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若くない初心者の取り組み方

新しい技術を門外漢の方々が習う場合には、従来からの癖が悪影響を与える恐れの存在が懸念されやすい、と思われますが、指導者の方が入門者の方々の技能を会得しているとは限りませんね。 従いまして、その場合に、もし他者からの協力が期待され難ければ、たとえ指導者の我田引水の押し付けによる混乱が起きそうになっていましても、「既に身に付いた技術と新しい技術との融合」を後回しにした方が比較的に望ましいのでしょうか? 尚、是は私の個人的な悩み相談では御座いませんでして、 あくまでも伝統的な徒弟制度についての質問を致しております。

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  • ベストアンサー
  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.2

私は大学院生を指導しているのですが、どうやら人間には30歳辺りで、一つの相転移があるようです。相転移とは物理学の専門用語で、水(液体の相)が氷(固体の相)になったり、水蒸気(気体の相)になったりと転移することです。事実、私の経験によると30前の人には、「お前は馬鹿でないのか」という言葉が励みになり、「何くそ」と、この言葉を聞いて頑張る気になれる人がほとんどです。ところが30過ぎの人に同じ言葉を言うとむしろ逆効果で、「この先生は私の能力を理解していない」と嫌われてしまうようです。だから、若くない初心者の教育には工夫が要るようです。 ある日ラジオを聞いていたときに、入れ墨を描く名人と言われている人のインタビューがありました。入れ墨で何が難しいって、下手な人の描いた入れ墨を直すときほど難しい事はないと言っていました。だから、これも若くない初心者の教育の難しさですね。 私の知り合いの茶道のお師匠さん曰く、 お茶の立ち居振る舞いの規則は、皆さんが今まで生きて来て偶然に身につけてしまった醜い動作を一先ず白紙に戻すためにあるのです。ですから、始めは徹底的に規則に従ってその醜い動きを矯正する。そして一旦白紙に戻ったら、最早お茶の規則なんてどうでも良い。好きなようにお茶を飲めば良いのです。 ここに年配者の教育法の極意が出ているようですね。理屈を言わせず、ただただ決められた規則を徹底的に守らせて、それが空で出来るようになるまで繰り返し練習させる。それが出来るようになってから、初めて理屈を言うのを許すのです。まあ、これは年寄りばかりではなく、若い人にも有効な教育法なのですが、年寄りには、より有効な方法です。 もう一つ、今度は教わる側の心得として、年配の人が何か新しい事を始めるには、いきなり値段の高い道具を持つようにする手があります。年寄りと若者の一番大きな違いは、若いもんが何かを始めるのに余り動機が要りません。何か面白そうだと言うだけで十分なのです。ところが年寄りは、「こんなんことをやって何の役に立つのだ」とか「これをやってあれを手に入れよう」などと、何か具体的な説明なり動機が前もって与えられていないとやる気にならないようです。そんな状況では、それを始めたときに一寸した疑問が出てくると止めてしまう可能性が高くなる。ところが、道具に大枚をはたいた後では今更止めるのも勿体なくて、それが補助的な動機となって結局奥義を究める可能性も高くなるからです。

littlekids
質問者

お礼

御蔭様で重要な事に気付かせて頂きました。 そもそも師匠の方々は入門者達の動機を存じてはいらっしゃらないのでしょうから、若くない初心者達が特定の分野に入門する場合には、どういう目的への応用の為に其の技術を学ぼうと考えたのかを「自分で」振り返って、其の妥当性を疑ってみる、という冷静さが必要になるのでしょうね。 それこそが「3年習うよりも3年師を探せ。」という教えにも繋がっていくのだろう、と思いました。

littlekids
質問者

補足

有り難う御座います。 たとえ違う分野での豊富な経験に拘りたがる門外漢の方々が、無自覚の裡に過去の経験を新しい学習の内容への解釈に当て嵌めてしまう、という可能性の存在が懸念されていましても、指導者の方々が其の展開を直ぐに見抜ける訳ではないのかも知れませんから、勝手な解釈を止めて貰う為にも、適切な動機付け(費用対効果への自覚とかの事例)の誘導が望ましいのですね。 そして、そうすれば、団体での学習の場合にも護送船団的な足手纏いになる可能性が比較的に低くなるのでしょうね。 私の側で色々な連想が続いて質問を繰り返させて頂き、大変に畏れ入りますが、久しく勉学の機会から疎遠になっておりましたので、非常に助かっていますから、今後にも何卒宜しく御願い申し上げます。 因みに、前回の『3年習うより~』の内容は「私の失念による説明不足」のせいでややこしくなってしまいましたが、次の様な意味で使われているそうです。 つまり、様々な流派の個性・肩書きによる悪影響を防ぐべく、「3年間の学習」を諦めてでも自力で適切な師匠を探し続けなければならない、という難題なのだそうです。 従いまして、そういう課題を克服する為に、門外漢達がどういう判断を採用すれば望ましいのか、という事情を伺いたい、と考えておりました。

その他の回答 (2)

noname#221368
noname#221368
回答No.3

 これは回答でない、印象です。#1です。 >・・・OJT型の徒弟制度への執着・・・  ピアノのレッスンなどを考えてみると、非常に論理的な技術の伝達が行われると思います。最初に単純なハノンをやって、音感と指の動きを対応付け、その後にブルグミュラーなどで、指のスピードを鍛える訳です。とても論理的で納得できますが、出来ていない事があります。それはこの方式では、技術者は量産できるが、芸術家を育てていないという事です。本当の芸術家になるかどうかは、個人に任されます。  逆に「御花」「書道」「歌舞伎」などの世界ではどうでしょうか?。これらは日本の花嫁修業の一環なので(といっても明治以後と思いますが)、もちろん上記のような側面はありますが、プロの道に入った人達は、とても上記のような単純な技術伝達の世界に住んでいるとは思えません。以下は、単純な技術伝達が、お稽古として当然あるとした上での話です。  一方、日本の伝統芸能は、論理的に教えるのでなく、雰囲気から入れというものだと思います。その典型が内弟子制度だと思います。お稽古事をクリヤした人材を前提として、「受動的に芸を習う」のでなく、芸を成立させる環境さえもを理解させながら、師匠の技術を「主体的に盗め」という作法です。これが出来れば、免許皆伝です。  これは論理的手順に従って、技術を継承する体制とは全然違います。論理的継承は既に終わってる訳ですので、これは芸術家を育てる制度だと思います。  ただし、このような制度の生産性が非常に低いのは明らかです。エビ蔵さんの行動は社会的には駄目なのだけれど、「それさえも芸の肥やしにする」という、という処だと思います。 >・・・OJT型の徒弟制度への執着・・・  OJTという言葉は、自分がチュートリアルという言葉を出したから発言されたと思うのですが、OJTもチュートリアルも、じつは進駐軍が日本の伝統文化を調査するまでは、なかった言葉なのだという事をこの前聞きました。つまり進駐軍は、徒弟制度の実態を自国に持ち帰って欧米的に変換し、いまビジネスチャンスのコミュニケーション理論などとして、逆輸入されているという話です。  いま歌舞伎大学とかを作っても、上手くいくような気はしません。でもどっかに、妥協点はあり得ると思います。

littlekids
質問者

お礼

すいません。 OJTの意味合いを私は徒弟制度のあり方と混同していた様です。徒弟制度の場合には、即戦力を養わせるとは限られず、助手の状態で久しく扱(こ)き使われる可能性が御座いますね。 確かにOJTの内容にも多様性が認められますので、ほったらかしのOJT(http://japan.zdnet.com/blog/netcommerce/2011/06/18/entry_30021553/)さえもが存在しているそうですが、多くの場合のOJTには即戦力の養成が期待されているのだろう、と思われますので、前近代から技術を伝えてきた職人(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E4%BA%BA)の徒弟制度とは違うのかも知れません。 従いまして、趣味ではなく「実用性」に富んだ技術の習得の為には、上記の意味での徒弟制度ではなく、(インターンシップを含む)OJTが望ましいのでしょう。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97 因みに、身体操作の技術を壮年以後の初心者達が学び始める際には、別の心身問題にも配慮しなくてはならない様です。 例えば、有名な美術作品とそれの贋作との筆致を顕微鏡で見比べますと、本物の側の方が多くの歪みを含んでいるそうです。 此の原因は「逡巡・躊躇」の度合いの格差なのでしょうか? 真似事を行なう際には、個性を盛り込む必要性が比較的に乏しいのでしょうから、作り手の迷いが投影され難いのかも知れません。 従いまして、此処で私は更に奇妙な疑念に曝されました。 それは「無心」の問題です。本来の達人は、巧緻性の維持の為に経絡上の筋肉の無駄な攣縮を解消するべく感情の乱れを抑制しているのだろう、と考えてきたのですが、対面の技術の場合でなくとも其の内容が当て嵌まるのかが分からなくなって参りました。

littlekids
質問者

補足

有り難う御座います。 後で下の枠へ追記をさせて頂きますから、 何卒御容赦を御願い申し上げます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/OJT

noname#221368
noname#221368
回答No.1

 40の手習いをやっている者の一人として発言します。  教則本や指導者に我田引水が合ったとしても、世にでているからには、何らかの技術思想があるはずです。技術思想が余りに下らなければ止めます(底の浅いものは、大抵すぐわかります)。そうでない場合、技術思想を理解した上でなければ、「既に身に付いた技術と新しい技術との融合」は行えないし、「やっぱり止めた」とも言えないと思います。  技術思想を迅速に理解するには、技術思想が推奨するチュートリアルを、忠実に実行する事だと自分は考えています。その意味での「後回し」は、現実的戦略ではないでしょうか?。

littlekids
質問者

お礼

http://okwave.jp/qa/q6895578.html 此方でも御教授を賜れますと幸いです。

littlekids
質問者

補足

有り難う御座います。 是は可也重要な問題で、鎖国廃止時の異文化交流の場合にも当て嵌まり得るのではないか、と私は考えています。つまり、抽象的な用語の翻訳の際に思想の強引な変容が促されてきたせいで、重要な伝統文化から本来の意味が剥ぎ取られて、残念ながら、それ等が恰も怪しい詐欺的な技術であるかの如くに見做されてきたのではないでしょうか? 確かに現代日本では人間国宝なる評価基準が存在していますが、それにすら利害関係が絡んでいる可能性の存在が否定され難い、という事情を踏まえますと、当該技術群を普及させ続ける為には、OJT型の徒弟制度への執着を指導者達に諦めて貰うしかないのだろう、と考えまして、此の質問を纏めてみました。

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