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動物に変身する夢

 日本語を勉強中の中国人です。かつて動物に変身する夢は見たことがありません。(あっても覚えていないと思います。)昨夜、鳥に変身する夢を見ました。気になっているので、この夢はどういう意味なのか教えていただけないでしょうか。  ……(どのように鳥になったのか忘れてしまいました。)私は鳥になって空を飛んで逃げています。一匹の狐はずっと私を追いかけています。私はどこにいても、狐はすぐ私の居場所の近くに現れるようです。私が空から降りて休憩する時、周りに狐がいるかどうか見なければなりません。山の緑の上、せせらぎの上、都会の上、いろいろなところを飛びました。最後、私は優しい男の子(七、八歳ぐらい)に会いました。彼は私を彼の家に隠しました。彼の部屋まで三つの門があります。それでも、ずっといると、どうも不安全なような気がします。空を飛んでいないので、狐はいつか突然出てくる恐れがあります。最後、彼は私に電動用のヘリコプター(玩具)をくれました。私は鳥なので、本当はヘリコプターなんかいらないはずです。でも、ヘリコプターがあれば、どうも肉身の外に硬いものがついているので、安全なような気がします。しかし、私はなぜか荷物がいっぱい持っています。ヘリコプターに乗って、彼の家を出たとたん、ヘリコプターが重くなってきて、私はヘリコプターと一緒に落ちてしまいした。落ちた瞬間、狐の顔を見てしまいました。たぶん最後は狐に食べられたと思います(泣)。でも、食べられた場面ははっきり思い出せません。また、映画のナレーションのように、叔父と叔母の声は最後ちらっと聞こえました。「我が家の近くにも鳥の巣がある。でも、今日雌の鳥が帰宅したら、悲しくなるわ。幼い鳥たちはぜんぶ食べられたから。こんな時期の幼い鳥はみんな危ないな」と。まるで私への祭り(悲しい「祭り」のこと)のように聞こえます。それから食べられた幼い鳥たちを見てしまいました。羽がついていないし、目も閉じているので、怖いです。  この夢は一つ一つはっきりしたシーンの転換ではなく、全体的には疾走感のような流れの感じがします。ドラマ『逃亡者』のリズムと場面の流れに似ているかもしれません。でも、江口洋介は人間の身で逃げています。私は鳥の身で逃げています。空を飛んでいる時、視野はとても広いです。一番怖いのは最後の幼い鳥たちのシーンです。  また、質問文に不自然な日本語がありましたら、指摘していただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

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  • ベストアンサー
  • hakobulu
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回答No.1

夢判断に関しては、専門的知識をふんだんに持っている人でも、所詮、独断と直感に頼らざるを得ないのが実際のところです。 私も興味があり多少独学したことはありますが、特に詳しいわけではなく、あくまで素人の解釈として捉えていただければと思います。 【基本的解釈】 男性への憧れと、超自我的探究心との葛藤が顕現している夢。 ではないかと思います。 【飛ぶ】 これは、主に全能感の象徴として判断されます。 また、その延長線上でリビドー願望達成の象徴と解釈できる場合も多い夢です。 ただ、ここでは『リビドー願望達成』と『超自我(=理想・善を求める心理)』両方の象徴として共用されている、と判断できるように思われます。 【(飛ぶ)鳥】 「(精神の)高みに上る」という意味で、超自我の象徴と判断して良いと思われます。 【一匹の狐はずっと私を追いかけています。】 狐は狡猾な顔つきで獲物を追うという印象が万人にあるでしょうから、『精神的に何かとても気になること』あるいは『焦りを感じていること』が現在あり、その原因になっているものの象徴と考えることができます。 また、狐のような動物は、人間の「本能」の象徴である場合もしばしばあります。 ここでは、本能的(快・不快)感情が、自我(損・得)や超自我(「善・悪」「規制・解放」)に迫る勢いで意識されるようになってきている、ということではないかと私は思います。 【(狐が)すぐ私の居場所の近くに現れるようです】 その焦りや気にかかること、または本能的感情が、最近の自分の心の動きに影響を与えていることに対する苛立ちの表明でしょう。 【優しい男の子】 「小さな子供」は、しばしば性器(あるいは性的意味での異性)の象徴になります。 特に、リビドー象徴としての意味も持つ「飛ぶ」という行為と共に現われた「小さな子供」は、このように解釈して良いと思われます。 「【優しい】男の子」は、性的要素の余り強くない(しかし、多少はある)男性の象徴と考えることが可能ではないかと思います。 【彼は私を彼の家に隠しました】 彼が「私」を引き寄せること、あるいは彼が「私を」引き寄せて欲しいという願望と解釈して良いような気がします。 安心できる男性の元で安らかな気持ちで休息したい、ということでもあるでしょう。 【彼の部屋まで三つの門があります】 「門=関門」で、頑丈な警護を意味するでしょうが、 現実的には、彼に近づくことの難しさも同時に象徴しているように思われます。 また、「三つの門」は男女の間の関門であることも同時に象徴していると考えて良いと思います。 つまり、キス、ペッティング、セックスですね。 awayuki_chさんがそう思っているということではなくて、あくまで人間の無意識的な性的衝動一般のことを述べていますから、怒らないでください。 【ずっといると、どうも不安全なような気がします】 いつまでも彼と一緒にいることに満足してばかりいると、空を飛ぶ(目的、あるいは理想を求めること)を忘れてしまう、という不安の象徴でしょう。 【ヘリコプター】 玩具ですが、飛ぶ手段として鳥の替わりに与えられたもの、ということなのでしょう。 押し付けられたものではあるが、一応頼りにしている男性からの贈り物であるし、その上「硬い」ので、何となく安心するようなところも捨てきれない。 また、これは「硬いもの」としてのペニスに対する憧れ(信頼)の象徴でもあるでしょう。(awayuki_chさん個人のことではなく、殆んどの女性が持っているものです) ただ、ここではその憧れが一時的なものではないかという不安も同居しています。 【私はなぜか荷物をいっぱい持っています】 荷物は主に用事や仕事などを象徴します。 ここでは、 私には(鳥で象徴されているような)私独自の理想や高い目的があり、やりたい事もいっぱいある。 ということを表わしていると思います。 【彼の家を出たとたん、ヘリコプターが重くなってきて、私はヘリコプターと一緒に落ちてしまいした。】 彼と離れてみるとはっきりわかったが、彼からもらったもの(彼の考え方)では私の理想や目的をやはり実現することはできなかった。 【最後は狐に食べられたと思います(泣)】 本能的感情に屈してしまうかもしれない、ということでしょう。 しかし、泣く必要は無いですよ。(^^;) 動物である以上、本能を全く無視するわけにはいきませんから。 本能も立派な人間機能の一員ですし、それはそれで素晴らしいものです。 要するにバランスが重要だということにすぎません。 【落ちた瞬間、狐の顔を見てしまいました】 本能が存在することを(嫌だけれども)認めているということでしょう。 【「こんな時期の幼い鳥はみんな危ないな」】 この叔父と叔母の声は、おっしゃるように「私への祭り(悲しい「祭り」のこと)」でしょうね。 ただ、正確に言うと、「私(の無垢)への祭り」です。 「幼い鳥=(肉体的、または精神的、あるいはその両方に)無垢な若い女性=自分」の象徴ではないかと思います。 awayuki_chさんは、 『叔父と叔母は、私が色気づいてきたと感じて(邪推して)心配している』 とお感じになっているのかもしれません。 【今日雌の鳥が帰宅したら、悲しくなるわ】 雌の鳥はお母さんでしょう。 【(狐に)食べられた幼い鳥たち】 本能的感情が強くなってきたので、自分は無垢な(無知な)状態を卒業して(消化して)、「女の子」から「女」になろうとしている。 という無意識的印象の顕現だろうという気がします。 【羽がついていないし、目も閉じているので、怖いです。】 「鳥になって高い理想を目指すための羽」が失われ、物事を良く見聞きしようとする向上心も無くなってしまうだろうし、それが怖い。 【全体的解釈】 狐に象徴される本能的感情が最近強まってきている。 そのことを肯定したくないので、高い理想や目的を追い求めるために鳥になって高く舞い上がり、自分としては低俗なものと考えている本能からなるべく遠く(高く)離れようとしている。 しかし、理想や目的追求の作業から一瞬でも離れるとすぐに本能(狐)が近寄ってきて安心できない。 飛んでいるときは、とてもきれいで崇高な印象を受ける箇所を見ることができます。 ぎらぎらした男性は本能が剥き出しになっているようであまり好きではないが、性的にはおとなしそうな男性ならば安心できるので、そういう彼の部屋でなら落ち着けそうな(羽を休めることができそうな)気もする。 とはいっても、彼もやはり男性なのでいつ本能を見せるか(狐が現われるか)わからない。 それに、私には高い理想があるし、やりたいこともいっぱいある。 彼についていくだけでは、それらは実現できないのではないだろうか。 実際、鳥にならずに、彼から教えてもらった方法で試してみたが、やはり失敗してしまった。 結果として、自分の求めていた理想や目的は達成されずに、私は本能の餌食になってしまった。 特別悪いことじゃないはずなのに、叔父と叔母は、そんな私に対して懸念しているように感じる。 「お母さんも心配だろう」などと、要らないおせっかいをするのではないだろうか。 確かに、私の無垢の部分は消えていくのかもしれない。 しかし、無垢ということは無知ということでもある。 叔父夫婦は、すぐに私を子供扱いするが、これを乗り越えることはある意味での成長ということも言えるのではないか。 無論、本能的感情が強まることによって、純粋性が失われたり(食べられた幼い鳥たち)、理想を求められなくなったり、物事を見聞きしようとする好奇心が失われてしまうのであれば、それは怖いことだが・・・。 といったような無意識的な心理反映である可能性もあるように思われます。 以上、無責任な素人判断ですが何かのご参考まで。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。苦手な話は多いですが、怒りません。大変参考になりました。補足に対して、もう少しご意見を伺うことができればありがたく思います。よろしくお願いいたします。

awayuki_ch
質問者

補足

1. >狐は狡猾な顔つきで獲物を追うという印象が万人にあるでしょうから、『精神的に何かとても気になること』あるいは『焦りを感じていること』が現在あり、その原因になっているものの象徴と考えることができます。 最近、主に次のようなことを考えています。 (1)自分で愛だと判断した彼への感情は本当に愛なのか。この激しい感情はいったい何なんだろう。 (2)美人だった母が年をとるにつれて、美しさは褪せている。母の姿を見るたびに、心のどこか痛い。母は私の恋を知ったら、きっと傷がつく。母と顔を合わせる時、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。母はかわいそうな人だと思う。 (3)彼のことを強く思っている。でも、この激しい感情を抑えるべきだ。しかし、心の海でダムを作るのはムダだった。抑えようとすればするほど、抑えることができなくなった。 (4)恋と理想への追求の両立。 2. >ここでは、本能的(快・不快)感情が、自我(損・得)や超自我(「善・悪」「規制・解放」)に迫る勢いで意識されるようになってきている、ということではないかと私は思います。 「自我(損・得)」は何でしょうか。簡単な言葉で簡単に説明していただけませんか。 3. >awayuki_chさんは、『叔父と叔母は、私が色気づいてきたと感じて(邪推して)心配している』とお感じになっているのかもしれません。 誰も私の恋を知りません。夢を見たその日、叔父と叔母は私の家に来たそうです。たいした用事ではありません。私は直接に会っていませんが、母から二人が来たと聞いただけです。

その他の回答 (8)

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.9

#8です。ご返事ありがとうございました。 1、 「手練手管」を心配したのは、#4のご返事に書いてあった、 「>B自身は未知数が多すぎてまだよくわからないと思います。Bが私に好意があるのはわかりますが、彼のこの恋に関する考え方は教えてくれません。 Bと一緒にいると楽しいと不安の気持ちは両方あります。」 という内容からです。 今回のご返事の中では、 「>Bは私といったいどんな形の恋をしたいのか、ぜんぜん窺えません。」 というような部分です。 【それらの膨大の未知数は私を強く狂わせます。】 という効果を狙うのが手練手管の常道でしょう。 なぜなら、前にも述べましたが、たとえ中身が伴なわなくとも、 未知数であるということそれ自体が魅力に直結する属性を持っているからです。 しかし、この点に関してはあくまで可能性の問題ですから、awayuki_chさんが否定される以上、他人がとやかく言うことはできないでしょう。 2、 >本当に母には相談できないことなんです。 :良くわかりました。 >『「理が無い」とされる理由』の「理由」は何でしょうか。 :「知り合い方」について、それほど苦しまなければならないということ自体が、何らかの無理や抵抗の発生を予測していらっしゃるからでしょう。 「良くない知り合い方」の内容が不明なので、一概には言えませんが、 「なぜそういう無理が発生するのか」「なぜ抵抗されるのか」という原因を良くお考えになることは決して無駄ではない、ということです。 難しいかもしれませんが、客観的な視点を導入してみるのが適切な判断につながる場合もあるでしょう。 3、 「馬」というのは、端的に言うと恋の当事者の中で燃え盛っている感情です。 一般的には奔馬ですから、理屈を説いてもなかなか理解してもらえず、蹴られるのが落ちというわけです。(^^);  

awayuki_ch
質問者

お礼

 何度もありがとうございます。夢分析なのに、なんだかどんどんどんどん私の個人の恋の悩みの相談になってしまい、ご覧になっている皆様にも、hakobuluさんにも大変申し訳ないことをしたと思います。今回を限ってこの質問を締め切りさせていただきます。恋は盲目なものだとよく言われていますが、この盲目なものにわざと白黒をつけようとする自分の行為はなかなかばかばかしいと思います。  Bが私とどんな形の恋を持ちたいかによって歩調を調整します。たとえば、Bが【このような形の恋】でよければ、私も絶対文句を言わず納得できます。自分を説得する自信があります。Bにとって【このような形の恋】のほうが楽だし、彼の望ましい形の恋だし、絶対Bの考え方を尊重し、これ以上無駄なことを考えません。    「理由」はわかったような気がします。しかし、いまのところはこれを考える場合ではありません。Bから「いまのような形の恋は望んでいる」と「いまのような形の恋は望んでいない」さえもちゃんと言ってくれなかったからです。 > 「>B自身は未知数が多すぎてまだよくわからないと思います。Bが私に好意があるのはわかりますが、彼のこの恋に関する考え方は教えてくれません。 Bと一緒にいると楽しいと不安の気持ちは両方あります。」 「>Bは私といったいどんな形の恋をしたいのか、ぜんぜん窺えません。」 はぜんぶこの答えを知りたかった私の素直な気持ちです。Bの答えによって、このような「理由」で私自身を悩ませるどころか、いますぐ『数字「0」と同一視していい』と言い切る可能性も50%含まれていますから。  Bから「いまのような形の恋は望んでいる」と「いまのような形の恋は望んでいない」のどちらかを言ってくれるのを待っています。Bの答えによって、「理由」のことを考え始めるかもしれません。その時に、自分の心に尋ねてみると同時に、母の意見も求めるかもしれません。ただ、その理由がいくら私自身をぐらつかせる可能性が小さいと思っても、『数字「0」と同一視していい』と言い切ることはできません。また、時間も必ず必要です。Bの答えを知らないまま、母に相談しても無駄なことだと思います。  AとBへの気持ちをもう少しきちんと整理してみたいと思います。時間が必要です。いろいろ本当にありがとうございました。大変参考になりました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.8

#6です。ご返事ありがとうございました。 1、 >母の人生経験が私より豊富なので、Bに関する悩みを母と相談したほうがいいということでしょうか。 :そのとおりです。意味を理解していただき嬉しいです。 >まさか自分の嫌な知り合い方で人を好きになったなんて夢にも思いませんでした。Bのことを母に言ったら、「Bとの恋を止めなさい」しか言ってくれないと思います。 :異性に感じる魅力というものは誤解である場合がしばしばあります。 なぜかというと、異性を引き付けるために(そうとは思わせないようにして)手練手管を使うのが人間の常道だからです。 手練手管を使っているのかそうではないのか。 お母さんの考え方を聞くことによって、その判断の助けになるのではないか、と私は思ったわけです。 2、 >>そのことがはっきりした時、Aの新しい可能性に気がつくというのも良くあるパターンです。 >「Aの新しい可能性」とはどういうことでしょうか。 :正確に言うと、「今まで気付かなかった可能性」です。 具体的なことはわかりませんが、今まで短所だと思っていたことが実はそうではなく逆の意味を持っていたのだ、と気づくことかもしれません。 3、 >超自我は本能の要求を抑えるしかできないでしょう。超自我は天使のようで、悪魔の本能にずっと説教しているのではないでしょうか。 :そうです。 「同じ人の内部で、超自我は本能を制御し、しかし、本能も制御されっぱなしということはなく、その欲求を満たそうとする作業が同時進行することになる。」 という意味です。 そのために、人は古来から悩み続けてきたのでしょう。 表現不足で申し訳ありません。 4、 >とても知りたいのですが、人は二人を愛することはできるのでしょうか。現時点でAとBへの感情は両方「愛」だと判断して可能でしょうか。 仮にA、Bへの感情が両方「愛」だとわかってAと結婚したら、精神上以外のものはAに属し、精神上はAとBに属したいという考え方は幼稚でしょうか。それは「浮気(不倫?)」ということなのでしょうか。 :人によって意見の別れるところかもしれませんね。 私としては、恋と愛とは似ているようでどこか違うように思われます。 全てを掛けるという意味では共通点があると思いますが、 恋が激しく燃え盛る炎(逆に言うと鎮静化しやすい火)であるために人を盲目にするのに対し、 愛は静かな、しかし永遠に絶えることのない絆を強く求めるものでしょう。 恋の火種を抱えたまま愛を育もうとすると、恋の炎で愛が翳んでしまう場合もあるのかもしれません。 しかし、人は常に何らかの選択(何も選択しないという選択も含めて)をしながら生きています。 愛が思い出に替わるのは難しいでしょうが、恋が思い出に替わる事は案外あるのではないでしょうか。 特に幼稚な考え方とは言えないように思います。 5、 強さを前面に打ち出している男に対して、 「強く見えるのだから安心も(この先ずっと)得られるだろう。 強いのだから私に対しては(この先ずっと)優しくすることは簡単だろう。」 と思うのは必ずしも正しいとは言えないが、 安心感を与えてくれる男に対しては、 他人に安心感を与えるということは自己制御ができていなければできないことなので、強い男と判断して良い。 という意味です。 尤も、見せかけの強さと同様、見せかけの優しさというものも多いですから、全てはご自身の判断に頼るしかないのでしょう。 私としては、可能性についてただ述べることしかできません。 「良くない知り合い方」をしたからといって、必ずしも相手が悪い人間ということにはならないでしょう。 しかし、そこに【無理】があるからこそ【良くない】わけです。 【無理】というのは「理が無い」ということです。 「理が無い」とされる理由が必ずあるはずです。 その理由を良くお考えになるのが良いでしょう。 そして、それを客観的に分析してみる必要があります。 お母さんは、女性としての立場できっと相談に乗ってくれるのではないでしょうか。 その過程で、本物であれば様々な淘汰を乗り越えてなお残るでしょうし、そうでなければ冷めていくような気がします。 ◆ >「恋路」は美しい表現ですね。でも、その次になぜそのような残酷の表現が続くのか私にはよく理解できません。 :恋する人の気持ちは本能によって制御されているので、それに水を差すようなことをやったり言ったりすれば、感情的に反発されても仕方がない。 というような意味でしょうね。 私も一時期「恋の悩み・人間関係」カテに集中的に投稿していたことがあり、そこでたくさんの馬に蹴られたような気がします。(^^;) いくら蹴られても相手の人に何らかの参考にしてもらえれば嬉しいのですが、嫌がることを無理矢理押し付けるようなことはしたくありません。 でも、awayuki_chさんには絶対に幸せになってもらいたいと強く願っています。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご返事ありがとうございました。いろいろ考えてみました。母に悩みを言うのをやはり止めておきます。申し訳ありません。救いがたい頑固者です。「Aの新しい可能性」はわかりました。「一方で本能の要求も満たす」の意味もよく理解できました。hakobuluさんの表現不足ではなく、私の理解不足です。「恋」と「愛」の違い、強い男について勉強になりました。よく考えさせていただきました。幸せになりたいです(泣)。

awayuki_ch
質問者

補足

1. >手練手管を使っているのかそうではないのか。お母さんの考え方を聞くことによって、その判断の助けになるのではないか、と私は思ったわけです。 Bは手練手管を使っているとは言っていません。それは母に聞かなくても自分で判断できることです。 いまBには不満があるわけではありません。Bとの知り合い方に不満があり、心配です。「良くない知り合い方」をしたからといって、必ずしも相手が悪い人間ということにはならないのはわかります。Bは悪い人だとは思いません。 ただ、その限られた知り合い方によって、未知数が多すぎます。それらの膨大の未知数は私を強く狂わせます。また、Bは私といったいどんな形の恋をしたいのか、ぜんぜん窺えません。私は最近、ちょっとしたことで怒ったり、泣いたり、自分らしさを失っています。 2. >しかし、そこに【無理】があるからこそ【良くない】わけです。【無理】というのは「理が無い」ということです。「理が無い」とされる理由が必ずあるはずです。その理由を良くお考えになるのが良いでしょう。そして、それを客観的に分析してみる必要があります。 本当に母には相談できないことなんです。どうしても自分の口から言えないんです。苦しいです。『「理が無い」とされる理由』の「理由」は何でしょうか。教えてください。自分で判断したいです。お願いします。 3. >そこでたくさんの馬に蹴られたような気がします。 日本語が難しすぎるので、私はどうも勘違いしてしまいました。誰に蹴られたのでしょうか。ほかの回答者(関係がない第三者)からではなかったのでしょうか。質問者(当事者)からなのでしょうか。No.6で書かれた「馬に蹴られた」の二文を通して、趣旨はうまく捕まえません。 ・私も、馬に蹴られるのは嫌なので、意見ではなく感想だけ述べることにしましょう。 ・馬に蹴られないうちに引っ込みますが、必要があればまた笛を吹いてください。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.7

#5です。ご返事ありがとうございました。 1、 前回の時点でも、「瑠璃色の水に蓮の葉がのびのびと横になっています。」 という部分の意味は良くわかっていて、情景も浮かんできました。 しかし、「荷」が何を意味するのか不明だったので ? と思ったのです。 「荷=蓮」とわかって納得がいきました。 「月荷」は味わいの深い幻想的表現ですね。 「月光ぼっこ」は、とても素晴らしい造語です。 「月光ぼっこをする蓮の葉」で、絵のイメージがさらに明瞭に浮かんできました。 『「蓮の葉の中に宝石のようにきらきらしている」のは月光なんでしょうか。』 というのは正しい日本語ではありませんでした。 『「蓮の葉の中に宝石のようにきらきらしている」のは、月光を反射しているのでしょうか。』 と書くつもりだったのです。 awayuki_chさんと同じ感覚です。 >意味不明な文章になってしまい申し訳ありません。 :そんなことは全くありません。 とても良くわかりましたよ。 2、 おっしゃるように2本の蓮の葉は傘のように感じられます。 中国語は全くと言っていいほど知りません。 (1)以前、確か洗面所で順番を待っている女の子を蓮の花に譬えられたことがありましたね。 『愛蓮説』のURL拝見しました。 「牡丹花之富貴者也 蓮花之君子者也」は、 牡丹花=自我、蓮花=超自我の象徴として無意識的に表現されているように思います。 個人的には、「蓮花」から痛々しいほどの高潔さをイメージします。 地に足をつけて生きるために「牡丹花」のような逞しさも備えつつ、しかし「蓮花」も忘れずに大切にする。 というのが良いのかな、という気はします。 「泥」は命を育む養分をふんだんに含んでいます。 私は泥は嫌いではないです。逞しい温もりをイメージします。へそ曲がりな部分がまた出てしまいました。(^^;) (2)「梁祝」は、中国らしい特徴のあるメロディーと感じました。 動画もきれいですね。 あらすじを読みながら聞いてみましたが、悲しい物語です。 あらすじのページにある二胡の演奏も良かったです。 梁山伯と祝英台と蝶が一体となった像があるようですね。 興味深く拝見しました。 「飛ぶ」という行為が、リビドーの象徴であると同時に超自我の象徴(ここでは「純粋の愛」という意味で)でもあるというのは、万国共通の無意識であることを改めて確認できたような気がします。 (3)「荷風送香気,竹露滴清響」(蓮の上を吹き渡る風は蓮の香気を漂わせ、竹の露は滴り落ちて清らかにこだまを響かせる) :漢語の連なりは本当に味わい深いものです。 日本語のように送り仮名が無い分、想像力を喚起させる余裕を常に内包しているからでしょうか。 「荷風送香気」は爽やかな自然描写。 「竹露滴清響」は、「清響」が人間心理の深い井戸の底からの反響をもたらすような気がします。 どちらも好きですが、刺身とそばとどちらが好きか、と問われたような気分です。^^ 今、現在(日本時間 13時05分 )の気分だけからすると「荷風送香気」かもしれません。 ・細かいことですが、スライドの音は「シャッカシャッ」ではなく、「カシャッ カシャッ」と書きました。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご返事ありがとうございました。意味はちゃんと伝えることができて嬉しいです。善良な人に無実の罪を着せて申し訳ありません。おっしゃるとおり、「荷=蓮」です。「月荷」の「荷」は「蓮の葉」と「蓮の花」のどちらでも指すと思います。私が見た写真は偶然に蓮の葉になっているだけです。「蓮の花」の側面は美しいですが、まん中あたりはちょっと怖いですね。痛々しい感じはよくわかります。牡丹との鑑賞方法が違って、遠いほうから眺めるのに向いている花かもしれません。『「蓮の葉の中に宝石のようにきらきらしている」のは月光なんでしょうか。』のままが好きです^^。泥を弁証法的に分析していただきありがとうございます。泥洗顔はつるつるの肌に洗い上げます♪。蝶は羽があって羨ましいと思います。「荷風送香気,竹露滴清響」の分析を興味深く拝見しました。聴覚より嗅覚に自信があるんですね^^。スライドの音は「シャッカシャッ」ではなく、「カシャッカシャッ」なのでしたね;;;;;。

awayuki_ch
質問者

補足

>善良な人に無実の罪を着せて申し訳ありません。 面白げに書くつもりでしたが、どうも誤解を招く言い方になってしまいました。「月荷」についての私の勘違いを言っているだけです。深い意味はありません。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.6

#4です。ご返事ありがとうございました。 1、 「抑えるべき」の三つの理由は良くわかりました。 「>バランスの重要性は理論上ではわかりますが、実際はそう簡単にはいきません」 とおっしゃるのもその通りだと思います。 日本では昔から次のように言われています。 「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえ」 私も、馬に蹴られるのは嫌なので、意見ではなく感想だけ述べることにしましょう。(^^;) (1)Aの顔は私の夢の中であまり出たことがありません。これは意識がある時にAを思っていない証拠だと思います。 :必ずしもそうとは限りません。 確かに関心の無い相手の夢はあまり見ませんが、全く安心しきっている相手の夢も案外見ないものです。 なぜかというと、夢は抑圧されている事柄の浮上だからです。 日常的に安心しきっていると抑圧する必要がないので夢になりません。 空気を、特別大事なものだと意識しないのと同じです。 (2)母の美しさを磨り減らすのは主に私のせいだと思います。 :おそらく、それは違うでしょう。 容貌の衰えは人間である以上必然です。 しかし、精神の衰えは必然ではありません。 どちらもその人の歴史である、ということでは共通点を持っていますが。 お母さんは、「衰え」ではなく「自らの歴史」と捉えているのではないかと推測します。 容貌が衰えても、目の輝きを失わない人は何歳になってもチャーミングな印象を与え得るでしょう。 もし、お母さんが悲しむとすれば、「嘘をつかれた」ということではないように思います。 嘘をつかなければならないような苦しい状況に、なぜ自分(=awayuki_chさん)を立たせているのか、という点で心配するのではないかという気がします。 「>私自身でも、このような知り合い方には納得いきません。」 とのことですが、お母さんはもっとたくさんの経験をしてきているかもしれませんね。 (3)Bと一緒にいると楽しいと不安の気持ちは両方あります。以前Aと一緒にいた時、不安という気持ちはなぜかなかったような気がします。Aへの感情は果たして愛なのか、最近わからなくなりました :「不安の気持ち」は『未知数ゆえの憧れ』の裏返しでしょう。 未知の部分は開拓する可能性を秘めているように感じられるので、どんな可能性でも常に魅力的なものです。 しかし、可能性はあくまで予測にすぎませんから、「結局は何も無かった」という結果になることも多いものです。 そのことがはっきりした時、Aの新しい可能性に気がつくというのも良くあるパターンです。 AやBが変わるのではなく、awayuki_chさんの視点が変わる、あるいは新しい発見をする可能性は大いにあるわけです。 そのへんの見極めは大事になるでしょう。 今は、どちらとも言えませんが、ご自分の納得のいくように行動するしかないのでしょう。 >私はたくさんの人(自分も含め)に傷をつけてしまう不幸になる恐れがあります。 :人生は一瞬ではなく、継続していくものです。 自分の人生ですから、誰かのために行動する必要はありません。 しかし、後々まで自分が納得のいくことであるのかどうか、という点を考慮してみることは無駄ではないでしょう。 2、 >>超自我は本能や自我の制御を司っていますから、本能を制御しながら本能の要求も満たすという作業になるわけです。 >超自我は本能の要求も満たすとはどういうことなのでしょうか。 :これは書き方が悪かったですね。 「超自我は本能の要求も満たす」という意味ではありません。 「超自我は本能や自我の制御を司っていますから、(一人の人にとって)【超自我で本能を制御しながら】、【一方で本能の要求も満たす】という作業になるわけです。」 という意味です。 3、 新しい情報が増えたので、夢の解釈をもう少し追加してみます。 狐は本能、優しい男の子は性的要素の少ない男性の象徴と述べましたが、それぞれBとAに適用することができるようです。 Bが狐で象徴されているのは、やはり不安の要素を強く感じているからでしょう。 Aに対しては、本能的に男を感じさせる要素が少ないという点で不満があるのではないかという気がします。 優しさ、安心感という長所を持っていることは認めても、強引に引っ張っていくような男の強さという点で物足りなさを感じているのではないでしょうか。 (硬い)ヘリコプターが役に立たず落ちてしまった場面が、それを象徴しているようです。 AとBを足して2で割ったような人が理想ということなのかもしれません。 男の強さは安心感や優しさを保証するものではありませんが、 逆に(本物の)安心感を与えることができるのは強い男だけです。 ただ、安心感と物足りなさは紙一重ですから、当事者でなければ判断が難しいのも事実と言えると思います。 「>狐に食べられた」というのは、怖れであると同時に願望でもあるのでしょう。 ところで、どんな優しい男の子でも狐は必ず飼っています。 ただ、恥ずかしいので、頼まないと見せてくれない場合も案外多いものです。 馬に蹴られないうちに引っ込みますが、必要があればまた笛を吹いてください。 ◆ 「そんなに頑張らなくてもいいよ、と言ってあげたい気持ちです」 と書いたのは、雪に対して、 「そんなに頑張ってたくさん降らなくてもいいよ、と言ってあげたい気持ちです」 という意味です。 あまり降ると雪かきが大変になるので。^^  

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご感想をありがたく拝見しました。いろいろ大変参考になりました。「恋路」は美しい表現ですね。でも、その次になぜそのような残酷の表現が続くのか私にはよく理解できません。母の容貌の衰えは自然の法則だとわかりますが、出来る限り遅らせたいんです。もう以前のように母に悩みの相談をしないようにしています。何歳になっても、希望にあふれて目をきらきらと輝かす人は魅力的なんですね。Aの優しさ、安心感という長所、強引に引っ張っていくような男の強さでの物足りなさはhakobuluさんのおっしゃるとおりです。分析を拝見して驚きました。Bへの「不安の気持ち」もわかりました。何十年後、「いま」のことを振り返る時、「あの時、あのようにしたら(しなかったら)よかったのに」などの嘆きに沈みたくありません。後悔を残さない「いま」を歩みたいです。頭が大変おかしくなってきて、「そんなに頑張らなくてもいい」の意味までも正しく読解できなくなりました。意味を間違えて本当に申し訳ありません。暖冬なのに、なぜ雪がそんなにたくさん降っているのでしょうね。この二三日、急に寒くなりました。三寒四温ということか。

awayuki_ch
質問者

補足

1. >「>私自身でも、このような知り合い方には納得いきません。」 とのことですが、お母さんはもっとたくさんの経験をしてきているかもしれませんね。 これはどういう意味でしょうか。母の人生経験が私より豊富なので、Bに関する悩みを母と相談したほうがいいということでしょうか。 いま母が私に対する期待は、Aと新しいスタートを始めるのか、新しい彼氏を作るのかのどちらです。 Bとの知り合い方について母の考え方と一致したのはマスコミから強く影響を受けたからだと思います。まさか自分の嫌な知り合い方で人を好きになったなんて夢にも思いませんでした。Bのことを母に言ったら、「Bとの恋を止めなさい」しか言ってくれないと思います。私が母の立場だったら、私でも自分の子どもを止めさせると思います。でも、いざ自分のことになると、止められません。矛盾だらけで、情けない私だと思います。 また、一人で考えたい、母の話を聞きたくない時も結構あります。Bのことを母に言ったら、母に心配を掛けさせる同時に、一人でBのことを考える時間を奪われる恐れがあります。 結局、母を悩ませ母の容貌の「衰え」を加速させてしまいます。Bとの知り合い方を思い出したくないようにしていますが、母に打ち明けたら、それを頻繁に想起せざるをえなくなり、今より更に苦しくなると思います。 2. >そのことがはっきりした時、Aの新しい可能性に気がつくというのも良くあるパターンです。 「Aの新しい可能性」とはどういうことでしょうか。 3. >「超自我は本能や自我の制御を司っていますから、(一人の人にとって)【超自我で本能を制御しながら】、【一方で本能の要求も満たす】という作業になるわけです。」 という意味です。 おっしゃるように理解していますが、「一方で本能の要求も満たす」というところが理解できなかったのです。超自我は本能の要求を抑えるしかできないでしょう。超自我は天使のようで、悪魔の本能にずっと説教しているのではないでしょうか。 4. とても知りたいのですが、人は二人を愛することはできるのでしょうか。現時点でAとBへの感情は両方「愛」だと判断して可能でしょうか。 仮にA、Bへの感情が両方「愛」だとわかってAと結婚したら、精神上以外のものはAに属し、精神上はAとBに属したいという考え方は幼稚でしょうか。それは「浮気(不倫?)」ということなのでしょうか。 5. >男の強さは安心感や優しさを保証するものではありませんが、 逆に(本物の)安心感を与えることができるのは強い男だけです。 上の話はよく理解できません。もう少し説明していただけませんか。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.5

#2です。ご返事ありがとうございました。 1、 >「夢の中の場面と場面とのつながり(たとえば、山の緑の上を飛ぶという場面から、せせらぎの上を飛ぶという場面に変わる時)はスライドを流す時の一つ一つはっきりした、止めてから続けるという感じではなく、行雲流水のような自然に流れていく感じ」 >そういう意味になっているのでしょうか。 :いえ、「『シーンが展開されていたのではなく』のほうが自然かもしれません。」という添削は、そういう意味にはなっていないと思います。 私の理解不足でしたね。 むしろ、最初の【転換】のままの方が正確な表現になるでしょう。 添削のやり直しをさせてください。 {この夢は一つ一つはっきりした【シーンの転換ではなく】、全体的には【疾走感のような流れの感じがします】} は、 『この夢は、一つ一つの場面がはっきりと切り替わるのではなく、つなぎめなく、いつの間にか違う場面になっているような感じがします】』 であれば良いのかもしれません。 (まだ、うまく感じを理解していないかもしれません) 「夢の中の場面と場面とのつながり(たとえば、山の緑の上を飛ぶという場面から、せせらぎの上を飛ぶという場面に変わる時)はスライドを流す時の一つ一つはっきりした、止めてから続けるという感じではなく、行雲流水のような自然に流れていく感じ」 は、 『夢の中の場面と場面とのつながり(たとえば、山の緑の上を飛ぶという場面から、せせらぎの上を飛ぶという場面に変わる時)は、スライドを流す時のように一つ一つカシャッカシャッとはっきり切り替わるという感じではなく、行雲流水のような自然に流れていく感じ』 などとなるでしょうか。 ただ、スライドの音に関しては自信がありません。 どこかで(映画などで)見た記憶を探りながら考えた擬音語です。 2、 >「疾走感を感じる」なら「感」が二回出てきていますね。「違和感を感じる」と同じような感覚になってしまいませんか。「疾走感を覚える」、「疾走感がある」、「疾走感がする」に換える必要はあるでしょうか。 :鋭いご指摘ですね。 実は、「疾走感を感じる」と「疾走感を覚える」どちらにしようか迷いました。 「違和感」の場合は「覚える」を(なるべく)使うようにしていますが、 「疾走感を覚える」という表現には、なぜか違和感を覚えたのです。 わがままでしょうか。(^^;) 「○○感を感じる」についての見解には自信がありません。 ただ、少なくとも「○○感がする」という表現は使われないと思います。 また、この状況においては、「疾走感がある」という表現も適切とは言えません。 こちらの#5さんが「自信あり」でお答えになっていますので、ご参考まで。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1488568.html ◆ 「月荷」を検索しようとしたら、一番最初に下のページがヒットしました。 美しい動画です。 そして何と感動的なメロディ。(いきなり音が出ますから音量にご注意) これほど心に染み入るメロディーを聞いたのは本当に久しぶりです。 弾き手の純粋な人柄がしみじみと伝わってくるような気がして、 何か深いところから込み上げてくるものを感じました。 http://www.yhxw.com/ 中国のホームページは殆んど、日本のものより数倍優れていますね。 センスがあるし、非常に丁寧に作られています。 「月荷」のお蔭で思わぬ感動に巡り合えました。 ところで、これはどういう意味なのでしょうか。 「瑠璃色の水に蓮の葉がのびのびと横になっています。」という絵の内容とタイトルの関連性が全くわかりません。 日本では「日向ぼっこ」という言葉がありますが、中国では「月光ぼっこ」という言葉もあるんですね。 「蓮の葉の中に宝石のようにきらきらしている」のは月光なんでしょうか。 「瑠璃色の水に蓮の葉」に負けず劣らず美しい情景ですね。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご返事ありがとうございました。中国語は「切換」を使うので、「せつかん」で試してみましたが、このような単語はありませんでした。「切り替わる」はあるんですね。これから視点を変えて単語を考えてみます。今回の添削文を拝見し、だいぶ納得できるようになりました。「シャッカシャッ」はいいですね。欲張りの人の要求を満足していただきありがとうございます。助かりました。「○○感を感じる」について参考にさせていただきます。「月荷」の発展は面白いです。

awayuki_ch
質問者

補足

1. >ところで、これはどういう意味なのでしょうか。「瑠璃色の水に蓮の葉がのびのびと横になっています。」という絵の内容とタイトルの関連性が全くわかりません。 生活の中で、実際お店で見た写真のことをhakobuluさんに言っていました。インターネットのことを言っていません。有名でない人の作品なので、たぶんインターネットにはないと思います。もう一度言ってみます。私は日常生活の中で、お店で「月荷」というタイトルの写真を見ました。私はその写真が好きです。 「月荷」から「月下晩荷」という美しい言葉を連想されやすいです。「月下晩荷」は漢字だけで意味をお分かりになりますか。「夜、月の下の蓮の葉」と訳したら、どうもセンスが壊されるような気がします。 好きな詩人席慕蓉に「話によると、月光で暖まる女の子は傷がつかないそうだ」という句があるので、私は勝手に「月光ぼっこ」という言葉を作りました。中国語には「月光ぼっこ」という言葉はありません。間違っている中国語を覚えないでください(^-^;)。 その写真は神秘で重厚な感じがする一色の瑠璃色に包まれています。瑠璃色のおかげで、青い月の存在が感じられました。水面にぴったりくっついている浮き草のように、蓮の葉が浮かんでいます。「のびのびと横になっている」は「月光ぼっこ」をする蓮の葉の姿の擬人のつもりでした。 「蓮の葉の中に宝石のようにきらきらしている」ものについてですが、それは月の光が蓮の葉を照らしてその中の露が反射した光だと思いました。露から「熱い涙」を連想されたので、冷光の月光でも暖まることができると思いました。hakobuluさんの月光の発想はロマンチックですね。思い付けませんでした。「月光ぼっこ」の箇所で「月光浴」を使いたくなりました。 意味不明な文章になってしまい申し訳ありません。 2. 素敵なHPを紹介していただきありがとうございます。パソコン音痴なのでこのようなページを作れる方が羨ましくてなりません。「お気に入り」に追加しました。 動画のセンスはいいですね。蓮の葉は2本の傘に似ていませんか。それから、水面のゆらゆらしている様子はなんだか人の心模様に似ている感じがします。メロディを聴いて胸に熱いものが込み上がってきたような気がします。「時空を超える想い」と名付けたくなります。メロディをパソコンに保存しました。何度も繰り返して聴きます。中国語も少しご存知でしょうか。心温まりの文章をたくさん拝見しました。ありがとうございました。 このページに紹介された蓮の花についてもう少し紹介させていただきます。 (1)以前作文の中で女の子を蓮の花にたとえたことはまだ覚えておられますか。出典は周敦頤の『愛蓮説』の「出淤泥而不染,濯清漣而不妖」(「泥から出ながら泥に染まらず、洗ったような清浄な姿に怪しげなところはない」」)という句です。次のページの「2007年01月16日」に『愛蓮説』の全文と日本語訳があるので、ご覧になってください。 http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/asterism/diary/200701 http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/200210/8-1.htm (2)http://www.yhxw.com/flash/lz.htm 中国では大変有名なバイオリン協奏曲「梁祝」から選ばれた有名な部分です。「梁祝」は中国版ロミオとジュリエットと言われています。悲劇の中に人民の美しい願望が含まれているので、最後は二人の恋人は一対の蝶々になりました。あらすじはこちらです。 http://www.liangzhu.jp/content_1.html (3)孟浩然の「荷風送香気,竹露滴清響」(蓮の上を吹き渡る風は蓮の香気を漂わせ、竹の露は滴り落ちて清らかにこだまを響かせる)(参考ページの「荷風」の訳し方には賛成できないので、少し変えました)という句の醸し出した雰囲気が好きです。 http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=173842&log=20060729 hakobuluさんは「荷風送香気」と「竹露滴清響」とどちらがもっとお好きでしょうか。私は「竹露滴清響」のほうが更に好きです。難しい文学鑑賞の質問ではありません。お気軽に答えていただければ嬉しく思います。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.4

#1です。ご返事ありがとうございました。 (1)自分で愛だと判断した彼への感情は本当に愛なのか。この激しい感情はいったい何なんだろう。 :「本当に愛なのか」「この感情はいったい何だろう」という疑問は、愛へ直進することへの怖れの裏返しとも言えるでしょう。 その逡巡が(愛に身を投げ出したいという願望に対する)抑圧となり、夢への引き金になったのだと思います。 (2)美人だった母が年をとるにつれて、美しさは褪せている。母の姿を見るたびに、心のどこか痛い。母は私の恋を知ったら、きっと傷がつく。母と顔を合わせる時、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。母はかわいそうな人だと思う。 :なぜ、「母と顔を合わせる時、私は申し訳ない気持ちでいっぱい」になるのかよくわかりませんが、 彼への愛情が、お母さん(雌の鳥)からの愛情を裏切っているような感覚をお持ちなってしまうのでしょうね。 (3)彼のことを強く思っている。でも、この激しい感情を抑えるべきだ。しかし、心の海でダムを作るのはムダだった。抑えようとすればするほど、抑えることができなくなった。 :なぜ、「この激しい感情を抑えるべき」なのかわかりませんが、もしその必要があるのであれば、ダムをつくるだけではなく、水を逃がす放水口も同時に設置する必要があります。 また、高まる感情(本能)エネルギーは物理的法則をある程度当てはめることができますから、それを他のエネルギーに転換する方法もありますす。(無論、そう簡単にはいかないでしょうが) これを心理学用語では『昇華』と言います。 人間の文化文明は、常にこの昇華作業によって展開されてきたと言っても良いでしょう。 (4)恋と理想への追求の両立。 :確かにこのバランスは難しいですね。 これは、恋が本能に基づくものであるに対して、理想が超自我に基づく心理だからです。 超自我は本能や自我の制御を司っていますから、本能を制御しながら本能の要求も満たすという作業になるわけです。 個人的には、どちらも(恋も理想も)『あまり特別視しない』ということが肝要ではないかという気がします。 それが、背後に存在するものを見落とさない恋、あるいは地に足のついた理想の実現につながるでしょうし、 バランスも取りやすくなるように思います。 2. >>ここでは、本能的(快・不快)感情が、自我(損・得)や超自我(「善・悪」「規制・解放」)に迫る勢いで意識されるようになってきている、ということではないかと私は思います。 >「自我(損・得)」は何でしょうか。簡単な言葉で簡単に説明していただけませんか。 :自我は、基本的には「他者との関係性において自己を区別すること」と言って良いと思います。 また、「自分が自分であることを意識すること」と言っても良いかもしれません。 「自己主張」「自立」などは自我の典型的作用と解釈できるでしょう。 強すぎると自己中心的な人間になってしまいますが、弱すぎると自分で判断して出来ることが少なくなってしまいます。 精神分析学における精神の3層構造のひとつで、「自己保存」を第一義としたものなので、基本的には(広義の意味で)「損か得か」がその判断基準になるとされています。 3層構造のうちのひとつである超自我は、その自我や本能を(良いにつけ悪いにつけ)制御する役割を果たします。 ですから、必ずしも善悪で判断するとは限らず、時には過剰な(不必要な)抑制として機能する場合も案外多いものです。 「快・不快」や「損・得」だけに捉われていては精神的向上の見込めない人間になってしまいますが、 それらを無視したり抑制したりばかりしていると味気ない人生になってしまう(本来的人間の可能性を全て引き出すことができなくなる)わけで、バランスが重要というのは、そういうことです。 3. >誰も私の恋を知りません。夢を見たその日、叔父と叔母は私の家に来たそうです。たいした用事ではありません。私は直接に会っていませんが、母から二人が来たと聞いただけです。 :awayuki_chさんが、「>母から二人が来たと聞いた」ことによって、自分の恋と彼らを関連付けて色々想像したことが夢になったと考えることができるでしょう。 ◆この2,3日は毎日のように雪がたくさん降ります。 2月に降り忘れたので、神様に怒られると思って一生懸命降っているようです。(^^;) そんなに頑張らなくてもいいよ、と言ってあげたい気持ちです。^^  

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご返事ありがとうございました。激しい感情はやはり愛なんですね。水を逃がす放水口も同時に設置しています。自然を見るとか、歌を聴くとか。恋と理想への追求の両立ができる考え方は大変参考になりました。この理由のほかに、Bへの感情を抑えるべきだと考える理由が三つあり、付け加えました。「自我(損・得)」は何なのかだいたいの感覚はわかりました。叔父と叔母はなぜ私の夢に出てきたのかも理解できました。バランスの重要性は理論上ではわかりますが、実際はそう簡単にはいきません。久しぶりに雪の薫りを届けていただきありがとうございます。がんばらなくても悩みが自然消滅になったら、がんばりません。

awayuki_ch
質問者

補足

1. >なぜ、「母と顔を合わせる時、私は申し訳ない気持ちでいっぱい」になるのかよくわかりませんが、彼への愛情が、お母さん(雌の鳥)からの愛情を裏切っているような感覚をお持ちなってしまうのでしょうね。 そうではないような気がします。「母と顔を合わせる時、私は申し訳ない気持ちでいっぱい」の理由は二つあります。「(2)母」のところで書かせていただきます。 >なぜ、「この激しい感情を抑えるべき」なのかわかりませんが、もしその必要があるのであれば、ダムをつくるだけではなく、水を逃がす放水口も同時に設置する必要があります。 「抑えるべき」の三つの理由です。 (1)元(?)彼A 理想を追い求めるために、Aへの感情をずっと冷凍しています。Aは我慢してずっと私を待っていると信じています。でも、Aへの感情を冷凍する時間が長すぎるせいか、この感情がまだ生きているのか自分でもわからなくなりました。 そろそろAへの感情が解氷して直面しようと思ったら、知らないうちにBを好きになってしまいました。Aの顔は私の夢の中であまり出たことがありません。これは意識がある時にAを思っていない証拠だと思います。最近、Aには罪悪感をますます感じています。 (2)母 母はかわいそうだと思います。私を育ててくれるのに、どれだけ気を揉んだかよくわかっています。母の美しさを磨り減らすのは主に私のせいだと思います。それが母を見た時、申し訳ない気持ちになる一つ目の理由です。 私にとって、母は一番信用できる人です。恋の悩みはよく母と相談します。Aの時もいろいろなアドバイスをくれました。でも、今回Bとのことはどうしても母に打ち明けることができません。それどころか、「何をしているのか」と母に聞かれたら、嘘をついてごまかしているのです。それが申し訳ないと感じる二つ目の理由です。申し訳ないほかに、罪悪感もあります。Bとどのように知り合いになったのかと聞かれたら、絶対納得してくれない母だと思います。私自身でも、このような知り合い方には納得いきません。 (3)B B自身は未知数が多すぎてまだよくわからないと思います。Bが私に好意があるのはわかりますが、彼のこの恋に関する考え方は教えてくれません。 Bと一緒にいると楽しいと不安の気持ちは両方あります。以前Aと一緒にいた時、不安という気持ちはなぜかなかったような気がします。Aへの感情は果たして愛なのか、最近わからなくなりました。本屋で本を探していましたが、私の疑問を解決してくれる本を見つけられませんでした。 Bとの恋は、これからどのように進むべきなのか本当は冷静に考えなければなりませんが、なぜか冷静になりません。私はたくさんの人(自分も含め)に傷をつけてしまう不幸になる恐れがあります。 2. >超自我は本能や自我の制御を司っていますから、本能を制御しながら本能の要求も満たすという作業になるわけです。 超自我は本能の要求も満たすとはどういうことなのでしょうか。

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.3

この夢はすごいです!!! 「東洋の心が西洋の合理精神に侵食されていくことに対する不安と希望」をメルヘンチックに描いたとても美しい夢です。 「鳥」は自然や人と融和する東洋の心の象徴です。「狐」は自然と人間を分け、人間同士を個人に分ける西洋合理精神の象徴です。また、「ヘリコプター」は西洋合理精神が作り出したものの象徴です。 >私は鳥になって空を飛んで逃げています。一匹の狐はずっと私を追いかけています。 自然や人と融和しようとする東洋的心が、自然を改造し、人を個人に分ける西洋合理精神に追いかけられていることの象徴です。 >最後、私は優しい男の子(七、八歳ぐらい)に会いました。彼は私を彼の家に隠しました。 優しい男の子は「自然の懐」であり、自然の中に生きる仲間たちの象徴です。 >彼の部屋まで三つの門があります。それでも、ずっといると、どうも不安全なような気がします。空を飛んでいないので、狐はいつか突然出てくる恐れがあります。 三つの門が何を意味するかはよくわかりませんが、多分、「家の門」、「学校・職場・友の門」、「国の門」ではないかと思います。この三つの門ともに西洋合理主義の浸透を防ぎきれないという不安だと思います。 >最後、彼は私に電動用のヘリコプター(玩具)をくれました。私は鳥なので、本当はヘリコプターなんかいらないはずです。でも、ヘリコプターがあれば、どうも肉身の外に硬いものがついているので、安全なような気がします。 これは、東洋の心が西洋合理精神に対抗するために、逆に、プラグマチックな西洋合理精神を利用せざるを得ないという矛盾を表したものです。西洋合理精神は我々を強くする道具です。鎧のように硬いです。だから、それを身に着けると、安心できるのです。でも、その道具のために東洋の柔らかい心が失われて行くことにもなるのです。 >私はなぜか荷物がいっぱい持っています。ヘリコプターに乗って、彼の家を出たとたん、ヘリコプターが重くなってきて、私はヘリコプターと一緒に落ちてしまいした。 「西洋的合理精神」をたくさん身に着け過ぎた結果、自然な流れに溶け込む東洋の心が失われていくことの象徴です。 >落ちた瞬間、狐の顔を見てしまいました。たぶん最後は狐に食べられたと思います(泣)。でも、食べられた場面ははっきり思い出せません。 今は、西洋合理精神にどっぷり浸かっている自分を発見したわけです。これは、自分の正しい「現状認識」です。夢は常に創造ですから、夢の中の死は「再生」を意味します。正しく現状認識した結果として、新たな一歩を踏み出す希望を暗示しています。 >叔父と叔母の声は最後ちらっと聞こえました。「我が家の近くにも鳥の巣がある。でも、今日雌の鳥が帰宅したら、悲しくなるわ。幼い鳥たちはぜんぶ食べられたから。 叔父さんと叔母さんの若い時代には、、まだ、そんなに強くなかった西洋合理主義の徹底が日々生活に浸透していく様を表したものです。そして、東洋の心をよく教育されていない今の若い人たちが、容易に西洋合理主義に染まっていくことへの寂しさを表していると思います。 >まるで私への祭り(悲しい「祭り」のこと)のように聞こえます。それから食べられた幼い鳥たちを見てしまいました。羽がついていないし、目も閉じているので、怖いです。 これは「再生」の象徴です。なぜかと言うと、「羽がついていないし、目も閉じている」鳥は、それが”もう自分ではなく”、それを客観的に見ている”新しい自分”がいることの証拠だからです。だから、この夢は新しい旅立ちへの希望の夢です。

awayuki_ch
質問者

お礼

 安心させてくださってありがとうございます。大変哲理に富んでいる文章を拝見しました。kobareroさんのおかげで、すっかり崇高の夢に変装されましたね^^。「東洋の心」と「西洋合理精神」の考え方は大変参考になりました。「東洋の心」を失わないように気をつけます。本当にありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.2

#1です。 ご質問文の添削します。 1、{【かつて】動物に変身する夢は見たことがありません。} 「かつて」でも良いのですが、現在まで継続しているというニュアンスを出すためには、 『今まで』としたほうが自然に聞こえます。 (ex) 「かつて、こんなおいしいものは食べたことがありません。」ではなく、 『今まで、こんなおいしいものは食べたことがありません。』の方が、数倍自然な表現です。 2、{一匹の狐【は】ずっと私を追いかけています。} 「一匹の狐【は】」と言うと、 「一匹の狐」を話題(主題)に取り上げて、「一匹の狐について述べてみれば」という意図があることになります。 しかし、この場面では一匹の狐【について】述べようとしているわけではないでしょう。 『(狐が)私を追いかけている』ことを言いたいのですよね。 ですから、 『一匹の狐【が】ずっと私を追いかけています。』 としなければなりません。 3、{私【は】どこにいても、狐はすぐ私の居場所の近くに現れるようです。} この文で、最も言いたいことは何かというと、 「狐はすぐ私の居場所の近くに現れるようです」 という箇所です。 しかし、「私はどこにいても」と書いてしまうと、後半にうまく続きません(うまくつながりません)。 なぜかおわかりでしょうか? まず、「私は」で「私について述べてみれば」という意図を表わしています。 次に、「どこにいても」という仮定が提出されています。 しかし、「どうしたのか(どうするのか)」という述部が記述されていません。 「私について述べてみれば」と最初に言っているのですから、私について何か述べる必要があるわけです。 しかし、仮定だけで述部が無いので不自然になっているわけです。 「私は、どこにいても彼のことを忘れたことはありません」などであれば自然な文章になります。 ここは、『私【が】どこにいても』としなくてはなりません。 4、{どうも【不安全】なような気がします} 「不安全」という表現はしません。 『安全でない』または『安全ではない』とするのが自然です。 5、{でも、ヘリコプターがあれば、【どうも】肉身の外に硬いものがついているので、安全なような気がします} a.「どうも」は、「何となく」という意味でお使いになっていると考えて良いでしょうか。 それであれば、ここでは「何となく」という言葉を使った方が良いでしょう。 「どうも」と「何となく」は、どちらも「原因や理由がはっきりしない」という似たような意味ですが、 「なんとなく」の方が「どうも」よりも【はっきりしない程度が小さい】と思います。 原文の場合、「硬いものがついている」という【一応の理由】がありますから、何の理由もない場合に比べると「はっきりしない程度が小さい」と言えるでしょう。 「どうも」でも全く間違いではないのですが、この場合は「何となく」のほうが数倍自然に聞こえます。 b.また、これは「安全」という言葉にかかるべきものです。 文中の位置が離れすぎるのは不自然です。 c.『でも、ヘリコプターがあれば、肉身の外に硬いものがついているので、何となく安全なような気がします』 『でも、ヘリコプターがあれば、肉身が硬いもので覆われるので、何となく安全なような気がします』 などとすると良いでしょう。 5、{しかし、私はなぜか荷物【が】いっぱい持っています。} 目的語ですから『荷物を』ですね。 6、{また、映画のナレーションのように、叔父と叔母の声【は】最後ちらっと聞こえました。} ここでの「は」も不自然です。 「ちらっと聞こえました」というのは、 「叔父と叔母の声【について】何かを述べている」わけではありません。 【について述べる】というのは、 「叔父と叔母の声はとても良く似ている」などの場合です。 原文では、「叔父と叔母の声の【動作】」を述べていることになりますから、動作の主体として、 『叔父と叔母の声【が】』としなくてはなりません。 7、{この夢は一つ一つはっきりした【シーンの転換ではなく】、全体的には【疾走感のような流れの感じがします】} a.「転換」でも意味は良くわかりますが、 『シーンが展開されていたのではなく』のほうが自然かもしれません。 b.「流れの感じ」がちょっと不自然ですね。 『流れるような疾走感を感じます』 などとすると良いでしょう。 8、{江口洋介は人間の【身】で逃げています。私は鳥の【身】で逃げています} 【身】でも良いでしょうが、『姿』のほうが自然かもしれません。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご添削ありがとうございました。「は」と「が」の間違いだらけですね。もう一度繰り返して読んだら、間違いに気づきました。「どうも」と「なんとなく」の違いはだいたいわかりました。まだ不満が残っている文があるので、もう少し自然な書き方を紹介していただければ嬉しく思います。お店で「月荷」というタイトルの写真を見ました。瑠璃色の水に蓮の葉がのびのびと横になっています。「月光ぼっこ」も暖まりそうです。だって蓮の葉の中に宝石のようにきらきらしている何かが見えますもの。

awayuki_ch
質問者

補足

>この夢は一つ一つはっきりした【シーンの転換ではなく】、全体的には【疾走感のような流れの感じがします】 a.「転換」でも意味は良くわかりますが、『シーンが展開されていたのではなく』のほうが自然かもしれません。 b.「流れの感じ」がちょっと不自然ですね。 『流れるような疾走感を感じます』 などとすると良いでしょう。 どうも元の文に不満があります。表したかったのは「夢の中の場面と場面とのつながり(たとえば、山の緑の上を飛ぶという場面から、せせらぎの上を飛ぶという場面に変わる時)はスライドを流す時の一つ一つはっきりした、止めてから続けるという感じではなく、行雲流水のような自然に流れていく感じ」という意味です。そういう意味になっているのでしょうか。いま書いた内容を自然な書き方に添削していただけませんか。「スライドを流す時の一つ一つはっきりした、止めてから続ける」という部分は擬態語か擬音語があれば助かります。 「疾走感を感じる」なら「感」が二回出てきていますね。「違和感を感じる」と同じような感覚になってしまいませんか。「疾走感を覚える」、「疾走感がある」、「疾走感がする」に換える必要はあるでしょうか。

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