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満州についてお願いします。
満州は1932年に満州国が建国されて1945年8月15日に中国に返された事をしりました。ではいつから日本人は満州に移り住んだのでしょうか?宜しくお願いいたします。
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満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)という判断でよいでしょうか? 満蒙開拓移民は、満州事変以降から太平洋戦争までの期間に、日本政府の国策によって推進された、中国大陸の「旧満州」、「内蒙古」、「華北」に入植した日本人の移民の総称になります。 (満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とも言わます。) 1931年の満州事変以降に日本からの満州国への移民は本格化します。 1936年に、広田内閣が「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に500万人の日本人の移住を計画、推進しました。 (同時に、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画も打ち出されます。) これ以後、日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいます。 (加藤完治を移住責任者とし、満州拓殖公社が業務を担っていました。) この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権と制海権を失った段階で停止します。 最終的に、満州開拓移民の総数は「27万人」とも、「32万人」ともいわれています。 ただし、「ソ連」の参戦で、ほとんどが国境地帯に取り残されてしまい、日本に帰国できたのは11万人あまりだったそうです。
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- kusirosi
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満洲への日本人移民は、日露戦争後から始められたといわれているが、実際には少数ではあろうが、それ以前にも日本人は定住していたもようである。 たとえば。明治三十四年の調査によれば、ロシア領のウラジオストク周辺の在留邦人は、二、八九八人をを数えた。ウラジオストグと満洲とは接近し、交流もあったと思われるので、満洲に在住する日本人もいたもようである。日本人男子の職業は、主として漁民と鉄道建設従事者である。 さらに男子とほぼ同数か同数以上の女子がいたという。日本人が夫婦で外国に行くということは、当時の出稼ぎ労働者の場合、ほとんど考えられない。したがって、女子の多くは移民夫婦か、独立して働き送金する職業の人であろう。 当時、ロシア人は、鉄道建設のためシベリアで働いていた。そしてシベリアてつどうから分岐する東清鉄道建設がロシア人に認められると、ロシア人たちは満州に移動する。すると、日本人女子も移動していったものと想像できる。 同時に、中国本土から満洲に入って行った日本人もいたもようである。日露戦争前の満洲在住の日本人は 約3000人という数字がある。その多くは中国本土から入った日本人と言われている。
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回答有り難うございます。勉強になります。何度も読み直し、自分の知識になるよう努力させて頂きます。
- mekuriya
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1905年からです。日露戦争の講和条約であるところのポーツマス条約は以下のとおり。 日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える
お礼
回答有り難うございます。勉強になります。これを機に微弱ではありますが自分なりに勉強させて頂きます。
お礼
解りやすい回答、ありがとうございます。これを機に自分なりに勉強させて頂きます。