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大正時代でおだんごやさんに通うには
大正の時代において、 おだんごやさんのおだんごを毎日通って食べることが、 平成時代において、 どれくらいの行為にあてはまるか教えてください。 よろしくお願いします。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.1 母の家は古い和菓子屋で大正天皇陛下が皇太子の頃、御木本にきたときにお立ち寄りに為り、家の周りを制服の憲兵隊が固め、祖父は暑い中か仕事場を囲まれおつくりしたそうです。 お団子やは休み茶屋ですね。 宿場町には必ずあるんです。それが戦災で焼けても戻ってきています。 北千住や戦災がなく、古い和菓子屋やせんべいやが続いています。文久二年なんて新しい方です。 此処は日光街道の最初の宿場。 そして神社はともかく仏閣の参道は団子屋たる休み茶屋はあるんです。 茶屋にもいろいろありますからね。遊郭の茶屋とか相撲茶屋とか。ここらは今は大きい企業ですが。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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母も明治39年生まれです(でした)から、ちょうど大正頃は十四、五歳でしたろう。 さる風光明媚で名高い、ハイキングコースでの休み茶屋でお手伝いをしていたそうです。 必ずお寄りになる方もいらっしゃったが、まぁ喫茶店みたいな感じのようです。 (エピソード(悪ふざけの方の):数人で来て、ころあいを見てお手洗いに立つ。次々に立つ。それを観察していて、母は山の麓で待っていて、次々に料金を領収したそうです。母の得意だったそうです。) ここらは太田道灌が開く前は江戸湾から上野や日暮里の高台、そして松戸の辺りまで豊葦原の湿地帯で日本中の鳥の飛来地だったそうです。 小菅の刑務所なんていうところは今は正式には東京拘置所ですか。 お狩のときの徳川将軍の邸だったそうですが、狩場を持つことの出来たのは朝廷と将軍家だけだったそうです。 狩は軍事演習ですが、軍事的デモンストレーションだったそうです。 多くの旗本、御家人が一年中この狩場の維持や取締りの専門職で勤務していたそうです。 捕獲した白鳥はワタを除き、塩をつめ、その日の内に禁裏に届ける。それは欠かせない任務でした。 将軍の狩の時期は洗濯物は駄目、肥溜めは塞ぐ。外を数人で歩かない。お百姓はきちんと護り、遍歴の方々、物売りや鳥追い(ご近所にもおられました。しゃみの音(ね)がよく聞けました。四十八組の頭のお嫁さん)は出歩けない。 白鳥とかお花茶屋という地名が残る。 将軍が具合悪くて、お花さんにせわになり、そのお茶屋を名つけた。 ちょいと腰掛けて休むところ。 いつも通うっていうと、今では喫茶店でしょうね。酒保に似ていないかな。 そんな話もあります。
お礼
回答ありがとうございます。 おもしろいエピソードをありがとうございます!^^ 当時の状況を立体的に把握できました。 お団子屋さんは、喫茶店だったのですね。 鮮やかな料金徴収や、地名のお話も面白かったです。 なるほどなるほどー!^^
お礼
素敵ですね。 おつくり……。 仕事場を囲まれって、すごいです。 毒見の方とかおられるのでしょうか。 都会にも、そんなところがまだあるのですね。 これからもずっと続いていってほしい文化です。