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赤の他人をも愛すということは甘いのですか?
赤の他人をも愛すということは甘いのですか?
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質問者が選んだベストアンサー
赤の他人をも愛すということは甘いのですか? ○ 一般的な評価では「甘い」のでしょうね。でも「赤の他人をも愛することができる甘い人」が増えれば、平和で戦争も無い世界になりますね。 そのような大甘代表の一人がイエスであり仏陀であるわけですから、甘い性質は仏や神に近いものですね。 動物に近いほど自分自身しか愛せなくなるのですね。甘さの程度は仏神と動物の狭間で変わりますね。 この世は動物的ですから甘くは無いことは確かですよ。でも甘い性質を捨てれば動物的になり仏神から遠ざかることも事実ですね。 自身や家族や関係する者を愛することは誰にでも出来ますが、赤の他人や外国人や宇宙人までは普通あいせないよね。だからいろいろな問題が起きるのですね。だから「大甘」を貫けばそれだけで非凡ですね。
その他の回答 (17)
No.17 です。 >好きになる人って、言ってみれば他人じゃないですか? >好きでも嫌いでも無い他者に対しては、どうでしょうか? 好きじゃない(愛がない)なら、質問は成立するでしょうか?
お礼
好きでないとなると、困った存在ですね。
好きになる人って、言ってみれば他人じゃないですか?
お礼
好きでも嫌いでも無い他者に対しては、どうでしょうか?
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
甘く何かありません。辛くて塩っぱくて苦くて不味いです。甘みを味わいたいなら、自分以外の人間で、これと言う人を見付けて滅私になって、ただただその人に尽くしなさい。運が良ければこの上ない甘みを味わえます。運が悪ければ、それまでです。一人の人間を説得できる可能はありますし、その他大勢の人に尽くすより遥かに簡単に出来ます。そもそもその他大勢の人を説得することは始めから不可能です。運良くその一人の方から貴方の存在が認められた時には、貴方は天にも昇るような甘い気持ちになれます。ただし、この要点は滅私です。自分を幸せにしようなんて考えでは所詮自分を仕合せにすることは出来ません。自分のことよりも自分がこれと思った人に喜んでもらえることに重きを置いて生きて見てください。そうすれば幸せに一歩近づけます。 だから、赤の他人をも愛すということは辛いです。それが甘いかなんて、そんな甘いことは言わないで下さい。
お礼
ありがとうございます。 鳥が笑顔になってますね。
- namidamena
- ベストアンサー率28% (9/32)
甘いというか、不審者扱いされます。 理解不能なんだと思います。何の得があんの?って。 さあねとしか言いようが無いんですけど。
お礼
ありがとうございました。
No.7さんの意見のとおりかと思います。 それに、私なりに考えたことを付け足します。 「愛する」といっても、様々な性格の人間がいる以上 そのひとに適した愛し方があるように思われます。 愛する行為は善行ではありますが、よく知った相手を 適切に愛する方がより大きな善行になるでしょう。 >赤の他人をも愛すということは甘いのですか? 「甘い」=理想主義的 というよりも 「甘い」=自己の能力に対する過信 のような気がします。
お礼
ありがとうございました。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
あなたの愛はあなたの中にしか存在しないのですよ。 だから、あなたがあなたに答えるのがベストアンサー。
お礼
ありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ 赤の他人をも愛すということは甘いのですか? ☆ 《そのとおりだ。甘い》あるいは《無茶だ》あるいは愛を知らない場合には《迷惑だ》などという答えが返って来るということです。つまり それだけのことです。 信念は自由ですし 自己表現も自由です。 きびしい経験になったという場合もあるでしょうし あるいは――人間の境地と能力において出来ないことではないと考えますから―― あぁ 少しは出来たと思うかも知れないでしょうし。 ただ 赤の他人をも愛すという場合には あまり他人に問うたりはしないでしょうね。 ということは すでに何がしかの経験をしたゆえに この質問が生まれたのでしょうか? でも もういっぺん元にもどって 自分の考えで自分からそう行動するというかたちになるでしょうね。 ボン・ヲ゛ワイヤージュ!
お礼
>きびしい経験になったという場合もあるでしょうし あるいは――人間の境地と能力において出来ないことではないと考えますから―― あぁ 少しは出来たと思うかも知れないでしょう これも愛ですね。
- larme001
- ベストアンサー率44% (271/608)
生半可な気持ちでやろうとすると、痛い目にあいます。結果、「しょせん世の中自分だ」という人間不信かだれも愛せない人になる可能性があります。その程度の認識なら「甘かった」と言えるでしょう。 仮にどんな仕打ちを受けようが、どんな裏切りを受けようが、仮に自分の最も大切なものを奪われようが、それでも愛をもって制することが可能なら、そういう邪念から完全に排除できようなら、それはだれにも否定できないでしょう。ただ、それによって少しでもあなたが「自分は不幸だ」と感じる時があれば、甘いのかもしれません。「マザー、テレサ」とかごく限られた人がそういう域にいるのだと思います。 個人的には、信念としてそういう心構えを多くの人が持つことは良いことだと思いますが、実際にどのようにそれを貫くかというのには今の世の中なりのやり方というものがあると思います。お互いに満足できる方法で無茶な方法はよしたほうがいい。極端になって孤独になるよりも、適度な社会性を保ちつつ多くの人の信頼を得たほうが結果良い方向に行くと思うからです。
お礼
>お互いに満足できる方法 気が付ける方もいるでしょうし、気がつけない方もいるとも思います。
- kadowaki
- ベストアンサー率41% (854/2034)
>赤の他人をも愛すということは甘いのですか? もし、質問者さんが個人の権利を最大限尊重してくれる社会システムが望ましい、あるいは政治体制としては民主主義(=個人主義)こそが最も望ましいと判断なさるなら、これはそのまま「赤の他人をも愛すということ」は不可能と表明したことになるのではないでしょうか。 だって、われわれ一人一人の人権を最大限尊重するためには、われわれは「赤の他人」との間で《GIVE&TAKE》の契約関係しか結ぶことができないからです。 事実、普段は「赤の他人を愛す」ことの大切さを自他に向けて唱えていた者も、ひとたび自分の利益が損なわれたと知るや、「自分の権利が不当に侵害された」といって怒り、その相手を恨まずにはいられなくなるはずです。 さらに、もし、当事者間で決着が付かなければ、第三者による裁定(法廷での決着)を求めようとできるのが民主主義・個人主義の社会でもありますよね。 こういう民主主義的な社会秩序や政治システムのもと、「赤の他人をも愛す」とはいったいどういうことか? どういう人間関係を意味するのか? とお考えいただけませんか。 さらに、いかにしてわれわれは《GIVE=TAKE》という人間関係を実現し得るのか?、と。 20世紀初頭において、こういうアポリアと愚直なまでに生真面目に取り組んだのが英国の小説家・詩人のD.H.ロレンスでして、彼は人間の最小単位が《個人》であるかのごとく思い上がり、その結果として捏造するにいたった近代の《個人》主義や機械的人間観を痛烈に批判しました。 そもそも単なる無機的な断片、欠片でしかない《個人》が、あたかも自律的な人間であるかのような誇大妄想に取り憑かれ、傲慢にも《個人の権利》とやらを主張したがために、他者を心底愛することができなくなった、と。 なお、詳細については、ロレンスの『現代人は愛しうるか―黙示録論』(福田恆存訳・解説 中公文庫)をご覧になって下さい。 ところで、現代の日本人がのほほんと使っている「愛」という漢語は、植村正久をはじめとする明治維新直後に洗礼を受けた初期キリスト教徒たちがさんざな悩み抜いた挙げ句、loveに「愛(アイ)」という《漢語》(仏教語)を宛がったことに始まるのではないか、と私などは勝手に臆測しております。 なお、「愛」はあくまでも《漢語》(=外来語・概念語)であって、その発音「アイ」にしても、古代中国語の発音を真似た《擬音》でしかなく、「愛す」などという人工的な翻訳語(=漢語+サ変動詞)が発明される以前の日本人は、こういう最も切実な思いを表現する際には、「あはれむ」、「いつくしむ」、「めづ」、「をしむ」といった、より自分の心の丈に合った《倭語》(=身体語)を用いていたようです。
赤の他人をも愛すことは、身近な嫌いな人間を愛すことよりも簡単です。 赤の他人ではないと表現する時点で、赤の他人ではないひと=身近な好きなひと と勝手に情報を捏造しがちです。
お礼
ありがとうございます。 そうなのですね。
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お礼
>動物に近いほど自分自身しか愛せなくなる んですね。 >平和で戦争も無い世界になりますね。 御回答ありがとうございました。