到ります。 ★ ~~~~ おそらく、これは無神論者に多く見られる傾向かと察せられます。特に、“宗教組織”の失敗(魔女狩り等でございます)に対しまして、少なくとも日本人は嫌悪感を抱いてしまうのかもしれません。もちろん、神=宗教組織、ではないのですが・・・ ~~~~~~ ☆ すなわち 無神論であれば 宗教組織の犯したアヤマチあるいは要するに人間がこの世界で侵すアヤマチを含めもろもろのおこないとしての物事を超えたところにその《無神》を想定しているのであるから そうであるのだから そこのところに持たれているその見方において自重しなければならないはずです。 もし《神=宗教組織》と見てしまったなら 自分の《無神=すなわち 人間の思考と想像の産物》とすでに見てしまっていることになります。ヰトゲンシュタインの( b )の命題を忘れてしまっています。 ( a )の命題を変形して 次のように言わねばならないように考えます。 ( a-1 ) ~~~ “信じる”という行為が、 かくして“〔人間が〕考える”という行為の暴走としてのように犯すあやまちを 静かに強くしっかりと思いとどまらせる力を持つというのに だからこの“〔人間が〕考える”という行為よりも格段に気高くとうとい人間の自由であり 人間の存在を証しする力を湛えているほどだというのに そうであるにもかかわらず 現代では“愚かなこと”という風潮が、その根底にあって 理性万能主義が蔓延っているのかもしれません。 ~~~~~~~~~~ もし ★ ~~~~ > A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか? 当初はそうでなくとも、知らず知らずの間に、偶像化・崇拝化してしまうものと考えております。下記に示しておりますアリストテレス等もその一例かもしれません。 ~~~~~~~ ☆ という事態がそこここに見られる世間一般の情況であるとしたならば けっきょく人びとはそれぞれ《信じる》という行為を じつは欲している。のではないか。 ならば 神を見きわめよ。神を見きわめよう。 となるはずなのですが。 ガリレイやニュートンらは それぞれおのれの信仰が 《考える》理性の暴走をゆるさず じゅうぶんふつうにその理性を使いこなそうとした。と言えましょうか? 《信じる》は《考える》に先行する。――さらにみなさんからも この主題を問い求めて行って ご見解をおおしえください。この《神についての勘違いを見きわめること》が どうも哲学のさまざまな あるいは すべての主題についての解明に先立って重要であると考えられて来ます。だとすれば それだけに衆知をあつめる必要があります。お待ちします。