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環境破壊がいけない理由
最近考えるほどわからない問題があります。 環境破壊はなぜいけないのでしょうか。 様々な回答があると思いますが、 哲学方面から、それに答えを出せるでしょうか。 (というより哲学からの回答しか意味がないと思っています) エコロジズムは21世紀の倫理となりうるのでしょうか。 哲学の応用問題だと思いますが、よろしくお願いします。
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お礼や補足をお急ぎになる必要はありません。ご自分のペースでどうぞ。また、私は質問者が求める限り、そして自分の能力が及ぶ限り、いくらでもおつきあいします。 ディープエコロジーでの「人間」の捉え方に疑問をお感じのようですね。 まず、「人間は自然の一つ」。おっしゃるとおりです。ディープエコロジーでの捉え方はそういうことです。「人間と言えども数ある生物種の一つにすぎず、なんら特権的なものではない」と。 でも、gattoさんの疑問はもう一歩進んで、「生きる上で環境を変化させるのも生命の本性(nature=自然)である、文化を持ち、科学の力をもって自然環境を改変する人間の営みも、人間という種にそなわった本性ならば、人間はそういう営みを通じて生態系の一員となっていることになる、これがどう考えられているか」ということのようです。 そういう本性を持つ人間を、生態系内に調和させるための考え方として、一つには「文化やら科学やらという、人間以外の動物が持たない特権的な力を捨て、人間という生物種として生きよ」という方向がありえます。ただ、これはただ単に考え方としては可能ということであって、文化の力に守られていない人間という生物種は恐ろしく脆弱なものですから、実際にはあっと言う間に絶滅するでしょう。現実的ではありません。 知る限りにおいて、ディープエコロジーはそのような主張はとっていません。この思想の原則通りに考えていると思います。すなわち、「人間の持つ文化や科学の力を肯定し、その存在を認めるが、その力による自然環境改変の程度は、生態系バランスのとりかえしのつかない破壊にならない限界内に留めなければならない」ということです。 前回ガラパゴスの例を挙げながら「アニマルライト」に対して「ディープエコロジー」を対比してみましたが、これと同じことです。イナゴが異常増殖して生態系バランスを乱そうとしているなら、これは間引かなくてはならない。同様に、人間が過剰増殖しており、しかも科学力によってさらに急激に生態系バランスを乱そうとしているなら…やはり間引かなくてはならない、ということです。だから「人類の9割を…」なんて話にもなってくる。 ですから、ディープエコロジーによる「人間の脱中心化」は、それなりに徹底しています。これが極端なものになるとアウシュビッツまでもう一歩という、文字通り「非人間的な」発想にもなりうるものですので、私はそこが好きになれないのです。 ディープエコロジーの解説を離れて、人間の文化や科学の力ということについて自分の考えを少し述べます。 文化や科学が自然環境を破壊している部分が目立つのは事実ですが、やはりかと言って否定することはできないと思います。また、それらがただ単に「自然に敵対するものである」と見なす必要もないでしょう。そう見えてしまうのも、「自然と人間」という二分法図式がもたらす弊害です。 実際には、「人間が介在することで初めて成り立っている生態系」もあります。農耕は人間による自然改変であり、一面において自然破壊ではありますが、農民たちは土と水のために「森」を育てることに腐心したものです。森を育てるには「間伐」という人為的操作も有効です。農民だけではありません。最近では仙台湾でカキを養殖する人たちが、その滋養の元となる森を育てようとしています。こうした、自然と関わる仕事に携わる人々の知恵は立派な「文化」であり「科学」ですが、自然に敵対するものではなく、それを豊かにするものです。自然と人間の二分法ではなく、両者が関わりあって両者が共々成り立っている姿の中からも、学ぶものは多くあると考えます。 それから、「人間と自然の上下関係」について。 「強者としての立場から、多様性の維持を志向する」という考え方は、ディープエコロジーのエッセンス的な原則の中には入らないでしょう。「あくまでも生物種の一つ」ですから。ただ現実に、ディープの方々が思想を具体的な行動に移そうと考える局面で、そうした考え方を受け容れざるをえなくなることは考えられます。生態系を壊すのも人間、そして、それに対して積極的・能動的・主体的に修正を働きかけることができるのも人間だけだからです。 この考え方をはっきり出しているのが、キリスト教的環境保全思想です。旧約聖書の「創世記」では、神様はアダムとイブを創造した後、彼らに自然の支配権を認めています。これは、とりようによっては、人間の欲望による自然からの収奪・搾取を肯定する考え方を根拠付けるものでもあります。が、「キリスト教的環境保全思想」は、いわばこれを逆手にとって、人間を「自然の姿を十全に保つための善意の管理者」と位置付けようとするのです。 私はクリスチャンではありませんから、こういう特定宗教をバックボーンとした考え方は素直に認めたくないです(それに、結局欧米中心だし)。が、位置付けは微妙。人間の自然に対する優位を認めているという意味では「人間中心主義」の枠内に留まっているとも言える。…ただし、その背後には「神」がいます。これを考えると、人間を脱中心化しているともいえます。 こういう立場を代表する人として、アメリカのナチュラリスト、ヘンリー・デイヴィッド・ソローがいます。この人の言葉で、好きなものがあります。 「神の目から見て美しい。」 どんなに醜い生き物でも、ということです。神は、それが美しいと思ったからこそ、創造した。 人間の偏狭な価値基準で自然を裁断してはならない。そういうことを、彼は「神」という言葉を用いて述べたのだと理解しています。
その他の回答 (29)
うう~ん。隅から隅まで読ませて頂きました。 で、僕が以前似たような質問に回答を寄せてるんですが、 どうやら、そちらもお読みになられているようです。 で、僕のこの文をお読みになるころにはおそらく、 「似たような質問」の方はお読みになり終わられていると 予想して、ちょっと一足飛びですが、 いきなり「エゴ」について語りましょう。 エゴね、これ、難しいんです。 一般的には否定的な匂いのする単語として使われます。 でも、悪いことばっかしか?っていうようなことを補足やお礼で 言われてますね。 いんや、よくも悪くもねーっす。 エゴがあるから人間前進できるんですね。「俺が俺が」って。 こういうと否定っぽいけど、人間の生活を向上させる原動力になってきたのは 火を見るより明らかです。 じゃー、その「向上」ってのはどうなのよ? とこうなります。 その「向上」ってのが、環境破壊の原動力でもあるんですね。 「工場」とか出来たりして(笑)<すいません、おっさんなもんで。 前に「クローン人間.....」ていうようなタイトルの質問に同様のこと を書いたんですが、やっぱし、拡大再生産を続けて進歩しつづけなあかん、 というような社会の構造にどこかでストップをかけないかんと。 でも、今こうして僕は、あなたの質問に答える為に、悩みながらキーボード を叩き、無駄な電力の消費をすることによって、環境破壊に拍車をかけているのが 現状です........... こういう行動も環境破壊の一助と確実になっているわけでして........ このように入り組んだ問題を簡単に解決または一定のコンセンサスを作るってのは 難しいです。 結局ね、ブッダ級の悟った人にでも説教して回ってもらうしかないか? エゴについて。 で、結局のところ僕程度の知識では人情に訴えるのが精一杯かもしんない。 ああ、そうそう。 >「自分にどういう影響が及ぼうが俺は今を楽しむんだ!」 >という人にはどういえばいいのでしょうか? その人には「あした有機水銀入りの魚を食べるはめになるかもよ?」 とか「もう食べてるかもよ」とか、「あしたからハウスダストのアレルギーになるかもよ」 とか脅迫するしかないでしょう、たぶん。
- serpent-owl
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まずお詫びと訂正を。環境破壊を「自殺」と表現されていたのはQ2kiraiさんでしたね。Charlie24さんはそれを受けて「親殺し」と表現しておいででした。勘違いです。ごめんなさい。「親殺し」という言い方も、自然とは人間を育むもの、生存の基盤ですから適切な表現ですね。そして、前回紹介した世代間倫理の考え方からすれば、環境破壊は「子孫殺し」とも言えるってことです。 あっと、もう一点、お詫びと訂正。前回、「このネタはモメる」と書きましたが、「このネタは盛り上がる」とすべきでした。いやホント、「時間」って何なんでしょう?(って、どこにハナシ振ってんだ?>おれ) で、今回お邪魔したのは、sayuさん、Charlie24さん、naturalistさんが用いておられる「人間のエゴ」について、考えを述べるためです。 実はその…gattoさんが回答No.10に「ひっかかるもの」を感じておられるとすれば、それはおそらく、私の回答が「人間中心主義の枠組みを抜け出していない」点ではないかと思ったのです(他の理由も…ちょっと見当がついているのですが)。これにも関係することです。 ではいきますよ。まず、これが言えます。 「エゴイストは人間だけじゃない!」 利己的な遺伝子の話を持ち出すまでもなく、生き物はみんな生きようとします。そして、生きるということは多かれ少なかれ環境に変化をもたらさざるをえないことなのです。動物も、植物も。微生物でさえ。 ビフィズス菌は、よくは知りませんがオリゴ糖を食べて増殖して悪玉菌を圧迫するのでしたね。腸内の「環境」を変化させているのです。植物だって光合成で酸素を作り、嫌気性生物を死滅させたとのこと(keronyanさん、勉強になりました)。動物だって、糞すりゃ周りが臭くなります。 こうしてそれぞれの種が、それぞれの生の営み、それぞれのエゴイズムを発揮して環境に影響を与え、その影響が相互作用しあいながら巡り巡って、まとまった生態系を作っている。それが自然の姿でしょう。 ただ人間の場合、その「生の営み」の範囲がハンパじゃないわけです。生物たちの営みが、その個体やせいぜい群れの力が及ぶ限界内のものであるのに対して、人間のそれは組織化されており、科学技術の力を借りて大規模化しています。環境に与える影響の大きさがケタ外れに大きい。 こうした「エゴイズム」を肯定的なものととるか、否定的なものととるか。これには確実な根拠があるとは言えない恣意的な価値観が紛れ込みます。微生物による有機物の分解を「腐敗」ととるか「発酵」ととるか。人間の役に立つ場合は「発酵」で役立たない場合は「腐敗」です。微生物くんたちにとっては、やってることは同じなんですが。奄美大島のゴルフ場計画は(ちと古いですが)、天然記念物アマミノクロウサギを重く見る人にとっては「環境破壊」であり、ゴルフ場の経済効果を重く見る人にとっては「開発」になります。この場合、それが利益になる人間と、そうは思わない人間との間で対立が生じます。相対的な問題です。 こういう個々の具体的な問題に関しては、哲学は直接的な処方箋を出すことはできないと思います。「人間の生活をよりよくするための開発」は基本的に是とされましょう。が、とりかえしのつかない環境破壊に至らない範囲で、それがどこまで許されるのかというアセスメント(評価)は自然科学の手法による仕事でしょうし、最終的な決定を下すのは政治の仕事でしょう。こういうことに関して哲学の立場から言えることは、せいぜい「人間のエゴは大規模で打撃力が大きいがゆえに、適度に抑制せねばならない」というような、抽象的なことでしかない。(開発途上国の問題も同様。途上国の熱帯雨林を保護したいと先進国がワガママ言うなら、途上国の利益を考えた、それなりの政治解決を模索せねば。) 直接的に哲学の問題となりうるのは、むしろその「人間のエゴの在り方」だろうと考えます。gattoさんの言葉で言えば「細かく分ける」ということ。「人間のエゴ」の内実を弁別し、規整する足場を整えること、です。 「おのれの利益のために、何物をも省みない剥き出しのエゴ」が一方にあります。犯罪にはこれが絡んできますし、自然環境との関係で言えば、「経済利益至上主義」みたいな無軌道な乱開発がここから生じましょう。近代初頭から現代に至るまで、おおむね人間はこれをやってきたのです。これは反省されねばなりません。悪い意味の「エゴ」として。 が、「エゴによるエゴの乗り越え」というエゴイズムのあり方も考えられると思うのです。妙に逆説的な言い方をしていますが、内実は簡単なことです。また、これが「人間中心主義の枠内」に私が留まろうと考える立場です。要は「エゴの内容」。人間が、自らの生存にかけるエゴイズムというものを、その本来の意味で徹底するということです。すなわち、「人類の生存を最優先に考える」という意味でのエゴイズムです。このエゴイズムの視点から、自然環境、および未来の世代に「配慮」する。…というその意味で、「ホントは地球に優しくじゃなくて、人間に優しいエゴイズムじゃないの?」というsayuさんのご意見や、No.7のCharlie24さんへのgattoさんのお返事など、私に言わせれば「それでいいじゃん」ということになります。だから私は、さしあたって「人間中心主義」の立場をとります。 とは申せ、「人間中心主義」に関わる議論はここに記したものにはとどまりません。そもそも「人間中心主義」なる言葉自体、少々「十把一絡げ」的なところがあり、その内実は「人間愛・博愛主義」みたいなものや「人間の利益になれば何やってもいい」みたいなの、「人間=自然の管理者」というキリスト教を背景としたものなど、いろいろあります。 「反・人間中心主義」の方にも、ディープ・エコロジーとかアニマルライトとか、一筋縄にはいかないのが控えております。 gattoさんが気長にお相手いただけるのなら、そういう話もおいおいしてまいります。 P.S. こちらに来てくれて嬉しいです。(勘違いかもしれませんが)
大きなところでは「ガイア説」から 「生物多様性の確保」「種の保存」「世代間倫理」と だんだん自己中心的?に絞っていくと この問いは「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いと 同じスタート地点に立つと思います。 なぜ人を殺してはいけないのか?は私の知るところでは まず「朝まで生テレビ」である高校生が発した問いであり これに西部すすむが激怒して件の高校生を叱ったことがスタートでした。 これを大江健三郎が朝日新聞のエッセイで取り上げて 「私はむしろ、この質問に問題があるとおもう。 まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。 なぜなら、性格の良しあしとか、頭の鋭さとかとは無関係に 子供は幼いなりに固有の誇りを持っているから」と書きました。 この大江に対して永井均が著書「これがニーチェだ」で 「大江はここで、なぜ悪いことをしてはいけないかという問いを立てることは 悪いことだと主張している。 だからよい人はそういう問いを立てないのだ、と。 だが、じつはこれは答えにならない。 なぜなら、まさにそういう種類の答えに対する不満こそが、 このような問いを立てさせる当のものであるからだ。」と反論しました。 ここまでの永井の意見に私は賛成しますが この後の永井は、認識論が陥りがちな独我論と「他人」とのギャップを どう埋めるかという問題に関するテクニカルな答えになってしまっていて 件の高校生の問いに全く対応していませんでした。 この後『文藝』が「なぜ人を殺してはいけないか」という 永井均と小泉義之の対談を組みましたが これは、特に小泉義之が、信仰の告白みたいになってしまって 理由のわからないものでした。 この論争はまだ決着がついていないと思います。 #13>少し前の毎日新聞に「『何故人を殺してはいけないか』という質問は 『何故夕焼けを見ると美しいと思うのか』ということと同じだ」という記事 は、私は読んでいませんが、大江のコンテクストに近いものを感じます。 何故人を殺してはいけないか? 私は、人を殺してもいいことにしてしまうと 報復の連鎖が起こり、安心が流通しない、というところまでしか 答えられません。 安心感のない不安定な社会が何故いけないのか? は、哲学的に答えられるのでしょうか? すいません、答えになってませんね・・・
- kensakuya
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No.9の補足についての回答です。 一つ目については、No.9がその回答です。分野の問題ではありません。私の答えを分野でわけることが出来ますか? 二つ目は、環境破壊をした結果、木をさらに切らなくてはいけなくなったんです。 なにもそこに住んでいる人が「この木を他の国に売ったらお金儲けが出来るぞ」と考えて木を切り始めたわけではないですよね。 外国の大きな会社がそこの国の政府に話をして、木を切ってよその国に売ってお金を儲けようと始めたことです。 それまで別に木を売らなくても現地の人は生活できていたのに(貧しいかもしれませんが)、よそから「文明」を持ち込んだ人たちに木を切られたばっかりに今までの生活が出来なくなってしまい、ご飯を食べるためにさえも「たくさんのお金」が必要になってしまいました。 木を売ったお金はそこに住んでいる人たちに配られたかというと、住んでいる人たちは相変わらず貧しいままですね。だから生活のためにまた木を切らなくてはいけなくなりました。そうするうちに、森の木はなくなってしまい、住んでいる人たちは売るものもなくなって、ご飯が食べられなくなりました。 では、木を売ったお金はどこに行ったかというと、木を切る大きな会社のお財布に入ってしまい、今度は外国から別の会社の人がきて、外国製のすてきな商品をお金持ちの人たちに買ってもらいました。 その結果、お金は再び外国に行ってしまい、木はなくなり、住んでいる人たちは貧乏のままで、お金持ちの人たちは外国の人の言いなりになって働いて、もっといろいろなものを外国に売ろうとします。 つまり自然を破壊してお金を儲けたのは、外国の会社とその言いなりになって働いたその国のお金持ちだけで、他の人たちは生活の場所であった森もなくなり貧乏のままです。 環境を破壊したらご飯がたべられなくなるとは、こういうことを言います。 漁師さんが魚を取り尽くしたらご飯がたべられなくなる。 お百姓さんが土地を酷使したらご飯がたべられなくなる。 自然の恵みで生物が生きているのだから、自然のバランスを崩すとご飯がたべられなくなる事に気がついたから、環境保護を言い出しました。 環境破壊をしたのは人間ですから、ほかの鳥さんやワニさんのためにも環境を守ってあげることは決しておこがましいことではないですよね。
回答に対する補足で思ったことを少々。 > でも、どうして一人一人(地球全部で60億くらい)を「人間」と > ひとくくりにして、 人間のため、というが可能なのでしょうか。 > この点がちょっとわからないのです。 訂正!!僕自身は60億人(未来の人間ならそれ以上?)を全部愛している つもりもないですし、やっぱり自分の知っている身近な人間だけ かもしれません。で、子供や孫が自分たちの行動の結果出てくる問題で 苦しむのだったら、ちょこっと自制や自粛しましょう(地球に優しく っていう表現はやめます)、という感じです。 ただ、こういう考えだと放射性廃棄物を日本に関係ない場所の海底に 捨てたりする発想になってしまうのかなぁ、とも思いますが。でも、 自分がして欲しくないことは他人にもしないという類のことを serpent-owlさんが書いていますが(僕には哲学を知らないので、 断片的な理解しかできませんでしたが...)、それはあてはまりますね。 > 「自分にどういう影響が及ぼうが俺は今を楽しむんだ!」 > という人にはどういえばいいのでしょうか? 基本的にどうしようもないと思います。小学校か中学校か高校かは 知りませんが環境教育というものが始まっているようですが、現実として 何が起きているかが分かった状態で「今を楽しむんだ!」は選択肢の 一つだと思います。ただ、何も知らない状態ならば環境教育をする というのが一つの解決策だと思います。その上で選択をするというわけです。 結局のところ、環境問題って一人一人の意識の問題だと思いますので。 > 人類の犯した罪 私は様々な環境問題と呼ばれているものに対して、はじめは罪ではない と思います。フロンガスなんてものは無色、無臭、無毒(1番最後が 重要かな?)で、さまざまな用途に使え、夢の物質だったわけです。 そのような発明はすばらしいことで、その時点では罪ではないと思います。 ただ、それによっていろいろな弊害がわかるようになった、それでも 現在ひたすらフロン生産、放出は罪ではないかと思います。当然、 フロンを冷却材、洗浄剤などで使用して、利益をあげることが目的で あっても、ほかのもの(代替フロン)でもよいのであれば、そっちを 使えばオゾンホールの拡大が抑えられ、皮膚がんなども少なくなりますし。 無差別殺人に近いと思います。 また、経済活動については、環境問題を考える上で出てくる言葉として トリレンマというものがあります(dilemmaのdiがtriになった、3つの 板ばさみ)。経済発展、資源確保、環境保全の3つです。というわけで、 経済活動の発展はなんら悪いことではないと思うのですが、それによって 残りの2つに問題が出る場合、罪になる可能性がある、というわけです。 つまり、人間に悪影響を及ぼせば罪になる可能性がある(僕の考えでは)。 では、動植物には?というと人間が地球上の支配者(あんまり好きでは ないのですが、それに代わる言葉が思いつかない...)で、 支配者と被支配者の関係なので、罪にはならないのかな?とも思います。 諫早湾のギロチンはノリの養殖に影響が出たけど、ノリという生物が 生活環境に適応できなくて死滅しても罪にはならない、ただ、養殖なので それで生きている人がいるので、その視点から考えると罪。 う~ん、なんてエゴイスト。そんな考えだとしっぺ返しを くらいそうですね...上はかなり誇張してエゴイスティックに書いてみました。 とりあえず動植物に対する罪っていうのは考えがまとまっていませんが、 人対人に対してはそんな感じで思っています。 ・・・・・・・ でも、罪っていう広辞苑によると「道徳に反した」とか「刑罰を 科せられる」とか「仏教、キリスト教で」とか、人間が作った制度の ものなんですよね。哲学はよくわからないので哲学としての「罪」 というものを定義しないと話は始まらないというのが実感です。 とりあえず自然に対して、というものの僕の本当の考えは、 ちょっと何か歯車がおかしくなるだけで何が起こるかわからないので 基本的にそっとしておくべきでは?というものです。
補足
おつきあいくださってありがとうございます。 >哲学はよくわからないので哲学としての「罪」 >というものを定義しないと話は始まらないというのが実感です。 「罪」 についてですが、 僕がここまでで考えてきた見解を言います。 「罪は人間間でしか成り立たない。 自然に対しての罪というものはなく、あるという人は 自然の向こう側に人間を想定しているからそう思えてしまう のである。」 まあ 定義と言うほどのものではなく、「罪」の一面を言ってみただけなのですが、 何かの役に立ちますかね? >とりあえず自然に対して、というものの僕の本当の考えは、 >ちょっと何か歯車がおかしくなるだけで何が起こるかわからないので >基本的にそっとしておくべきでは?というものです。 賛成です。 何が起こるかわからないということについて言えば、 レイチェル・カーソンの「沈黙の春」にかかれている自然の複雑さ を思い出します。 あれから数十年たちますが、 自然は未だに人知を超えて複雑ですね。
- sayu
- ベストアンサー率11% (4/35)
No.6のものです 補足をありがとうございます。 >もっと言えば、他の動物にしても人間に温情をかけられる筋合いはない > だろうと思います。ただ静かに復讐するだけでしょう。 >自然と対話できる不思議少女じゃあるまいし。 ハハ(笑)良い表現ですよね。不思議少女 程度問題はあれど、「自然のままで」暮らす事なんて人間には無理です。 絶対に多かれ少なかれ迷惑かけてますよね。それをある一部だけスポットをあててイルカを守れだ、鯨を食べるなだと~~、・・あ、いけません熱くなってしましました。 しかしながら↓の「自然は借り物である」には納得します。 >>生物は皆「自分を守る」以外にも「自分の種族全体を守る」プログラムがある >この部分、より詳しく知っていたら、是非教えてください。 私より詳しい方がいっぱいいらっしゃると思うのでどうかそういう方の意見を 私も聞きたいです。 おっしゃっている母親が子供の危機に際して命を賭してこれに立ち向かう、や 増えすぎたネズミの集団入水自殺の例はドーキンスの「利己的遺伝子」の大ブームのときにそう言われていたという記憶があります。 >ところで、自分の種族全体を守るプログラムがあるのなら、それより下位レ>ベルにある「人間個人」がどうふるまおうが(身勝手をしようが)、そのプ>ログラムに制御されている以上、その枠をはみ出すということにはならない>のではないでしょうか。そういうプログラムがあるから、なにやっても大丈>夫だ、ということに なりますよね。 ちょっとおっしゃっている事が私にはむずかしいのですが人間ていうには 本能(プログラム)に理性で勝てる生き物では無いですか、分りません。 理性そのものプログラムに乗っ取られている、と言われたらそうなのかも知れませんが。どちらが下位なのかも良く知りませんごめんなさい。 誰か詳しい人教えて下さい。 おっしゃる通り身内意識はふしぎなものですね、他の家より我が家が大事ですし、野球見てると他県より地元。サーカーだと外国より本国、「インディペンデンスデイ」みると宇宙人より地球(あれは明らかに悪者に書かれてましたけど)。 >「人間である」という同一性だけを偏重することに説得力があるでしょうか? >アメリカの例で言えば >「そんなに他国への迷惑を顧みないつもりならミサイルかますぞ」などと >脅て(もちろん武力は非現実的ですが)国際協調にこぎ着けるという、 >「エゴ同士のバランス」にしか可能性を求め得ないのでしょうか。 >とすればそんなもの倫理ではないとおもいませんか? >やはり西洋的な「神様」より日本的な「世間様」なのでしょうか。 >どうおもいます? ウ~~ン、問いが私にはむずかしいです。しばらく考えさせて下さい。
補足
おつきあいくださり大変感謝いたします。 遅くなりましたが(自分の問いかけに)一部補足いたします。 >>とすればそんなもの倫理ではないとおもいませんか? →価値が力を規定するのではなく、力が価値を規定することになるから、 それは倫理じゃなくて、力のゲームではないか、という意味です。 >>やはり西洋的な「神様」より日本的な「世間様」なのでしょうか。 →絶対的な価値を規定して、そこから個人の価値観、集団の価値観 (私は「倫理」をこれに近い意味でつかっています)や法律 を導出できないのならば、 他人(や他の生物)の報復を受けないように、自らの行動を規定することでもって 「倫理・道徳」とするしかないのでしょうか、 ということを言いたかったのです。
- n_kaname
- ベストアンサー率22% (694/3099)
哲学方面からですかー・・・ 一言で言うなら、「自然は借り物である」とでも言いましょうか。 人は自然を借りて生活してるので、借り物を自分の物にしたり壊したりしてはならないのだと思います。 少し前の毎日新聞に、「『何故人を殺してはいけないか』という質問は、『何故夕焼けを見ると美しいと思うのか』、ということと同じだ」という記事が載っていました。 理由なんて無いんだと言ってしまえば、世の中全ての問題に意味が無くなってしまうのですが。 ハッキリと線の引けないこの種の問題は、哲学と言うよりは禅問答だと思います。
補足
ご回答ありがとうございます。 補足します。 >一言で言うなら、「自然は借り物である」とでも言いましょうか。 この発想は、現実によく妥当すると思います。 でも、それは「環境破壊は悪い」という価値観が先にあって、 それをうまく言うために持ってきた言葉ではないかとおもえるのです。 まず「環境破壊はなぜ悪いのか」という価値観自体を 分析しなければ、と考えています。
- naturalist
- ベストアンサー率18% (3/16)
環境破壊は人類のエゴの所産です。「生きとし生けるも」全てが共生していくならば、人類の犯した罪は、計り知れないものがあります。また、人類同士に於いても、お互いに害を及ぼしてます。わかりやすい例でいうと、温暖化によって、水没したり、氷河湖決壊による大洪水に見舞われる国があるということです。自然科学の面から今西錦司氏の著書を読まれることをお薦めします。
補足
ご回答ありがとうございます。 > 環境破壊は人類のエゴの所産です。 そのとおりです。しかし、環境保護だって、人間自身が生き延びるために 気にし始めたことだとすれば、それも同様にエゴの所産といえますよね。 >人類の犯した罪 罪とは何でしょうか。 環境を自分たちが快適なように維持し、あるいは改造・変形しながら、時には 環境保護という言葉でカムフラージュしても、やっていることは、 たとえば経済的な利潤目的むき出しで開発行為を行うこととそんなに 違いがないのでは。 どこまでが罪で、どこまでが罪でないのでしょうか。 例えば、牛を牛舎に囲って「非人間的」に増殖させ、次々に殺して胃袋に 納めていくことは、罪ではないのでしょうか。 自然発生したウイルスを撲滅(=絶滅)させることは環境破壊ではないですか? 「人間にとっての」害虫や有害な細菌を滅ぼしてもよいのでしょうか? >大洪水に見舞われる国がある 国とは人間が決めた境界や制度です。自然とは関係ないのでは? もちろん国には人間以外の動植物もありますが。 >自然科学の面から今西錦司氏の著書を読まれることをお薦めします ありがとうございます。機会があれば読みたいです。
- caballero
- ベストアンサー率17% (31/182)
>たとえば、あなたがブラジルの畜産業者だったとして、ファーストフード チェーンから、食肉のオファーが高額できたら、原生林(熱帯雨林)を買って そこを拓いて牧場にするでしょう? 私がブラジルの畜産業者だったら、転職します。 前回の回答は、よりいいかげんでした。すみません。 環境破壊は悪だという環境がつくられたのです。しかし、クーラーをつけることも普通であった(悪でなかった)ため、みな、慣れてしまった旧来の常識から抜け出せないのでしょう。また、「環境を破壊しない」ということの基準を満たす事で、得れる快感を、大半の人がまだ「覚えてない」せいもあるかもしれません(人助けをすると気持ちが良くなってしまうが)。しかし、この常識もあれだけさけばれていると、罪悪感を生み出す「倫理」の管轄にはいるようになると思います。すでに、ポイステをすると、心痛む人もいるので。 しかし、窃盗も法規制されているように、環境破壊がたとえ倫理の許す所でなくなっても、同じように法によって規制されると思います。 環境破壊は人情に訴えるのでしょうか?そうなると、倫理だけの場合と違ってくると思うのですが、、。
補足
おつきあいくださりありがとうございます。 >私がブラジルの畜産業者だったら、転職します。 環境のためにですか? ではその業者の肉を使っている某大手ファーストフードチェーンの ハンバーガーは食べられますか? マングローブの自然林を伐採してほとんど日本向けに養殖して輸出されているタイ産の エビは食べられますか? 直接職業として環境破壊に従事しなくても、間接的に関わらざるを得ないのではないですか? >また、「環境を破壊しない」ということの基準を満たす事で、得れる快感を、 >大半の人がまだ「覚えてない」せいもあるかもしれません(人助けをすると気持ちが良くなってしまうが)。 それは日本でしか通用しない議論ではないでしょうか。 先進国の経済発展は、他国の環境破壊の上に成り立っている面はたしかにあります。 そんな「快感」が、貧困を経済開発で解決しようとする途上国の人にとって はたして説得力があるのでしょうか。 >法によって規制されると思います。 それは実際そうだと思います。 しかし法は社会秩序の維持が主たる目的であって、 正義とか善悪とかとは一つ切り離されたところにあります。 (言い方を変えれば、より現実的に適用可能に変換した形態といえると思います。) つまり、僕が問題にしていることは、法以前の話、いわば法を裏付ける根拠 の話です。 >環境破壊は人情に訴えるのでしょうか? 「人情」って言葉、あやふやですよね・・・ もう少し、僕の法で論点が明確にできたらよいのですが、力量不足のため・・・ 申し訳なく思います。
- serpent-owl
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うひゃあ、このネタもけっこうモメるんですよね。このサイトでも議論があります。下記参考URLをご参照ください。「教育」>「理系の学問」>「環境&エコロジー」にあります(まだ締め切られていません)。 とりあえず手に入りやすい参考図書を紹介します。 一つ。『環境倫理学のすすめ』加藤尚武・著 丸善ライブラリー もう一つ。『生物の保護はなぜ必要か』ウォルター・リード&ケントン・ミラー著 ダイヤモンド社 前者は「哲学から見た環境問題」に関する入門書とでも言うべき性格のものです。著者のウィットが随所に見られ、わかりやすく面白く読めます。 後者は自然科学寄りのものです。自然界に「善悪」を論じることはナンセンスですが、生態系にとって「正義」と呼べるものがあるとすれば、それは「多様性」である、ということを具体的な事例を挙げつつ結論付けています。 はやりの問題…というか、どうしたって考えざるをえない、避けられない問題ですから、この他にもたくさん本は出ています。具体的なデータを盛り込んだものや、温室効果、オゾン破壊、森林破壊など、具体的な諸問題の原因・背景を探り、解説するものが多いようです。それに比べると「環境倫理」関係の書籍は、まだそれほどありません。(大学や研究所発行のものはけっこうあるのですが、一般向けのものは。) で、「なぜいけないの?」の本題に入ります。 「世代間倫理」という考え方があります。ハンス・ヨーナスという倫理学者が提唱したものです。内容的には、Charlie24さんが述べておられる「子孫への配慮」というのと同じことです。すなわち、「現在世代による不必要な資源浪費や環境破壊は、未来世代の生存可能性を奪う」のでいけない、ということです。Charlie24さんは最初「自殺」と表現しておられましたが、もう少しはっきり言ってしまうと「現在世代による未来世代の殺害」にあたる行為が環境破壊であるから避けねばならない、ということになります。 まあその、これを通俗的なキャッチフレーズのような形に言い換えれば「子どもたちに、美しい地球を残そう」みたいなことです。 さてしかし、ヨーナスの「世代間倫理」という考え方は、旧来の伝統的倫理観を乗り越えて初めて成り立っています。この「旧倫理観」の内容、およびその乗り越えは、回答No.3のkeronyanさん宛てのコメントに見える「人間だけが他の生物のことに配慮しなければいけませんか?」というgattoさんの疑問にも関わるものです。 「旧倫理観」の前提を押さえます。この前提は「倫理・道徳の基盤は、主体の相互性にある」ということです。…どうもすいません、言葉が固くて。噛み砕いて言うと「自分がやってほしくないことを、他の人にしちゃだめだよ」っていう、誰もがずいぶん昔に誰かから言われたことのあるのと同じことです。これの基盤には「私と他者の相互性」があります。「自分がやってほしくないことを…」というのは、さらに分析すれば「私はあなたに、あなたの好まないことはしない、だから、あなたも私に、私の好まないことはしないでくれ」ということです。「契約」というほど明示的ではないものの、こうした相互の承認が土台となって倫理・道徳は成り立ちます。はい、これが「前提」です。 この「相互の承認」が、「現在世代」と「未来世代」との間に成り立たないということは容易に見て取ることができようかと思います。何と言っても、「未来の世代」は今現在存在していない人々なのですから、「相互」承認などできるはずがありません。「旧倫理観」は、実は「同時代に存在する」人々の相互承認という前提をも持っていたわけです。 この前提の乗り越えのためにヨーナスが持ち出したのが「責任原理」です。「自分がどう行為するか」について、主観的な動機や意志の在り方・持ち方を規定しようとするのが「心情倫理」ならば(カントのものなど)、行為の客観的な結果から生じる「責任」を根源として、そこから「いま、自分はどう行為するか」という決定を導こうとするものです。 この考え方に立ちますと、「予期しうる未来における結果」について「今の私には責任がある」ということが導けるわけです。これで「未来世代との相互承認」という要素はクリアできることになりました。 さぁて、「他の生物」につなげますよ。ヨーナスからは離れますけどね、ちょっとした応用です。 上記のごとく、未来世代の人間は今現在存在しておりません。当たり前ですね。存在していない以上、道徳的倫理的行為の「主体」ではありえません。「武士は相身互い、助け合おうではないか」などと未来の人が言ってくれて、われわれに何かしてくれるはずはない(タイムマシンでも発明してくれりゃ別ですが)。 にもかかわらず、現在世代には未来世代に対しての「責任」がある。すると、その責任から現在世代のわれわれに課せられてくる行為の基盤は何になるか? それは、現在世代による、未来世代に対する、一方的な「配慮」ということになるのです。相手が何をしてくれるかということを顧慮せずに、こちらから一方的に配慮する必要があるということです。なんつーか、あの、「アガペー」つーやつでしょうか。 それでですね、生物です。人間以外の。 人間の歴史の中でも、自由や権利の範囲は拡大してきました。奴隷の廃止、市民権の確立、黒人奴隷解放、公民権獲得、女性の権利、子どもの権利、その他少数民族などなど。被抑圧者は、時に膨大な血を流すことも厭わず、「自ら戦って」権利を獲得してきました。これは、彼らが人間であり従って「主体」でありうるからです。「同時代の相互承認」の枠に割り込むために(というと語弊はありますが)、彼らは自らの意志で戦ったのです。 もうおわかりでしょうが、動物や植物にはこれができません。そりゃまあ、猫は腹がすけば「みゃあぁぁ~(エサくれぇ~)」と鳴きますが、別にそれは「エサ獲得権要求」ではないです。腹がくちくなれば要求はやむ。 人間以外の生物は「主体」たりえない。だからこそ、いちおう唯一「主体」たりうる人間が「配慮」してやる必要がある。そういうことです。 ただ、生物に関しては「相手が何もしてくれないにも関わらず」という項は外せます。役に立つんですよ、生物は。 「人間が他の生物を勝手に利用するのはよくない」という考え方もあるにはあります。いわゆる「反・人間中心主義」というやつです。でも、私はこれを、あんまり支持していません。人間でありながら人間の利益を顧慮しないで生きていくということが、具体的にどの程度できることなのか、疑問に思っています。 ですからここは「人間中心主義」の枠の中で話を進めます。他の生物は人間の役に立つ。だから「持続的に利用可能なように」保護すべきである、と。言い換えれば、彼らの生存持続について、人間として「配慮」すべきである、ということです。 誤解があっては困りますので、もう一つ申し添えます。「今、さしあたって有用でない生物は滅ぼしてもいい」ということではありません。前掲書『生物の保護はなぜ必要か』を読めば書いてありますが、あらゆる生物種は、それが棲息する生態系の中で、時として人間の予測を超える大きな役割を果たしている場合がある、というのが理由の一つです。役に立っていないからと言って駆除してしまうと、しっぺ返しがくる。 それから、今さしあたって有用でなくとも、遺伝子資源として確保しておくべきでもあります。野菜の品種改良では、希少な原生種との交配などによって有用な種を作り出せることがあります。そのためには遺伝子が必要です。遺伝子を保存するには、冷凍保存という方法もありますが、いちばん効率の良い保存の方法は、やはりその生物を生きた姿のままにしておくことなのです(アメリカの種苗企業などは、これに多大な費用と労力を費やしています)。 いつもながら長くなってしまいました。とりあえずこんなところで。
お礼
ありがとうございます。 補足を考え中なので、先にお礼だけ申し上げます。 環境&エコロジーのURLありがとうございます。 読ませていただきました。
補足
補足です。 遅くなって申し訳ないです。 自分の考えをまだ体系化できていないので、それが以下にもあらわれる かもしれませんが、ご容赦ください。 以下では、人間全体を、「人間」とひとくくりにして述べることを とりあえず受け入れて展開してます。 >(被抑圧者は)、「自ら戦って」権利を獲得してきました。これは、彼らが人間であり従って「主体」でありうるからです。「同時代の相互承認」の枠に割り込むために(というと語弊はありますが)、彼らは自らの意志で戦ったのです。 > もうおわかりでしょうが、動物や植物にはこれができません。・・・ >人間以外の生物は「主体」たりえない。だからこそ、いちおう唯一「主体」たりうる人間が「配慮」してやる必要がある。 そんな必要ないと思うのですが。 たとえば野生動物には、快適に生存する「権利」があったのですか? そんなものないと思います。 権利とは人間(被抑圧者とか)が発明したものではないですか? 人間以外の外部、たとえば生物に対して、人間と同等の権利をみとめることは できないのでは。 ですから、 >「人間中心主義」の枠の中で >人間として「配慮」すべきである のならわかります。 間違えて人間以外の生物に権利を認めてしまうと、 狩猟はおろか農業もできなくなります。 環境に対して影響を与えることはすべて否定されてしまうので 息もせずに止まっているしかありませんよね。 ということは権利は人と人との関係でしか想定できないもの といえるかと思います。 人間は生存競争の中の一主体(プレイヤー)にすぎないのであって、その中の 1プレイヤーが、相手に「権利」や「存在意義」を認めたところで、 それはプレイヤーが自分の思考の中で考える「相手」に 取り付ける概念装置でしかなく、その「権利」や「存在意義」は すべて自分の方を向いています。 だから相互的でない。相互に同意しえない。 倫理が相互性にもとづくならば、 他の生物と人間との間に倫理は想定できない だから倫理は「人間中心主義」の視点でしか考えられない。 (さらに言えば、人間同士に倫理が仮定できるのは相手も同じように考える 可能性を仮定しているからだと思います。) ただ、物理的な行為の相互性はあると思います。 だから、自然は人間の開発行為にときに復讐したりする。 いや、生存のための活動が人間にとって復讐に思えたりするだけでしょうけど。 上記の文脈から離れて、 人間にとって自然は有益であり、その点で、現在の技術で 自然を超克して有益な物理的体系を築きあげることはできないので 自然を保護すべきである。なるべく多様性を維持し、不用意な破壊は避けるべきである。 とする考えはいいとおもいます。 私もその立場です。
補足
ご回答ありがとうございます。 > 大きなところでは「ガイア説」から >「生物多様性の確保」「種の保存」「世代間倫理」と >だんだん自己中心的?に絞っていくと >この問いは「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いと >同じスタート地点に立つと思います。 そう思います。 >何故人を殺してはいけないか? >私は、人を殺してもいいことにしてしまうと >報復の連鎖が起こり、安心が流通しない、というところまでしか >答えられません。 そう思います。 人をとって食う(あえて言いますが)「未開人」がかつて実在した らしいですが、彼らにしても同じ部族の誰かを殺せば罪でしょう。 (推測ですが。)とすれば、彼らの社会秩序においては、 他部族を殺す「殺人」と自分の部族内の誰かを殺す「殺人」 とは全く違ったものであったはずです。 そういう社会と、我々の社会で共通する善悪の基準を見いだそうとすれば、 「社会秩序を維持するために、善悪の基準ができている」ということでは ないのかな、と思います。 人を殺すのがいけないのも環境破壊がいけないのも、その価値観に 照らし合わせて判断した結果であって、 先験的に「悪」ではないということでしょうか。