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夕鶴つうは なぜ夫の与ひょうを去ったか
夕鶴つうは なぜ夫の与ひょうを去ったか ▲(ヰキぺ:夕鶴) ~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E9%B6%B4 与ひょうは、ある日罠にかかって苦しんでいた一羽の鶴を助けた。 後日、与ひょうの家を「女房にしてくれ」と一人の女性つうが訪ねてくる。夫婦として暮らし始めたある日、つうは「織っている間は部屋を覗かないでほしい」と約束をして、素敵な織物を与ひょうに作って見せる。 つうが織った布は、「鶴の千羽織」と呼ばれ、知り合いの運ずを介し高値で売られ、与ひょうにもお金が入ってくる。その噂を聞きつけた惣どが運ずと共に与ひょうをけしかけ、つうに何枚も布を織らせる。 約束を破り惣どと運ず、更には与ひょうは、織っている姿を見てしまう。そこにあったのは、自らの羽を抜いては生地に織り込んでいく、文字通り"我が身を削って"織物をしている与ひょうが助けた鶴の姿だった。正体を見られたつうは、与ひょうの元を去り、傷ついた姿で空に帰っていくのだった。 ▼ (木下順二:夕鶴の大団円) ~~~~~~~~~~~ しんとした間―― 子供の一人:(突然空を指す)あ 鶴だ 鶴だ 鶴が飛んでいる。 惣ど: や 鶴・・・ 運ず: おお・・・ 子供たち: 鶴だ 鶴だ 鶴が飛んでる。 (繰り返しつつ 鶴を追って駆けて去る) 運ず: おい与ひょう 見や 鶴だ・・・ 惣ど: よたよたと飛んで行きよる・・・ 間―― 惣ど: (誰に言うとなく) ところで のう 二枚織れたちゅうは ありがたいこってねえけ。 (与ひょうの手にある布を取ろうとするが 与ひょうは無意識の うちに離さない) 運ず: (与ひょうを抱えたまま一心に眼で鶴を追っているが)ああ ・・・だんだんと小さくなって行くわ・・・ 与ひょう: つう・・・つう・・・(鶴を追うように 一・二歩ふら ふらと。――布をしっかりと掴んだまま立ちつくす) 惣どもそれに引きこまれるように 三人の眼が遠い空の一点に集まる。 微かに流れてくるわらべ唄―― ――幕―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 答えとして: 1. 見るなという約束を破ったので 信頼し得なくなった。 2. おカネに目がくらんでしまったから もとの与ひょうでなくなった。 3. いや 去っていない。去ったというのは 身を犠牲にして死んだという意味だ。つまり最後まで夫に尽くした。 4. いやいややはり去った。ともかくきらいになったのだ。 5. いやいや じつはこうだ。・・・ 5-1. 初めの《恩返し》という動機を――それはそれでとうといのだが―― 結婚ということに結びつけるのには無理がある。 5-2. いやいや与ひょうへの愛は それとは別に芽生えたのだ。だから結婚は成立している。つまりそういう問題ではなく・・・(あなたのお考え)・・・ * ちなみに鳥には換羽期(とやごもり)があって羽根は年に数回生え換わるのだそうですね。だとしたらその抜け落ちた羽根を使えばよいとも考えられるので 必ずしも《身を削って》というほどでもないかも知れません。という見方もあるようです。 もっとも基本的には 人間のこととして捉えて考えて欲しいとは思います。 もしつうが去って行ったのなら それは一般的な見方から行けば おとなげないとわたしには思われますが さてどうでしょう。
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おはようございます、bragelonneさん。 ● もしつうが去って行ったのなら それは一般的な見方から行けば おとなげないとわたしには思われますが さてどうでしょう。 ↑ 勉強しに帰ったのかもしれません。 『また出た!また出る!1問1答・大卒公務員の過去問刑法・商法・労働法』 http://books.google.co.jp/books?id=GWupUFBfyxYC&printsec=frontcover&dq=%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%87%BA%E3%81%9F!%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%87%BA%E3%82%8B!1%E5%95%8F1%E7%AD%94%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%8D%92%E5%85%AC%E5%8B%99%E5%93%A1%E3%81%AE%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%95%8F%E5%88%91%E6%B3%95%E3%83%BB%E5%95%86%E6%B3%95%E3%83%BB%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%B3%95&hl=ja&ei=qxnTTNeaB4XGvQP2woXBDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCkQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false
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- 阿加井 凛悟(@neutral)
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ぶらじゅろーぬさん。こんにちわ。 ご返信ありがとうございます。 退散しますと言いつつ、つい。 しかも9番からあまり考えは変わっていませんが。 つうが「悪い」とは思わないのですが、 (こまーすさんのおっしゃるとおり、 「悪意-悲劇」ではないと思うのですが) つうは、「おとなげない」というよりは、 「自分勝手すぎ」「無責任すぎ」なんだなあ・・・。 自分で「関係」を始めておいて、 自分の都合で、一方的に、 「関係」をポイっ!としたのでしょう? ごちゃまぜで開始したからとか、 約束を破られたからとか、 あんたが金に夢中になったからとか (↑これは、つうには全く責任なし?) そんな理由で納得できるんですかねえ。 与ひょうは。唐突な「関係放棄」を。 ところで 「あくまで恩返し!」? 「最初からごちゃまぜにしていたのは明白!」? どっちなんでしょう。 また、「あくまで恩返し」という行動は、 「動機」から?「目的」から?・・・・????? (すみませんいろいろ疑問が湧いちまって。) ................ぶれいく................. ちょっと「つう」を弁護。 最初の「ごちゃまぜ」も重大な間違いではないのでは? たとえば異性友達とジェットコースターに乗って、 興奮してドーパミンがドバっと出ちまって、 それはジェットコースターのせいぢゃなくて、 この異性友達のせいだ→わたしこの人好きなんだ・・・。 という勘違いはよくあることのようですし、 たとえば映画なんかで、窓の外が雷と豪雨・・・ 興奮してつい異性友達とチューしちゃった・・・、 というシーンも飽きるくらい見ますし。 ここでは、「命を救ってもらった!」という 相当特殊な背景での異性同士の接触でしょう? 「命を救ってもらった!」のだから 「感謝したい!」も泉みたく自然に湧いた本物で、 「あ、惚れちゃった」も自然なんぢゃないかなあ。 ...................................... ごちゃまぜで開始したとして、 羽を抜いて布を織る、以外の愛情表現を、 つうは開発しようとしなかったのでしょうか。 で、間違っていたことに気付いたから、 患者が病院を卒業するように与ひょうから卒業? あなたのおかげで大人になりました、とか言って? 自分が鳥に化けていたことがバレても、 始めに(わけが分からないまま) 与ひょうがつうを受け入れたように、 ウソついちゃったつうも与ひょうは受け入れるのでは? つうは、 かくかくしかじかの理由で鳥のフリをしていました。 こういう理由で鳥の姿を見られたくありませんでした。 ほんと、見られたくなかったんです。だってうんぬん。 ちっ。見られちまったよ。もう消えたいよ。やれやれ。 ところで今ちょっとわたしの羽が減ってるんです。 布が織れないときは貧乏になるけど我慢してくださる? とか少しぐらい話をしたらよかったんぢゃないですか。 甘すぎですかねえ。 ............ぶれいく................ 見ちゃダメよ! は~い!分かった~! けどやっぱ気になる~! え~い、見ちゃえ! で、悲劇。 のような話が世界中あちこちに溢れてるんですが、 これはそもそもどうしてなのでしょうねえ。 (すみませんいろいろ疑問が湧いちまって。) ・青髭(グリム) ・パンドラの箱(?) ・浦島太郎 う~ん・・・だけど「青髭」「夕鶴」と 「パンドラ」「浦島太郎」はちょっと違うのぢゃないかなあ。 悲劇の作り方の強引さ加減が(青髭は悲劇ぢゃないけど)。 「パンドラ」「浦島太郎」は、人間対モノだけど、 「青髭」「夕鶴」は人間対人間の約束破り(間違い・失敗) だから、「ぢゃ、おしまい」というのはどうなんでしょうねえ。 ................................. 以下、本当に「単なる恩返し」の話。 ◇ 「たぬきの糸車」←小学1年生の国語の教科書に載ってます。 http://hukumusume.com/douwa/pc/jap/03/03.htm ◇ 「ライオンとネズミ」 http://www33.ocn.ne.jp/~maty/tales/world/mouse/mouse1.htm 「たぬきの糸車」はタヌキが山に帰って、 おばあさんと別れてハッピーエンド。 「ライオンとネズミ」は、ライオンがネズミに助けられて、 仲良く暮らすようになってハッピーエンド。 どっちもハッピーエンド。なんでだろ。 「情」は入ってると思うのだけど。 「女心」が入ってないからかなあ。 (すみませんいろいろ疑問が湧いちまって。) とりあえず思ったこと書きました。 「ま」の話は、煮詰まり中。ミサイル尽きかけ。
お礼
そしてあの布を織ってあげたら あんたは子供のように喜んでくれた。だからあたしは 苦しいのを我慢して何枚も何枚も織ってあげたのよ。それをあんたは そのたびに《おかね》っていうものと取りかえて来たのね。それでもいいの あたしは。あんたが《おかね》が好きなのなら。だから その好きな《おかね》がもうたくさんあるのだから あとはあんたと二人きりで この小さなうちの中で 静かに楽しく暮らしたいのよ。あんたはほかの人とは違う人。あたしの世界の人。だからこの広い野原のまん中で そっと二人だけの世界を作って 畑を耕したり子供たちと遊んだりしながらいつまでも生きて行くつもりだったのに。・・・だのに何だか あんたはあたしから離れて行く。だんだん遠くなって行く。どうしたらいいの? ほんとにあたしはどうしたらいいの?・・・(pp.44-45) ☆ どうもこれは人物描写が はっきり言って へたですね。質問に出しておきながら言うのですが 作者の文学の素養をうたがわねばならないかも知れません。それよりは 民話のままのほうが――と言っても詳しく知りませんが―― よいということかも分かりません。 ひとつのこのもやもやを抜け出す道は つうが おカネの流通する世の中というものをしっかりと知ることですかねぇ。果てさて ニュウトラルさん みなさん どんなもんなのでしょう? * 補足欄の番号づけで 6.の次も 6.になってしまっていますが 7.の間違いでした。補足欄からお礼欄へ この7.はつづいています。 * 貨幣経済という主題としてなら クリヤさんの提示された課題は 有効であるように思いますが この点についても どうなんでしょう? (これは質問者が 逃げにかかった?)
補足
★ ~~~~~~~~~~ ごちゃまぜで開始したとして、 羽を抜いて布を織る、以外の愛情表現を、 つうは開発しようとしなかったのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ この見方はおもしろいですね。作者に訊いてみたい。――ニュウトラルさん ご回答をありがとうございます。 ハコブルさんとのやり取りに肉付けをしてもらったかたちですね。そして ★ 見ちゃダメよ! ★ 本当に「単なる恩返し」の話。 ☆ の物語の事例を挙げてくださいました。 作品を読みました。つうが無理をして羽根を抜いて布を織ること( a )とか あるいは――驚くことに――つうはおカネというものを知らなかったようであること( b )とか 抜き書きになりますが掲げてみます。 ( a ) つうが無理をして羽根を抜いて布を織ること 1.(惣どと運ずの会話にて):鶴の千羽鶴〔・・・〕それはな 生きとる鶴の羽根を千枚抜いて織り上げた織物だ。(p.37) 2.(与ひょう):そんでもよ 布を織るたびにつうがぐんと痩せるでよ。(p.41) 3.(つう):あたしは・・・こんなにやせてしまったわ。・・・使えるだけの羽根をみんな使ってしまったの。あとはようよう飛べるだけ・・・(p.63) ( b ) つうがみづからの思いを述べるところ 4.(与ひょう):そら 金があれば 何でもええもんを買うだ。 (つう):かう? 《かう》ってなに? いいもんってなに? あたしのほかに何がほしいの? (p.51) 5.(つう)〔与ひょうがおカネの話をし出すとこう言う〕:分からない。あんたのいうことがなんにも分からない。〔・・・〕口の動くのが見えるだけ。声が聞こえるだけ。だけど何をいってるんだか・・・ああ あんたは あんたが とうとうあんたが〔・・・〕あたしに分からない世界の言葉を話し出した・・・ああ どうしよう。どうしよう。(p.53) 6.(つう):これなんだわ。・・・みんなこれのためなんだわ。・・・おかね・・・おかね・・・あたしはただ美しい布を見てもらいたくて・・・それを見て喜んでくれるのが嬉しくて・・・ただそれだけのために身を細らせて織ってあげたのに・・・もう今は・・・ほかにあんたをひきとめる手だてはなくなってしまった。布を織っておかねを・・・そうしなければ・・・そうしなければあんたはもうあたしの側(そば)にいてくれないのね?・・・でもいいわ おかねを・・・おかねの数がふえて行くのをそんなにあんたがよろこぶのなら・・・そんなに都へ行きたいのなら・・・そしてそうさして上げさえすればあんたが離れて行かないのなら・・・もう一度 もう一枚だけあの布を織って上げるわ。それで それでゆるしてね だって もうそれを越したらあたしは死んでしまうかもしれないもの。・・・その布を持って あんた 都へいっておいで。・・・そしてたくさんのおかねを持ってお帰り。・・・帰るのよ 帰ってくるのよ きっと きっと帰ってくるのよ。そして 今度こそは私(あたし)と二人きりで いつまでもいつまでもいっしょに暮らすのよ。ね。ね。・・・(p.56) *(註): 《・・・》の部分は そのまま原文にあるかたちです。5.の《〔・・・〕》の部分は省略です。もう少しスペースがあるので 引用をつづけます。与ひょうがおカネのことでだんだん変わっていきつつあるときの つうの述懐。 6.(つう):与ひょう あたしの大事な与ひょう あんたはどうしたの? あんたはだんだん変わって行く。何だか分からないけれど あたしとは別な世界の人になって行ってしまう。あのあたしには言葉の分からない人たち いつかあたしを矢で射たような あの恐ろしい人たちとおんなじになって行ってしまう。どうしたの? あんたは。どうすればいいの? あたしは。あたしは一体どうすればいいの?・・・あんたはあたしの命を助けてくれた。何のむくいも望まないで ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。それがほんとに嬉しかったから あたしはあんたのところに来たのよ。
- hakobulu
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#16です。 >どうもほとんどすべてが前提の取り方で違って来ているように思います。 :おっしゃるとおりです。 発端のつうの行為を認めるか否かで、「おとなげあるのかないのか」が決まってくるわけで、ご質問は、そこを論点にされているのでしょうから。 >あとは 《 Ich 》をなぜ《わたし》と取らずに《自我》と訳し独自の――つまりわたし( bragelonne )に言わせれば人格にとって部分的な――概念にしてしまうのか。 :しかし、《わたし》として展開するほうが論点は曖昧になるように思いますが。 自我とは、あくまで「部分的な一概念」ではなく、「その時点での現われとしての形態」で、言ってみれば名刺のようなものです。 超自我性と本能が調節された結果としての、対外的な個人としての顔です。 超自我的な私、本能的な私、という《わたし》というものは人間である以上(神でも獣でもない以上)存在し得ません。 存在するのは常に自我としての私になります。 ただ、その要素として超自我性や本能を前提とすると自我の本質が見えやすくなるので、そのような表現をするわけです。 >★ つうの過剰な超自我的献身 ☆ という見方にはわたしとしてはブレーキがかかるというわけなのです。 :つまり、つうが(織り上げた縫い物には意味を見い出すが)羽を抜くという行為自体には、あまり意味を見出していらっしゃらない、ということでしょうか。 だとすれば、おっしゃるように決定的な前提の解釈違いがあるのでしょうね。 私としては、基本的には、身を削る思いで為される行為の評価に対する誤解の比喩として、この民話を受け止めているので。 >それでもほかの一面としては自分の織る布が高値で売れるということをけっきょくは知っていたとも推し測られますので 超自我の過剰という見方にやはりブレーキがかかります。 :高値で売れるのが与ひょうのため、という認識も含めての超自我性です。 念のために補足いたしますと、超自我性というのは本能的なもの(エス)に対する単なる抑圧、あるいは抑制を意味します。 いわゆる理性とは(無論、場合によってはそれも含まれますがそれだけに限定されないという意味で)異なる、というか、エスに対する超自我的抑制作用によって、結果として出現しているのが理性、という感じでしょうか。 理性と思い込んでいるものが実は単なるエスの抑制である、という構図は案外多いものです。 「〇〇のために自らの本来的なものを殺す・我慢する」というのが超自我性です。 いってみれば、超自我それ自体は基本的には、あくまで自己都合であって、さほど高尚な作用を指すわけではありません。 >そもそも恩返しがただひとつの目的であって それなのにそのことを男女の愛および愛情という事態と一体として捉えてしまったというとき たしかにそれゆえにこそ物語のような長い期間における錯覚による振る舞いが起きたのだと見られる節があるように思われるからです。 :これ以外にない、と私は思っているのですが。 >なぜ その行動を《見るな》と言わなければならないか? わたしには機織りの技術があります それが出来るようにさせてくれませんかと与ひょうに問いかければ済むことであるはずです。 :つうにとって羽を抜くということは非常に重大な自己犠牲的行為であり、それを与ひょうが認めるとすれば、与ひょうの身勝手さを証明することになり、認められなければ恩返し(あるいは愛の証明)ができない、という矛盾に直面してしまうため《見るな》しかなかったのでしょう。 >ということは 与ひょうらがその姿を見たときには 自分の気持ちが自分にはっきり分かるようになるだろうと思っていたのでしょうか? :自らの《恩返しと愛情との取り違え》には、それまでのある時点で気づいていたように思います。 いわゆる棚上げ状態にしておきたかったのではないでしょうか。 気づいていなかった可能性もあるでしょうが、その場合は、与ひょうの精神的負担を考慮しての《見るな》なのでしょう。 いずれにせよ、それほどの「無理」をしている、という認識が(意識的にか無意識にかは問わず)つう自身に有った。 このことを私は重視しています。 >で 与ひょうは いかに約束を破ったにしてもあるいはおカネに目がくらんだとしても つうを初めからずっと そのあるままのつうを受けとめ引き受けても来ています。これは 自然本性のなせるわざではないですか? :そうですね。 ただ、肝心のつうが「あるがままの自分」という自己認識を持てない状況に当初から自身を設定してしまった。 また、与ひょうがその自然本姓のまま大人しく暮らすことができたとして、果たしてそれで満足できたか否か、あるいは満足すべきだったかは、はなはだ疑問でしょう。
お礼
ご返答いただきありがとうございます。 そうですね。ちょっと細かいですが うん? あれっ? と思ったところを先にお尋ねしてみます。 ★( a ) 超自我性というのは本能的なもの(エス)に対する単なる抑圧、あるいは抑制を意味します。 ★( b ) エスに対する超自我的抑制作用 ★( c ) 「〇〇のために自らの本来的なものを殺す・我慢する」というのが超自我性です。 ☆ このように聞きますと 《本能・エス》はまだヒトにあってはたらいているのですね? というのも すでに次のようにお聞きしていたからです。 ★★(回答No.16) ~~~~~~~~ ( d ) ・・・自然本性だけでは生きられない、という性を持つゆえの人という種族だろうと私は思っているからです。 いわゆる本能の壊れた生き物・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしの言う自然本性は じつは記憶・知解そして意志という行為能力をも含みますし 感性から理性からをも含みます。ヒトに自然にそなわった能力および性質です。 本能は 動物のようにはもうはたらかない。その意味で壊れているとも言えるし 痕跡が残っているなら――いるから―― それだけでも人間的自然は保たれていると見ます。 うそをつくとき 心はやましさやなさけなさを感じ顔を赤らめたり胸騒ぎがしたりという自然の(生理としての)動きも見られます。これを本能と言ってもよいでしょうし あるいは記憶(むしろ記憶するものごとのあいだを秩序づける作用)という能力の為せるわざだとも捉えます。 つまりは 能力行為こそ分かれていますが すべてはそれが表現されたというときには 《わたし》の自己表現ということになります。特にその中核を取りだすなら 意志です。その基礎(歩み)が 知解であり 記憶は秩序立ったみなもとのような場です。 長くなりますが もうひとことです。 心に胸騒ぎを感じても ひとはウソをつきます。しらを切るまでに到ります。つまり 《本能的なもの》であろうと《本来的なもの》であろうと それに従う意志行為もあればそれにさからうものもある。ということだと見ます。 それにエスは 無意識であって実際には認識し得ていないものごとではないでしょうか? それを抑制するというのも何だか分かりづらいのです。欲動や衝動として湧き出て来たときにそれを抑制する・しないという事態になるのだと言われるかも知れないのですが それでしたらどこから湧いて出て来たにせよそういう思いないし意志内容だと取れば済むというように思います。さらにどういう行為として選択するかを判断して 最終的な意志行為になって現われる。 すべては 《わたし》の自己表現となる行為であり その内面において知解し知解した選択肢を取捨する判断などなどがおこなわれているということだと考えます。 この構図においてなら 何をエスと言い何が超自我性としてはたらき ★★(No.16)自我とは超自我と本能(エス=イド)のバランス機構そのものですが ☆ というようにさらに自我がはたらくというのは まだるっこしいと感じるわけなのです。それに たぶん知解した選択肢のどれをエスと捉えどれを超自我性と見るかも 互いに相関的であれば どちらでもよいとさえ考えられます。どちらが《本来的》かも それは本能や超自我性という分け方によるというよりも 自分の心(胸騒ぎや赤面にかかわるそれ)とのかかわりにおいて決めたほうが分かりやすいように考えます。 あとは 最終の判断としての意志行為があるのみです。意志行為として《わたし》がおこなう自己表現です。 ★ 自我とは、あくまで「部分的な一概念」ではなく、「その時点での現われとしての形態」で、言ってみれば名刺のようなものです。 ☆ ならば《わたし》ですよね。社会行為の責任主体は 個人としての《わたし》なのですから。《 Ich Roman = I - novel 》を私小説とは言っても 自我小説とは言いませんよね。近代人の自我を描くのだという説は聞きますが そういう精神医学の方面からの知識を鵜呑みにしているだけではないかと その場合は 思います。 もしくはその字義どおりに合理的な精神としての行動のかたちを言っているのではないでしょうか? つまりそれらは《わたし》のいくつかの側面であり たしかにその時々の貌ではあります。そしてその行為主体は 自我ではなく《わたし》だと思います。つまり自我は もし言うとすれば わたしの自我なのですから。 わざわざですが 前提領域を取り上げました。つうの話は 補足欄にて考えます。
補足
つうと与ひょうのお話ですが その前にお礼欄で言い忘れているところを一点のみ継ぎます。 ★ 超自我的な私、本能的な私、という《わたし》というものは人間である以上(神でも獣でもない以上)存在し得ません。 ☆ これはわたしは言っていません。《超自我性》も《無意識のものがが意識されるようになったエス性》も 《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであるという見方です。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見ているわけです。 欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それは《わたし》です。 いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみです。わたしという人格 あるいは 人格としてのわたしです。自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ >で 与ひょうは いかに約束を破ったにしてもあるいはおカネに目がくらんだとしても つうを初めからずっと そのあるままのつうを受けとめ引き受けても来ています。これは 自然本性のなせるわざではないですか? :( a ) そうですね。 ( b ) ただ、肝心のつうが「あるがままの自分」という自己認識を持てない状況に当初から自身を設定してしまった。 ( c ) また、与ひょうがその自然本性のまま大人しく暮らすことができたとして、果たしてそれで満足できたか否か、あるいは満足すべきだったかは、はなはだ疑問でしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ( a )のご発言で われわれは互いに――前提の取り方の違いを超えて――少しは歩み寄れたかも知れません。 ( b )は初めから主張されていた前提です。 ★ いずれにせよ、それほどの「無理」をしている、という認識が(意識的にか無意識にかは問わず)つう自身に有った。 ☆ そしてわたしとしては 鳥の換羽期(羽根が生え換わる)のことと織り物が高価で売れることをつうが知っていたと思われること このふたつの点で そこまでの《無理》をつう自身がすると考えることにブレーキがかかるという前提論議をしています。 ( c )にかかわることとしては 同じく前提が ★ つうにとって羽を抜くということは非常に重大な自己犠牲的行為であ〔った〕 ☆ というかたちにおいては その恩返しの行為をこれ見よがしに与ひょうに見せるわけには行かないのですから《見るな》と言い置いたことも納得が行きます。 そこでそれを踏まえて( c )ですが そうしますとどうも議論の分かれ目は 次の一点にかかっていることになりませんか? すなわち つうは初めは恩人を夫婦関係としての相手だという思い違いから出発したのだが その後その夫婦関係が社会的な認知を得るまでになったとしたとき 欠点だらけの与ひょうではあるけれど 初めの恩返しという意図を超えて 連れ合いとして受け容れるようになったかどうか。 ここからは 二人でこの生活を続けいい家庭を持とうと考えるように到ったか それとも愛情の対象ではなかったという初めの気持ちを確認しそれをつらぬいたか いづれとも自由に考えられるということではないでしょうか? 夫婦としての暮らしが初めからおしまいまであくまで勘違いからの仮りのものであったという場合には 恩返しが出来たあと去っていくことが確かにおとなげある判断だとなるでしょうね。 推論に不都合や無理があればさらにご指摘ください。 * ちょっと上から目線ですかね。
済みません。後出しじゃんけんのようですが、好きな物語が縦横に語られていて、思わず読ませていただきました。 参加することに意義があるということで(笑)。 >つうは なぜ夫の与ひょうを去ったか? ですが、私としてはこれはすんなりとごく自然に受け入れられる結末であり、それは、様々な複合的な理由が皆その結果へ向けてなだれ込んでいるという印象があるからです。 つまり 1、も2、も3(つうは多分彼らの社会へ帰った後死ぬのでしょう)、も4も、5-1もみなそれぞれにこの結果の一部をなしていて、更に回答者様が書かれてあるように、他の理由(人間でないことが知られた以上、もはや村に居座ることは出来ないというつうの思い込み、これは他のどんな理由より強力だと思います)も並列的に作者が意図して描いていると、私は思います。 この戯曲の作者の気分として、そうだったのではないか、という私の感想でもあります。 おつうには愛以外の何のわるぎもなかったと思いますし、思いたいですね。 どんな解釈も自由だと思いますが、商業主義に毒された人間という主題は私自身はあまりおおげさにはとりたくないと言うのが私の思いです。 あまりに非哲学的で微温的な回答で面白みがなく、申し訳ありません。
お礼
あぁ なるほど。という意味は――こまあすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます―― ふるさとについてのなつかしさ あるいは 童心というような意味あいで子どものころへのあこがれ こういった要素がはたらくということでしょうか? あるいは筋違いでしょうか。 この物語としては話の型が決まっているのだと。それゆえに 望郷や懐郷の念が呼び起こされるのだと。取り違いでしょうか。 決まった型でありながら そこから話題や解釈が広がっていくこともありうるのだ。そういう扱い方もしくは楽しみ方をするのがよいであろうと。 ★ おつうには愛以外の何のわるぎもなかったと思いますし、思いたいですね。 ☆ でも何かと詮索はするでしょうね 人びとは。特に哲学屋は。 ★ どんな解釈も自由だと思いますが、商業主義に毒された人間という主題は私自身はあまりおおげさにはとりたくないと言うのが私の思いです。 ☆ そうなんですね。――ただ この商業主義の洗礼を素朴な村人が受けるという解釈は 多いようですよ。つうが去ったあと――去って行くのを見送っているそのとき―― 与ひょうは 毒をも含むそのおカネ社会の洗礼を受けたのだとさとったのだともわたしも思います。 まぁ そのように村を資本の風がひと吹き流れたというほどのことかも知れませんが。 ありがとうございました。
- hakobulu
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#15です。 >ごちゃまぜにしていなければ 去って行くのは おとなげないなぁになるわけですから。 :う~ん。 ごちゃまぜにしているのは明白な事実だと思いますが・・・。 それがなければ、この話は成立しないでしょう。 おとなげないことに関して論じようとするのであれば、夕鶴は題材とはなり得ないだろう、というのが私の基本的な見解です。 >鶴のたとえをとおして人間の話をしているという前提を置いていました。 :というのは私も同様で、羽を紡ぐという比喩による過剰な超自我性が全ての発端である、という解釈です。 また、この発端がある以上、分かれこそがハッピーエンドとさえ言えるのではないか、ということです。 >与ひょうは そのような疎外についてもあるいは物象化という現象についても いまさとった――我れに還った――のではないか。やはり自然本性を保つ人間で居つづけることは出来るはずではないか。 :そういった教訓的な意図があったのかどうかはわかりませんが、ややなじみづらい解釈ですね。 なぜなら、自然本性だけでは生きられない、という性を持つゆえの人という種族だろうと私は思っているからです。 いわゆる本能の壊れた生き物、というわけですが、しかし、壊れるには壊れるなりの理由があったはずで、それが何かは定かではありませんが、少なくとも何らかの変化(あえて進化という言葉は使いませんが)を(あえて言えば宇宙摂理から)託されているように思われます。 > でも疎外と物象化の社会現象は むしろそれらに自然本性としての能力によってなじむことが出来ないという感受性のつよい人びとが KY やニートや引きこもりになるという情況を呈するほどに まだまだ猛威をふるう勢いであるようです。そのとき果てさて現代のわたしたちは どうなのでしょう? :感受性の強さは、意図されているように自我の強さと対極にあるように思います。ただし、共存できないという意味ではありません。 自我とは超自我と本能(エス=イド)のバランス機構そのものですが、超自我が強すぎて本能が萎縮している状態と捉えることが可能でしょう。 これを話し出すときりがないのでこれ以上は言及しませんが、 与ひょうが自然本性を忘れた要因は、つうの過剰な超自我的献身です。 しかし、忘れたことが問題なのではなく、つうが超自我的部分をすべて代替してしまったために、与ひょうはバランスを失ってしまった、というのが事の本質と思います。 疎外と物象化は、巨大化しすぎている現時点においては個人で立ち向かうことは難しいでしょうが、これもまたついでに語れる内容でもないようです。 いずれにせよ最終的には個人の認識の問題に帰されると思いますが、与ひょうの気づきがあれば自然本性を取り戻せたという帰着には無理があるように感じます。 むしろ、つうの気づきのほうが重要ではないか、という気がします。(そこから個人の認識という問題、あるいは関係性といった問題に入っていくことになると思われるので)
お礼
ハコブルさん おつき合いくださいましてありがとうございます。 ハコブルさん どうもほとんどすべてが前提の取り方で違って来ているように思います。 あとは 《 Ich 》をなぜ《わたし》と取らずに《自我》と訳し独自の――つまりわたし( bragelonne )に言わせれば人格にとって部分的な――概念にしてしまうのか。この問題ですね。これも言わば前提の議論ですから すべては 前提の置き方で 話は噛み合っておらない。こう明らかになったのではないでしょうか。 前提としてかんたんな話は 次です。 ☆☆(趣旨説明) ~~~~~~~~~~ * ちなみに鳥には換羽期(とやごもり)があって羽根は年に数回生え換わるのだそうですね。だとしたらその抜け落ちた羽根を使えばよいとも考えられるので 必ずしも《身を削って》というほどでもないかも知れません。という見方もあるようです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから――この見方にただちに片寄ってしまうということでもありませんが―― ★ つうの過剰な超自我的献身 ☆ という見方にはわたしとしてはブレーキがかかるというわけなのです。 あるいはNo.12お礼欄の末尾に引用しましたが 木下順二じしんは つうの性格として《純粋日本語》をしゃべると言っています。これは――あくまでこの前提によるならばですが―― たしかに《超自我的献身》になりやすいと見られます。それでもほかの一面としては自分の織る布が高値で売れるということをけっきょくは知っていたとも推し測られますので 超自我の過剰という見方にやはりブレーキがかかります。 けれどもそれらを括弧に入れた上では ハコブル説もおもしろそうだと思うようになりました。 そもそも恩返しがただひとつの目的であって それなのにそのことを男女の愛および愛情という事態と一体として捉えてしまったというとき たしかにそれゆえにこそ物語のような長い期間における錯覚による振る舞いが起きたのだと見られる節があるように思われるからです。 恩返しの志と愛情を与える気持ちとの錯視が起こり それを表現するときに ▼ (ヰキぺのあらまし) ~~~~~~~ 後日、与ひょうの家を「女房にしてくれ」と一人の女性つうが訪ねてくる。夫婦として暮らし始めたある日、つうは「織っている間は部屋を覗かないでほしい」と約束をして、素敵な織物を与ひょうに作って見せる。うんぬん。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というふうに言わば長期にわたる行動が起こり やがて初めに持ってしまった勘違いに気づくというかたちです。《純粋日本語をしゃべる》ゆえにもそういう或る意味で人騒がせな――でも恩返しをしおおせた――振る舞いはありえたのではないかというかたちです。 愛情ではなかったからそれに気づき去って行った。めでたしめでたしであると。 そうしますと いちばんおかしいと思われるところは 《見るな》の禁忌です。この点について最後に触れさせてください。 つまり女房として暮らす生活に落ち着きが見え始めたころ 恩返しのことを思い出しこれを果たそうとする。なぜ その行動を《見るな》と言わなければならないか? わたしには機織りの技術があります それが出来るようにさせてくれませんかと与ひょうに問いかければ済むことであるはずです。 ここでおかしく――つまりいろんな解釈を生むようなかたちに――なっているのではないでしょうか。 たとえば つうも うすうす《恩返しと愛情との取り違え》に気づいて来ていて 恩返しをやろうと思ったときには その薄々の気づきのせいで どうも隠れて機織りをしなければならないというような気持ちになったのでしょうか? ということは 与ひょうらがその姿を見たときには 自分の気持ちが自分にはっきり分かるようになるだろうと思っていたのでしょうか? あるいはすでに長居をし過ぎたと分かってしまっていたので一計を案じて 姿を見るなと言って約束させておいてその約束がやがて破られたときには 去るという方針をすでに決めていたのでしょうか? そうでも考えないと 見るなの禁忌は説明がつかないように思います。 で 与ひょうは いかに約束を破ったにしてもあるいはおカネに目がくらんだとしても つうを初めからずっと そのあるままのつうを受けとめ引き受けても来ています。これは 自然本性のなせるわざではないですか? 単純にそう見てよいように思います。 たぶんヒトは本能は壊れているでしょうが その痕跡は自然本性に残っている。そしてその残留放射能として単に文化(=非自然)にもとづく存在としてだけではなく 自然にもとづく存在でもある。こう考えます。 粗いですが。
- hakobulu
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#11です。 > 5. いやいや じつはこうだ。・・・ 5-1. 初めの《恩返し》という動機を――それはそれでとうといのだが―― 結婚ということに結びつけるのには無理がある。 5-2. いやいや与ひょうへの愛は それとは別に芽生えたのだ。だから結婚は成立している。つまりそういう問題ではなく・・・(あなたのお考え)・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この 5-1.と5-2.とを合わせたような(?) でもそれを二で割ったような(?)。 : 大体そういうことです。 5-1に関しては、「結婚ということに結びつけるのには無理がある」のだが、無理ではないと思い込んでしまう場合もあるのが人間の性。 つうの当初の基本的思考は「わたしが納得しているのだから良いのだ」。 しかし、この思考と、実際の精神の変遷が噛み合わなかった、ということだろうと思います。 >たとえば知らずにおこなった場合にも事後的にはわが意志のはたらいたところの意志行為であると認めることになる。こう思っています。 :意志行為にさえ無意識が関与していることは間違いないでしょうが、つまり、無意識だからといって全く本人の思ってもいないことではない、というのは確かでしょうが、それを意志行為とは呼べないでしょう。 意志とは、あくまで意識可能なものに限定されると思います。 無論、無意識だから責任をとらなくても良いということとは別の問題ですが。 > つまりいわゆる男女の愛情とは違っても 愛一般でありうるのではないかと。 :そう言えると思います。 ただ、与ひょうが望んでいたのは、そういった愛とは違ったはずで、それをつう自身も内心はよく知っていた、というのが去った要因でしょう。 >わたしは――ほとんど単純にその《恩返し》と《愛情(結婚)》とをごっちゃにしているのでないかぎり―― だいじょうぶなのではないかとも考えました。その線においては ですから 去って行ったのはおとなげないなぁという感想となりました。 :つうはごっちゃにしていた、というのが、この民話から受ける私の根本的印象です。 つうは、けじめをつけた(つけざるを得なかった)、と言えるでしょう。 「ごっちゃ」にしていたという最初の出だしで、すでにこの結末は見えてくるはずです。 いい悪いの問題ではなく、この民話は、あたかもアプリオリなカテゴリーの因果関係を示しているだけのように思われます。 個人的には、むしろ「おとなげある」行為と捉えますね。 >もし全体をわが意志行為のもとにとりまとめすべてを全人格としての行為であると捉えておれば 恩返しは恩返し 愛は愛 やがて愛情は愛情というふうに つうも そして与ひょうもそれぞれ捉えるようになるだろうと見通すものですが 果てさて何が差し支えるものなのでしょうか? :この表現だと、恩返しは偽の愛の形態と捉えていらっしゃる点では一致したように思うのですが、しかし、つうが鶴である以上、仮に「>やがて愛情は愛情というふうに つうも そして与ひょうもそれぞれ捉えるように」なったとしても、つうは自らの羽を抜き続けることでしか愛を証明できないはずです。 愛を偽の愛と同じ形態によってしか証明できないことの矛盾にさらされるぐらいなら去ろう、とつうは考えたように思うわけです。 また、真実を知ってしまった与ひょうにとっても、それは払拭できない矛盾として心に残るはずで、結局分かれるのが最も自然な結末です。 「あれほど見てはいけないと言ったのに・・・」というセリフがあったようななかったような、はっきり覚えてませんが、そのように言ったとすれば、その矛盾をあからさまにされてしまった、つうの悲嘆がそこにはあったことでしょう。
お礼
分かりました。ご回答・ご説明をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ >わたしは――ほとんど単純にその《恩返し》と《愛情(結婚)》とをごっちゃにしているのでないかぎり―― だいじょうぶなのではないかとも考えました。その線においては ですから 去って行ったのはおとなげないなぁという感想となりました。 :つうはごっちゃにしていた、というのが、この民話から受ける私の根本的印象です。 つうは、けじめをつけた(つけざるを得なかった)、と言えるでしょう。 「ごっちゃ」にしていたという最初の出だしで、すでにこの結末は見えてくるはずです。 いい悪いの問題ではなく、この民話は、あたかもアプリオリなカテゴリーの因果関係を示しているだけのように思われます。 個人的には、むしろ「おとなげある」行為と捉えますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここに要約されるようです。さらには ★ つうはごっちゃにしていた、というのが、この民話から受ける私の根本的印象です。 ☆ こうでしたら 他の方の見解はともかくわたしの見方と矛盾しませんので――お互い だからと言うのでもう探究はしないというのではないと確認しつつ―― 基本的に了解しました。ごちゃまぜにしていなければ 去って行くのは おとなげないなぁになるわけですから。 こまかいところでは: ★ ~~~~~~~~~~~ 意志とは、あくまで意識可能なものに限定されると思います。 無論、無意識だから責任をとらなくても良いということとは別の問題ですが。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《意識していなかったけれども わたしの為した行動ですので わたしのこととしてその責任はわたしに〔も〕あります》という意味のことを 《事後的に 自分の意志行為として認める》という表現で言いました。《自分の意志行為と事後的に見なす》と言ったほうがよいでしょうか。 ★ しかし、つうが鶴である以上、仮に「>やがて愛情は愛情というふうに つうも そして与ひょうもそれぞれ捉えるように」なったとしても、つうは自らの羽を抜き続けることでしか愛を証明できないはずです。 ☆ これは結論を得られない主題かと思いますが 質問者の心づもりとしては 鶴のたとえをとおして人間の話をしているという前提を置いていました。つまりそれは ほかの回答に触れられているように ハッピーエンド版もあるということですね。《つうが鶴であるというたとえ》においても 人間どうしの愛情が成り立つという意味あいを人びとは見ようとしている場合もある。こういうことだろうと思います。 これは これも《恩返しと愛情とのごちゃまぜ》問題と同じく 前提をどう取るかですから 議論はここまでのようです。 さて もしお嫌でなければ 回答No.12のクリヤさんから提起された課題――商品経済における疎外および物象化の問題―― これにご見解をたまわればありがたいと思います。どうでしょう。
- heartmind
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だいたいそれであってるんじゃないでしょうか。 要するにつうは「ねんね」なのだと思います。恋に恋したい年頃です。 そんなに好きじゃないけど、ちょっとだけ興味もった男に惚れさせておいて、 ふりたかったのだと思います。 ちやほやされてみたいだけです。魔性って言えば魔性ですが、そういう年頃には 良くあることだと思います。 ですから、見ないでくださいというのは前ふりで、美しく去るための計算ずく の演出です。美しいじゃないですか、自分の羽をむしってまで男に尽くす姿な んて。しかし、ただの遊びです。 与ひょうさんも骨抜きになっちゃってかわいそうですが。 所詮男なんて即物的なんだってことを見抜いていたと思いますよ。 だから織ったんですよ布を、皮肉をこめて。これがほしいんでしょって。 でもって、貴方がみている実態は鶴なのよってダブルパンチをくらわした。 まだ本気で添い遂げるほど大人になれない少女と、即物的な男を批判的に 描いた名作だと思います。
お礼
いやぁ はじけてますねぇ。ハートマインドさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~ ですから、見ないでくださいというのは前ふりで、美しく去るための計算ずく の演出です。美しいじゃないですか、自分の羽をむしってまで男に尽くす姿な んて。しかし、ただの遊びです。 与ひょうさんも骨抜きになっちゃってかわいそうですが。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もうこれは 決定打ですね。つう=ワルモノ論の。 ★ ちやほやされてみたいだけです。魔性って言えば魔性ですが、そういう年頃には 良くあることだと思います。 ☆ 《良くあること》なのですか。ということは その年ごろにはその《魔性》がよく出て来るということですか。人によってでしょうけれど。 ★ まだ本気で添い遂げるほど大人になれない少女と、即物的な男を批判的に描いた名作だと思います。 ☆ これはこれでもうひとつの完成した見解を成しますね。手を入れることのできない・また入れる必要のない中身を持ちますね。 そうですね。たぶんそれ自体で 別様の解釈を――相対的なものごとにおいてですから――予想しているかと思いますが わづかにさらに考える余地があるとすれば それは 悲劇版のほかにハッピーエンド版も伝えられているという歴史ですね。 恩返しや愛情に人間の素朴な現実があると見る立ち場かと思います。 もう少し考えてみると 中にはほかのみなさんから そんなに割りきって世の中を見ていてもいいものかといった意見も出て来るかとも予想されます。そのような投稿があったときには 答えてあげてください。 それと 回答No.12のクリヤさんの提起された課題 これにもよろしければご投稿ください。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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すみません、素人が変なこと書いたらいけないので投稿していないのですが、“イザヤ書”のご課題ですが、〈◆(私訳)〉のあとに、〈■(別の史観によって試訳したもの)〉がありますね。 これもbragelonneさんがお訳しになられたのですか? その別の史観というのはどういうものですか? どこで勉強できるでしょうか? そしたら、私のイザヤ書の読み方も少し変るかも知れませんので。
お礼
お答えします。 ★ 素人が変なこと書いたらいけないので ☆ 玄人も素人です。そうでないと言うには もうおれはまなぶ必要がないという場合のみです。 ★ 〈■(別の史観によって試訳したもの)〉・・・その別の史観というのはどういうものですか? ☆ 史観とは言っていますが 要するにイザヤの示す《苦難のしもべ》という見方に反対するする立ち場を想定してみて そこからはどういう表現になるのかと試みたということです。 苦難のしもべが イザヤ書から後世のキリスト・イエスにあたるとすれば そこには 《キリストを俟つという長い歴史》があることになります。そうすると イザヤ書をどう読むかは 史観を構成すると言えると思います。そういう意味で《別の史観によって》とわざわざ言ってみたものです。 ほかの意味はありませんし そのような史観がはっきりとあるというわけのものでもありません。 強いて言えば ユダヤ人の解釈が そのような別の史観になるかも知れないとは思います。 あるいは ややこしい問題になりますが イエスを神からの使者とは見なすが あくまでも人間であり人間であるのみであって 決して神でも神の子でもないという立ち場 これも《別の史観》を構成するかとも思います。 でも論点はそこだけですから 史観と言うには大げさではありました。中身は 大げさにあたいすると言わねばならないかも知れません。すみません ややこしくて。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
相変わらずアカデミックで難しいですね。 私は常識でしか理解し、投稿できません。 これは所謂る、民俗学などでは異類婚というジャンルですね。 そしてこの鶴の場合は、約束が為されていますね。 鶴が別離して行ったのは、この約束が守られなかったからですね。 理由はそういうことで、あと所謂る秘密を視られた、美しくない情況をみられたなどとか、いろいろ鶴側の心理がヴァリエーションであるんでしょうね。 鶴と分られてしまったら、そのままでは普通は妻としては生活できませんね。 白蛇伝では蛇とわかってもともに慕いあいますが。 大体昔も今も、男女の別離は女が居なく為りますね。 近所のお宅でも、この数軒の両隣で二軒のお家では、奥さんが出て行っています。男が見捨てられています。 家内の伯父ももう数十年前ですが、奥さんに離婚されています。三行半ですね。 中学の友達の娘も孫を連れて帰ってきています。 マハーバーラタでブラフマンの創造意識(ブラフマ)を象徴するシャンターヌも女神のガンガと結婚後、当初の約束を護りきれなくて、ガンガに離婚(ガンガが天界に帰る=不可視になる)されています。 こうして創造と人間、人間界と人間の認識能力の、そして人間による世界紡ぎの神話が開始します。 宇宙創造ですね。深遠な哲理が説明されれおります。 鶴の場合はそういう創造の哲学とは関係ない話の運びで、単なる民俗学的解析だと存じます。 中学一年、社会のときに先生がこの話をだしました。もう60年前です。 商品社会の展開と人間の疎外をテーマにして。 素朴な与ひょうから、商品を作らせ、それを商売する人柄への変身。 商品主義の農村への侵入と、生活と人間性の破壊について。 お通 宮本武蔵もそんな女性名でしたね。 鶴は、昔の与ひょうでない人とは生活できないでしょう。 家庭も、地域も農村もGemeinschaftでこそ人間の呼吸ができるのではないでしょうか? 水戸から距離のあるところに我が家の曽っての所領があり、先日従弟の葬儀に行きました。 東京の方式とは大分異なるし、為すこということが荀に違いますね。未だに。 何かタイムスリップして、異界に入ってしまった思いでした。 現代に人間は存在しているのだろうか?
お礼
生産者と消費者とのあいだに仲介業者が入ってくると さらにこの《手塩にかけてつくった自分の品物とそして自分の心との離婚》がなぜかすすむようです。果ては 品物がみな値段――つまりおカネ――に見えて来るという。心や意志からもそのモノを――あるいはむしろモノといっしょに 心や意志をも何ものかに――ゆづり渡してしまうことになる。 このあたりから 疎外という現象が物象化という現象に次元を移してのごとく様変わりするのではないでしょうか。 あるいはつまりむしろ疎外というのは もともとおのれの気持ちの表出でありその自己表出であり やがて言葉をとおしての自己表現ということになる。このことを意味していたものと考えます。疎くなると言っても 言葉は――いくら言霊と言っても――記号でもあって 表現内容と自分の心とは或る程度疎い状態になってもよいのです。というよりも 信実であり誠実であるということは 言葉そのものにとらわれずに 自己表現における真実の問い求めを ともに――共同主観という動態的な過程として――推し進めることが基礎です。言葉は 言い間違えばそれをあらためればよいものと考えます。 そのような疎外が 自己表現のひとつである仕事のこと・そこにおける生産物にかかわって どういう歴史的な経過をたどるか。 どうも分業社会においては――つまり自給自足で自分の生活の用に供すというのでないなら つまり他人が使うようになる場合には―― おのれの作品とみづからの心とは離縁してしまうおそれを持ち じっさいに離縁した状態になってしまうどころか 消費期限を切れた品物までも商品として人さまに差しだすというところまでに 部分的にですが なってしまう。 自己の疎外表現において 相手との間(ま)にズレが生じズレを生じさせ間違いを起こすという。この間が違ったり抜けたりするわるい状態のほうをおもに 疎外と呼んでいるようです。 たしかにわが心ここにあらずとなれば 仕事で生む成果についてその質も中身も 自分とは疎外関係にあるということかも知れません。そんなバカなということですが どうもこの疎外現象が 貨幣という媒介によって基本的にいとなまれる経済情況にあっては その貨幣がむしろ商品どうしの共通項であるゆえにこそ 或る種の仕方でそれが常識であると見なされるなら そのおカネに拠りどころを見出すようです。 どういうことかと言いますと おカネはむしろ 人の心である・しかも皆の共通の心であると思い見なされる。なぜなら 心と商品とのあいだの疎外という状態を人びと共通の仲介者として執り持ってくれる。ぽっかり空いたその空洞を満たしてくれる。と思いなす。 疎外を克服する救世主 それは貨幣だと。だっておカネのおかげで村には水も電気も来たし クルマだって走っているではないか。 ★ 商品主義の農村への侵入と、生活と人間性の破壊について。 ☆ というようになぜそんな暗い側面ばかりを見るんだ。もっと明るいところ・よくなったところを見たらいいぢゃないかと。 つまりは――質問者が大演説をぶっていてもいけませんので――ひとまづのあたらしい問い求めのわれわれの舞台としては ★ 素朴な与ひょうから、商品を作らせ、それを商売する人柄への変身。 ☆ この視点と主題になるのではないでしょうか。 わざとみなさんの問答を活発にしようと思って言うとすれば ○ 与ひょうは そのような疎外についてもあるいは物象化という現象についても いまさとった――我れに還った――のではないか。やはり自然本性を保つ人間で居つづけることは出来るはずではないか。 でも疎外と物象化の社会現象は むしろそれらに自然本性としての能力によってなじむことが出来ないという感受性のつよい人びとが KY やニートや引きこもりになるという情況を呈するほどに まだまだ猛威をふるう勢いであるようです。そのとき果てさて現代のわたしたちは どうなのでしょう? これから先 《人間》はどうなりましょう? どう生きるでしょう? 与ひょうや友だちやつうやをとおして自分たちを見つめ直したときわたしたちは どういう人間になるでしょう? どういう社会をつくっていくのでしょう。 このクリヤさんの提示された新たな課題について ふるってご投稿をお寄せください。 * ちなみに作者の木下順二は自作『夕鶴』にかんしてつぎのように言っているようです。 ▼ (木下順二) ~~~~~~~~~~ ことばの点でいえば つうは私の造語でいうと 《純粋日本語》をしゃべり 他の男たちは私の造語でいうと 《普遍的地域語》をしゃべる。 ( 夕鶴・彦市ばなし 他二篇―木下順二戯曲選〈2〉 (岩波文庫) 〈あとがき〉) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
クリヤさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 家庭も、地域も農村も Gemeinschaft でこそ人間の呼吸ができるのではないでしょうか? ☆ この命題をめぐってさらにあらたな問い求めが始まるという結論を得たというのが まづ初めの反応ですが まづはそこまでのわたしの読みの経過をつづってまいります。 ★ 相変わらずアカデミックで難しいですね。 / 私は常識でしか理解し、投稿できません。 ☆ こまかいことを言いますが 《アカデミック》は あくまで資料であり或る種の仕方で探究の出発点です。 このあとに民俗学のご識見をおしえてもらっていますが 考えますにやはりそこからわたしたちいわゆる真理探究のやからは やっと出発する。こういうことではありますまいか。 その真理探究と言っても わたしの考えでは 共同主観つまり常識の問い求めであり 常識をとおしてものごとを捉え判断していく。こういうことではありますまいか。 ★ これは所謂る、民俗学などでは異類婚というジャンルですね。 / そしてこの鶴の場合は、約束が為されていますね。 ☆ というところで たとえばこのジャンル分けからわたしたちは出発する。しかも この ★ 約束 ☆ が次に問題となりましょう。字数制限をきらって結論に飛びますが このあとにも ★ ~~~~~~~~~~~~~ マハーバーラタでブラフマンの創造意識(ブラフマ)を象徴するシャンターヌも女神のガンガと結婚後、当初の約束を護りきれなくて、ガンガに離婚(ガンガが天界に帰る=不可視になる)されています。 こうして創造と人間、人間界と人間の認識能力の、そして人間による世界紡ぎの神話が開始します。 宇宙創造ですね。深遠な哲理が説明されれおります。 鶴の場合はそういう創造の哲学とは関係ない話の運びで、単なる民俗学的解析だと存じます。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とご指摘のあるように ここではいかに共同体の観念的な縛りがきついと言っても いま扱う主題における《約束》は 人間の為せるわざに属すると帰結してもよろしいのではないでしょうか。もしそうだとすれば 早い話が やはり人間が人間の手で壊すことも出来 無くすことも出来る。こうやはり帰結され得ましょう。 ★ 鶴と分かられてしまったら、そのままでは普通は妻としては生活できませんね。 / 白蛇伝では蛇とわかってもともに慕いあいますが。 ☆ というように――あるいはまた ほかの回答者の方から いわゆるハッピーエンドものもあるとおそわったように―― 変えるべからざる原理といった問題ではない。こうなります。 つまり哲学としてならなおさら その変え得るところを常識において考えておこうということになるかと思います。そういう出発と踏み出しになりますね。 ★ 大体昔も今も、男女の別離は女が居なく為りますね。 ☆ まっ これもひとつの主題を成すと思われますが 別離の理由を理解しようとする焦点から いくらか外れるようだと考えます。関わって来た時に考慮することになるはずです。 ★ お通 宮本武蔵もそんな女性名でしたね。 ☆ これも愛嬌のもんだいとしておきたいと思います。 さて最初の命題です。別様に次のように言ってもらっています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 中学一年、社会のときに先生がこの話をだしました。もう60年前です。 商品社会の展開と人間の疎外をテーマにして。 素朴な与ひょうから、商品を作らせ、それを商売する人柄への変身。 商品主義の農村への侵入と、生活と人間性の破壊について。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ マルクスの提起した問題ということで昔のお話にも触れて引用していますが それは 或る意味で貧困が先進国において克服されたかに見えたとき過去の話と見なされて行ったという歴史も このかん 経て来ているようです。 ○ 物象化:ヒトがモノ(つまりカネによる値踏みのその値段)と見なされそのまま流通して行くべく モノとなる。 ☆ こういう主題であるように考えます。 ★ 疎外 ☆ これは 物象化の事態と情況においても引き続き続いていますが そもそもは人間の社会が分業〔=協業〕のネットワーク社会になることから来ていると捉えます。つまりそしてそこにおいてたとえば自分の労力を注ぎこんでつくった生産物が――むろんひとさまに喜んで使って(消費して)もらおうと思ってつくったのですが やがていつしかその初心を忘れ 他人の手に渡ればあとはもうどうでもいいやと思ってしまうところから―― 自分の心からはっきりと離れて行く。つまり 生産物と自分とを切り離す。
- hakobulu
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おじゃまします。 つうは助けられたことの、あくまで恩返しとして与ひょうといっしょになった。 とはいえ、(よくあるパターンでしょうが)共に暮らすうちに情が移り愛も芽生えていった。 しかし、(当初恩返しの手法として、つうは自分が与え得る最高のものを与えようと機を織ったが、与え得る最高のものである以上、愛を証明するものと同義とならざるを得ないわけだから)自らの羽を抜いて機を織るという手法によってしか、つうは愛を証明できない。 恩返しとは超自我的精神作用であり、愛は本能でしょう。 つうとしては、超自我を転換して愛へと移行したかったが、つまり、機織は恩返しではなく愛の証と思うようにしたかったが、「機を織るつう」とは与ひょうにとっては、まさに超自我としての『つるの恩返し』そのものとしか捉えることができない。 つうにとっての愛が、与ひょうにとっては恩返し。 つうにとっての本能的愛情が、与ひょうの目には超自我的、つまり、本能を抑圧した形での(愛ではなく)慈愛としてより映らないことが明白になってしまったことを、つうは見られた瞬間に悟ってしまった。 自らを犠牲にして真実の愛は成立しない、という単純な構造になっているのかもしれませんね。 おっしゃるところの5-2に該当しそうです。
お礼
ハコブルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ おっしゃるところの5-2に該当しそうです。 ☆ 5.はですね 確かな考えがあって書いたのではなく 《恩返し》と《愛》とは別だという観点を抜かすわけには行かないという要請のみによって添えたものです。 ★ 自らを犠牲にして真実の愛は成立しない、という単純な構造になっているのかもしれませんね。 ☆ ええ そういう意味を見通すところまでは伸びるかも知れないとは思ったわけですが それがそのまま的を射たかたちだというご見解なのですね。 ☆☆(趣旨説明) ~~~~~~~~ 5. いやいや じつはこうだ。・・・ 5-1. 初めの《恩返し》という動機を――それはそれでとうといのだが―― 結婚ということに結びつけるのには無理がある。 5-2. いやいや与ひょうへの愛は それとは別に芽生えたのだ。だから結婚は成立している。つまりそういう問題ではなく・・・(あなたのお考え)・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この 5-1.と5-2.とを合わせたような(?) でもそれを二で割ったような(?)。 ★ 恩返しとは超自我的精神作用であり、愛は本能でしょう。 ☆ じつは《自我・超自我・イド(本能?)》については 分からないところがわたしにはあるのです。《わたし》という人間存在に属する行為能力ないしその能力行為であれば いかに部分的なものであってもいづれの部分行為であってもそれは《わたし》の行為であり たとえば知らずにおこなった場合にも事後的にはわが意志のはたらいたところの意志行為であると認めることになる。こう思っています。 これは 長い議論になるかと思います。取り敢えずそのようにお伝えしておきます。 その上で――その主題にもかかわらせつつ―― ちょっとやぶにらみのような尋ね方をしてみたいと思います。問題点があきらかになるとうれしいです。 ★ つうは助けられたことの、あくまで恩返しとして与ひょうといっしょになった。 ☆ この《あくまで――いわゆる理性的な意志行為としての――恩返しとして》の行為 これも ひとつに《わたし》という人間の全人格的な行為であり もうひとつに もしいやしくも人間の意志行為であるならそれは 〔正負のヱ゛クトルつまり好悪に分かれる交通関係としての〕《愛》ではあると言えるのではないか。 つまりいわゆる男女の愛情とは違っても 愛一般でありうるのではないかと。 そこでこのつうの問題は けっきょくこの《愛でありうる恩返し》という行為が 男女の愛情を含むというよりはそれを基盤とする結婚という関係を持つことをとおして 機織りにおいて表わされるというかたちを取ったということ ここにあると思われるのです。 ぎゃくに言いかえるなら その行為関係の全体を受けとめてまた引き受けて 自己表現を推し進めるというのであれば たとえ《恩返しと愛情(結婚)》とがすでに どういうわけか 一体となっていたとしても 大した問題ともならない。こう言えるのかどうか。ここにあると思われます。 特に何も推論を述べませんが わたしは――ほとんど単純にその《恩返し》と《愛情(結婚)》とをごっちゃにしているのでないかぎり―― だいじょうぶなのではないかとも考えました。その線においては ですから 去って行ったのはおとなげないなぁという感想となりました。 さて このような事情と情況の中において 果たして超自我などの要因はかなり決定的なはたらきをするものなのでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ つうとしては、超自我を転換して愛へと移行したかったが、つまり、機織は恩返しではなく愛の証と思うようにしたかったが、「機を織るつう」とは与ひょうにとっては、まさに超自我としての『つるの恩返し』そのものとしか捉えることができない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりこの事態(その分析内容)について もし全体をわが意志行為のもとにとりまとめすべてを全人格としての行為であると捉えておれば 恩返しは恩返し 愛は愛 やがて愛情は愛情というふうに つうも そして与ひょうもそれぞれ捉えるようになるだろうと見通すものですが 果てさて何が差し支えるものなのでしょうか? そういう問題点の捉え方でよろしいでしょうか? よろしければ あとひとことはご見解を述べていただけませんか? どうでしょう。 * 一気に迫っていました。おとなげない。
「ことわり」としての悪だからです。
お礼
エンテレケイアさん ご回答をありがとうございます。 ううーん。なんでだろう ピンと来ない。回答を評価するという一票がわたしののほかに投じられていますが わたしにはピンと来ていません。 ★ 「ことわり」としての悪 ☆ は何がなのですか? ・ 与ひょうたちが つうとの約束を破ってその姿を見たことですか? どうしましょう。《ことわり》って 拒むということですか? 道理という意味ではないですよね? ★ つうが夫の与ひょうを去ったのは 「ことわり」としての悪だからです。 ☆ こういうご回答ですよね? さらに考え続けます。分かったら補足欄にてお応えすることにします。
お礼
おもしろい。ですね。 その答えじたいは つまりつうが去ったのは 永遠にと見せかけて じつはそうではなく ★ 勉強しに帰ったのかもしれません。 ☆ という答え自体は あたかもハコブル説(≒賽は投げられたさん説)とわたくしブラジュロンヌ説との中間と言いますか ――あっ リトルキスさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。―― 足して二で割ったと言いますか そういう安易なと一見見られてしまうことで一つの損をするとすれば けっきょく三方一両損といった大岡裁きにも似たところがあって ただしそういう格好だけで その答え自体は ある あるのですが 問題は 人生をこれからもつづいて行くものと見ている ところにあるようだと思ったので おもしろいと受け取りました。 人生は 過程である。動態である。そして 相手のあることである。いいぢゃないですか。と思いました。そういうもんだいですよね 文学とは。そしてそういう扱い方を 文学に対して哲学はするのだと。 けど 刑法・商法・労働法とはなんですか? 法律はいま関係ないっしょ? ったく とぼけたお人ぢゃわい。 * あぁ つうの仕事ぶりが 労働基準法違反ってことですか。なぁっとく。ごめん。m(_ _)m