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なぜ○○回忌というのか? 《忌》は忌むべきでは?
今年は 法然800回忌 親鸞750回忌だそうですが すでに生前に浄土にあった人たちに 忌という言葉をつけるのは きわめておかしいのではありませんか? 牛馬のをも含めて死体を忌み その死体の処理をする人びとをも忌むという習慣があったのは それとしての神道でしょうか? なぜブディズムが あたらしい息吹きをそそぐことをためらうのか。 それともやはり ブッダから誰からブディストはもう死んでしまっているのでしょうか。 ○○回忌の忌は よすべきではないですか? それとも しかるべき理由がありましょうか? おしえてください。
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現代では「忌」は穢れたもの、避けるものという意味しか残っていません。 しかし、古来から使われている語には、それでは意味が通じないものがあります。それが「忌火」です。 忌火(いみび・いむび)は神様に供える神饌を調理する為の火です。 じつは「忌」という時は「斎」や「畏」と同じ意味があります。 不浄なものを清める、あるいは畏れるという意味です。 更に「畏」は単に怖れるのではなく、「敬い怖れる」「かしこみおそれる」という意味になります。 「斎」は「精進潔斎」というように清めるという意味があります。 極々一部の辞書にしか載っていないようなのですが、「忌」という文字にも「清める」という意味があると書かれています。 で、これについてきちんと説明しているものを見ないので、私見と考えて頂きたい(実際は複数(曹洞宗・臨済宗・浄土真宗など)のお坊様から伺った事を私なりに纏めています)のですが、 本来年忌法要は不祝儀ではないのです。亡くなった魂は49日でどの世界に転生するかが決まります。でも仏の世界はキリスト教の天国とは違い、仏教では如来に至るまで修行が続きます。(一部仏になりっぱなしという考え方もあります) この仏の世界での一つの修行を終えるのが「回忌(追善供養)」だということです。 また別の説では定期的に今日に触れることで、自ら仏の教えを再認識する事になります。 仏教では布施をしますが、布施とは功徳を人に与える事を言います。布施には種類があり、法施は仏の教えを伝える事です。つまり亡くなった方に仏の教えを伝える、或いは自ら仏の教えを得た功徳を亡くなった人に分け与える事によって亡くなった人が更に上の段階に進み、悟りに近づく事が出来る。という考え方があります。(これは仏界以外に転生しても通じると考えているようです) 更に神道でもイザナギ・イザナミ神話から死=ケガレと考えていますが、必ずしも死そのものがケガレではなく、死は再生への一ステップと捉えられているようです。ただ、それは人が触れてはならない世界であり、それに触れる事がケガレとなる。或いは死は再生に向う為に通過する“陰の極”であり、それに触れると気が枯れる事から気涸れ=ケガレとなったとされています。 これは神道概説、その他を読んで、私なりに纏めました。 つまり回忌の「忌」は清める、畏れる、人が触れてはならない世界から清浄化するという意味があるのです。 従って、回忌は「再び清める」あるいは「更に悟り(迷いの無い状態)に近づくという意味だと解釈します。
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こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 ”塩”のお話をまとめていただきまして、厚くお礼申し上げます。 今回のお話の中で、自分でもこの”塩”の使い方には、止める方向にしていこうかと思っております。 「自分で、自分の身体に塩をまく」、「自分で、自分の家の玄関に塩をまく」これらは、特に気にしないのですが、 「他人様に塩をまかれる」、「玄関先に自分が立ち去った後に塩をまかれる」というのは、決して気持ちのいいものではないからでございます。 そもそも、衛生面におきましては、現在ではもっと優れた殺菌剤もあることですから。 もちろん、お葬式等の後に塩をまくというのも、亡くなられた方に失礼にあたるとも考えられます故、この機に考え直したいと そう考えてございます。 > もう少し開いておきましょうか。 了解致しました。愚生は新たなご質疑の方に参加させていただこうかと考えております。 それでは、どうもありがとうございました。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 真宗関係などの方がもしかして参加なさるかと思って いましばらく開けておくこととします。 たしかに《塩》の問題もありましたね。これは 特にどうってことを思わなくなっていました。そう言えば 葬儀のときには 塩を入れたものをくれました。いま思い出したほどでした。 こういうふうに考えるかも分かりません。つまり 四十九日までは避けようとする忌みの中にあって そのあと年忌・周忌ということになると おそれうやまう忌みとしてその言葉を使うのだと。つまりきちんと使い分けているのだと 理屈をこねるかも分かりません。 いやはやだと思います。 二三日開けておきます。 みなさんともども ありがとうございました。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > ☆ そうしますと 日本では 死者ないし死を忌む傾向があるということでしょうか。 「ケガレ」と“清め塩”との関係 1. 古来から人々は死を恐れ、死を穢れたものとして見てきました。葬儀に携わったものは穢れを受けるので、身を清めなければ日常生活に戻れないとされたのです。 ソース:http://www.sousaiken.com/ssk/mame/4shio.html 2. また「ケガレ」を漢字で書くと「穢れ」になりますが、言葉の意味は「気枯れ」から来ているとも言われています。つまり人が亡くなって悲しみのあまり「気」が「枯れてしまう」という状態のこと。その「気」を元の状態に戻すために塩というツールを使って元に戻す「お清め」が行われるのです。 ソース:http://mrs.allabout.co.jp/contents/mrs_g4_gs_c/funeral/CU20070327A/index/ 単純に「“死=穢れ”から、身を清める」から由来したもの、さらに「枯れてしまった“気”を元の状態に戻すため」に起因するものもあるようございます。 また一方では、一般に忌明けするまでは、神棚への拝礼や神社のお参りを控える風習が見られることからも、“死=穢れ(忌むべきもの)”という風習(傾向)があったかものと推察しております。 ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 どうも神道として 死は 穢れと見なされたようですね。 ▲〔「清め塩」はなんのため?必要か、不必要か=(2)のソース〕~~ 祭壇・位牌・年忌法要などは儒教、 戒名(法名)・火葬は仏教、 黒い喪服は西洋文化の影響を受けています。 ~~~~~~~~~ ☆ とも言っていて また《気枯れ》の考え方には 実際に腐敗の問題もあったとか。 ▼ 〔お清め塩=(1)のソース〕 ~~~~ 神道では死を「ケガレ」と考えます。 昔はドライアイス等がありませんでしたから亡くなると腐敗がみるみる進行し、衛生面も悪く、悪臭を放っていたことでしょう。「汚いもの」として扱われたのは当然のことかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~ 引用していただいたほかで この清め塩の慣習に対する反対もあるとも言っていますね。まさに浄土真宗だそうです。 ▼ 〔(1)のソース〕 ~~~~ しかし、この習慣に、疑問を投げかける宗派もあります。 浄土真宗では、死を不浄とする考えに基づくお清め塩は、迷信であるとしています。 確かに、生前、親しかった人や、お世話になった人が亡くなり、それを悼む気持ちで参列する一方で、死者となった故人を不浄のものとして忌み嫌うのはおかしいという考え方もあるでしょう。 塩ひとつにも人々の考え方が表れているようです。 ~~~~~~~~~~~ ちなみに《盛り塩》の由来を次のように説明していますので 引いてみたいと思います。 ▲ 〔(2)のソース〕~~~~ 《盛り塩》 今から1300年前の晋の時代(* ⇒2,230年ほど前の秦の時代)、始皇帝は牛車に乗って後宮を廻るのですが、その際人々は始皇帝が自分の家の前を素通りしないで止まるように牛が好む塩をまいておいたそうです。 この逸話がもとで、盛り塩は「客を招く」と言われ、店先に置かれるようになったと言われています。 ~~~~~~~~~~~~~~~ この際 仏教における反対の動きについて重ねて引用しておきます。 ▲ 〔(2)のソース〕~~~~ 一方、仏教では「清め塩」は排除の方向へ進んでいます。 仏教では生と死をひとつの世界として捉えているため死はケガレたものではないとしています。 たしかに、自分が死んだとき汚いものとして塩をパッパと使われたら除け者にされたような気になってしまうかもしれません。 「清め塩」は仏教の教義に由来するものではない! 廃止するべき! と最初に声をあげたのは浄土真宗の寺院ですが、その意見に賛同している他の仏教系各宗派も増えているようです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ならば《年忌》などの忌も やめる方向に行って欲しいと思います。 ★ また一方では、一般に忌明けするまでは、神棚への拝礼や神社のお参りを控える風習が見られることからも、“死=穢れ(忌むべきもの)”という風習(傾向)があったものと推察しております。 ☆ すなわちこの《忌み明け》という考え方があるわけですから その《忌》を回忌などと使うのはどうかと考えられます。 もう少し開いておきましょうか。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonneさん、おはよう御座います。すみません、挨拶抜きでした。 ご造詣を付加してもらい、上手にまとめてくれました。 【四十九日】は死者の書にもありますね。【年忌】は、そうです中国および日本で付加したのかも知れません。日本の祖霊尊崇って独特ですね。あぁ崇め、奉るも、祟るも何か共通の字になりますね。 【赤坂憲雄さん】私は慧眼だと存じます。すばらしいです。【博覧強記】なんでしょうが物凄く物知りです。学者って、思想的に決め込んで出てきていませんね。【定まらない】というのでしょうか? ★ そして私は回忌や忌はとても聖性でしかもあの世的な慶事であると同時に一面この世的には忌むことでもあるのかも知れませんね。 ☆ 【(5)親鸞は その末燈抄の文章をNo.1の補足欄に引用しましたように 信仰の与えられたその時点ですでに往生している。】という哲理は自力であり他力である私たちヨガの精進者も大昔からその通りに理解しています。 大好きな親鸞の言っている事は親鸞の独創かも知れませんが、哲理としてはすでに私たちは伝統を引き継いでいます。 【《忌む=おそれる・うやまう》のであり、《忌中》】である、《死を忌み嫌う》】のですね。《忌み嫌》うところの【《おそれ・うやま》】いであり、【《おそれ・うやま》】うところの【《忌み嫌》】いであるという理解と納得を、私はできているのです。 現世的であり、橋とか坂を越えた彼岸でのことでして。 【親鸞の思想を重んじてうやまう】ことと、習俗として【《この世的な意味》には、忌み嫌う】ことは両立してしまっているのですね。 これは論理演算演繹ではなく、右と左の湖を両方みながら歩く、人生という宿命的なあり方だと存じます。 日本の両面宿儺の解説にこういう存在性への敷衍がなされていないのは、物足りない感じがします。 下手な投稿をして、昼酌の烏賊ゲソを作ってもらって、かえってきたら、なんともうブラジェンヌさんからの素晴らしい、まとめと薀蓄の付加を賜りました。 私は所詮は、忌みとはそういうものでしかないので、それが現実であると思うだけなんですが。 確かに親鸞の往生論からいうと、あまり一貫性はないようですね。 真宗さんからなにかご付言があるかもしれませんので、真宗さんのURLに注目していきます。 有り難う御座いました。
お礼
ご返答とご回答をありがとうございました。 ★ 確かに親鸞の往生論からいうと、あまり一貫性はないようですね。 ☆ この一文の命題に尽きると思います。 ★ 大好きな親鸞の言っている事は親鸞の独創かも知れませんが、哲理としてはすでに私たちは伝統を引き継いでいます。 ☆ 親鸞も僭越なことをしたくてしているのではなく――ましてわたくしは 独創? 独走?をねらっているわけではなく―― 信仰の対象やあり方がいかにあれ万人に当てはまると思うことを――世間一般の通念としてそうは思われていないと見るものですから―― バカとなって声を張り上げています。 もし現世往生と言いますか 即身成仏と言いますか その一瞬でのさとりとその持続という哲理が普遍的なものであるとしましたならば ★ 現世的であり、橋とか坂を越えた彼岸でのことでして。 ☆ という二重構造は 要らないとわたしは単純に一重構造のあたまですから かたくなに思っております。 ★ これは論理演算演繹ではなく、右と左の湖を両方みながら歩く、人生という宿命的なあり方だと存じます。 ☆ これは さとりの以前の段階にある境地を基準にしていましょうか? ブディズムであろうがなかろうが すべての思想は 《宿命》に屈するわけにはまいらない。こう考えます。タテマエとしてでも 高い境地のほうに合わせてもよいと考えますが いかがでしょう。 ★ 日本の両面宿儺の解説にこういう存在性への敷衍がなされていないのは、物足りない感じがします。 ☆ この《両面》は ひとつには《此岸と彼岸》のそれであり ひとつには《此岸において タテマエとホンネ》のそれであると考えます。ところが 瞬時のさとり説なる哲理にもとづけば 一方の《此岸と彼岸》なる両面は すでに雲散霧消してしまっていませんか? この世では《両面宿儺》は タテマエとホンネの二重基準なる妖怪にわれわれは悩まされているのみだと言い切ってよいかと考えます。いかがでしょう。 (土着の神学でも 死ねば神(その分身)だと言うぢゃないですか。ならば 忌み嫌うという意味を帯びる《忌》は 忌み嫌い遠ざけたほうがよかありませんか?) ★ 【赤坂憲雄さん】 ☆ その後 思想に変わりはないと思います。よってそのままです。不明を突っ込んでくれる人がいません。 ★ 真宗さんからなにかご付言があるかもしれませんので、真宗さんのURLに注目していきます。 ☆ 熱心に注目しませんが わたくしもそうします。 《法然800回忌 親鸞750回忌》という文字が メディアから目に入って来ましたので 軽く設問しましたが 問い求めはすすみますね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
bragelonneさん、素人が口出しするご質問ではないのですが。 私も回忌とか忌という字とことばに多少疑問を持ってはいました。 bragelonneさんのこのご質問を読んで(難しくてご回答とコメントを殆ど読んでいないのですが)、思い出した著作があります。赤坂 憲雄氏の異人論序説です。 たしか所論の中に嘉ごと(事)とその反対の縁起悪いこととは同じ言葉、同じ事、同じ場所にする共(併)存する、してきている。という仰せがあったかと理解、記憶しています。 赤坂 憲雄氏は民俗学の先生で私はとても大事な教えをたくさん頂いています。 bragelonneさんのこの質問の、漢字の意味や歴史、語義、そして民俗学に関連していると存じます。そして私は回忌や忌はとても聖性でしかもあの世的な慶事であると同時に一面この世的には忌むことでもあるのかも知れませんね。 昔、一生に一度のお伊勢参りも弥次喜多ではないが、娯楽でした。 札所めぐりの聖地にも悪所が併存していたそうですね。 祀りもそういう意味で両義があるようです。無論回忌や忌もそうなんでしょう。 聖徳太子も厩の、イエスも生まれがどうも伝えられるものとは違うヨウデス。バガヴァン・クリシュナも弟に王位を簒奪され、地下牢に夫婦で閉じ込められたご両親から牢内で生まれています。孔子も高い身分でなくうまれています。 聖なる存在の、反流れ性。そして不幸な生い立ち。そういう共通性と側面がありますね。 私たちヨガの教えでも、この現象的世界、形象世界は二重性、対立性、相関性、相対性を性格の一つとしている、という理論があります。 ご質問に何か参考になるかと、思い出したことを書いてみました。
お礼
くりやさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ たしか所論の中に嘉ごと(事)とその反対の縁起悪いこととは同じ言葉、同じ事、同じ場所にする共(併)存する、してきている。という仰せがあったかと理解、記憶しています。 ☆ まづこの認識を確認します。 ここまでで分かったことは こうです。 1. 日本語の《忌み》は 威力のつよいと思われるものに対して畏れる・避けるの原義を持つ。 2. それは 片や《神聖なるもの》にも 片や《穢れたもの》にもひとしく用いられる。 3. 漢語の《忌》も 《畏》の音を用いており 片や《きらう・はばかる・おそれる》を意味し 片や《おそれる・つつしむ・うやまう》にも使われる。 4. だとすれば 年忌・周忌・回忌というときに《忌》を用いるのは 片や通念として《死を嫌い避ける》と思われるとともに 片や《聖なる存在として畏れうやまう》ことだとも確かに解され得る。 5. ただしそもそも《供養》としては 供え物を捧げるのであって 畏れるか嫌い遠ざけるかの《忌み》とはおそらく筋が違うであろうと考えられる。というのも 一年未満の供養は 四十九日までおこなうしきたりであるが 年忌にかんしては 中国および日本でつけ加えられた慣習であるらしいから。 ☆ ちらっと触れたかと思われるのですが ここから考えられることとして 次のようになります。 6. ただしそれでは死者を出したとき家の玄関に《忌中》という札を掲げる。これは どうしてか? という問いがおそらく残されるはずだ。なぜなら もし《神聖なるものとしておそれうやまう》のであれば その《忌み明け》という概念がそぐわない。と思われるからである。 7. 50年・100年あるいは750年や800年の節目に特に《神聖なる存在をしのんで しかもたたえる。さらには祝う》というのであれば 分からないこともない。けれども《忌中》の忌は やはり《死を忌む》ものであろう。 8. 七七日までは《死を忌み》 年忌については《聖なる存在をおそれうやまう》というふうに使い分けしているのでしょうか? * 孔子にかんしましては じっさいの文例を引いて論じられるとよかったかと思います。 * 赤坂憲雄は 一冊のみ読みました。民俗にかんして博覧強記ですが 思想がさだまりません。上から目線ですが ひとこと申しあげます。思想が定まらないわけですので 特に批判もありません。民俗学はそれでよいと見る向きもあると思います。 ★ そして私は回忌や忌はとても聖性でしかもあの世的な慶事であると同時に一面この世的には忌むことでもあるのかも知れませんね。 ☆ (5)のおぎないとして こうです。親鸞は その末燈抄の文章をNo.1の補足欄に引用しましたように 信仰の与えられたその時点ですでに往生している。その限りで 神聖なる存在でもある。そしてその意味で《忌む=おそれる・うやまう》のでしたら 辻褄が合いますが 《忌中》という慣わしはどう見ても《死を忌み嫌う》意味を表わしていると思われます。 すなわち親鸞の思想を重んじてうやまうのならば 《この世的な意味》においても 忌み嫌うことは含む必要がないと考えます。そうでなければ いわゆる土着の慣わしに膝を折りたましいをも折って人格としても屈していると言われるものと思います。
こんばんは、野も山も人のいとなみも、にわかに動き出してまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。ヒドッチでございます。 元来は、仏教自体には、そのような“忌”の概念は存在しないはずでございます。 もちろん、カトリック(プロテスタントも含みます)も“忌”という概念はないはずかとおもわれます。 参考:http://www.jp-guide.net/manner/ha/houji.html “十三仏信仰(室町時代頃に盛んとなる)”が、この語が広まったきっかけだとされています。しかし、以下のHPにおけます、供養の目的から鑑みましても、“忌”という言葉がふさわしいとは、どうしても考えられないのです。 参考:http://tobifudo.jp/newmon/shinbutu/13butu.html > なぜブディズムが あたらしい息吹きをそそぐことをためらうのか。 権威主義に陥ってしまっているものと考えております。浄土三部教はじめ、大日経等の仏典は元来サンスクリット語で記述されたものです。それを漢語に訳したものを、現在わたしたち日本人は用いております。いっそのこと、サンスクリット語をも考慮し、漢訳の仏典を、現代語訳化し、これをお経としてみてもよろしいかと考えております。ですが、おそらく様々な圧力等が加わり実現は困難かと推察しております。 > ○○回忌の忌は よすべきではないですか? 愚生はそのように考えてございます。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ひどっちさん ご回答をありがとうございます。野も山も動き出しました――確かに。そして人のいとなみもですね。確かにそう言えば《にわかに》という感じがします。3.11からのことだと思われます。 ★ “十三仏信仰(室町時代頃に盛んとなる)”が、この語が広まったきっかけだとされています。 ▲ (やさしい仏教入門 > 十三仏) ~~~ § インドの輪廻思想から インドでは亡くなった人への供養として、亡くなった日から七日目ごとに7回の法要が行われました。 7×7=49日が過ぎると死者は他の生を受けると考えられました。 この49日の期間を中陰ちゅういんとか中有ちゅううといいます。 中国では道教の影響で十王信仰が出来上がり、3回供養日が増えました。十王は生前中の行いを審判し、本地仏は浄土へ導く仏様です。 日本ではさらに3日加わり、十三仏信仰が完成します。室町時代あたりから盛んになりました。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これによりますと 一周忌ですとかの年忌が 中国そして日本でつけ加わったということのようですね。一年未満の場合には 初七日から四十九日まで 供養の日ということのようです。 ★ 供養の目的から鑑みましても、“忌”という言葉がふさわしいとは、どうしても考えられないのです。 ▼ (ヰキぺ:供養) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%9B%E9%A4%8A 供養(くよう)とは、サンスクリット語のプージャーまたはプージャナーの訳で、仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること。 日本の民間信仰では死者・祖先に対する追善供養のことを特に供養ということが多く、これから派生して仏教と関係なく死者への対応という意味で広く供養と呼ぶこともある。 また動物等に対する供養、さらには針供養のように生き物でない道具等に対する供養もある。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうしますと 日本では 死者ないし死を忌む傾向があるということでしょうか。 ★ ~~~~~~ > なぜブディズムが あたらしい息吹きをそそぐことをためらうのか。 権威主義に陥ってしまっているものと考えております。浄土三部教はじめ、大日経等の仏典は元来サンスクリット語で記述されたものです。それを漢語に訳したものを、現在わたしたち日本人は用いております。いっそのこと、サンスクリット語をも考慮し、漢訳の仏典を、現代語訳化し、これをお経としてみてもよろしいかと考えております。ですが、おそらく様々な圧力等が加わり実現は困難かと推察しております。 ~~~~~~~~~ ☆ 《さまざまな圧力等》ですか。 でも考えてみれば 《忌》をやめてその周忌としての供養をもやめてしまえば お寺さんは食いっぱぐれになってしまうのでしょうか? でしたら 準公務員として・市町村の嘱託としてのごとく 生活が保障されつつ 法事は全体として安く挙げられるようにしてもよさそうに思えます。 ありがとうございました。この種の改革も目指してまいりたいと思います。
- pandaApple
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小生、専門家ではないので、感覚的な回答になりますが。 「忌」の意味は確かに忌み嫌うことですが、その対象は「死者」ではなく、「死」そのものだったのではないでしょうか。 「○回忌」は、親しい人の「○回目の亡くなった日が巡ってきた」「あの悲しい出来事を思い出す日がやってきた」ということではないでしょうか。 「死」が汚らわしいもの、忌み嫌うべきものであることは、仏教の思想とは関係なく、誰もが自然に感じることでしょう。 いくら生前から“聖人”と呼ばれる人たちであったとしても、その人が死んでしまった瞬間を思う時、「ああ、悲しい」「ああ、残念だ」と思うのはごく普通のことでしょう。 それが仏教の思想に照らして“間違っている”(死ぬことは当然のことで、それをいつまでも嘆き悲しむべきではない)と言われても、頭では分かってもなかなか感情は思うようになってくれません。 もともとの仏陀の教えの中には、「○回忌」という概念はなかったのかもしれません。 しかし、それが中国に渡り、中国の思想にまみれ、さらに日本で日本人の感覚の中で醸成されてきた、その結果が今の「○回忌」なのではないでしょうか。 少なくとも、誰かの命日を「“幸せな、楽しむべき日”と思え」と言われても困りますし、字として「忌」はマイナスイメージがキツイすぎるのかもしれませんが、やんわりと「偲ぶべき日」という程度の感覚で受け止めてもいいんじゃないでしょうか。 人間、死は避けたい、死は悲しい、死は恐怖だという感情はどうしても生まれます。 その時に、仏教の思想は、自分の死であれ他人の死であれ、死というものに直面しても前向きに生きるための指針になってくれていると思います。 一種の緩衝材として、今も仏教の思想は息づいていると、小生は思います。
お礼
ぱんだりんごさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 通念と言いますか われわれがふつうに思うこと感じることを確認していただきました。 それで ここでは一点のみをなお問いたいと考えます。 ☆☆(趣旨説明) すでに生前に浄土にあった人たちに 忌という言葉をつけるのは きわめておかしいのではありませんか? ☆ 次の親鸞の文章が参照されるべきではないでしょうか? ◆(親鸞:有念無念の事) ~~~~~~ 1. 来迎は諸行往生にあり 自力の行者なるがゆゑに。 2. 臨終といふことは 諸行往生のひとにいふべし いまだ真実の信心を得ざるがゆゑなり。 3. また十悪五逆の罪人 はじめて善知識にあふて すすめらるるときにいふことなり。 4. 真実信心の行人は 摂取不捨のゆゑに 正定聚のくらゐに住す。 5. このゆゑに臨終まつことなし 来迎たのむことなし。 6. 信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀則をまたず。 (末燈抄・一 伊藤博之校註) ☆ (試訳) ~~~~~~~ 1. 臨終のときに阿弥陀仏が極楽へと引き取るためにやってくるという来迎は 修行や善行を積むことによって往生する場合のことである。自力をたのむ行者であるゆえ。 2. 臨終に来迎を期待するということは 修行を積んで成仏する人に言うことである。いまだ阿弥陀仏からの他力なる真実の信心を得ていないゆえ。 3. あるいはまた重い罪を犯した人が 臨終の折りに導師に会って念仏をすすめられるときに言うことである。 4. 如来回向の信心にあずかる人は 如来の大慈悲にもれなく摂取されたゆえに まさしく往生することが定まっている人すなわち正定聚(しやうぢゃうじゅ)のくらいに住している。 5. このゆえに臨終正念というような往生のかたちを俟つ必要がない。来迎をたのむこともない。 6. 信心の定まるとき 往生が同じく定まるのだ。来迎の儀式を俟たない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 空海の即身成仏に応じているかとは思います。 永遠の現在 これが確かなコトとなるのが 往生のすがただと思います。 これを《忌》と言うのは どう考えてもおかしい。のではないでしょうか? ★ 少なくとも、誰かの命日を「“幸せな、楽しむべき日”と思え」と言われても困りますし、字として「忌」はマイナスイメージがキツイすぎるのかもしれませんが、やんわりと「偲ぶべき日」という程度の感覚で受け止めてもいいんじゃないでしょうか。 ☆ 受けとめてもいいぢゃないかと思うときに 《忌》という文字はそぐわないと思います。《〈偲ぶべき日〉という程度の感覚》とは違うと思います。
お礼
みかえるさん ご回答をありがとうございます。 全般にわたって 少しづつ違った見解を持ちます。また少しづつ違った語義やら民俗理解やらをも持ちます。そのような別解を載せますが さらにまとまった解が得られればよいと考えます。 まづ 質問の中心についてです。 ★ 従って、回忌は「再び清める」あるいは「更に悟り(迷いの無い状態)に近づくという意味だと解釈します。 ☆ これについてはですね ブディズム一般はどうであれ No.1のお礼欄にも引きましたように 親鸞に限っては――空海の即身成仏と同じように―― 信仰が与えられたそのときから すでに往生している。浄土にいる。という捉え方をすると受け取っています。その限りで いちいちこの《再び清める / さらに悟る》といった考え方は無縁だと考えるものですが どうでしょうか。 ことばの問題について見ておきたいと思います。 ★ 更に神道でもイザナギ・イザナミ神話から死=ケガレと考えていますが ☆ これは どうでしょうか。もともとの意味ではないように思うのですが? すなわち ★ 或いは死は再生に向う為に通過する“陰の極”であり、それに触れると気が枯れる事から気涸れ=ケガレとなったとされています。 ▼ (ヰキぺ:ハレとケ) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%81%A8%E3%82%B1 「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。 民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、 ハレ(晴れ)は 儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、 ケ(褻)は ふだんの生活である「日常」を表している。 また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)という。 ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。 ~~~~~~~~ ☆ ですが ケ(褻)は 日という意味の言葉だと考えます(大野晋)。二日(ふつか)・三日(みっか)のカ 暦〔こ(日)よみ(読み=数える)〕のコの母音交替のかたちであって 同じ語であると。ヒ(日)は 母音交替とともに 子音も交替しています。子音交替は 単数と複数の違いであるようです。 これにもとづき ケガレ(気枯れ)は あとづけの説ではないかと踏んでいます。 つまりはケガレが ケ(褻)カレ(離れ)だとすると 日常(ケ)から離れた状態を言うものと考えられます。それには ふたつの場合があって 一般にめでたい場合は ハレ=晴れであり そうでない場合は 狭義のかたちで ケガレ=穢れに通じて行くのだと。 漢字の《忌》ですが: ★ ~~~~~ じつは「忌」という時は「斎」や「畏」と同じ意味があります。 ・・・ 極々一部の辞書にしか載っていないようなのですが、「忌」という文字にも「清める」という意味があると書かれています。 ~~~~~~~ ☆ たしかに《忌は 己が音を表わし 畏(い)から来ている》(貝塚茂樹ら・角川漢和中辞典)と言います。また《はばかる・おそれる // いましめる・うやまう》の意も載っていますが 《清める》の意は 確認できませんでした。 ● いみ【忌み・斎み】(大野晋(『古語辞典』)~~~ 《原義の解説:イはユユシのユの母音交替形。タブーの意。 つまり 神聖なもの・死・穢れたものなど 古代人にとって はげしい威力をもつ 触れてはならないものの意》 [動詞] 1.(口に出すことがタブーだから)決して言葉にしない。 ・隠沼(こもりぬ)の下ゆ恋ふればすべを無み妹が名告りつ―むべきも のを(万葉集2441) 2.(触れてはならぬと)避ける。 ・心ざしありて〔食ベロト〕言はんを、―みたらんやうに、口をふたぎ (枕草子196) 3.(ある定まった行為を)してはならぬものとする。 ・今の世の人、夜、一片の火を―む。また、夜、擲櫛(なげぐし)を ―む(日本書紀 神代・上) 4.相容れないもの 受け容れがたいものとして嫌う。 ・コノクスリカネヲイム(日葡辞書) [名詞] 1.神聖で触れてはならないものの意。 2.穢れ。不浄。 3.さしさわり。はばかり。特に 日取りや方角などについていう。 ● ゆゆし ~~~~~ 《ユはユニハ(斎庭)・ユダネ(斎種)などのユ。神聖あるいは不浄なものを触れてはならないものとして強く畏怖する気持ち。 転じて 良し悪しにつけて甚だしい意》 ~~~~~~~~~~ 忌が清めるの意を含むか? たとえそうだとしても親鸞にはそぐわない。こう問いました。
補足
おぎないます。 ★ 忌火 ☆ について 資料などを添え 考え合わせます。 ★ 忌火(いみび・いむび)は神様に供える神饌を調理する為の火です。 ▲ (ヰキぺ:忌火) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E7%81%AB 神道で「清浄な火」のこと。火鑽(ひき)りで熾し、神様への供物の煮炊きなどの神事に用いる。 宮中や伊勢神宮などの重要な祭にあたり新しく鑽り出される火のことをいうが、他の神社においても鑽火神事(きりびのしんじ)として行われる。 伊勢神宮には忌火屋殿(いみびやでん)があり、そこで木と木をすり合わせる「舞錐式発火法」(まいきりしきはっかほう)で「御火鑽具」(みひきりぐ)を用いて火を切り出す。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち この《忌火》の場合には 一般的な《忌み》の持つ《避ける・触れてはならない》の意味ではなく ○ 清浄な〔火〕 ☆ という語義がもろに出ています。これは なぜか? ですが この《清める・清い》といった語義が初源であるかと問えば どうもそのようには考えられません。《清めた》結果であれば 《穢れ・不浄》という意味をも帯びるとは考えられないからです。 やはり ◆ 《神聖なもの・死・穢れたものなど 古代人にとって はげしい威力をもつ 触れてはならないものの意》 ☆ を原義としたほうがよいかと結論づけます。つまりは 《神聖なもの》も禁忌の対象になるということのようですから 神聖な・清浄な〔火〕という意味にそのまま採ればよい。こう考えますが いかがでしょう? 《清いものも穢れたものも》 忌む対象であったと。 あれーっ。 もしこうであれば ひとりのブッダとなった親鸞や法然は 生前や死後の別には一切関係なく《聖なる存在》としてただその死の年からのめぐりあわせを《回忌》として《忌》の語を用いているのでしょうか? つまり死を穢れとして見なすのではなく ブッダとなった神聖な境地を年の循環に応じて祝っているのでしょうか? だれか おしえてください。 * でも死者を出したとき 家の玄関には 忌中という札を張りますね。《ブッダになった》ことを意味しましょうか? それならよいのですが。