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井沢(伊沢)弥惣兵衛の五畿内での事績を教えて下さい
井沢(伊沢)弥惣兵衛は、8代将軍徳川吉宗が治水の専門家として紀伊藩士から幕臣として取立た人物です。 その井沢(伊沢)弥惣兵衛の紀伊藩当時や関東での事績は詳しく紹介されていますが、五畿内での事績がほとんど不明です、お教え下さい。
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郷土史家様江 概略情報に過ぎないにもかかわらず丁重なる御返事、誠にありがとう御座います。 取り敢えずは「井沢弥惣兵衛勤書抜」と「お救普請の村文書等」とが 細い糸で繋がったのは何よりの事と思います。 さて「若しお許し願えれば、連絡方法等お教え下さい。」との御提案でございますが、 あいにく私自身は現在ホームページやブログの開設もなく、 連絡方法と問われれば(電話番号を除き)メールアドレス以外思い浮かびません。 しかし何れにしましても…お気を悪くされても困りますが^^… 「教えて!goo」並びに母体である「OKWave」及びそのパートナーサイトでは、 <サイト上で、自他問わず「個人情報」を明らかにする行為、または当該情報の利用により 「個人情報」の開示に繋がるような情報を明らかにする内容については、禁止とさせていただきます。> と個人情報(氏名・住所・電話番号・メールアドレスなど)の開示は禁止と注意喚起されているだけに止まらず、 例えば「教えて!gooサービス」利用規約第15条(禁止事項)第1項(6)にも 明記されている次第で御座います。 http://blog.goo.ne.jp/oshietegoo/c/2fd47a0436464f7e861d622ad803e8ab また仮に禁止事項ではなかったとしても、アドレスなどの個人情報を開示することで、 被るかもしれない第三者からの迷惑メールや嫌がらせメールなどの事を思えば、 躊躇せざる得ないのが正直なところで御座います。 釈迦に説法とは存じますが、郷土史家様におかれましても、 御自身のマイページの自己紹介欄などに不用意に個人情報を開示されない方が無難かと思います。 老若男女問わずWEB上で一期一会の出会いがあって、 いつ何時WEB上で再会するやもしれずのスタンスで宜しいのではないでしょうか? (例えば、何月何日何時に四条河原町・梅田・京橋・淀屋橋・難波などに集合と決めて、 同好の士が集うオフ会なんてあればなどと妄想する事はありますが^^) あと、肝心の「ただ自力では解明できない部分があります。」についてですが、 勝手な推量では「伊沢弥惣兵衛お救普請の村文書等」の「解明できない部分」との理解で 宜しいのでしょうか? だとすれば、否、それ以外だったとしても、 「歴史」カテゴリーだけにとどまらず、「文学」「国語」「地理」のカテゴリーも含め、 私など足下にも及ばない賢者の方々は大勢いらっしゃいます。 ですから、必要に応じ画像添付も含め公開可能な範囲で より具体的な質問を投稿されれば宜しいのではないでしょうか? 最後に余計な付言をさせていただきますと、 私の回答履歴を辿っていただければ一目瞭然バレバレなのですが、 残念ながら歴史分野の専門家ではありませんので …特定分野を除いては、興味を抱いた質問を検索するのが好きなだけで、 あとはgoogle等の検索サイトではヒットしがたい情報を WEB上で如何に入手するかの試行錯誤とスキルアップを目指し、 その結果を自らの肥やしとして、 なおかつ質問者様の一助にも繋がれば幸いとのスタンスに過ぎません… 私自身は変体仮名程度は一応理解していますが草書体などの崩し字などには 全く縁もゆかりも御座いません事を申し添えますm(_"_)m
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- dayone
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郷土史家様江 既に御存知の内容ならば、笑って許して下さい^^ 吉宗の御膝元でも、残念ながら以下のような記述しかないようですね。 ◆『ふるさと教育副読本 わかやま発見/和歌山県教育委員会』(134頁) http://www.wakayama-edc.big-u.jp/wakayama_hakken/menu.html#no02 「第2編 わかやまの歴史/第3章 紀州徳川家の時代/井沢弥惣兵衛と紀州流の土木技術」 http://www.wakayama-edc.big-u.jp/wakayama_hakken/pdf/section/02/03/134.pdf 幕府への登用 1722(享保7)年10月、将軍徳川吉宗は、紀州藩主徳川宗直に命じて、 伝法御蔵奉行であった井沢弥惣兵衛を、近江国(滋賀県)琵琶湖の水辺の干拓工事に参加させました。 工事が完成して井沢は、技量をさらに高く評価され、 翌1723年7月、幕府の御勘定方に200俵扶持で招かれました。… ほか「井澤弥惣兵衛開発年表」の記述では、 詳細は不明ですが一応一部の地域は特定されているようです。 ◆『水とともに/2009年5月号/NO.68/独立行政法人水資源機構』 http://www.water.go.jp/honsya/honsya/pamphlet/kouhoushi/2009/0905.html 「水の匠 水の司~私説・井澤弥惣兵衛為永~高崎哲郎(作家、土木史研究家)」 「連載第十四回 終章―民は楽を共にすべく、憂を同じくすべからず」(8・9/10) http://www.water.go.jp/honsya/honsya/pamphlet/kouhoushi/2009/pdf/0905-05.pdf 「井澤弥惣兵衛開発年表」 No. 7 享保7 1722 琵琶湖 近江 滋賀県 No. 8 享保7 1722 淀川 摂津 大阪府 No.11 享保8 1723 青野原 摂津 兵庫県宝塚市 No.12 享保8 1723 長尾山 摂津 兵庫県川西市 ただ下記の見分期間&地域と上記No.8,11,12とを照合すると 「開発」だったのか「見分」だったのか、 また「No.11 青野原 摂津(兵庫県宝塚市)」と 下記「播州青野原新田の普請」とは同一地か別地なのか 或いは摂州&播州にまたがる広域地域を指すのかなど謎は残ります。 史料としては「井沢弥惣兵衛勤書抜」が存在するようですが… 主に見分の順路の概略って感じでしょうか。 ◆近世史私説>享保改革の舞台裏 30 《見沼代用水と見沼新田》 http://67488641.at.webry.info/200809/article_11.html ◆近世史私説>享保改革の舞台裏 31 http://67488641.at.webry.info/200809/article_12.html 大谷貞夫氏の『江戸幕府治水政策史の研究/雄山閣/1996』(111頁)によれば 「井沢弥惣兵衛勤書抜」という史料によって、次のように精しい事実を明らかにしている様子です。 「『寛政譜』では、享保七年十月八日「有徳院殿の仰によりて近江国湖水の辺新墾田を検し」と、 出仕以前の記事はきわめて簡単である。 しかし、右の「勤書抜」には、詳しい記述が見られるのである。 享保七年九月「紀伊国より江戸表江御用に付召させられ、 江州湖水新田場見分仰付らるる旨、水野和泉守□(虫損)仰渡され拝領物仕」り、 同月十一日評定所で誓詞を仰せ付けられ、 同年十一月上方の所々を見分するため江戸を出立した。 江州湖水廻り・城州・摂州・河州・泉州・播州の所々新田願場、 城州淀川・木津川落合や大池廻りの水損所、淀川筋の所々、 河州茨田郡・讃良郡・若江郡、摂州末成郡の水損所や旱損所を見分し、 翌八年五月江戸に帰るついでに、大井川・富士川・酒匂川・金目川を見分し、 同年六月に帰府した。 為永は翌七月に召され勘定となった。勘定となった為永は、 翌八月下総国飯沼やところどころの小沼の新田、鬼怒川吉田新井筋を見分し、 九月に江戸に帰り伺書を提出し、同年十月再び上方に出立し、 淀川筋の所々の普請、所々の水損場や旱損場のお救普請、播州青野原新田の普請を仕立て、 翌九年三月帰府した。同年四月には関東の所々の新田や川普請が追々と出来上がってきたと記されている。」 以上のとおり、五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)では 享保7年11月11日以降~翌8年5月の間には見分して廻っただけで、 享保8年10月~翌9年3月の間に 「淀川筋の所々の普請、所々の水損場や旱損場のお救普請、播州青野原新田の普請を仕立てた」って事で、 前後の事績&役職などを考慮すれば、 五畿内に関しては井澤弥惣兵衛の名を冠すべき大規模開発は殆どなかったとも捉えられますが、 上記「見分」箇所について何らかの影響を与えたかもしれない事は十分に考えられます。 以上 中途半端なカキコミで申し訳有りませんがm(_"_)m 少しでもヒントになれば幸いです^^
お礼
詳細にわたる懇切丁寧な回答を頂きありがとうございました。 私は、goo教えての最初の利用でこのような適格な回答を頂き感激しております。 なお、私の住所は回答文中の井沢弥惣兵衛が享保8年10月~翌9年3月の間に 「淀川筋の所々の普請、所々の水損場や旱損場のお救普請、・・・」 付近で、伊沢弥惣兵衛お救普請の村文書等も見聞しております。 (それらは井沢でなく伊沢となって居ます) ただ自力では解明できない部分があります。それらについてもご指導願えればと 思っております。若しお許し願えれば、連絡方法等お教え下さい。