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なぜ神様を誰も見たことないのに信じるのでしょうか?
なぜ神様を誰も見たことないのに 信じるのでしょうか? 私は神様を信じでいません。 ですが神は要ると言う人はいますね。 誰も見たことなくて神が居ることを証明できない=「いない」 なのに なぜそれが「いる」と決めつけられるのか不思議です。 度言う言う心理なのかわかる方 よろしくお願いします。
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私論ですが、いなくても居ると思えばきっといるんです。 存在しなくても心に想像すればとりあえずは心の中には存在しているということになりますよね。 そうやってどうしようもなく救われない物事を 実際は存在せずとも理解してくれるよりどころになってくれる そういった自分に必要な『支え』を求めているから信じている人がいるのではないでしょうか。 私は別に宗教などをしているわけではないですが もしも神様が目の見えないところに居てくれたなら 自分が誰にも気付かれず苦しんでいたとしても 神様は何もしてくれないけどただ、その苦しみは理解して見てくれてるんじゃないかな など想像します。
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- Paulus0412
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カトリックのクリスチャンの者です。神は確かに存在する、と信じている一有神論者の視点とキリスト教的な神の概念を前提に一信仰者としての意見をお伝えします。 証明できないけど、確かに存在すると思えるものに「愛」というのがありますね。質問者様は親子の固い絆や親友との絆など様々な愛、深く結ばれた愛を信じますか。 というのも神様の存在を証明する、というのは、愛の存在を証明をする事と同じくらい、非物質的な事、つまりは「信じること」に依存する事が大きいからです。 愛はどこからやってくるのでしょうか。仮に愛のメカニズムを、物質的な側面から科学的に証明しようとするなら、専門家ではないのであまり僭越な事は言えませんが、例えば一つの捕らえ方としては脳神経系の作用から説明することになるかと思います。 しかし、ことさら証明対象が「愛」であるなら、科学的な手法を用いて証明する愛のメカニズムというのは、我々人間にはどの程度意味あるものになるでしょうか。ある物質が脳内に分泌されたとき、愛情が湧くといわれても、その知識が、日々の生活の中で持つ様々な愛情になんらかの好影響を与えるものでしょうか。例えば、その知識が応用されて、神経系に作用して親子の愛情を増幅させる薬が発明されたとしたら、その薬によって生じた愛情は本物の愛とは言えないような気がします。またその知識を得たからとて、精神的な修養をせず、物質的な作用で愛を強めたところで、人間の理性を無視して生み出したその愛には、やはりなんら意味はないでしょう。 ただ、幸いな事に多くの人はそのような証明がなく、そして目には見えなくとも「確かな愛」というものを信じているように思います。信じることが愛を証明している、と言えるのかもしれません。 神は存在すると信じる事もこれと同じような気がします。愛の証明ができないように、神の証明もできないが、確かに存在すると確信するもの、もしく確信したいもの、そういうものだと思っています ここからは、キリスト教的な立場からの話になるのですが、愛を例えにした理由、聖書には「愛するものは神を知っている。神は愛だから」とか「愛は神から来るもの」という言葉があります。愛というのは時に神と同義語です。愛を証明できるのなら神を証明したも同然と、一キリスト者としてよく考えることがあります。 さて、自分が様々な人から受けている、目には見えない愛といものを、科学的手法を用いて証明できるものか、そうでなくとも確かに愛を受けていると確信することができるか、神の存在を信じる、というのは私にとっては愛の存在を信じることとイコールであり、目には見えなくてもそれは確かに存在する、そう思って神はいると感じています。 乱文乱筆で長くなりましたが、日々感じていることを書いてみました。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- codex_regius
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神様というのは存在ではなく、概念だと考えるとわかりやすいかもしれません。 例えば、質問者さんは数字を見たことはありませんよね?1や2が実体として存在しているのを目撃したことはないと思います。それは数概念という概念だからこそ、実体はなく、目撃も適いませんが、それでも質問者さんは数字を使う際、これは数字だろうかと疑ったりはしないと思います。1を見れば、「いち」という数概念だと理解できるからこそ、数字を使う際に疑問を抱くことはないわけです。 神もこれと同じです。 世界を理解する時、神という概念を想定すると、世界は理解しやすくなる。理不尽なこともきっと神の深慮があるはずだ、と思うことで、不可解さを解消もできます。 世界の矛盾を解消するための概念として想定されているのが神であり、それで現実問題として、矛盾が解消されるなら、その概念は有効であり、神は確かにいるということができるだろうと思います。 なので、それはあくまで仮定です。神に代わる矛盾の解消法があれば、神を否定する人もいます。科学を信じれば神の存在は否定できるし、現状、平和な社会に生きている人ならば、世界の矛盾に遭遇する機会もあまりありませんから、矛盾解消のための装置としての神概念を必要とはしません。 それは貨幣経済を持たない民族には数字が意味がないのと同じです。 質問者さんが神を信じていないのは、神概念を必要としていないからでしょう。 それはそれで幸せなことですから、いいんじゃないでしょうか。 世の中の理不尽に虐げられて悲しんでいる人にこそ神は必要で、そこに神の存在理由があるということになるだろうと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。
信じられないとやっていけないからです。 旦那から愛されていると信じて込んでいる奥さんがいます。 そんなこと実際はわかりません。 浮気しているかもしれません。 それでも、疑っていたら普段の生活が成り立ちません。 それで、愛されていると信じてやっているわkです。 悪いことすれば天罰が下る。 いいことすれば神様のお恵みがある。 本当にそうだと半分信じて庶民は生活しています。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- kangaroo-D
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見たことが無いのに信じること自体は、不思議なことではありません たとえば、あなたはインフルエンザウィルスを見たことがありますか? 見たことが無いのに、予防接種など受けてはいませんか? 更にいえば、誰も見たことが無いのに、いるに違いないということで、治療薬までつくられているウィルスがいるのをご存じですか? 人間は自分の目で見ていなくとも、もっともらしい理由があれば、信じられるものなのです 神を見たことがある人はそこらじゅうにいますよ 数で言えばインフルエンザウィルスを見たことがある人よりも多いいのではないでしょうか? 因みに「存在しないこと」の証明は非常に困難です 現代科学では 「存在することの証明ができない」=「存在しない」という方式は成り立ちません つまり、現代科学でさえ神の不存在証明はできていません いるかいないかは、個人の考えしだい、ということです
お礼
ご回答ありがとうございました。
- Segenswind
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神様の定義にもよりますが……。 >誰も見たことなくて神が居ることを証明できない=「いない」 ここにも論理の大きな飛躍がありますので、これも一つの決めつけと言えます。 証明できないことは、単に証明できないというだけのことであり、それ以上でも以下でもないからです。 もしそれに対して「=存在しない」という意味を与えるなら、それはつまり「非存在を信じている」という立場から付け加えたものに他なりません。 ですので、ご質問への回答としては、「いる」か「いない」かと言う方向の違いだけで、基本的な心理構造はご質問者と同じなのではないかと推察されます。 一例を挙げます。 例えば、「人間(他人)に心がある」ことは証明できません。 五感を使って認識することもできませんし、いかなる手段を使っても心そのものを物理的に測定することは(少なくとも現在の技術では)不可能です。 互いに会話をしたり、ある種の刺激に対して固有の反応を返す、ということは観察できますが、例えば「哲学的ゾンビ」や「水槽の脳」(下記URL)のようなものを仮定すれば、必ずしも心の存在を証明するものとは言い得ないことが分かります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%93 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%A7%BD%E3%81%AE%E8%84%B3 にもかかわらず、普通の人は「人間(他人)に心がある」ことを信じています。私もそうですし、ご質問者も同様なのではないでしょうか。 これは決して証明されたから信じているわけではなく、単に「常識だから」「その方が都合が良いから」「というかそもそも意識したことさえない」というような理由で信じている、つまりは決めつけているものです。 (本来は「普通の人」の定義や、そもそも「信じる」主体とは何なのか等も論じる必要がありますが、ここは哲学ではなく心理学カテゴリなので省きます。詳しくは「独我論」などについて調べて下さい) このような事例は枚挙に暇がありません。 その社会の常識に照らして、信じるか信じないかが許容されている場合にのみ、ご質問のような問題が発生するようです。 念のため私の立場を表明しておきますと、私は神様を積極的に肯定も否定もしていません。 いたら面白いな、とは思いますが。 好みでは八百万の神様が馴染み深いのでいいですね。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- akaitora
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こんばんは。 推測で失礼ですが、貴方は神を信じれないのではなく、神を信じる人間が信じられないのでしょう、イスラムの礼拝や自爆テロを始め、初詣も馬鹿馬鹿しいですか? 居るor居ないは水掛け論になります、居ないと証明できないのに、なぜ居ないと決め付けれますかと?反論できますよ 神を信じない事が、貴方の精神を強く支えているなら、何も申し上げることはありません、神を信じる人は信じる事で、安らぎ等の精神的安定を得ているのです。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- konata508
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人間が空想する生き物だからだと思います。動物にはこのような機関がないのであるがままをとらえますが、人間は自然現象からも日常などと繋げ連想し、それに対する恐れや畏敬の念を持ちます。見たことがないとはいいますが、そこに何かを連想してしまうと見えてしまいます。だから、「誰も見たことがない」とは言えないと思います(神に限らずお化けや悪魔でも)その連想する中で物語が作られていき、それを後世に伝えることでより信じられる要素を深めると思います。原始宗教だとシャーマンがより「神」に近づくためと幻覚系の薬物や精神状態に持っていきますよね。聖人が起こしたという奇跡も天変地異や気象変化、はたまた科学的なトリックを用いることで説明はつきますが、それも「空想」あり気の話だと思います。よく言えば「ロマンチスト」のたわごとが信じたい人によって語り継がれているだけだと思います。「信心」あっての話であり、誰にでもある感覚ではないでしょうか(危険を回避するために予測するように進化したのが人間ならその中に日常から当てはめたありえないものも見えるでしょうから)
お礼
ご回答ありがとうございました。
神様は存在するのですが、神様をみる術(すべ)がないからです。 例えば、貴方の手にはいくつかの種類のカビや細菌がいっぱい付着していますよね。その細菌を貴方は見たことがありますか? (おそらく、顕微鏡での写真や寒天での培養ではじめて存在を知り、「必ずあること」を確認したはずです。) 神様も同様で、神様は自然界に人類より先から存在するでしょうし、人類が滅びても存在するでしょう。 残念ながら、この神様は人類が直接的に見ることができません。それは、顕微鏡のような「神様を見る装置」がないからです。でも、神様はいるはずです。 (何故なら、元素でできている貴方が、想像したり動いたりできる生命は 「神」 が作ったとしかいいようがないからです。) 同様に、「幽霊」はいるでしょうか? (幽霊はいないと考えます。何故なら、その動力がないからです。でも、神様同様に確認方法がありません。確認方法がなければ、「否定」は困難ですが、「肯定」するほうが合理的です。) 神様の姿形は、長い白髪を束ねた老人のイメージですが、あくまでもイメージであるため、犬からみたら「四つ足のムク犬」かも知れませんし、魚からみたら「白鯨」にイメージされるかも知れません。それは、自身を昇華した姿形だからです。 (よって、本来の神様は白く発光体で上下左右表裏の区別のないものと考えます。また、神道では「御神体」が鏡の場合がありますが、自身を写すために自身が昇華した象徴と考えます。) 【余談】仏様は、人がなったものですが、最初の仏様は自然にいらっしゃる様です。http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
お礼
ご回答ありがとうございました。
- ID10T5
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いろいろな経験をした結果、「神様はいる」と考えた方がうまく説明ができる、そういう結論に至った人が神様の存在を信じるのだと思います。 彼らは決して決めてつけているわけではありません。 彼らにとっては神様はいると考えた方が物事のつじつまが合うのだから仕方がありません。 どんな体験かは人それぞれ。 大切な親族をなくしてできた心の穴を何かがふさいでくれたとか、枕元に誰かが立って不思議な言葉(啓示)を残して行ったとか。 他人からみれば一笑に付して終わりのような体験かもしれませんけれど、それでその人が幸せになるのだったら「あり」だと思いますけどね。 それを不完全な人間と切り捨てるのは愚か者のすることであって、他人がとやかく言うべきことではありません。 アインシュタインなどのノーベル賞受賞者級の頭脳の持ち主でも、長い間の研究の末に最後はこの世は神様が作ったとしか考えられない、という心境に至るようです。もちろんキリストとかアラーではない別の神でしょうけど。 ボクも今は神様の存在を信じていませんし、若いころは神様なんているわけない、と思っていました。 でも歳をとっていろんな経験をするごとに、もしかしたら将来は神様の存在を受け入れるかもしれないなと思うときはあります。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- noname002
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おっしゃるように、眼で「見た」か どうかということ、確認できたか どうかなどは、「信じる」ことにおいて、さして重要ではないのでしょう。 「神」にせよ「宗教」にせよ、その起こりには、そもそも、自然界や摂理というものへの畏敬の念や恐れ、不安などが根底に大きくあるのでしょうが、 仮に、いないことが歴然と「証明」されてしまったとしても、なお信じる人は大ぜいいるのではないかなと思えます。 ちょっと考えてみてください。 「見ていなくて」も信じていること、もう信じるしかないようなこと、現に、質問者さま御自身も、たくさん抱えていらっしゃるだろうと思いますよ。
お礼
ご回答ありがとうございました。
お礼
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