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利き目と芸術
- 利き目によって右脳と左脳の使用を判断する関係について、芸術を志す人にとっては重要なテーマです。
- 右目を利き目とすることで左脳の活動が優先的になるため、芸術を創造する際には利き目を左にしたいと思う人もいます。
- しかし、利き目と芸術の関係については明確な科学的な証拠はありません。利き目の矯正方法については、専門家の指導を受けることをおすすめします。
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私は右脳と左脳を使い分けるといったことが現実的に可能なら、 矯正の意味もあるのだろうと思いますが、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E6%A9%9F%E8%83%BD%E5%B1%80%E5%9C%A8%E8%AB%96 のWikiによるなら今のところ実証はされていないようですね。 仮に、右脳が直感的な創造力を司る機能があったとして、 それを論理的に処理できなければ、芸術にならないのではないでしょうか? つまり、左脳と右脳が両方機能しなければ芸術にならないのでは?ということです。 例えば、「子供の描いたような絵」を芸術として表現の対象とした場合、 実際に子供が書いた絵で、そこに思考や論理が無ければ芸術なのではないと私は考えます。 逆に思考や論理を反映させた上での「子供の描いたような絵」であるなら、芸術として成立すると思います。 そして、利き目が左目でなければ優れた芸術家になれないというのなら、利き目が右目の優れた芸術家はいないのでしょうか? その確証がないのに結論をだし、利き目を矯正する方法模索する行為は、 「芸術を志しているもの」と云うには多少安易だとおもうのですが・・。 とはいえ、「鰯の頭も信心から」という言葉も有りますから効果もあるでしょう。 右脳を鍛える方法としては、左手を器用にする、 例えば、 ギターを弾ける様になれば自ずと右脳が鍛えられる 箸を持つ手を左に変えるなど、 といったことです。 利き目というより右脳の作業手順を増やせば、発達するのではないか?と考えです。 それでは、成功をお祈りします。
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- Postizos
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気分を害されてしまったようで申しわけないと思います。
- Postizos
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この質問を読んで、またか、といつものように関わらないで放置しておこうと思ったのですがだんだんと腹が立ってきてしまったので自分なりの意見を書くことにします。 多少感情的な意見を含むのをおゆるしください。 まずインターネットで右脳だの左脳だのと書いているのはほとんどが怪しげな物売り、自己啓発業者とそれを鵜呑みにした、あるいは面白半分で話題にしているブロガーだというのはお気付きでしょうか。 世の中にはたくさんの芸術や美術を志す人が居て、楽しんだり苦労したりして制作をしているわけです。 みんなそれぞれ持って生まれた条件、視力だとか聴力だとか、不器用だとか、背が低いとか、筋力が無いとか(彫刻なんかでは大きな要素になります)、頑張りが効かないとか、家が貧乏だとか、(中には色覚異常や知能障害の人も居ます)そういう物を抱えて、且つ自分に与えられたものを生かして、そういう条件でできるもの・そういう人だからできるものを工夫して作っているわけです。 利き目が右であることで活動をして行く上でなにか具体的に不都合(例えば照準を使う作品で照準が合わせづらいとか)が出てきているのでしたら苦労をしても換える必要があると思いますが、実際に困ることが無いのに空想的に「創造力が上がる」などと言っているのでしたらそれは単に作品に取り組まない言い訳に過ぎないと思うのです。 もし今自分なりに作品に打ち込んでいたら右目だろうが左目だろうがそんなことは忘れているはずだと思うのです。 物の観方だって意識の問題です。 作品を作るというのは世の中のほとんどの人がどうでもいいと思うことで、こちらの方が良いという決断をしなければいけないようなことの連続と思います。 漫然と物を観ていたら自分の作品だって見えてこないのではないでしょうか。両方の目が見えるなら両方でしっかり観ることだと思います。 それができないで右目か左目かとか、生まれつきの才能がとか、そんなことしか意識にのぼってこないのだとしたら、それこそ “向いていない人” だと思うのです。
- fuken
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利き脳は関係ないと聞いたことがあるんですが。 片方の脳が事故などで機能しなくなっても、神経回路の繋ぎ方(リハビリなど)で片脳でも大丈夫だとか。 芸能・芸術は持って生まれた感性なんじゃないかと思うんですが。 私の知り合いは、つねにアンテナを張って なにかしら芸術作品は見に行っていました。 そこから感じる感性が芸術には大事なのではないでしょうか? 自然が好きなら自然に出向く。 古典が好きなら・・・・といった感じで ジャンルに固執するも良し。 なんでも見ていき、そこから感じるモノを広げるもよし。 利き目に固執するなら。 射撃の時の”見い出し”(みいだし)というのは利き目があります。 銃の狙いを定めるためにある定規のようなものですが。 例えば。両目で対象物を見て。 顔の前に片方の手でV字を作り、V字の中に対象物を入れ。(対象物を注視したほうが良い) (指が二重に見えたとしても、どちらかの像を基準にする) もう 片方の手で一本指を立て、V字の像に合った所に重ねる。 (これで、片方づつ目を閉じて確認すれば。 どちらの目で見ていたか判ります。) たぶんこの方法で診断したのかな?? それでは、逆に 矯正したいのであれば。 片目を閉じて、手前にV字 先に一本指で対象の像を見て 。 次に両目で見ます。(診断方法の逆な感じ) あとは回数を重ね脳に思いこませ・・・で 利き目を矯正していきます。 完全な矯正には時間がかかるでしょう。
補足
回答ありがとうございます。回答者様のご意見を拝見いたしました。 人それぞれの見解があるということを理解したうえで、私自身が疑問に思ったことをちょっと書きたいと思います(その中には質問の本題と少しずれたものもございますので、ご了承ください) 一つ目は、なぜ「だんだんと腹が立ってきてしまったので」と言った文をつける必要があったのだろうかということです。 私といたしましては、ただ純粋に「右脳と創造力は関係性がある」という情報をインターネットのみならずテレビや知人の話、本、雑誌等で得たものでございます。ですから、私としてはそれを「情報」として取り入れたわけであって、それが実際のところ脳科学的に真か偽であるかについては一介の人間としては分からない問題であります。もしかしたら、ネット上や、あるいは大多数の人間の意見として「この情報はデタラメである、面白半分である」というのが大半の人たちの意見なのかもしれません。ですが、そのことを知り得なかった自分にとって、回答者様の意見に即するのであれば 「インターネットで右脳だの左脳だのと書いているのはほとんどが怪しげな物売り、自己啓発業者とそれを鵜呑みにした、あるいは面白半分で話題にしているブロガーだというのはお気付きでしょうか。」 という質問に対して私は 「お気付きでは無かった」と言うしかないのです。なのでもし、そんなことも知らないのかなどという意味で腹を立てたというのであったとしても、それはわざわざ意見として文章に入れなくてもよかったのではないでしょうか?私は知らなかったのですから。 二つ目は、左目を利き目にしたい=生まれつきの才能にこだわっている となってしまうのかということです 確かに私は左目を使うことで右脳が働き、創造力が豊かになると思っています。そして利き目が左になるように日々努力しているわけです。回答者様のご意見を拝見いたしますとどうも、その行為は 「単に作品に取り組まない言い訳に過ぎない」とあります。 なぜなのでしょう?左目を利き目にしたいということが、作品に取り組まない原因となるのでしょうか?回答者様は、「みんなは持って生まれた条件、自らに与えられた条件で出来るものを作っている」とおっしゃいました。その例として、「視覚だとか聴覚だとか」などと挙げてらっしゃいます。ですが、例えば事故に手が使えなくなった画家が、努力して足で絵を描き続けたという話もあります。それと同じと言ってはおこがましいのですが、今回のこの目の矯正に関しても同質の類の話であると思います。大切なことは、自らの芸術のために、どうすればそれをやり続けることができるのか、どうすれば己の力が向上できるのかということであり、目が見えない、耳が聞こえないと同時に、私は利き目を左目として使えないのです。 私は目が見えないわけではありませんし、耳が聞こえないわけでもありません。不器用ではありますが、家が特別貧乏なわけでもありません。ですが、利き目が右目なのです。そして、利き目が左になったらもっと自分の世界を表現できる気がするのです。だから行動するのです。利き目を右から左に変えるために。 決して自分はめちゃめちゃ努力しているとか、死ぬほど頑張っているとは微塵にも思っていません。ですが、これだけの考えも推測せずに「向いてない」だとか「腹が立つ」、「そんなことしか意識にのぼってこない」、「単に作品に取り組まない言い訳に過ぎない」などと言われたくはないのです。利き目を右目から左目に治すよう努力することも自らの芸術の向上ための一つの「工夫」なのではないでしょうか? 長文失礼いたしました。ご回答ありがとうございました。