もした建て前と本音が使い分けらる文化が前近代的と言うなら、それを使い分けられない文化は前前近代の文化と言うべきでしょうね。人間は木の股から生まれて来たわけではありません。必ず人と人のとの関係の中で生きています。だから、本音ばかりで行動してしまうと、喧嘩ばかりになって、使わなくても済む余計なエネルギーを使わせられることになって、世の中ギスギスして来ます。だから、人間は行動面ばかりでなく精神面でも妥協をすることが出来ない人は、人でなしの国に引き越して行くことになってしまいます。
建前と本音が一見日本ほど使い分けられていないように見える国がアメリカですね。しかし、これも曲者で、建て前と本音を使い分けるな、と教育されているのはアメリカの少数の超大金持ちを除いた、残りの大多数の人達の間だけです。そして、その大多数の連中は喧嘩ばかりしているので、アメリアには世界で一番多くの弁護士が居ります。あの先進国一の格差社会のアメリカのトップの少数の金持ち達の行動を見ていると、普通の日本人以上に上手に建て前と本音を使い分けております。また、だからこそ、彼等はそれを使い分けられない一般人を引き離して、既得権を保持できているのでしょう。
さて、そのことが八百長の温床に成っているかと言うことですが、とんでもない。八百長がない国なんてありませんよ。それどころか、たぶん日本では世界的に見ても八百長は比較的に少ないのではないでしょうか。日本にいると見えませんが、外国のいろいろな国で生活してみて、日本て例外的に良い国だったんだなあと考えさせられました。
しかし、最近はそんな日本の良風がアメリカ文化の激越な流れ込みで失われ、日本でも人々の心の荒び方がアメリカ人並みに深刻な国に成って来てしまっているのではないか、と心配しております。水は低きに流れると言いますので、悪貨が良貨を駆逐するごとく、建て前と言う良俗が駆逐されて行ってしまうのですかね。
補足
有り難う御座います。 組織の利権の保持と八百長との関係の存在を想像したのですが、強引過ぎましたね。