- ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:岩本正利と吉宗に随従した時の岩本氏との関係)
岩本正利と吉宗に随従した時の岩本氏との関係
このQ&Aのポイント
- 岩本正利と吉宗に随従した時の岩本氏との関係について解説します。
- お富の方の父である幕臣・岩本正利は、時の紀伊藩主・徳川吉宗が8代将軍及び将軍家継承に随従した時の紀伊系幕臣の岩本氏と関係があります。
- 具体的な関係について詳しくはわかりませんが、お富の方の父である岩本正利は吉宗に仕え、将軍家継承に関わった紀伊系幕臣の一員として活躍していたと考えられます。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
Bghnvcxさん、こんばんは。 本家分家の関係ではなく、そのお家そのものです。初代頼宣時代に岩本氏は岩本正次を初見としています。2代を経て岩本正房の代に、紀州家から吉宗に従って、幕臣になりました。最初の家禄は300俵、後に将軍家斉の実母の里方ということでその子の正利の代に2000石に加増されます。参考資料では吉宗に従って幕臣になったときは御家人だったと書いていますが、300俵なら十分に旗本の資格がありますので、岩本家は最初から御家人ではなく、旗本として吉宗に従ったようです。 岩本氏に関する参考資料。 https://blog.goo.ne.jp/aguis57/e/becf27a7ecc169ec711c80e57000ccf3 家斉実母お富の方 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%AF%8C%E3%81%AE%E6%96%B9
お礼
御回答ありがとうございました。 https://blog.goo.ne.jp/aguis57/e/becf27a7ecc169ec711c80e57000ccf3 (↑)教えて頂いた、この上記のページによると、 最初に出てくるのは岩本能登守正房という人で、寛延元年(1748年)、六十一歳で亡くなっています。前書きに、次郎左衛門正次のときに紀伊大納言頼宣に仕え、三代を経て正房に到る、とあります。 正房のころの紀伊藩主は、のちの吉宗です。吉宗が将軍となるのに従って、晴れて江戸に出てきますが、当初は扶持米三百俵なので、旗本ではなく御家人です。 しかし、何があったのか、記述がないのですが、一か月足らずで従五位下能登守に叙任とあるので、石高は記されていませんが、この時点で旗本に列したわけです。 正房には三男二女があって、家督を継いだのは次男・帯刀(たてわき)正久という人。寛延二年、二十九歳で死去。 正久の嫡男が内膳正(ないぜんのしょう)正利で、天形星神社に境内社として祀られている「石見様」の父親であるとともに、十一代将軍・家斉の祖父ということになります。正利の代に二千石取りに出世しています。 正利の嫡男が「石見様」こと石見守正倫(まさみち)ですが、「寛政重修諸家譜」には牧馬関係の仕事に従事していたらしき記述はあるものの、房総地区に縁があったようなことまでは書かれていません。 一橋治済の御部屋様(側室)となり、十一代将軍家斉を生んだ富子は正倫の姉です。 諏訪神社のホームページには長姉とありましたが、次姉です。三姉の次に正倫が生まれ、さらに妹が二人いますが、この二人は実子ではなく養女なので、正倫より年長だったかもしれません。男子は正倫だけだったようです。 となっていますね。 系図的には、 岩本能登守正房ー次男・帯刀(たてわき)正久ー内膳正(ないぜんのしょう)正利 となりますよね。 つまり、正利は正房の孫ですね。(正房の次男・正久の嫡男が正利) (↓)ここの部分ですね。 正房には三男二女があって、家督を継いだのは次男・帯刀(たてわき)正久という人。寛延二年、二十九歳で死去。 正久の嫡男が内膳正(ないぜんのしょう)正利で、天形星神社に境内社として祀られている「石見様」の父親であるとともに、十一代将軍・家斉の祖父ということになります。正利の代に二千石取りに出世しています。 ありがとうございました。