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幕府ができたあとの朝廷の政治??
幕府が出来た後は、歴史の教科書では幕府の政治を追っていきますが、天皇は政治しなく(できなく)なったのでしょうか?将軍や執権の事績ばかり紹介されますね?徴税権もない(?)ので朝廷は形式だけ運用していたのでしょうか?希に幕府から外交の相談があったようですが、それを除くと内政面での命令は完全にできなくなったのですか?
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最初の幕府=鎌倉幕府は源平の抗争を経て誕生したもので、その勢力範囲は源氏の拠点である東国と、幕府が地頭を置いた荘園に限られます。(これら地域の武士を御家人という) 西国の武士は御家人でない者が多く、朝廷や貴族、寺社が持つ荘園に属しており、鎌倉時代であれば院政(後鳥羽上皇以下治天の君)下にありました。 承久の乱で朝廷の勢力範囲が削られ、正中・元弘の変から建武の新政で朝廷(後醍醐天皇・大覚寺統)が一時勢力を盛り返しますが、足利尊氏が北朝(持明院統)を支持し、義満の代になって天皇家とも姻戚になったことで、事実上朝廷を支配したと言えます。 室町時代中期までは朝廷の権限が及ぶ荘園も残っていましたが、戦国時代には朝廷の政治的権能は叙任や祭祀が主となり、経済基盤も大名の寄進によるものとなっていきます。 豊臣秀吉を経て徳川幕府が全国の武士と領地を掌握した段階で、幕府が朝廷の在り方についても関与するようになり、禁中並公家諸法度で上記の朝廷の役目が法的に確定されました。
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- 5555www
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幕府ができたあとの朝廷の政治??……「貴族から武士へ」と時代が大きく変わったと思います。詳しくないので説明できませんが、「○○守」のような名誉職の授与が天皇・朝廷の権威だったのではないかと思いますし、幕府にとっても、「朝廷に政治に口を出してほしくなかった」という点でそのほうがよかったのだと思います。 将軍や執権の事績ばかり紹介されますね?……それだけに「結果」についても責任を負わなければなりません。すくなくとも、鎌倉時代から江戸時代まで(武士の時代)、天皇の責任が問われたことはないと思います。 朝廷は形式だけ運用していたのでしょうか?……鎌倉時代や室町時代の初期に時代の流れに抵抗した天皇もいましたが、……「敬われる立場」ということでよかったのだと思います。 希に幕府から外交の相談があったようですが、それを除くと内政面での命令は完全にできなくなったのですか?……苦し紛れの相談はあったようですが、「出来なくなった」というよりも、「天皇というのは天皇であり」、日本のためには天皇のためにも「政治のことはしないほうが良い」という日本になったような気がします。
- oska2
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>幕府が出来た後は、歴史の教科書では幕府の政治を追っていきます 文科省公認の教科書では、その様に記載していますね。 ただ、鎌倉時代は朝廷と2分割政治を行っています。 実際、朝廷側は度々「討幕命令」を全国各地に出していますよね。 室町時代でも、3代足利義満までは「朝廷の承認の上で幕府が政治を行う」制度でした。 ただ、天皇家分裂に陥った仲裁制度としての(1317年)に決定した「両統迭立」(持明院・大覚寺系天皇の相互交代制)を大覚寺系・後醍醐天皇が認めなかった事で討幕が始まりました。 ※後醍醐天皇の息子は、この制度では天皇になれない。 鎌倉幕府は滅びましたが、政治的な権力を持たなかった後醍醐天皇は失脚。室町幕府の誕生になります。 尊氏は、両統迭立に従って持明院系の光厳天皇を即位させます。 つまり、この頃の朝廷は何ら政治的な力を持っていなかったのですね。 >朝廷は形式だけ運用していたのでしょうか? その通りです。 江戸幕府は、毎年3万石を朝廷に与えていました。 朝廷は、ここから天皇・公家の生活費用にしていたのです。 ※下級公家では、内職をしないと生活が出来なかった。 幕末には、それでも10万石になります。 天皇・公家の文化継承が主な仕事でした。 禁中並公家諸法度に従っていました。 >希に幕府から外交の相談があったようです まぁ、外交文書には「朝廷の印」が必要な場合がありましたからね。 井伊直弼が「天皇の許可なし米国と条約を結んだのはけしからん!」と言うのは討幕側のこじつけです。 当時の朝廷内では、諸外国の情勢は認識不足でした。 当時の諸外国は「国王は、君臨すれども統治せず」を日本でも適用していましたからね。 >内政面での命令は完全にできなくなったのですか? その通りです。 政治的・軍事的な力がなかったので、今でも天皇制が続いているのです。 明治政府になっても、天皇は自分の意見を述べる事は不可能でした。 ※明治天皇は、伊藤博文が指揮する「相撲隊」隊員だったとの説があります。 ※裕宮(後の明治天皇)は、七卿の都落ち時に誘拐され長州で死亡した。 ※裕宮は、右利き・虚弱体質。明治天皇は、左利き・筋肉隆々の大男。 ※裕宮を知っている都の者は、明治天皇を見て「誰や?この人?」と言ったという逸話が多く残っている。
- eroero4649
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「幕府ができた」といっても、実はその「幕府」という言葉そのものが江戸時代になってからできた言葉なのです。なので鎌倉幕府も室町幕府も、その当時のリアルタイムの人たちは「幕府が開いた」とは誰もいってなかったのです。リアルタイムでは鎌倉幕府のことは「鎌倉殿」といってたそうです。室町幕府はなんていったかな、本で読んだのですが忘れてしまいました。 「最近の教科書では、イイクニ作ろう鎌倉幕府ではなくなった」といわれますよね。鎌倉幕府の成立と室町幕府の成立が何年であるかというのは学説が固まっていません。でも、江戸幕府の成立だけは1603年で揺るぎません。幕府って江戸幕府の成立によって本当の意味で「朝廷から政府機能を乗っ取った」といえるもので、朝廷からすれば鎌倉幕府も室町幕府も「臨時特別政権」くらいにしか思ってなかったんですよ。 「日本の組織の権力構造」って、我々日本人でもすごーく見えにくいものになっています。例えば小学校で一番偉い人といえば校長先生のはずですが、じゃあ校長先生は最高権力者としての権限を持っているかというと必ずしもそうじゃなく、現場を仕切っているのは副校長(昔の言い方だと教頭先生)です。校長先生はただのお飾りに過ぎない学校もあります。 総理大臣だって、絶大な権力を持っているようには見えません。なんか二階のお爺ちゃんのほうが総理大臣より偉そうな態度です。 光る君への平安時代の時点で、最も権力を持っていた人は天皇そのものではなく、その天皇の外戚である藤原のナントカですからね。でも藤原のナントカだと天皇にとっては「母方のおじいちゃん」だったりするので自分がただのお飾りにされても一族だからまあいいかという気持ちになれるかもしれませんが、相手が幕府だと血縁関係も何もないですからね。 だから時々、後鳥羽上皇とか後醍醐天皇みたいな人が「皇位にある者が政治をやるのが当然だろう」と考えて行動に起こしてしまうと、要らん戦乱が起きてしまうことになります。 そもそも「なんで征夷大将軍なのか」っていうと、征夷大将軍に警察と行政の権限があるからです。征夷大将軍が始まったのは坂上田村麻呂からですが、東北を征伐するにあたって現地で行政や治安(警察)を行うときに、いちいち中央にお伺いを立ててたら円滑な経営ができないので、その権限、とりわけ武人(武士)に対する権限を持っていたからです。朝廷から「武人(武士)を取り仕切る権限」をもらうためには征夷大将軍だったのです。 まあこの辺りの事情、面白いといえば面白いのですが非常に日本人的で難しく、私も「外国人にも理解できるように解説しろ」といわれてもできないですね。