※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:自分の夢とキリスト教)
自分の夢とキリスト教
クリスチャンの方々に質問します。
大学による在学中にクリスチャンの友人ができ、そのクリスチャン(学生)は神様の教えに熱心に耳を傾けているまじめな友人で、色々と交わる機会が増えていく中で、その友人と自分たちの将来の夢を語りました。友人の夢はキリスト教を教える教師であり、そして自分の夢はイラストレーターなどの絵描き(アニメ)になるということを言いました。そして友人が「どんなジャンルを描くの?」と聞くと、自分はオタクなのでコアな描写や美少女などを描いてると返すとその友人の表情は険しくなり、「他は?」と聞くと自分はミリタリーオタクなので兵器やらの類が好きでよく描くんだよねと言うと、その友人は更に気まずい顔になった後こう言いました。
「それは人としてどうかと思う・・・」
それを聞いた後、それはオタクに対する当然な反応だったので別に気にすることはありませんでした。
ある日のこと、その友人が所属するキリスト教に属するサークルに一緒に参加しないかと誘われ、試しに参加してみることにしました。不思議と一回だけでなく、毎週参加するようになり、聖書という書物をふれるなかで物事の真理やキリスト者の奥義みたいなのを学び、今度は教会に言ってみないかと誘われ、行くことにしました。
その教会はプロテスタントであり、韓国人の牧師さんでした。
教会生活が充実する中で、聖書の内容や礼拝のメッセージが自分のしてきた生活感と共通するようなものを発見し、神様はほんとにいるということを確信していきました。
しかし自分が目指している夢(絵描き)にはなにも接点は無いだろうと思っておきながら、聖書内で「姦淫やみだらな行為をしてはならない」という箇所を見つつ恐れ、自分は楽しく絵を描きたいのに、そのような箇所を見つけては落ち込み、また自分が時間をかけて描く世界などは、聖書の教えでいうと「自分が神であると思うな」などがあり、自分は自分の夢に誇りをもてなくなりだんだん絵を描く行為そのものが少なくなっていきました。
「これを描いたらだめ」・「これを描いたら神様の天罰が下る」などの不安要素がつのる一方、クリスチャンである友人にそのことを相談したら、「神様が止めているんだよ、ぼくはそういうみだらなものを描くよりももっと人々が見て心地よくなるようなものを描いて欲しいね。」と言いました。
自分の描きたいものが描けずに、そのような葛藤みたいなものに関しては未だに継続中です。
自分勝手なのか、それともただ自分は考えすぎてるだけなのか、そのようなこともわからないでいます。
とても変な話だと思いますが、状況改善などのアドバイスが欲しいです。
宜しくお願いします。
お礼
回答ありがとうございます。 プロテスタントやカトリック、または色々な思想や考察感など様々なので、自分では抱えきれない何かを今もっています。 それらを軽減させていくために広く浅くが重要なんだなと思いました。