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石川啄木の短歌について・・・
石川啄木の短歌「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と「しらしらと水かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」の意味を教えてください。お願いします
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【不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心】 15歳のころ、不来方城の草原に寝転で空を見ていて 私の心は吸い込まれそうだった。 盛岡城は別名不来方(こずかた)城といいます。 啄木は盛岡で中学校(盛岡尋常中学校)時代をすごしました。 学校を抜け出し不来方城の草原で寝転んで 空を見ていたころを懐かしんでいる歌ですね。 啄木は与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に影響を受け、 16歳に中学校をやめて、この後上京します。 しらしらと水かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな 釧路の海の水面は月の明かりでしらしらと輝いています。 夜の冬の釧路の海には千鳥はいない静寂があります。 啄木は明治40年(1907)生活の行き詰まりから北海道に渡ります。 北海道の函館、札幌、小樽、釧路と漂白生活をすごしました。 76日間の釧路時代に歌った歌でしょう。 注:私は【千鳥なく】を千鳥は夜はいない(なく)と解釈します。 夜は千鳥はいないと思います。
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- jakyy
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jakyyです。 歌は水ではなく氷でした。下記のように訂正します。 【しらしらと氷かがやき 千鳥なく釧路の海の冬の月かな】 釧路の海の氷は月の明かりでしらしらと輝いています。 夜の冬の釧路の海には千鳥はいない静けさがあります。
- honnori
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ちょっと遅かったようですね。解釈はmartinbuhoさんのでいいと思います。私は違った角度から石川啄木を述べてみます。 たくさんの哀愁あふれるすばらしい作品を残している啄木。そんな彼も夢に破れ、現実の生活から逃避し、貧しいにもかかわらず浪費家で、時に人とトラブルを起こし、・・・壮絶な人生といえます。 <不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心> 盛岡時代これから社会にでる一歩手前。「啄木は盛岡中学時代、よく学校を抜け出し、不来方城跡に逃れては独り文学書や哲学書を読みふけった。その当時盛岡中学は内丸通りに在り、岩手公園から200メートルほどだった。不来方城跡が岩手公園として一般に開放されたのは明治39年のことで、啄木が中学生だったころはまだ雑草が生い茂っていた」という文章が参考URLのホームページにありました。この場所で自分の将来を夢見ながら日々を過ごしていた。こんな姿を懐かしんでいるのです。どう感じますか。 <しらしらと氷かがやき/千鳥なく/釧路の海の冬の月かな>(『一握の砂』) 啄木は明治41年1月21日から76日間「釧路新聞」の記者として滞在しました。啄木にとっては新聞社とのトラブルがあったものの、比較的安定していました。これはそうした中でで詠われたものです。 冬の朝の凍てつく寒さと白んでいく空を反映して氷が光っている海の美しさ。冬の月とのコントラスト。そしてどこからか千鳥も鳴いている。目と耳と肌でかんじている、啄木の感性のすばらしさが伺われますね。 啄木は27歳という短い生涯でした。そのうちの7から8年というわずかな期間で彼は輝いたのです。しかもその業績は彼の死後認められました。学んでみて興味深い人物だと思います。
>不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心 15才のころ不来方のお城の草の上に寝転んで大空を眺め空想にふけっていた。多感な15才のころが懐かしく思い出される。 不来方城は岩手県盛岡市に残る南部藩の盛岡上の別名です。 >しらしらと水かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな 夜明け前、釧路の海辺に立つと海は白々と輝いている。空を見上げると冬の月が輝いている。どこからかカモメの鳴き声も聞こえてくる。 不来方のお城の草に寝ころんで、はるかなる大空に夢を託した十五歳の日よ。あの少年のころが懐かしく思い出されることだ。
お礼
どうもありがとうございました。とても参考になりました^^