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鎌倉幕府権力の推移

鎌倉幕府権力の推移-3段階説 (1)鎌倉殿(将軍)独裁政治 (2)執権政治 (3)得宗専制政治 について詳しく教えてください お願いします

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>(1)鎌倉殿(将軍)独裁政治 鎌倉殿と御家人の封建的主従関係を基礎とする御家人制度で「御恩」と「奉公」により成り立っています。 「御恩」: この御家人制は平安時代以降の土地制度である荘園公領制に立脚した守護地頭制に由来し、御家人に対して先祖伝来の所領の地頭に任命する本領安堵、また武功に対して新たに地頭に任命し所領を与える新恩給与による「御恩」を受ける。 「奉公」: 地頭に任命される代わりに鎌倉殿の課す軍役や京都大番役、鎌倉番役を課す「奉公」によって成立している。 それに至るまでには、文治元年(1185)、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、同年、源の義経や源行家が頼朝政権の内規に違反したことを契機に、頼朝は両者追討の院宣を後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を名目に、守護や地頭の任命権を承認させた。これを「文治の勅許」と呼び、これにより、頼朝政権は、全国の軍事権、警察権を掌握した。 >>(2)執権政治 はじめは政所(まんどころ)の長官を執権とよんだが、後に侍所(さむらいどころ)の長官も兼ねるようになり、幕府政治の中心となった。源頼朝の死後、幕府の実権は、頼朝の妻政子と、その父北条時政の手に移った。北条氏は有力な御家人を次々に倒し、源氏の将軍が3代で絶えたあとは、京都から形ばかりの将軍を迎え、代々執権の地位を独占して政治を行った。 また、執権政治をめざす北条氏のはかりごとによって、源氏の第2代将軍頼家や第3代将軍実朝が暗殺された。 そして、北条氏で初代の執権になったのは時政で、2代めの北条義時は承久の乱(承久3年・1221年)に勝って朝廷の力を押さえ、執権政治の基礎をきずいた。3代めの北条泰時は最初の武家法の「御成敗式目」を制定し、5代めの時頼は「引付衆」をおいて御家人の裁判を改善し執権政治が確立を目指した。しかし、8代めの時宗のときに「元寇」が起こり、以後,財政的に苦しくなった幕府の力は衰えを見せ、元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡によって執権政治が終わった。 >>(3)得宗専制政治 •北条氏は、元寇の後に執権政治の合議制を廃止し、権力を北条氏の惣領である得宗に集中し、専制支配を強化した。これ以後、得宗の一族と得宗の家臣である御内人を中心とする集まりで、幕府の重要政務は決定された。この結果、一般の御家人は外様として政権の中枢から排除され、霜月騒動で安達奉盛が滅ぼされて以後、得宗専制政治が完成する。 (よもやま話) 鎌倉殿の政治は「幕府」とは呼ばなかった。 「吾妻鏡」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるが、当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではない。朝廷や公家は関東と呼び、武士からは鎌倉殿と、一般からは武家と称されることが多かった。幕府とは、そもそも将軍の陣所を指す概念であり、源頼朝が右近衛大将に任官したことで、その居館 大倉御所を幕府と称されたことがあるが、それは私邸を指す言葉であり頼朝の開いた武家政権としての鎌倉幕府を指す概念ではなかった。即ち、当時の源頼朝の武家政権は鎌倉幕府の称を用いていない。武家政権を幕府と称したのは江戸時代になってからのことである。 鎌倉幕府が開かれたのは建久3年(1192)ではない? 鎌倉幕府の成立時期をめぐっても諸説があり、源頼朝が征夷大将軍に任命された建久3年(1192年)説、 日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)説、 公文所及び問注所を開設した元暦元年(1184年)説、 守護や地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185年)説、 事実上、東国の支配権を承認する寿永二年の宣旨が下された寿永2年(1183年)説、 頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)説がある。 全国を掌中に 歴史学上では初の武家政権、及び、武家政治の創始は平氏政権にあるとされるが、朝廷から独立した本格的な武家政権が鎌倉幕府であることは間違いない。当初の鎌倉幕府は鎌倉殿を主宰者とする武士を首班とした地方政権であり、支配は東国を中心としており、西国や九州では幕府の力は及んでいたものの弱い面があった。承久の乱後、全国政権へと飛躍し、権力を拡大させたものである。

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質問者

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回答ありがとうございました 今後ともよろしくお願いします

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