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夕鶴つうは なぜ夫の与ひょうを去ったか
夕鶴つうは なぜ夫の与ひょうを去ったか ▲(ヰキぺ:夕鶴) ~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E9%B6%B4 与ひょうは、ある日罠にかかって苦しんでいた一羽の鶴を助けた。 後日、与ひょうの家を「女房にしてくれ」と一人の女性つうが訪ねてくる。夫婦として暮らし始めたある日、つうは「織っている間は部屋を覗かないでほしい」と約束をして、素敵な織物を与ひょうに作って見せる。 つうが織った布は、「鶴の千羽織」と呼ばれ、知り合いの運ずを介し高値で売られ、与ひょうにもお金が入ってくる。その噂を聞きつけた惣どが運ずと共に与ひょうをけしかけ、つうに何枚も布を織らせる。 約束を破り惣どと運ず、更には与ひょうは、織っている姿を見てしまう。そこにあったのは、自らの羽を抜いては生地に織り込んでいく、文字通り"我が身を削って"織物をしている与ひょうが助けた鶴の姿だった。正体を見られたつうは、与ひょうの元を去り、傷ついた姿で空に帰っていくのだった。 ▼ (木下順二:夕鶴の大団円) ~~~~~~~~~~~ しんとした間―― 子供の一人:(突然空を指す)あ 鶴だ 鶴だ 鶴が飛んでいる。 惣ど: や 鶴・・・ 運ず: おお・・・ 子供たち: 鶴だ 鶴だ 鶴が飛んでる。 (繰り返しつつ 鶴を追って駆けて去る) 運ず: おい与ひょう 見や 鶴だ・・・ 惣ど: よたよたと飛んで行きよる・・・ 間―― 惣ど: (誰に言うとなく) ところで のう 二枚織れたちゅうは ありがたいこってねえけ。 (与ひょうの手にある布を取ろうとするが 与ひょうは無意識の うちに離さない) 運ず: (与ひょうを抱えたまま一心に眼で鶴を追っているが)ああ ・・・だんだんと小さくなって行くわ・・・ 与ひょう: つう・・・つう・・・(鶴を追うように 一・二歩ふら ふらと。――布をしっかりと掴んだまま立ちつくす) 惣どもそれに引きこまれるように 三人の眼が遠い空の一点に集まる。 微かに流れてくるわらべ唄―― ――幕―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 答えとして: 1. 見るなという約束を破ったので 信頼し得なくなった。 2. おカネに目がくらんでしまったから もとの与ひょうでなくなった。 3. いや 去っていない。去ったというのは 身を犠牲にして死んだという意味だ。つまり最後まで夫に尽くした。 4. いやいややはり去った。ともかくきらいになったのだ。 5. いやいや じつはこうだ。・・・ 5-1. 初めの《恩返し》という動機を――それはそれでとうといのだが―― 結婚ということに結びつけるのには無理がある。 5-2. いやいや与ひょうへの愛は それとは別に芽生えたのだ。だから結婚は成立している。つまりそういう問題ではなく・・・(あなたのお考え)・・・ * ちなみに鳥には換羽期(とやごもり)があって羽根は年に数回生え換わるのだそうですね。だとしたらその抜け落ちた羽根を使えばよいとも考えられるので 必ずしも《身を削って》というほどでもないかも知れません。という見方もあるようです。 もっとも基本的には 人間のこととして捉えて考えて欲しいとは思います。 もしつうが去って行ったのなら それは一般的な見方から行けば おとなげないとわたしには思われますが さてどうでしょう。
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おはようございます、bragelonneさん。 ● もしつうが去って行ったのなら それは一般的な見方から行けば おとなげないとわたしには思われますが さてどうでしょう。 ↑ 勉強しに帰ったのかもしれません。 『また出た!また出る!1問1答・大卒公務員の過去問刑法・商法・労働法』 http://books.google.co.jp/books?id=GWupUFBfyxYC&printsec=frontcover&dq=%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%87%BA%E3%81%9F!%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%87%BA%E3%82%8B!1%E5%95%8F1%E7%AD%94%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%8D%92%E5%85%AC%E5%8B%99%E5%93%A1%E3%81%AE%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%95%8F%E5%88%91%E6%B3%95%E3%83%BB%E5%95%86%E6%B3%95%E3%83%BB%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%B3%95&hl=ja&ei=qxnTTNeaB4XGvQP2woXBDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCkQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false
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茨城県の竜ケ崎市に女化稲荷神社というものがあります。 助けられた狐が恩返しをした後に、正体を見破られたために去っていったという話が伝えられています。 鶴の恩返しと似た話ですが、子孫が実在の人物であるという点が興味深いと思います。 人間関係の中に、動物との関わり合いが入ってできた伝説だと思えるのですが 夫婦という人間関係の一つの始まりから終りまでが、動物の存在によって脚色されている逸話へと昇華されているようにも思えます。 人間関係に於ける感情を、動物への思いに譬えて託したようにも考えられます。 会うは別れの始めなり・・・という言葉があります。 別離の悲しみを美しく描こうとするのも自然な事ではないでしょうか。 ご参考になさってください。
お礼
へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 人物像の描写に生命線を置く文学というよりは 類似の話がありうることを予定している《民話》 ということになるでしょうか。 ◆ (女化(おなばけ)稲荷神社) ~~~ http://www.h7.dion.ne.jp/~langzir/onabake1.html 昔、忠五郎という若者が、猟師が狙っていた白狐を助けたところ、 若い女となって宿を請いに現れ、その後結婚して3人の子をもうけます。 ある日、うたた寝をして子供に正体を見られてしまい 「みどり子の母はと問はばをなばけの原になく泣くふすと答へよ」 との歌を残していなくなったという伝説があります。 ちなみに末っ子は栗林義長という武将になったとか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この民話・民間伝承における《動物と人間との婚姻》の話に注目してみました。 ▼ 族外結婚による信仰、生活様式の違いに起源を求める説がある。 ☆ のだそうですね。何らかの因縁があって仲の良くない村どうしのあいだで 交流や恋愛がふと起きてしまったというような事件とその後の経過を言おうとしていましょうか? もしそう解釈するなら 初めは出身の村を隠していたが ついに見つかってしまった。そのあとは それでも仲良くつづけてやっていく場合もあれば ただちに元の村へ帰らざるをを得なかった場合とがあるのでしょうね。 ▼(ヰキぺ:異類婚姻譚) ~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E9%A1%9E%E5%A9%9A%E5%A7%BB%E8%AD%9A (いるいこんいんたん)とは、人間と違った種類の存在と人間とが結婚する説話の総称。世界的に分布し、日本においても多く見られる説話類型である。なお、神婚と異類(神以外)婚姻とに分離できるとする見方や、逆に異常誕生譚をも広く同類型としてとらえる考え方もある。 よく知られている例としては、ギリシア神話ではキューピッドとプシケーの物語やゼウスが乙女の元に白鳥や水滴と化して訪れる話、グリム童話では『かえるの王さま 』、日本でいうと鶴女房などが挙げられる。 これらは古代の族外結婚による信仰、生活様式の違いに起源を求める説がある。 子孫が残る伝承のものには、子孫にとって都合の良いもの(統治の根拠とする始祖伝説等)が多い。例_天人女房系 羽衣伝説や清王朝始祖、女真族のプフリヨンスの伝説等。日本神話におけるホオリとトヨタマヒメの結婚もまた異類婚姻譚であり、2人の子孫が初代天皇となっている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところで 木下順二の『夕鶴』の場合は そのような民話の場合のように一筋縄では行かないようです。 見るなの禁忌を破られたとき その意味つまり曰くつきの別の村の出身者だと分かってしまったという意味によってただちに去るというものでもないようだからです。つまり――このときどちらの場合も 恩返しがひととおり成ったということはそうであり同じかたちであるようですが―― 民話の場合なら正体が知られたのでただちに元の村へ帰るというところを つうと与ひょうとの場合には 本心はどうであれ愛情を持つに到っているのでこれをどう――作者は――扱うか ここにどうもはっきりしないものがただよっているように思われます。 りとるきすさんの指摘したように つうはわざわざ布を二枚織って 一枚は自分の思い出に・つまりいわゆる形見として与ひょうに遺して行くというかたちを取っています。 それでは つうは――与ひょうはだいたいにおいて受け身の姿勢でいたと思われるので措いておきますが―― その別離についてきっぱりと気持ちの整理がついたのか? 考えてみると もう永遠に去って行くというとき もしつうが与ひょうを愛していたなら むしろ与ひょうのもので何か形見になるものを欲しがってもよかった。とも考えられる。けれども そういう気配はない。すべて自分の側の問題として自分からの行動に終始している。 嫁にしてくれと言ってひょいとおとづれるのも 愛情を持つに到るのも或る意味で自分が勝手にそうしている。姿を見るなというのも 見られたから去るというのも 自分からの行動である。そうして形見を残すというのも 同じである。 しかも恩返しの作業は 身を削るほど無理をしておこなうというかたちを取っている。 どうも民話の話型をもとにして 文学味を出そうとして どっちつかずの結果になったということはないだろうか? 人物像が焦点を結びがたい。ように思われる。 いま現在の――単なる印象批評ですが――受け取りは こんなところです。
- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 ● 尺取り虫が這っているみたいです。 ↑ こんなかんじ? ↓ monmemonmemonmemonmemonmemonmemonmemonmemonmemonme...〆(.. ) 【議 事 録】平成15年10月17日 http://www.mof.go.jp/singikai/zaiseseido/gijiroku/zaiseid/zaiseid151017.htm 羽根がはえて消えていくもの――――――?
お礼
こんばんは りとるきすさん。 尺取り虫の図柄は 背が山のようなかたちで波を打っていないとだめです。
補足
リトルキスさん この場をお借りします。 次の議論にお応えしていなかったかも知れません。 ◆(回答No.37・アレアさん) ~~~~ (3)窓の開き方について 「窓」の開き方ですが、リンク先の「神とは何か?」を少し読みました。誤解恐れず質問者の方の主張を一言でいえば、他者に問うことといえる思います。 「他者」とは何か、という話になって、人間にとって究極的な他者は神であるというお話にもなったのだろうと推測します。完全な他者は、外部からその人物を超越的に捉えてくれる――という話は結構あるのです。 細部では間違っているかもしれません。しかし目下の問題は、この質問欄での回答者は、神では無いという意味で、私の問いへの答えになっていないということです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《細部》のもんだいになろうかと思います。 ★ 《「他者」》 ・《究極的な他者・完全な他者》/ 《外部》・《ひとを超越的に捉える》 ☆ の用語をめぐってになります。 1. 神を他者――つまりほかの人――の延長であるとは見ません。 2. 分かるとも分からないとも分からないのですから その神と人とは断絶しています。しかもその断絶の仕方は 人に分かりません。(主観において分かったと言う人が出て来ても その主観と単なる表明までは自由だと受けとめられる)。 3. したがって《究極・完全・外部・超越》の規定は 定義が必要です。 4. 超越は 《ともかく人とその世界を超えている》という意味で そのまま使えるものと考えます。 5. 完全も この経験的で相対的な世界を超えた絶対の領域を想定するからには おそらくそうつまり神は完全であろうという想定が必然的に出て来るものと考えます。もしくは 完全・不完全をも超えているという恰好です。 6. 究極は いわゆる可能無限――つまりこれは経験世界に属する――を想わせて あいまいにしか規定出来ないというように思います。1,2,3、・・・∞ といったように限りなく数えていくその究極というふうに捉えられがちだと見ます。超越・完全の意味で使っていると分かっていればいいかも知れませんが 少し意味あいは違っているでしょう。 7. 外部 この規定がいちばんわるいでしょうね。内と外として 人と神とは隔たっているのであれば 少なくともその境界については《分かる》ことになりそうです。ここから外は神の領域だと分かることになりそうです。どうでしょう。それは内に対する《外》なんでしょうか? 8. すなわち いま安易に想定のままを表現してみますがその完全なる超越者は 仮りに認識出来たとしたところの《内と外》 これらの全体をも超えており さらにむしろ覆い包むということではないでしょうか。 9. そうすると 問題が起こるかにも思われます。それは安易だという非難です。 ★ 完全な他者は、外部からその人物を超越的に捉えてくれる――という話は結構あるのです。 ☆ ひとつには ニュートリノだか何だかのように超経験の神が経験世界にやって来て通り過ぎてゆくと言っても それほど可笑しくないかも知れません。 もうひとつには 今度は・今度こそ《主観》のもんだいということになります。 《経験世界を超えてひとり満ち足りているナゾの存在――これは非存在でもいい――》が《人間であるわたし》をおとづれたという《非経験の場》が 経験的に起こったと《わたし》が表明する。これは無根拠において自由である。 10. この非経験――もしくは非思考――の場の〔わたしの意志経験としての〕成立が 信仰です。かみがかりですね。ただし所謂る無神論は かみがかりしないというかたちの神がかりです。非思考の場なのですから 正負の信仰があります。有無を超えたところのものを捉えて人間の言葉に表わすとすると 有か無かのいづれかひとつで代理表現されることになります。どちらの仮りの表現も 互いに同等です。 11・・・ ☆ これは《非思考における心のまどの明けもしくは伸び》にかんすることなのですが 実際上は《まどをいかに閉じないか》についての思考訓練のようなものだと考えます。いかがでしょう?
- littlekiss
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こんにちは、bragelonne さん。 『伝習録』 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0996.html 時間観念を巡る 日中の「文化溝カルチャー・ギャップ」の考察とデジタル時代に於ける伝統回帰の展望 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/vol16-2/16-2ka.pdf
お礼
りとるきすさん こんにちは。 ★ 時間観念を巡る / 日中の「文化溝カルチャー・ギャップ」の考察とデジタル時代に於ける伝統回帰の展望 ☆ こういう知性は わたしには無縁ですね。要らないとはっきりしている。尺取り虫が這っているみたいです。 あとは くだらん評論家をまた出して来た。なぜくだらんかは すでに言っています。
具体的な問題点から始め、最後に総論を述べます。 (1)設問について 最初に結論から言うと、質問者の方の発言を総合するとこれは「なぜつうは去ったか?」ではなくて、「どのように夕鶴の末尾は再解釈できるか?」だといえます。そもそも「去ったか?」と自ら書いてしまうと、別離がテーマであると議論の領域を規定してしまいます。しかし設問者は果たしてこれは別離なのか否かを問うてらっしゃる。 >《つう》あるいはその飛んで行った空の《夕日》 これが《どん底の絶望とやがてそこからの再生》の象徴として信仰されるのではないか。それだと ただの観念の《まどの開き》にしか過ぎなくなりますよと言いたかった。 これが趣旨なら問いの形は、「なぜ?」ではなく「どのように?」といえます。「なぜ」という問いは「~~だから」という答えを必然的に導き、「どのように」は分析的な答えを導きます。 そして主人公の行動の「なぜ?」を問う時に、文学では一般的に精神分析が一番有効なのです。従ってこの質問欄での精神分析批判は、釣っておいて、罠にかけているようなものに、結局はなってしまっていたと言えます(この点は(3)でも触れます)。 (2)問題提起の仕方について フーコーと村上春樹をまとめてらっしゃいますが、私が言ったのはそういうことではないのです。批判ばかりしてもよくないので、文語体で私がやってみせましょう。 まず「我に返った説」について議論したいと仮定して、問題提起をするとしたら、 「従来、木下順二の『夕鶴』は学校教育において道徳的修養を養う重要な教材とみなされてきた。しかしこの戯曲はまた、一人の女の愛憎を描いたリアリズムの作品とみなすこともできる。この見地から、なぜつうは去ったのかと問い、作品を読み換えてみよう。ここでは女の身勝手さ、思いこみ、期待、失意に言及することになるだろう。この議論に期待されるのは、道徳的な枠組みに収めきれない、文学作品としての『夕鶴』の魅力を明らかにすることである。」 こう提示することで、情操教育では捉えられないヒロインの「新しい」一面を考えるという議論の意義が示せます。 平田清明の『市民社会と社会主義』における夕鶴の記述をお考えだったようですが、それを書くとすると、 「木下順二の『夕鶴』はマルクス主義の文脈で、農村部が資本主義経済に参入した際の諸問題を風刺したとみなされてきた。たとえば平田清明の『市民社会と社会主義』がそうである。ここで農村社会はユートピアであるかに議論される。しかし――」 この先には、この問いの新しさとは何かを書くのですが、(私個人の意見はあっても)まだレスポンスだとまだわかりません。議論に賭けられた価値が漠然としか見えないので。『夕鶴』の農村部が観念的なユートピアでは無いと論じることで、どういう意義があるか、ということがです。 >さすがこの質問の回答者の中にはこういう《観念の偶像崇拝》理論はなかったようです。 それはそうです。設問が話を向けていないのですから……。 (3)窓の開き方について 「窓」の開き方ですが、リンク先の「神とは何か?」を少し読みました。誤解恐れず質問者の方の主張を一言でいえば、他者に問うことといえる思います。 「他者」とは何か、という話になって、人間にとって究極的な他者は神であるというお話にもなったのだろうと推測します。完全な他者は、外部からその人物を超越的に捉えてくれる――という話は結構あるのです。 細部では間違っているかもしれません。しかし目下の問題は、この質問欄での回答者は、神では無いという意味で、私の問いへの答えになっていないということです。 また私は知といわれるものに情報と精神性と二側面あるというのは、反対はしません。しかし次のように開き直るのは、どうかと思います。 >ゆえに 単なる知識や情報のやり取りでないなら ひとは だれからも おそわることはない。自分で能力を開くのである(「ひとはだれからおそわるか」)。 上の文句をここに当てはめると、次のように聞こえます。「夕鶴の文献は何も読んでおらず情報もないが、自分は解釈する力があるので噛み砕いて教えて欲しい。その情報の妥当性は、質問者が成否を判断する」。 しかし、これでは質問者が神の立場に立って裁定しているだけではないでしょうか。むしろ窓を開けはしたが、入ってきた者を闖入者か害虫の如く、返り討ちにしているだけです。これはタコツボでしょう。実際、精神分析的な回答に対しては、そう振舞われましたね。そしてこの振舞いは「井戸端会議」のものではありません。 また失礼ながら、自ら手を汚してゼロから調べて議論しようとする人に比べると、楽をなさる口実をお見つけになった、とも見えるのです。楽の要素がある限り、知の窓は開かないのではないですか。
お礼
これは失礼になるかも知れませんが あたまで立つことなく泥の中にも足を突っ込んでさえ足で立つことをむねとする。語弊をおそれずに言えば 一足飛びにアマアガリすることを目指すでのはない。アマテラスの光あるいは汲めども尽きぬ水のみなもと(?)をあくまでも人間スサノヲ(市民というほどの意)の自然本性の中にもとめる。これを磨き開発する。遅々とした前進となります。これを 井戸端会議はめざします。 ★ また失礼ながら、自ら手を汚してゼロから調べて議論しようとする人に比べると、楽をなさる口実をお見つけになった、とも見えるのです。 ☆ とのご指摘内容と たぶん 両立できるはずです。つまりその口実にあぐらを掻いていても 上の一歩一歩の会議はその足取りをすすめて行けるということです。むしろこのスサノヲイズムでなければ 単独分立するかたちのアマアガリをしたアマテラス学術語によるだけでは――あるいはまた 本音と建て前を使い分けてうまく振る舞うだけのアマテラス人格語の流通によるだけでは―― これからの学問も社会も立ち行かなくなるでしょう。 あらためてですが まづ ★ (1)設問について うんぬん ☆ これは 文字(字面)に幅を持たせて欲しいというのが お応えです。 ★ 「なぜつうは去ったか?」ではなくて、「どのように夕鶴の末尾は再解釈できるか?」だ ☆ という質問趣旨の受け取りをも容れるというふうに取ってくださいませんか。つまり あやふやであり あいまいのままにしておくという意味です。つねにそうするというのでもありませんが。 わたしの隠れた腹積もりのほうは 隠れているのですから そのことにかかわる回答がなくてもかまわないのです。それだけのことですし そのへんは 固定していないということです。 ★ そして主人公の行動の「なぜ?」を問う時に、文学では一般的に精神分析が一番有効なのです。 ☆ この問題が いまなおこの質問でやり取りがつづいているという理由になっているかとも思います。つまり大問題です。(そのハコブルさんとのやり取りの行方次第という見込みでしたので 何とも対処していませんが)。 つまり つうや与ひょうの振る舞いを分析するのは 精神分析の手法がたぶんいちばん合っていた。そして同時に ただしその分析内容は じつは――作者が意図したか・意識したかどうかにかかわらず――むしろ初めにそういう精神分析によって内面に葛藤を持つと捉えられる人物像として設定している。よって それは当たり前のかたちになっていた。のではないか? こういう疑義をわたしから出したかっこうでした。いまは それが宙ぶらりんの状態です。 ★ ・・・こう提示することで、情操教育では捉えられないヒロインの「新しい」一面を考えるという議論の意義が示せます。 ☆ 多彩と申しますか そういうふうに主題の探究を伸びさせることは――会議で主題を大いに発展させることは大いに歓迎ですが―― 残念なことにこの質問者のわたしにはその進行役が適任ではない。そういう意味なのです。何なのでしょうね。たいていは曲りなりにも応答してまいりますが ぴったり来ない(繊細さをめぐる問答が苦手?)となると言葉が出て来ない。というのが 実状です。申し訳ないですが そういうもんだいです。 (これは 大きな失礼になるかも知れないけれど敢えて発言するとすれば アレアさんのその提案内容は あまりにもきれいにまともにまとまり過ぎている。それが アマテラス語っぽいとわたしには映るのでしょうか? ほんのちょっとスサノヲ味を振りかけてもらえば反応するかとも思います。あるいはわたしがその隠し味を見つけ得ないでいるのかも分かりません)。 平田清明の夕鶴論は クリヤさんの提起された疎外論および物象化論の筋ですね。つまり アレアさんからもどしどしその論議についてのご回答を寄せていただけばよいという それは 問題になっています。そういうもんだいです。 ★ 『夕鶴』の農村部が観念的なユートピアでは無いと論じることで、どういう意義があるか、〔漠然としか見えない〕ということ〔が〕です。 ☆ つまりまだわたしは何も論議には入っていません。そういう方向での展開もありうるという程度に触れているのみです。その村での人びとの暮らし方について おカネの問題をめぐって 町や都市と同じように葛藤を繰り広げるのが 一般にユートピアをもし求めるのならその試練の過程ではないかといったところではないですか。つまりそれだけのことですが。 尻切れトンボにて。
補足
アレアさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。さすが素養の確実さと広さがちがうようです。 つまり ブラジュロンヌくん もうちょっと――いや二倍も三倍も――うまく設問しうまくやり取りを運ぶやり方があるのではないか。工夫が足りん。と言われているように受け取りますが そうだとしたら たぶんそういうことでしょう。 つまり設問と回答への応答における質問者としてのわたしの発言には そのときの文章をとおしての対話で述べる以外に特別に はからいはないのですから。 批判をしたい事項をあらかじめ持っていたとしても それはあくまで質問者の主観のもんだいです。言いかえると 回答者とのあいだの主観と主観の――《間(ま)》――のもんだいです。間が優先されるでしょうね。 (決まっていませんが しばしばそういう――はじめの心づもりとは違った――経緯と結果になるのではないでしょうか。つまり それでよいと思っています。相手のあることですから そういうものです。触れ得ず語り残した主題については また別に設問すればよいだけですから)。 ですから ご批判いただいた内容は おおむねみな アレアさんが質問者で会議の進行役であったなら これこれのようにやっていただろうということであろうと受け取ります。たぶんそういうことでしょう。 なかで 回答者に対する質問者の態度として その回答内容に応じて質問者は応答の仕方が違っている。すなわちそのときには 反批判をまじえてひどすぎるのではないかというご指摘があります。これは それとして取り上げねばならないことでしょう。 ★ むしろ窓を開けはしたが、入ってきた者を闖入者か害虫の如く、返り討ちにしているだけです。 ☆ まづ批判の応酬を《返り討ちにする》と言うかどうかは 決まっていないでしょうね。そしてどちらが返り討ちにしたか すでに決まったのかは まだ――わたし自身の主観は決まっていますが――相手のあることですから 決まったとは言えないのではないでしょうか。 でもそうだとして さらに返り見ることがあるとすれば それはどうなのか? ★ しかし、これでは質問者が神の立場に立って裁定しているだけではないでしょうか。 ☆ すなわち ★ 誤解恐れず質問者の方の主張を一言でいえば、他者に問うことといえると思います。 ☆ という方針であるはずなのに 問うているのではなく他者の見解を裁定しているではないかというご批判と捉えていいでしょうか? これは どうなのでしょう。ひとことで言えば 口はばったい言い方になりますが わたしのフロイト批判があまりにも見事に急所を直撃しているので ただのふつうの哲学としての批判〔の応酬〕でしかないのに《神の立ち場に立った他者の裁定》だと見えるというご感想である。ということではないですか? ★ これはタコツボでしょう。実際、精神分析的な回答に対しては、そう振舞われましたね。そしてこの振舞いは「井戸端会議」のものではありません。 ☆ というふうにも映る。こういうことだと言ってよいでしょう。つまりこのことについても説明を広げるなら フロイト理論こそが 実際のそのあり方として 《タコツボ》状態にあるということがすべてではないでしょうか。わたしがそのことを明らかにしてみせた。ただし世間は 痩せたと言ってもあの名声あるフロイトのことである。それに挑む名もないやからに何ができよう。ともかく世間の評判が その流れを変えて フロイトの名を地に落とすまでは いくらうまく批判を成し遂げたと言っても それに与するわけには行かぬ。フロイト理論がタコツボ状態にあることは分かったが ただいまの反応としては ただの小人ダヰデのほうをタコツボと言わないわけには行かない。――といったところでしょう。 ★ 楽の要素がある限り、知の窓は開かないのではないですか。 ☆ おそらく研究者の言うところの《知の窓》にかんしては なかなかそれがじゅうぶん開いたと言えるまでにはまだ道のりは遠いかも知れませんね。ところが すでにこの牧歌的で楽な井戸端会議をとおしても 学者や学者に追随する知的ディレッタントには――これは必ずしも失礼ではないと思うのですが――見えない見方を得ることも出来るのです。 それは アマテラス学術語かつアマテラス人格語によって学者は研究し理論を唱え追ったりしますが この井戸端会議の人びとは そのアマテラス語の単独分立をおそれて またはそれこそナゾの何ものかである神をおそれつつ スサノヲ人間語にもとづく。普遍概念へと洗練される前の・あやまちうるスサノヲ人間語に立ってあゆむ。
「さいころさん」とは私のことでしょうね。 私の説とは何なのかわかりませんが、呼び出された件について先にお答えし、その後に、私から、気になったことを、少したずねさせていただきましょう。 >文学にとって事件の一回性の問題と並んで一人のひとの固有の歴史――したがって個性だとか独自性だとかが言われる つまりそもそも存在の掛け替えの無さ――にかかわる・つまり抵触するかに思われる こう仰ること自体が、少し残念ですね。そもそも夕鶴の研究文献自体、CiNiiの検索エンジンで141出てきます。その中には似たような話もあるでしょう。 フルテキストが落とせる前段階のページのリンクを張っておきます。相違はあるでしょうが、類型は出ているでしょう。他に精神分析的に夕鶴を解読した文献もあるようなので、気になるなら目を通されたらいかがですか。検索画面で「夕鶴」と入力してみてください。リストが出てきますから。 私は基本的に夕鶴議論に関しては、個人が楽しく読めたらそれでいいと思います。しかしそれを離れて、しきりに繰り返している「窓を開く」という話で気になったので一言。どうもフーコーのエピステーメーについて振られた話題と関連あるようですから。私はフーコーの話はここでやる気は無いです。というのも夕鶴の話でもないし、フーコーの話を振ったのは私とはいえ、他の方の関心もあると思えないので。 それより、もっと根本的な話をさせていただきましょう。エピステーメーに不服があるというのはそれはそれでよろしいと思います。私はフーコー支持者では無いので、思い入れは無いです。しかし、ではどうするかという話に関心があるのです。おそらく「窓を開く」とお答えになるのではないかと思います。ずっとその言葉が繰り返されていますから。しかし、窓はどうやって具体的に開くつもりなのでしょうか。 まず窓が閉じているとは何か、という話をしましょう。質問者の方は、時代だとか、レジームだとか、シェーマに規定されるのを極端にお嫌いなようですね。 この質問欄での傾向をまとめると、 (1)精神分析はシェーマに当てはめられるのが疑問だ。 (2)フーコーはエピステーメーで当てはめられるのが服従し難い。 (3)似ている言説があると指摘されるのは、独自性を否定された気になる。 精神分析、時代言説分析、先行研究の整理、これら一般的な意味で「囚われ=閉じた部屋=タコつぼ」に自覚的であることによって、囚われを抜けるための方法に閉塞感を感じてらっしゃるようです。しかしでは、どうなさるのですか? 私が特に不思議に感じた理由は実践的な問題である(3)です。一回性というなら、従来の言説に対して、質問者の方の問題提起は、どの点で新しいと言えるのでしょう。ちょっとやってみてもらえませんか。つまり「従来、夕鶴についてはXと述べられてきたが、私はYという点で新しい問題提起をしたいと考える」というまとめ方が、おできになりますか。 少なくても当初の設問ではそこまで明晰にお書きでは無いですね。あれは「かわいく質問して皆に応えてもらえるように配慮した」というなら、すみませんが、今、ちゃんと当初意図していた質問の論点を数行で絞ってみてもらえませんか。 さらに敢えて聞きますが、既に終了しているフーコーの質問欄にせよ、村上春樹にせよ、従来では何が言われていて、ご自分がどういう点で新しい論点を提起して質問を設置したと言い得るか、ズバッと3~5行程度でまとめられますか? いくら無勝手流と繕っても、それができなければ、甚だ面白くないでしょうが、やはり知らず知らずのうちに、部屋に閉じ込められているという風に私には思えます。 こういうことを言い出したのは、対話をなさること自体が「窓を開く」ではあまりに牧歌的だからです。対話から何を得ようとし、どういう問題を提起しているのか、その目的なり戦略が、今一つ見えないからです。失礼ながら、ご自分が確立されていないので、窓を開くと称しては論難なさっているのではないか?とさえ感じられたのです。 しかしこれは私の愚かな考えでしょうから、 ・「窓をいかにして開き得るか」という一般論、 ・「夕鶴いおいてどういう窓を開くつもりであったか」など個別の議論、 を述べて、私の虚妄を払拭してくださったらと思うのです。
お礼
つまりただ対立する二項を見るというのは 双眼だと思われます。 つうの世界と与ひょう(および惣どや運ず)の世界とは別だというふうに設定されているそのことを言っているのでしょうが わがスレッドではさすがそのままを受け取っているというのはないのではないでしょうか。とうぜんそれら二つの世界は入り組んでいるのだ。(そう言えば 男子高校生がひとりそういったふうに 善悪が一人の人間の中にあると言っていましたか)。つねに或る種の仕方で絡み合っているのだと見ているでしょうね。複眼。 あとを見渡せば ずいぶんスペースがまだあるのですが だいたいはお応えできたでしょうか。 フーコは ガミガミ役とアース役との《広義の権力関係》が あたかもそこここから降って湧いたように 出現すると言っているのではないか。それは 関係から成る社会の構造において関係の結節点としての《わたし》が いやしくも自由意志の持ち主であるなら 責任の主体でありその基盤の上に行為の主体であるということ これをおろそかにした結果ではないだろうか。 村上春樹は 要するにいまの閉塞感のただよう現代社会に生活するわれわれにとって もやもやは多少の病理としてでもまぬかれ得ざる状態である。そう諦観するなら この現状のままその情況の中をただよいたまえ・泳ぎすすみたまえ 我が輩がそのために最高のエンタテインメントを用意して差し挙げよう。という魂胆だと思われます。 ちなみに 昔のよしもとばなな(吉本ばななと書いていたときの小説作品)は そういうもやもや状態に落ち入ってどうしようもないと言うひとに対して だいじょうぶよ 心配要らないわと言って その先へすすむことに引導をわたしている。と読みます。早く逝きなさいと言っているという意味です。 《夕鶴》論として目の覚めるような新説があるかと言えば すでにおわびしたように ありません。批判の対象を決めていただけでした。ほかに何かの思潮を巻き起こすとか 新しい読み方を披露するとかは はじめからありません。 字数が余りましたが おおよそこんなところでしょうか。ご要望・ご期待に沿えなかったところについては 残念ですが それがいまの状態ですので 重ねておわびいたします。 どうでしょう。
補足
いやぁ きびしいですね。身から出た錆――いえ 錆ではないでしょうけれど―― 自業自得でしょうか。 アレアさん まづは対話の継続としてのご回答をありがとうございます。 はじめに降参してしまわねばならないでしょうか。 ★ こういうことを言い出したのは、対話をなさること自体が「窓を開く」ではあまりに牧歌的だからです。 ☆ いえ この牧歌的な井戸端会議を目指しています。対話の継続ということです。 《窓をあける》というのは たしかにプラス α が要るでしょうね。 ★ 対話から何を得ようとし、どういう問題を提起しているのか、その目的なり戦略が、今一つ見えないからです。 ☆ これは ですから 見えません。そこまでのはからいは ありません。主題が決まり その問い求めの論点が得られたなら あとはみなさんのご見解を寄せてもらって この規約にのっとれば情報交換ということになりましょうし わたしの心づもりとしては そうですね 次の趣旨が一人ひとりに得られること(自覚されること) それを目指しているでしょうか。 【Q:ひとは だれから おそわるか】~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4974759.html (この質問での趣旨説明) 単なる知識や情報のやり取りでないなら ひとは だれからも おそわることはない。自分で能力を開くのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 失礼ながら、ご自分が確立されていないので、窓を開くと称しては論難なさっているのではないか? とさえ感じられたのです。 ☆ これは ですから 二つの側面があります。人としての存在・人格といった全体観としての側面と世界認識にかかわるいろんな分野での知性の側面とです。後者の点ではわたしはその知識が狭いものです。ただ前者のいわば人間にとっての境地といったことでは 自信があります。ざっくばらんに言ってそういうことになっています。 ★ ・「窓をいかにして開き得るか」という一般論 ☆ 先の《ひとは 自分で自分からおそわる》という命題が それです。その基本となる定理は つぎです。判断の基礎になると考えます。 【Q:神とは何か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6057191.html ★ ・「夕鶴においてどういう窓を開くつもりであったか」など個別の議論 ☆ これについては 直前のニュウトラルさんとのやり取りで触れています。 《つう》あるいはその飛んで行った空の《夕日》 これが《どん底の絶望とやがてそこからの再生》の象徴として信仰されるのではないか。それだと ただの観念の《まどの開き》にしか過ぎなくなりますよと言いたかった。 そのやり取り(No.35)で触れたように マルクシストでさえ商品経済の社会に精一杯生きて行こうとするときに 《つう》がその守護霊であるといった想定を持ち得るという問題です。 さすがこの質問の回答者の中にはこういう《観念の偶像崇拝》理論はなかったようです。それは 一般にここの参加者が 社会人でありおとなであるということではないでしょうか。 それが証拠に ちょうどおしえてくださった参考サイトを見てみると 高校生らは その指導教師のまとめにもあるように やや観念的な議論が優勢であったし 中にはこの《つう》の世界を人間にとって《理想の世界》だと見る見方も出ているようです。つまりこれは 類型としては わたしが批判したいと思っていた観念の偶像崇拝です。 幕が下りる手前の場面で ○ 惣どもそれに引きこまれるように 三人の眼が遠い空の一点に集まる。 ☆ という情景を取り上げて ● かれらは・つまり一般に人間は この世で悪の世界に染まっているけれども いつも理想の世界にあこがれていることを示す。(『夕鶴』受容の問題 p.66 I3男) ☆ と言っています。(ちなみにこのサイトは コピーペーストは出来ないようです)。 たしかに高校生らも――教官が指摘しているように《見るなの禁止》については ついぞ触れていないのですが―― おおかたの主題や論点を拾い上げて われわれのスレッドと同じように議論を展開しているようです。ただすでに触れた点ですが やや観念的にすぎるとは思われます。生活感覚がうすいのと社会における自己の位置づけがゆるい。 そして このわがスレッドでの議論との性格上の違いとしては 双眼と複眼とのそれでしょうね。かれらは対立する二項をほとんどそのまま持ち出す。 ○ 男女による幸福の追求の相違 ○ 理想と現実 ○ 性善説・性悪説 ☆ われらは二項が対立しているだけではなく構造的に錯綜していると見ている。複眼。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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ぶらじゅろーぬさん。こんばんわ。 牛蒡を煮込んでる間にちょっとだけ失敬。 34番を書いた後で33番のご返信文を読みました。 いや~お恥ずかしい。わたしのしゃべりかたが。 >《どん底の絶望とやがての再生》を想いこころ癒され元気になる >これに触れる投稿はひとつもありませんでした :あ、そっか、9番で言われたのに 忘れてました、すみません。 しかしこれはちょっと強引(に)舞ウェイすぎませんか? ぶらじゅろーぬさんが。 間違いなく確実に、 与ひょうたちがユートピアみたいな偶像を作った、 という証拠物件を持ってきてもらわないと。 村上春樹はほとんど知りません。 「ノルウェイ」と「ねじまきどり」ぐらいしか知りませんが、 確かに「病理」を最初に作って、 それに装飾品をつけているような感じはします。 最初から気持悪いくらいの「含蓄」があって、 もう少し清潔になりません?という感じはします。 (すみません、あまりよく知らんですが。) さいころさんの言説は、ところどころしか分からんですが、 とにかくおもしろいのでパクっとしちまいました。 まだあまり咀嚼できていません。 だいたい質問文に批判なんてご馳走ぢゃないっすか? >どうも つうの心の底には 与ひょうとは別れるという気持ちがちゃんとあった。 :ん~。こころこころさんが言ってるみたく 与ひょうを骨抜きにしてポイっと・・・ってこと? わたしは34番の引用を読んで、 つうは、与ひょうを、信頼してないなあ・・・と思いました。 書きっぱなしですが消えます。 次はいつになるか分かりません。 現れるか現れないかも分かりません。
お礼
★ ~~~~~~~~ わたしは34番の引用を読んで、 つうは、与ひょうを、信頼してないなあ・・・と思いました。 ~~~~~~~~~~ ☆ あぁ ええ このほうがぴったり来ます。 ――ニュウトラルさん ご回答をありがとうございます。―― ★ ~~~~~~~ :ん~。こころこころさんが言ってるみたく 与ひょうを骨抜きにしてポイっと・・・ってこと? ~~~~~~~~~ ☆ ううーん。そういう角度から見るとすると 捨てるというよりは・あるいは骨抜きにするかしないかというよりも 《いづれわたしはここを去る。ということは 与ひょうをも去ることになる》という――変なかたちの確信のような――思いになるでしょうか。 いや でも分からないですね。 めぼしいところは だいたい引用出来たかにも思われるのですが。 ★ ~~~~~~~~~~ さいころさんの言説は、ところどころしか分からんですが、 とにかくおもしろいのでパクっとしちまいました。 まだあまり咀嚼できていません。 だいたい質問文に批判なんてご馳走ぢゃないっすか? ~~~~~~~~~~~ ☆ 《批判》は歓迎です。たしかに一番のご馳走です。自分の知らなかった観点が得られるということですから。 ただアレアさんのご文章は 繊細すぎるのか高尚すぎるのか わたしにはバットが振れないのか振っても当たらないのか。ただし きちんと哲学史や研究史をまなんで来なかったという点では 原因は分かっているのですが。 やっと フーコについての見解で咬み合わせられるかなと思いました。 ★ 「ノルウェイ」 ☆ は きびしいですよね。ちゃんと読むと。一人ひとりに感情移入したり あるいはそんなことはしなくても 何を言おうとしているかを分かろうとするときには。人物像が焦点を結ばない。でも代表作のひとつに数えられていたり 評価が高いんですよね。――これは いまはこれだけとしますが。 ★ >《どん底の絶望とやがての再生》を想いこころ癒され元気になる ☆ いえいえこれは 例の山折哲雄の《夕日信仰》としての見立てのことを言っています。もともと死者が黄泉の国に帰るときしばらく山の上にたましいとしてただようといったような信仰だったとか。それが 仏教と結びついたのだとか。 ▼ (ヰキぺ:俊徳丸) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%8A%E5%BE%B3%E4%B8%B8 ・・・天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かいあっていると信じられていたので、落日を拝む(日想観(じっそうかん)という)事で極楽浄土に行けると信じられていたのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これを出されるとたまったものではないと感じます。夕焼け小焼けというその情景に人びとがなじんでいるその限りで。エディプス・コンプレックスにしても もはやマザコンとして人びとの心理になじんでいますから。たしかに母親に頼らなければ何も決断できないといった事例について その説明としてたいていは納得してしまうと思います。同じように 夕やけ小焼けの赤とんぼの情景もしくは旋律とともになじんでいるのだと思います。 ★ 与ひょうたちがユートピアみたいな偶像を作った、 / という証拠物件を持ってきてもらわないと。 ☆ 次のような《夕鶴》評があります。 ◆ (平田清明:夕鶴とマルクス)~~~~~ 〔つうが去ってしまった後〕残された与ひょうはどうなるか。 むろん 残された布を 二枚とも売らないだろう。もはや一枚も 売る気にならないだろう。(現代っ子ならあっさり売るかもしれない。) 与ひょうは 布に残ったつうの肌身のあたたかみを抱きしめながら生きていくだろう。 と同時に かれはすでに(ヨーロッパ流にいえば)罪の毒杯をあおいだのであり 商品経済のなかに生きていくだろう。・・・ (『市民社会と社会主義』) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち与ひょうにとってこのように思い描かれた《つう》の像は どうなるか? 平田はここで 《与ひょうが罪を背負い 商品経済のなかに生きていくであろうときその出発の一過程に つうの残した布を抱きしめる事実》を 思い描いていると言っていいでしょう。 これも けっきょく夕日信仰と同じ構図なのではないか。夕日信仰はあまりにも後ろ向きですが――つまり死を介して前向きになるようですが―― マルクシストは言わば夕日を背に受けて資本主義社会の中に歩み出て行くといったところでしょうか。つうが守護霊? 精神分析は 夕日などはない。ただ病理があるのみだと言っているのでしょうか。そうではないでしょうか。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
ん?知らんうちにおもしろくっていうか・・・ 迷路みたくなってますねえ。スリリング。 つか、散らかってますねえ。いろいろ。 質問とはあんまり関係ない心理学の話とか。 はい......(・・? はい.......(・・? ......はい....。 さいころさんのご馳走を見てついヨダレが。 ごちそうさまでございます。(^_^;) あ、ぶらじゅろーぬさん。こんにちわ。宙ぶらりんです。 ちょっと余計なことから話します。 宙ぶらりんは数十年に渡って「病態」ですが、 病態のことは医学屋と脳科学屋の世話になります。 わたしは、どうしてこうなってるかぢゃなくて、 今とこれからどうするかを考えていますから。 どこかで心理学は嫌いだとつぶやいたんですが、 これは使い方を間違わなければ「良薬(副作用付き)」 になることもあるかもしれませんが、 憶測したり裁いたり決めたりハメたりするところが嫌いで。 「【納得】していること」が「幸福」なのではないか。 ↑これ、はこぶるさんの命題ですが、 これは「たこつぼ」そのものだと思いますし、 (わたしはこれからも、納得できないままでも、 納得できぬと声を出しながら生きてると思います。) もし【納得】の方角が間違っていて間違いっ放しだと それこそ誤ビョーキであって、困るんです。 ごめんねはこぶるさん。(へっちゃらだろ?) 少し前に国語カテゴリー!でこんな回答があって、 http://okwave.jp/qa/q6289105.html 1番さまと2番さまにムカついたわたしは、 (統合失調症?パニック症候群?正しい日本語?) 即行で3番の恥ずかしい回答を書いた後、 1番さまと2番さまを通報しました(削除されず)。 このような使われ方をするのには眩暈と吐き気が。 ごめんねはこぶるさん。 余計な話が長くなってすみません。 あ、それから白状すると 民話とこの作品をごっちゃにしちまっててすみません。 19番の補足欄で初めてちゃんと読みました。 以下、感想など。 >2.(与ひょう):そんでもよ 布を織るたびにつうがぐんと痩せるでよ。(p.41) :与ひょうはつうを愛していますね(関心を持っていますね)。 >4.(つう):かう? 《かう》ってなに? いいもんってなに? あたしのほかに何がほしいの? (p.51) :「あたしだけを見てて」と「惚」を「ぶっつけて」ますね。 これは「求めている」状態(欲?)なんぢゃないかなあ。 あと、すみません吹きました。つうのすっとぼけっぷりに。 (それまでお互いを知ろうとしなかったのか?) >5.(つう)〔与ひょうがおカネの話をし出すとこう言う〕:分からない。あんたのいうことが :わからんなら説明してもらえばいいじゃん。 「>ああ どうしよう。どうしよう。(p.53)」とか言って ひとりで困ってなくてもいいんぢゃないの? >6.あたしはただ美しい布を見てもらいたくて :これも「求めてる(欲)」。 >ただそれだけのために身を細らせて織って【あげた】のに :ここで「求めてる」ことを忘れて「与えてる」と強調。 >ほかにあんたをひきとめる手だてはなくなってしまった。 :どうやら他の方法は開発しなかったみたいですね。 >7.いつかあたしを矢で射たような あの恐ろしい人たちとおんなじ(p44) :うん?44ページで「自分はあのとき助けられた鶴だ」と 与ひょうは知ってるの?(つうの独り言なのかな?) >どうもこれは人物描写が はっきり言って へたですね。 :同意。 >クリヤさんの提示された課題は :すみませんオツム回らないから保留。 以下、22番のご返信文より。 ・言い訳・弁解・自己正当化→タコツボへ ・理由説明・事情説明→その場所に留まって事実を描写 ・交渉→外へ こんな風に大雑把に考えただけですが、 ん~設定が、窮屈だなあ・・・。 しゃべりっぱなしですが一旦消えます。
お礼
ニュウトラルさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ▼ (木下順二:夕鶴 冒頭) ~~~~ 一面の雪の中に ぽつんと一軒 小さなあばらや。家のうしろには 赤い赤い夕やけ空がいっぱいに―― 遠くからわらべ唄―― ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 趣旨説明に引用したように終わりの部分には書いてありませんが 冒頭で例の《夕やけ》が出ています。もし終わりのところでも布を握りしめた与ひょうが つうの飛んで行ったその夕やけ空に《どん底の絶望とやがての再生》を想いこころ癒され元気になるという筋だったとしたら これを批判しようという――すでに触れましたが――魂胆でした。これに触れる投稿はひとつもありませんでした。よかったってことでしょうか? かんたんなところから。 ★ ~~~~~~~~ ・言い訳・弁解・自己正当化→タコツボへ ・理由説明・事情説明→その場所に留まって事実を描写 ・交渉→外へ ~~~~~~~~~ ☆ このご指摘の先を見通せば 窓をあけ話し合いということでしょうから それは納得です。 細かいところでは 《言い訳・弁解》は 中立的な意味もあるでしょうね。首尾よく有効であったという場合もあるように思います。その中身として《理由説明・事情説明》もあるでしょうし。《交渉》は そのままのようですね。 ★ あと、すみません吹きました。つうのすっとぼけっぷりに。 / (それまでお互いを知ろうとしなかったのか?) ☆ この箇所を――最初はやってらんないと言うほどばかばかしいのですが―― 案外ことの本質を(つうの心のあり方を)浮かび上がらせているかにも思えるので引いておきます。 ▼ (木下順二:夕鶴 p.51) ~~~~~~~~~ つう:かう? 《かう》ってなに? いいもんってなに? あたしのほかに何がほしいの? いや。いや。あたしのほかにはなんにもほしがっちゃいや。おかねもいや。かうのもいや。あたしだけをかわいがってくれなきゃいや。そしてあんたとあたしとふたりだけで いつまでもいつまでも生きて行かなきゃいや。 与ひょう:うん そら つうと二人でいるのは好きだ。おらほんにつうが好きだ。 つう:そうよ。そうよ。そうよ。(与ひょうを抱きしめる)・・・だから だからいつまでもこうしていて。離れないで。あたしから離れて行ってしまわないで。 与ひょう:ばか。誰がつうと別れるもんか。ばか。ばか。ばか。 つう:・・・こうして じっとあんたに抱かれていると・・・あの頃のことを思い出すわ。・・・無心で 何も考えずに あの広い空を・・・あの頃の気もちになってくるわ。・・・これでいいの。あんたといっしょにいさえすれば それであたしはいいの。・・・いつまでもいっしょにいてね。・・・遠いところへ行ってしまわないでね。(間――急に与ひょうを突き放す)あんたは あんたはまだ都のことを考えてる。《おかね》のことを考えてる。 与ひょう:そら そらおめえ・・・。 つう:そう・・・そうなのねえ やっぱり・・・(急に激しく)いや。いや。都へ行ってはいや。あんたはそれきり帰ってこない。それきりあたしのとこへは戻ってこない。 与ひょう:おら おら戻ってくるでよ。戻ってくるでよ。都さ行って たんと金をもうけて・・・うん おら つうといっしょに都さ行くだ。 間―― ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうも つうの心の底には 与ひょうとは別れるという気持ちがちゃんとあった。のではないか。この家には留まらないのだという声をつねに聞いていたのではないだろうか。 ▼ 遠いところへ行ってしまわないでね。 ☆ というのは 自らの内心の声のことを気にして言っているのではないか。どうもそういう要素もあるかも知れないと思うようになりました。 【Q:村上春樹現象は 異常ではないでしょうか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5032985.html ☆ 趣旨説明では 作品の中身には入って行かないという姿勢でしたが 実際のやり取りではかなり長編小説に触れています。もやもや問題をあつかうかっこうです。 要するに もやもや現象を持つ人びとに対して村上は 現状のまま面白おかしくそのもやもやとつき合って行って欲しいと言っているだろう。こう推理しています。《面白おかしく》というのは そういう人びとは――そして村上の読者は おおむね――真面目な人たちであるという前提があるようです。どう面白くかは かれは自分の作品を読んでくれとも言っているのではないでしょうか。しばしハルキワールドを楽しんでくれ。そのあと仕事に向かってくれと。 さいころさんの言説に通じておられますか?
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#30です。 どうも表現下手でうまく伝わっていないように思います。 色々ありますが、水かけ論になりそうなので、要点を絞ってもう一度だけお邪魔します。 > 甘えん坊であるとか 話し下手であるとかのくせ(エートス)について どうして理論の枠組みによって評定し果ては矯正しようとするのでしょう? :与ひょうは結末に満足していなかったはずで(異論はないと思いますが)、ここに焦点を当てて考えるとわかりやすいかもしれません。 「どうすればハッピーエンドを迎えられただろうか」と本人から助言を求められたとしてどうするか、ということです。 「話下手云々」がなぜここで出てくるのかわかりませんが、これは論点とは異質の事柄でしょうから、これに関しては除外するとして、 矯正というマイナスイメージの語を使用されたようで、助言と言い換えるのが妥当だろうと思いますが、評定や助言をするのは自然の流れでしょう。無視するのでなければ。 与ひょうに、あるいはつうに対しても、助言を求めていないのに助言する必要はないわけですが、それをしようとしている、とおっしゃっているので話が平行線を辿るのだろうと思います。 > もしわたしがその方程式その物指しにぴったり当てはまる心の《錯綜》を持っているとしましょう。 それでいて 《わたし》は自立しているのではないでしょうか? 理論方程式の中身を超えてわたしの存在は 存在しているということではないでしょうか? つまりこれが人間の普遍ではないですか? :別に否定するつもりも全くありませんが、それは個別の問題であって、ここでそれを持ち出しても仕方ありません。 であれば、与ひょうにしてもつうにしても、その一言で終わるのではありませんか? つまり、ご質問なさったのは何のためだったのだろうか、ということになるのではないでしょうか。 あと一点だけ。 > * ★ 警察がいなくなっても泥棒はいなくなりません。 ☆ 果たしてそうでしょうか? 子どもが面白半分に・そして大人が生活苦ゆえに畑から野菜や果物をちょろまかすのは 《警察が取り締まるべき泥棒》ではありません。 :ここでも見解の相違が明白になっているようですが、 『なぜちょろまかすのか』ということが焦点になるべきでしょう。 警察がいなくてもちょろまかすことは明白で、精神分析があるから病理が発生しているという極論に対する、わかりやすい反論例としてあげたまでです。 《取り締まるべき》などとは言っていません。 いや、なかなかいい頭の体操をさせていただきありがとうございました。 また、歓談させていただける機会を楽しみにしております。
お礼
ハコブルさん ご回答をありがとうございます。 このわたしが文体を変えて穏当な表現を用いるようになるとかえって 心にひねくれが生じ含みを持ち始めたかと思われるおそれがあります。はじめから穏健主義でいればよかったのですが いまは・そして今回も あらくれ文体でご免こうむります。 簡単なところから。 ★ 警察がいなくてもちょろまかすことは明白で ☆ むろんですがそれは 警察がいても その言ってみれば村の共同体においては ちょろまかすことを必要に応じてはつねなる慣わしとしているという意味です。 精神分析(≒警察)があると 病理(≒泥棒)でもないものも 病理と見なされるという意味です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 〔《人間の普遍》についてそのとおり〕であれば、与ひょうにしてもつうにしても、その一言で終わるのではありませんか? つまり、ご質問なさったのは何のためだったのだろうか、ということになるのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ これは微妙な表現にかかわってしまいました。つまりわたしの舌足らずでした。 こう書いています。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~ もしわたしがその方程式その物指しにぴったり当てはまる心の《錯綜》を持っているとしましょう。 それでいて 《わたし》は自立しているのではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 一方で《錯綜を持っている》 他方で(もしくは存在の全体として)《わたしは自立している》――これら両面を含んだ《人間の普遍》です。《自立》だけのほうをも《普遍》と言いますが 現実の存在は 錯綜をかかえつつそれから自由な自己表現をおしすすめていくと言っています。 これを先行する大前提としていなければ 学問にまでは達しないのではないかといううたがいです。 実際の錯綜の迷いに対して《錯綜》という理論の物指しを当てることを いぢわるく《矯正》と言ったのは いま上に触れましたように 全体としての人間 これにも理論装置としての枠組みを当てはめているのではないかという疑いからです。 つまり 人間の普遍(広義にも狭義にも)に対してさえ《エディプス錯綜》の枠をはめようとしているのではありませんかという問いです。 与ひょうやつうが助言を求めているか否かとは別のところに論点はあります。 水かけ論であるとは思えないのですけれど。 たぶん 弁明の余地があるとすると 正統の精神分析には そういう《行き過ぎた枠はめ》はないという答えくらいではないでしょうか。 もしそれなら 《人間の普遍》を先行する大前提として共有すると言っていただかなくてはなりません。
- littlekiss
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こんにちは、bragelonneさん。 鬼の撹乱です。 いやちがった、月末から月初めにかけてダウンしてました。(風邪) 寝ながら、国庫余裕金…繰替え…なんじゃらかんじゃらetc 思いめぐらしてたら 熱が出た!! 全快とまでは、まだですがぼちぼちいきます。 ほでは、「は・じ・め・の・だー・いっ・ぽ」 間―― 惣ど: (誰に言うとなく) ところで のう 二枚織れたちゅうは ありがたいこってねえけ。 (与ひょうの手にある布を取ろうとするが 与ひょうは無意識の うちに離さない) 二枚織れたちゅうは―――――――――ありがたいこってねえけ。 ↑ くさいです 二枚織れたちゅうのが ここにあたりをつけて――――――――あたってみました 「片身替り」 http://www.kimonojp.com/2008/02/post_442.html 片身替りとは、きものの模様配置の一種で、背縫いを中心に左右で別の地色や、 別の模様の生地で仕立てたもののことをいいます。桃山時代から江戸時代初期に流行し、 能装束(のうしょうぞく)にも用いられています。 風神雷人あらわるあらわる 与ひょうは百姓、風神雷人といえば、農業神 かたみといえば…形見分け 形見をみればなぜかしら人は在りし日の誰かを思い出す… 秋日狂乱 僕にはもはや何もないのだ 僕は空手空拳だ おまけにそれを嘆きもしない 僕はいよいよの無一物だ それにしても今日は好いお天気で さつきから沢山の飛行機が飛んでゐる ――欧羅巴(ヨーロッパ)は戦争を起すのか起さないのか 誰がそんなこと分るものか 今日はほんとに好いお天気で 空の青も涙にうるんでゐる ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて 子供等は先刻(せんこく)昇天した もはや地上には日向ぼつこをしてゐる 月給取の妻君とデーデー屋さん以外にゐない デーデー屋さんの叩く鼓の音が 明るい廃墟を唯独りで讃美し廻つてゐる あゝ、誰か来て僕を助けて呉れ ヂオゲネスの頃には小鳥くらゐ啼いたらうが けふびは雀も啼いてはをらぬ 地上に落ちた物影でさへ、はや余りに淡い! ――さるにても田舎のお嬢さんは何処(どこ)に去(い)つたか その紫の押花(おしばな)はもうにじまないのか 草の上には陽は照らぬのか 昇天の幻想だにもはやないのか? 僕は何を云つてゐるのか 如何(いか)なる錯乱に掠(かす)められてゐるのか 蝶々はどつちへとんでいつたか 今は春でなくて、秋であつたか ではあゝ、濃いシロップでも飲まう 冷たくして、太いストローで飲まう とろとろと、脇見もしないで飲まう 何にも、何にも、求めまい!…… 【QNo.4077221自然法は もう人気がないのでしょうか】 http://okwave.jp/qa/q4077221.html
お礼
りとるきすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。(へへっ。かしこまると調子がおかしい)。 ★ ~~~~~~~~~~~ 二枚織れたちゅうは―――――――――ありがたいこってねえけ。 ↑ くさいです ~~~~~~~~~~~~~ ☆ その二枚の謂われは 次のごとくです。 ▼ (木下順二:夕鶴) ~~~~~~~~~ 与ひょう:あん?・・・おお 布が織れたか? おお おお おお・・・ つう:・・・(与ひょうの喜ぶさまをじっと見ている) 与ひょう:ううん こら立派だ。こら美しい。おお 二枚ある。二枚も あるでねえけ。 つう:そう。二枚。だから今までかかったの。 ・・・(* 与ひょうは都へ売りに行くことを言い そしてつうは 与ひょうが姿を覗いて見たことをなじる)・・・ 与ひょう:何だ? 何で泣くだ? つう:あたしはいつまでもいつまでもあんたといっしょにいたかったのよ。 ・・・その二枚のうち一枚だけは あんた 大切に取っておいてね。 そのつもりで 心を籠めて織ったんだから。 与ひょう:ふうん ほんとにこら 立派に織れた。 つう:(与ひょうの肩をしっかりとつかんで)ね 大切に取っておくのよ。 大事に大事に持っていてよ。 ・・・ (pp.62-63) ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ゆえに ★ 形見をみればなぜかしら人は在りし日の誰かを思い出す… ☆ だとか。 ★★ 勉強しに帰ったのかもしれません。 ☆ は ないようだと。 そうだと そういう意味で かなしいことになりますね。別れくらいなら まだ何とかなりますが 話を永久に絶ったということのようです。ふるい人がほろんで あたらしい人を着ることはできますか? 数年前 葛湯が風邪に効いた。いまも市販の便利なものを飲んでいるけれど あまり効かなくなったような。とにかくあったかくしてるんだって。
前回の書き込みで質問者の方が何を求めていたかがわかり、コミュニケーションして私は大変よかったという気になりました。批判もしましたが、私も誤字脱字をかなりやったものをよく読んでくださったなと思います。オイディプス王のカタカナを間違ったのは痛かったなと思いますが。 ご承知のように、最初の回答の際に私は、ブラック・ユーモアとして夕鶴を読み換えたのです。つうを故意に、搾取を愛されていると勘違いして踊らされた女性とみなしたのです。 どこの時代にもありうる話で、ホストに貢いでいるのに、愛されていると勘違いしている女性などもボヴァリズムの例でしょう(ボヴァリズムとはフロベールの『ボヴァリー夫人』のヒロインにちなんだ名称で、現実では得られない幸福を空想で補いつつ、現実を受け入れられずに身を破滅させる心理状態を示す語です)。 織物を追ってくれという要求を求愛表現だと思って苦悩するつうがボヴァリズムだとみなすと、暗澹とした笑いが起こるのです。ただ、それは「本当は怖いグリム童話」を読んで、子供の頃に読んだ物語を凌辱しているような笑いに過ぎないのです。面白いという人もいれば、いや、バカバカしいという人もいるでしょう。文学的繊細さの問題では無いです。 裏付けれが必要だといわれると精神分析的にできないでもないですが、結局、結論自体、お気に召さないとわかっているなら、特に強弁するほどのものでは無かったのです。 精神分析の話で難儀してらっしゃるようですね。主観的な話を抜けるのが大変そうだなと見えたので、助け船のつもりで、一応、少し書いておきましょう。 フロイトが病理だと言い出す前までは、ヒステリーも憂鬱症も、病理とはみなされていなかったのです。フーコーによればヒステリーはデルフォイの巫女的な神懸かりだとみなされており(『狂気の歴史』)、憂鬱症はメランコリーというアリストテレス的にも時間を潰してあれこれ考えに耽る洗練された思考様式だったのです(rf., Jacques Rancière, L’inconscient esthétique )。フロイト以降、ものの見方が変わってしまったのです。 フーコーは有名なので、もうご存じかもしれませんね。そこでランシエールの方をレジュメしますが、フロイトの分析の材料は文学作品に比重が大きく偏っています。彼は要するに、元々は芸術的な感慨を与えるべく書かれたものを、病理と読み換えたということなのです。そうすると文学的じゃなくなるじゃないか?!という批判は出て当然だし、フロイトは別段文学者では無いから、彼もわかって故意にやったのでしょう。一介の個人としてはそれも許される解釈だと思います。ただあまりにも大きく、フロイト以降に、ものの考え方が大きく変わってしまいました。 こうしたエピステーメーの転換をわかって文学読解をしないとならないという話は、精神分析系の文学研究者からも出てはいるのです(ex., Jean Starobinski, La mélancolie au miroir)。質問者の方は精神分析的アプローチに距離を置いてらっしゃいますが、それも文学に接する態度として、一つの表明の仕方だと、私は思います。 というわけで、質問者の方が幸福を祈るように読めた方がいいということなら、それが一番だと思います。というか、それならば、最初からそう設問してくだされば、その話に寄せて書いたのですが。要するにこの質問箱は質問者のためにあるわけですから。先に好みを誘導して言ってくれないと、的を外した答えになります。 アニメでと書きましたが、照れ隠しだと思ってください。オイディプス王に続きがあるかもしれぬということですが、物語の続きを民間伝承と照合して想像するというのは、なかなか面白いなと思いました。夕鶴もヴァリエーションがあるそうですね。 物語というものは、最後は読者の心の中で完成させるものだと思います。書かれただけでは書物は完成しない、多義的に読まれることで、まだ見ぬ完成形へと近づいて行くのだ-- という考え方もあるそうです。そういうわけで私個人は議論できてよかったと思うわけです。 最後に夕鶴の座談会を収録した文献をネットで見つけました。ここの質問欄で行われていることと似た話が、そのまま行われている気がしました(文学の議論を噛み合わせることは難しいものです。特に好きな作品については。私も苦言を呈しましたが、気を落とさないでくださいね)。 http://ci.nii.ac.jp/els/110006666523.pdf?id=ART0008691715&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1288995780&cp=
お礼
アレアさん あらためまして ご回答をありがとうございます。 そうですね。おしえてもらった事柄について もうそれ以上伸びさせたりすることが出来ずにいてそれゆえ復唱もちょっと触れることもせずじまいに終わるのかも知れないのですが お応えとして ふたつありますかねぇ。 直後の回答(No.32)とのやり取りを先にしましたが そこでかなり解釈――原作に即しても解釈――としては どうもつうは最後の布織りのところで意を決していたようですね。 これはおっしゃるように《恩返しを終えて ハッと我れに還る》という型ではないかと。 ただし 作品に即すかぎり どうも愛情も強いように書いてあります。いついつまでもいっしょに暮らしたいと思うというところですね。したがってこれが 献身と愛情との取り違えによるものなのかが問われるのでしょう。 たぶんわたしに思われることとしては 愛情も芽生えて来ているのは事実ではないか。それでも 何なのでしょう 姿を見られたことを決してゆるすことの出来ない裏切りに遭ったというように思ったのでしょうか 字面で《いっしょに暮したい》というその言葉がむなしいものに響くようでもあります。 そしてなおひるがえって その裏切られを重く受け取るのは 《恩返しのみ》という初心があったからなのでしょうか。 ★ 織物を追ってくれという要求を求愛表現だと思って苦悩するつうがボヴァリズムだとみなすと、暗澹とした笑いが起こるのです。ただ、それは「本当は怖いグリム童話」を読んで、子供の頃に読んだ物語を凌辱しているような笑いに過ぎないのです。 ☆ ですからここらあたりは 献身と愛情(能動および受動 どちらもでしょうか)との取り違えから来る葛藤のようなものでしょうか。しかもそれが きっぱりと捨てられるところを見ると 何とも言い難い――苦い笑いとも ええそんなっ!というおどろきとも言い難い――感覚として受け取られるようだとも思えます。 そして確かにそういう話を子どものときに読んだり聞いたりしたと思うと おっしゃるようにこれも何とも言えない感覚におそわれるかに思われます。ただし正直に申せば ★ 子供の頃に読んだ物語を凌辱しているような笑いに過ぎないのです。 ☆ に対してわたしの場合には むしろこちらが――作者によって・もしくは作品によって――嘲られ笑われたといった感じでもあります。まっ それを今度もう一度笑ってやればよいのかも知れません。 もう一点です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ こうしたエピステーメーの転換をわかって文学読解をしないとならないという話は、精神分析系の文学研究者からも出てはいるのです(ex., Jean Starobinski, La mélancolie au miroir)。質問者の方は精神分析的アプローチに距離を置いてらっしゃいますが、それも文学に接する態度として、一つの表明の仕方だと、私は思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いくつかの事柄が煮詰まっているようです。広く取ってわたしのような読みもありうるということ それに好意的な見方も出されているということをおそわりました。 その上で・それなのに 中で少し角度を変えて ★ エピステーメーの転換〔および フーコ〕 ☆ という論点についてです。 手短に述べます。もし時代とともにエピステーメーという枠組みが変わってそれに影響はむろんされつつ その思惟・内省あるいは生産などなどの行為形式がおおよそ決まって来るというのでしたら それは 行きすぎである。こう考えます。精神分析のエディプス・コンプレックスなどの理論装置と同じように その装置や枠組みを人びとはただ為すすべもなくおおいかぶることになるのかと言えば それは違うと言わなければならないのではないでしょうか? つまりフーコのかかえる問題は 例によって関係主義はいいことであるにもかかわらず その関係の関係がつくる構造が 無主体の過程であると規定するのはいかがなものか。こう考えております。 スペースも残り少なく成りました。要は ネットワークのつながりとしての関係と同時にその結び目 これも大事なのではないか。結節点は 人間・それも《わたし》という――自己表現にかんするかぎり――主体である。表現の自由を享受しそのことに答責性を持つその限りで行為主体であると。 次の質問で簡単な問いを発しています。 【Q:フーコーは 人間は権力人だと見たのですか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4877805.html ☆ その後フーコも 《 cura sui 》という行動方針を明らかにしているとはおそわりました。《わたしがわたしである》という文体の動態。
補足
アレアさん ご回答をありがとうございます。 ★ 夕鶴の座談会を収録した文献 ☆ がクリックすると わたしのPCではエラーと出ます。 cookie がどうだとかの指示が出ます。これが分からずに 別様に検索をしました。そのサイトの初めのページも出ますし そこに納められている個々の資料も出ます。個人の論文が二件あるようです。しかもこれらも所蔵図書館が分かるまでに終わり 本文は探し得ませんでした。そして座談会ふうのサイトは ついぞ見つかりませんでした。 申し訳ありませんが このことを報告しておきます。 ★ ここの質問欄で行われていることと似た話が、そのまま行われている気がしました ☆ これは気になるご発言です。文学にとって事件の一回性の問題と並んで一人のひとの固有の歴史――したがって個性だとか独自性だとかが言われる つまりそもそも存在の掛け替えの無さ――にかかわる・つまり抵触するかに思われる このことにも ひとこと触れておきたいと思います。 《苦言》も批判もまったくかまいませんが ことはわたしだけではなく ほかのみなさんにも及ぶ問題ですので その文献を読まない段階でですが つつしんでお伝え申します。 お礼は お礼欄にて。
お礼
おもしろい。ですね。 その答えじたいは つまりつうが去ったのは 永遠にと見せかけて じつはそうではなく ★ 勉強しに帰ったのかもしれません。 ☆ という答え自体は あたかもハコブル説(≒賽は投げられたさん説)とわたくしブラジュロンヌ説との中間と言いますか ――あっ リトルキスさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。―― 足して二で割ったと言いますか そういう安易なと一見見られてしまうことで一つの損をするとすれば けっきょく三方一両損といった大岡裁きにも似たところがあって ただしそういう格好だけで その答え自体は ある あるのですが 問題は 人生をこれからもつづいて行くものと見ている ところにあるようだと思ったので おもしろいと受け取りました。 人生は 過程である。動態である。そして 相手のあることである。いいぢゃないですか。と思いました。そういうもんだいですよね 文学とは。そしてそういう扱い方を 文学に対して哲学はするのだと。 けど 刑法・商法・労働法とはなんですか? 法律はいま関係ないっしょ? ったく とぼけたお人ぢゃわい。 * あぁ つうの仕事ぶりが 労働基準法違反ってことですか。なぁっとく。ごめん。m(_ _)m