お礼や補足をお急ぎになる必要はありません。ご自分のペースでどうぞ。また、私は質問者が求める限り、そして自分の能力が及ぶ限り、いくらでもおつきあいします。
ディープエコロジーでの「人間」の捉え方に疑問をお感じのようですね。
まず、「人間は自然の一つ」。おっしゃるとおりです。ディープエコロジーでの捉え方はそういうことです。「人間と言えども数ある生物種の一つにすぎず、なんら特権的なものではない」と。
でも、gattoさんの疑問はもう一歩進んで、「生きる上で環境を変化させるのも生命の本性(nature=自然)である、文化を持ち、科学の力をもって自然環境を改変する人間の営みも、人間という種にそなわった本性ならば、人間はそういう営みを通じて生態系の一員となっていることになる、これがどう考えられているか」ということのようです。
そういう本性を持つ人間を、生態系内に調和させるための考え方として、一つには「文化やら科学やらという、人間以外の動物が持たない特権的な力を捨て、人間という生物種として生きよ」という方向がありえます。ただ、これはただ単に考え方としては可能ということであって、文化の力に守られていない人間という生物種は恐ろしく脆弱なものですから、実際にはあっと言う間に絶滅するでしょう。現実的ではありません。
知る限りにおいて、ディープエコロジーはそのような主張はとっていません。この思想の原則通りに考えていると思います。すなわち、「人間の持つ文化や科学の力を肯定し、その存在を認めるが、その力による自然環境改変の程度は、生態系バランスのとりかえしのつかない破壊にならない限界内に留めなければならない」ということです。
前回ガラパゴスの例を挙げながら「アニマルライト」に対して「ディープエコロジー」を対比してみましたが、これと同じことです。イナゴが異常増殖して生態系バランスを乱そうとしているなら、これは間引かなくてはならない。同様に、人間が過剰増殖しており、しかも科学力によってさらに急激に生態系バランスを乱そうとしているなら…やはり間引かなくてはならない、ということです。だから「人類の9割を…」なんて話にもなってくる。
ですから、ディープエコロジーによる「人間の脱中心化」は、それなりに徹底しています。これが極端なものになるとアウシュビッツまでもう一歩という、文字通り「非人間的な」発想にもなりうるものですので、私はそこが好きになれないのです。
ディープエコロジーの解説を離れて、人間の文化や科学の力ということについて自分の考えを少し述べます。
文化や科学が自然環境を破壊している部分が目立つのは事実ですが、やはりかと言って否定することはできないと思います。また、それらがただ単に「自然に敵対するものである」と見なす必要もないでしょう。そう見えてしまうのも、「自然と人間」という二分法図式がもたらす弊害です。
実際には、「人間が介在することで初めて成り立っている生態系」もあります。農耕は人間による自然改変であり、一面において自然破壊ではありますが、農民たちは土と水のために「森」を育てることに腐心したものです。森を育てるには「間伐」という人為的操作も有効です。農民だけではありません。最近では仙台湾でカキを養殖する人たちが、その滋養の元となる森を育てようとしています。こうした、自然と関わる仕事に携わる人々の知恵は立派な「文化」であり「科学」ですが、自然に敵対するものではなく、それを豊かにするものです。自然と人間の二分法ではなく、両者が関わりあって両者が共々成り立っている姿の中からも、学ぶものは多くあると考えます。
それから、「人間と自然の上下関係」について。
「強者としての立場から、多様性の維持を志向する」という考え方は、ディープエコロジーのエッセンス的な原則の中には入らないでしょう。「あくまでも生物種の一つ」ですから。ただ現実に、ディープの方々が思想を具体的な行動に移そうと考える局面で、そうした考え方を受け容れざるをえなくなることは考えられます。生態系を壊すのも人間、そして、それに対して積極的・能動的・主体的に修正を働きかけることができるのも人間だけだからです。
この考え方をはっきり出しているのが、キリスト教的環境保全思想です。旧約聖書の「創世記」では、神様はアダムとイブを創造した後、彼らに自然の支配権を認めています。これは、とりようによっては、人間の欲望による自然からの収奪・搾取を肯定する考え方を根拠付けるものでもあります。が、「キリスト教的環境保全思想」は、いわばこれを逆手にとって、人間を「自然の姿を十全に保つための善意の管理者」と位置付けようとするのです。
私はクリスチャンではありませんから、こういう特定宗教をバックボーンとした考え方は素直に認めたくないです(それに、結局欧米中心だし)。が、位置付けは微妙。人間の自然に対する優位を認めているという意味では「人間中心主義」の枠内に留まっているとも言える。…ただし、その背後には「神」がいます。これを考えると、人間を脱中心化しているともいえます。
こういう立場を代表する人として、アメリカのナチュラリスト、ヘンリー・デイヴィッド・ソローがいます。この人の言葉で、好きなものがあります。
「神の目から見て美しい。」
どんなに醜い生き物でも、ということです。神は、それが美しいと思ったからこそ、創造した。
人間の偏狭な価値基準で自然を裁断してはならない。そういうことを、彼は「神」という言葉を用いて述べたのだと理解しています。
補足
ご回答ありがとうございます。 >どうして哲学からしか意味がないのかしら? では、他の分野から、「環境破壊はいけない、環境保護しなければならない」 といえますか? 価値について考えるのは、哲学(とか倫理)の役目だと僕個人としては思っているからです。 >難しい言葉で考えなくても、サラダにするレタスの上にダイオキシンが降ってきたり、 >原子力発電所が爆発して灰が降ってきたりしたら、誰もそれを食べたくないでしょ? そうですね。いやです。 では、 「私の国は貧しい。経済発展して、自分と国民を豊かにしたい。 そのためには、環境保護よりもとりあえず原生林を切って日本に輸出して 外貨を獲得しなければならない。野生動物が何種類か絶滅しようが仕方ない」 という発展途上国の人には、なんと言えばよいのでしょうか。