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赤の他人をも愛すということは甘いのですか?
赤の他人をも愛すということは甘いのですか?
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赤の他人をも愛すということは甘いのですか? ○ 一般的な評価では「甘い」のでしょうね。でも「赤の他人をも愛することができる甘い人」が増えれば、平和で戦争も無い世界になりますね。 そのような大甘代表の一人がイエスであり仏陀であるわけですから、甘い性質は仏や神に近いものですね。 動物に近いほど自分自身しか愛せなくなるのですね。甘さの程度は仏神と動物の狭間で変わりますね。 この世は動物的ですから甘くは無いことは確かですよ。でも甘い性質を捨てれば動物的になり仏神から遠ざかることも事実ですね。 自身や家族や関係する者を愛することは誰にでも出来ますが、赤の他人や外国人や宇宙人までは普通あいせないよね。だからいろいろな問題が起きるのですね。だから「大甘」を貫けばそれだけで非凡ですね。
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- Mokuzo100nenn
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赤の他人か、血縁者か、など関係性に振り回されることなく、自分と直接接点のある人を愛しなさい。
お礼
閲覧ありがとうございました。
親切心に譬えると お人好し、おせっかい、有り難迷惑・・・と高じてゆくのでしょう。 これらの行いは、一方的なものでまだ愛と呼ぶには程遠いかもしれないですね。 相手の身になった無償の行い、となると愛と呼ぶのにふさわしいのかもしれません。 この愛を受け取る側においては、これほど甘く美味しいものはないでしょう。 しかし、その甘さが、本当に相手のためになるものなのかについては疑問があります。 その疑問の残る甘さを、よく一般的に「甘い」と言うのだと思います。 厳しい言い方をしてみるならば 他人を真から愛する事など出来ぬものなら、下手な愛など注ぐべきではない、ましてや上辺だけの愛らしきものなど無用・・・という事になるのですが・・・それでも 相手の身になった無償の行い、というものは中々出来るものではなく、一概に甘いとは言えないような気もします。 真に甘いか甘くないかは、当事者の主観的判断ではなく、受け取る側においての結果的状況の好転に結びついたかどうかという客観性によるものなのでしょう。 受け取る側の実利に結びつかないものは、やはり甘いと言わざるを得ないと思います。 見方を変えれば、他人に実利を与える、という事は中々出来ないものだとも言えますが・・・ 個人的には・・・お人好し、おせっかい、有り難迷惑、といったレベルでのやり取りが好きなのですが そうした中でも爪の垢くらいは真実があるかもしれないと思っています。 >赤の他人をも愛すということは甘い・・・という前提を厳しく持った上での行いならば尊く、決して甘いとは言えないように思います。
お礼
>相手の身になった無償の行い、というものは中々出来るものではなく、一概に甘いとは言えないような気もします。 精一杯を超える問題を補填することや、それについての無理の無い解決を考えようとすることは愛だと思います。 >真実があるかもしれないと思っています。 御回答ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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他の方も指摘されているように、現時点では「愛」によって定義されるものが一定ではないので、議論が混乱しがちです。 たとえば下記のような定義をすれば、ご質問の内容も自ずと明らかになる部分があります。 愛(あい);自己の生命の組織(社会)性の認識によって、あらゆる衝動の発現に於ける利己過程に、利他が介在すること。 主として、性別(交配)・親子(生殖)・分業(組織)などに、個体生命の成立に於ける超個体的機能が顕著であるが、認識未だ及ばず、「自己の生存(反エントロピー)」という本質的統一性を、現象上に捕捉し得ない不完全な認識を補う、非認識的に組織化する上での近似的多元的に発達した多様な即物的衝動や他律的常識の集積による、内的矛盾に於て発生する自虐的意識行動に対し、その結果(非認識)的整合(>システム進化)に対する、形骸的概念として、主に性欲・自己顕示欲・虚栄心・偽善などの発現の上に、現象的定義域を持つ。 しかしそれは、この本質としての、生体外情報の処理システムたる認識による、自己の生命システムの組織性の追跡によって意識(必然=宇宙)を共有し、自我を超越するものではなく、近似システム(金・権力etc.)による自我の延長(自由競争)、あるいは歪曲した衝動(イズム)の手段としての自我の相乗(マイホーム主義・愛国心etc.)とでも言うべきものであって、つまり「利己過程に利他が介在する」事によって個体間闘争が回避されるのではなく、集団的に新たな、そして組織的ゆえにより強力で容赦ない、闘争段階の形成へと変形されるに過ぎず、飽くまで常識による常識の為の虚構であって、人を低認識(情動)化して充足減に導く、中毒(近充足)性毒物(非最大充足)に他ならぬ。 そこに於て、真の愛は、完全なる科学(原理認識)である。
お礼
御回答ありがとうございました。
愛する、って、どういう事?行為?行動?思い?思考? という問いを解決しないとご質問の問いには答えられないと考えます。 *愛とは何か?愛するとはどんな行為か? *赤の他人とはどういう人か?その線引きは? *甘いとはどういう事か?その感覚における個人差は? と、 これだけの問いと答えを、出発点に用意する必要があります。 質問者様ご自身のお考えを補足なさると、有意義な質疑になると思われます。
お礼
閲覧ありがとうございました。
- kakuseizai-no
- ベストアンサー率25% (12/48)
聖母マリアが抱いている赤ん坊が正に赤の他人です(笑) 処女受胎と言うのはそう言うことです みな自分の子供は可愛いが、よその子を神の子と呼んで育てる人も存在するんです (赤の他人なんて言ったらこっぴどく怒られそうだが)
お礼
>よその子を神の子と呼んで育てる人も存在する 偉いですね。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
現代社会において、社会の分業化の発達により、人類は社会生命= 自己の生は社会全体の活動に依存するようになっています。 そこにおいて、利己と利他は一致に向かい、「自己を愛する」ことは 「他人を愛する」ことと等価になるのです。 「愛する=甘やかす」という認識は、自己チューな欲求のはけ口の愛、 短絡的な認識による思いやり、といった真の愛(相手のため)ではない 錯誤が根底にあります。 自分であれ他人であれ、「愛する」というのは甘やかす事ではありません。 人の生きる真の目的である「人生を通算した精神的充足量の最大化」 において、目先の快楽や怠惰はマイナスです。 厳しく育て、活躍の場を与え、社会に貢献させ、自然との順調な循環を 図ることこそ、その存在(自分であれ相手であれ)を愛することです。 (自己存在の本質に根ざした自覚(最大限の認識)に基づく意志の発露=最大充足)
お礼
御回答ありがとうございます。 >社会の分業化の発達により、人類は社会生命=自己の生は社会全体の活動に依存 して存在できるようにすることが目標ということですね。現在のこの国はそれに合格できているでしょうか?
- kakuseizai-no
- ベストアンサー率25% (12/48)
人間を働く道具として扱う場合、助け合う関係は邪魔です 後腐れになりますしね よって最新の金儲け哲学は、人間の不和です こう言う卑しげな哲学は新聞や雑誌を見れば分ると思うが
お礼
御回答ありがとうございます。 扱われる人なくして、扱うと自認する人の構築する現実はありません。 肉食動物はその命を、草食動物に依存しているようなものです。
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お礼
>動物に近いほど自分自身しか愛せなくなる んですね。 >平和で戦争も無い世界になりますね。 御回答ありがとうございました。