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夕鶴つうは なぜ夫の与ひょうを去ったか
夕鶴つうは なぜ夫の与ひょうを去ったか ▲(ヰキぺ:夕鶴) ~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E9%B6%B4 与ひょうは、ある日罠にかかって苦しんでいた一羽の鶴を助けた。 後日、与ひょうの家を「女房にしてくれ」と一人の女性つうが訪ねてくる。夫婦として暮らし始めたある日、つうは「織っている間は部屋を覗かないでほしい」と約束をして、素敵な織物を与ひょうに作って見せる。 つうが織った布は、「鶴の千羽織」と呼ばれ、知り合いの運ずを介し高値で売られ、与ひょうにもお金が入ってくる。その噂を聞きつけた惣どが運ずと共に与ひょうをけしかけ、つうに何枚も布を織らせる。 約束を破り惣どと運ず、更には与ひょうは、織っている姿を見てしまう。そこにあったのは、自らの羽を抜いては生地に織り込んでいく、文字通り"我が身を削って"織物をしている与ひょうが助けた鶴の姿だった。正体を見られたつうは、与ひょうの元を去り、傷ついた姿で空に帰っていくのだった。 ▼ (木下順二:夕鶴の大団円) ~~~~~~~~~~~ しんとした間―― 子供の一人:(突然空を指す)あ 鶴だ 鶴だ 鶴が飛んでいる。 惣ど: や 鶴・・・ 運ず: おお・・・ 子供たち: 鶴だ 鶴だ 鶴が飛んでる。 (繰り返しつつ 鶴を追って駆けて去る) 運ず: おい与ひょう 見や 鶴だ・・・ 惣ど: よたよたと飛んで行きよる・・・ 間―― 惣ど: (誰に言うとなく) ところで のう 二枚織れたちゅうは ありがたいこってねえけ。 (与ひょうの手にある布を取ろうとするが 与ひょうは無意識の うちに離さない) 運ず: (与ひょうを抱えたまま一心に眼で鶴を追っているが)ああ ・・・だんだんと小さくなって行くわ・・・ 与ひょう: つう・・・つう・・・(鶴を追うように 一・二歩ふら ふらと。――布をしっかりと掴んだまま立ちつくす) 惣どもそれに引きこまれるように 三人の眼が遠い空の一点に集まる。 微かに流れてくるわらべ唄―― ――幕―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 答えとして: 1. 見るなという約束を破ったので 信頼し得なくなった。 2. おカネに目がくらんでしまったから もとの与ひょうでなくなった。 3. いや 去っていない。去ったというのは 身を犠牲にして死んだという意味だ。つまり最後まで夫に尽くした。 4. いやいややはり去った。ともかくきらいになったのだ。 5. いやいや じつはこうだ。・・・ 5-1. 初めの《恩返し》という動機を――それはそれでとうといのだが―― 結婚ということに結びつけるのには無理がある。 5-2. いやいや与ひょうへの愛は それとは別に芽生えたのだ。だから結婚は成立している。つまりそういう問題ではなく・・・(あなたのお考え)・・・ * ちなみに鳥には換羽期(とやごもり)があって羽根は年に数回生え換わるのだそうですね。だとしたらその抜け落ちた羽根を使えばよいとも考えられるので 必ずしも《身を削って》というほどでもないかも知れません。という見方もあるようです。 もっとも基本的には 人間のこととして捉えて考えて欲しいとは思います。 もしつうが去って行ったのなら それは一般的な見方から行けば おとなげないとわたしには思われますが さてどうでしょう。
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おはようございます、bragelonneさん。 ● もしつうが去って行ったのなら それは一般的な見方から行けば おとなげないとわたしには思われますが さてどうでしょう。 ↑ 勉強しに帰ったのかもしれません。 『また出た!また出る!1問1答・大卒公務員の過去問刑法・商法・労働法』 http://books.google.co.jp/books?id=GWupUFBfyxYC&printsec=frontcover&dq=%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%87%BA%E3%81%9F!%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%87%BA%E3%82%8B!1%E5%95%8F1%E7%AD%94%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%8D%92%E5%85%AC%E5%8B%99%E5%93%A1%E3%81%AE%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%95%8F%E5%88%91%E6%B3%95%E3%83%BB%E5%95%86%E6%B3%95%E3%83%BB%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%B3%95&hl=ja&ei=qxnTTNeaB4XGvQP2woXBDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCkQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false
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- hakobulu
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#27、28です。 なかなか難しい問題ですね。 きりが無さそうですが補足がてらに。 まず#27についてです。 >まだまだ これまでの議論は・つまりわたしの受け取り方は大雑把でしたか。 :いえいえ、というより私の表現不足です。 > 要するに 去った時点において つうはまだおとなに成ったとは言えない状態なのですね。 そうして与ひょうにしても まだ決して目覚めてはいない。こういうご見解ですね。 :おっしゃるとおりです。 ただ、それが悲話を形成する上での彼らの役割だということでしょう。 >つまり それは観念の偶像になりやすい。果てはあたかも《恩返しをすること》が 《わたし》の神になってしまうという事態です。 つまりそれが――もし起こるとしたら―― 超自我性の過剰な発揮となる。という事態です。超自我を言わないときにも 観念の偶像への崇拝は起こり得ますが あらたに精神分析という視点が加わったという事態であり そういう新たな演出ということかと考えられます。 :これもおっしゃるとおりですが、論理展開の仕方が、私にしてみれば全く逆です。 つまり、「>新たに加わった」わけではありません。 元々あるものを分析すればそうなる、ということです。 それが何の役に立つのだ、と指摘されそうですが、 つうが、一番最初に、「恩返しのために与ひょうと一緒になろうかな」と考えた時点で、このことに気づいていれば、悲話は誕生しなかっただろう、ということです。 >存在あるいは人格の全体としての《わたし》からすでに離れて :とおっしゃいますが、《わたし》を把握することは不可能なのではないでしょうか。 それをいくらかでも可能に近づけるための3層構造と考えます。 > 理論体系化ごっこは むろん人間が・つまり《わたし》が始めるのですが もはや主役は その三つの分身のほうであるようなのです。 :「理論体系化」が悪者という前提に立っておられるので、当然、そのような結論になるでしょうね。 しかし、理論体系化せずとも《わたし》が理解、納得できるのであれば、それはどういった方法なのか。 それは3層構造よりも優れた、つまりわかりやすい理論であるのか。 といった問題にすぎないのではないでしょうか。 >三つの分身は それぞれしっぽであるとわきまえていなければ話になりません。 :これはわかりやすい例ですね。 ただ、「犬の《わたし》」自身、「犬の《わたし》」とは一体何者なのだろう、という疑問が湧くことがあるはずです。 そういう疑問の湧かない「犬の《わたし》」にとっては、「三つの分身」という概念すら必要ありません。 また、そういう疑問が湧いた「犬の《わたし》」にしても、『三つの分身は それぞれしっぽであるとわきまえて』さえいれば、「三つの分身」という思考法は有効である、ということになるのではないでしょうか。 むろん、有効ではないという考えがあってもいいわけですが、なぜ有効でないのか、という点に関する根拠が薄弱なように感じる、ということです。 >☆ このオイディプス構造そのものが 理論ごっこの産物なのでは? :これは、「オイディプス構造」を理論ごっこと決め付けていればこその視点になるでしょう。 理論ごっこではなく、幼児が親を慕うさま、と同時に親を乗り越えようとするさま、一見矛盾したその心象があることは事実なわけですから、あとは、それをどのようにわかりやすく説明するか、というだけに過ぎません。 その一端として、「オイディプス構造」があるわけでしょう。 分裂させる、とすれば、それは捉えかたの問題であって、客観的論理性には乏しく私には感じられます。 #28に関しては次の3点について。 > ★ 精神が安定していないこと ☆ はどうでもよいという見方です。話し合いをともかくすすめること それだけでよいという意味です。 :よくわかるのですが、「どうでもよくない」と考える人に、これを言っても意味がないでしょう。 さらに言うならば「どうでもよい」と思えるようになるためにはどうしたら良いか、ということが論点になるでしょう。 >つまり病理がそこここにあってもらわねば 自分の生活が困るという人びとの言い分です。 :これは飛躍です。 警察がいなくなっても泥棒はいなくなりません。 > 窓をあける。これだけで健康な社会はあゆみを始めると思います。 :窓を開けることができない場合が問題になっているのではないでしょうか。 どうしたら窓を開けられるようになるか。 宗教でもない限り、自己納得しかないでしょう。 そのためにはどうするか、ということだと思うんですけどね。 まあ、今回のご質問に関連してはこのぐらいでしょうか。 大分、広がってきました。 とりあえず今回はこのあたりで、ということで。
お礼
ご回答をありがとうございます。 直接の議論を控えて エディプス・コンプレックスが わたしから見れば理論ごっこであるというお話です。 オイディプスは 子どものときに父母のもとを去り その後けっきょく実の母をそうと知らずに娶った。ゆえに 母を慕う気持ちが無意識のうちにでも男にはある。 父親との関係を端折って これだけの要素を取り上げて考えてみましょう。 誤解を生むことを承知で話のほうをも端折ります。 与ひょうは この俗にマザコンとも呼ばれる《錯綜》――あるいは行為の時間的な決着の未達成による時系列のズレ――が三層構造にはたらいて つうに愛情を持ったと仮定しましょう。 つうは歳から言って与ひょうの実の母ではあり得ませんが仮りにじつはそうであったということでもよいというほどに 母に似た女であった。ゆえに愛着もおぼえ愛情をいだいた。 このことのどこに問題を見るか。 近親婚の禁止を近親相姦の禁止にまで広げて考えてそれを問題にすることは たぶん精神分析の意図にはないでしょう。 そのマザコンは 与ひょうの《だらしなさ》に直結しているという問題でしょうか。 もしそうだとしたら 男が母に似た女に愛着をおぼえ自立できないという結果を露呈しているのは 一般にエディプス・コンプレックスの為せるわざだという見立てになりましょうか? おそらくここですでに 理論ごっこで得た方程式をプロクルーステスのベッドのごとくに人間の《くせ》というものに自分の物指しを当てようとしていると言ってよいと思いますが もし仮りにすべてそうであったとしたら どうなのでしょうか? 病理がその昔の昔から 気づいていたかどうかを別として 人間にはつきものであったし 依然としてそうであるという結論になるでしょうか? ひょっとすると もしそうだとすると たとえばこのエディプス・コンプレックスに罹らない男は 人間ではないという話になるのではありませんか? そういう学問としての結論的命題であるのでしょうか? もしわたしがその方程式その物指しにぴったり当てはまる心の《錯綜》を持っているとしましょう。 それでいて 《わたし》は自立しているのではないでしょうか? 理論方程式の中身を超えてわたしの存在は 存在しているということではないでしょうか? つまりこれが人間の普遍ではないですか? 甘えん坊であるとか 話し下手であるとかのくせ(エートス)について どうして理論の枠組みによって評定し果ては矯正しようとするのでしょう? 《精神の安定を求める》とすれば エディプス・コンプレックスから自由に生きる道を問い求めてもいるわけですよね 精神分析は? ならはっきり言ってわたしの理論が先行していると見なければならないのではありませんか? 先行するものを後行させるのは 学問ではありません。勝手な宇宙遊泳とその理論ごっこという成果です。 ここまで《口汚くののしって》いますので まとめやお礼の言葉はつつしむことにします。 * ★ 警察がいなくなっても泥棒はいなくなりません。 ☆ 果たしてそうでしょうか? 子どもが面白半分に・そして大人が生活苦ゆえに畑から野菜や果物をちょろまかすのは 《警察が取り締まるべき泥棒》ではありません。人間的自立と――その相互協力としての――社会的共生の問題が先に来ます。そのあとに警察です。 けれども精神分析という(あるいは《無意識》という)警察関係が立ち上げられなければ わたしたちは もやもや症状の慢性化を知らなかった。つまり精神分析の言葉から自由になれば もやもや症状は消えてゆく。もしくは自立の中におさめられる。村上春樹は――その作品世界は―― この精神分析〔があるがゆえの〕病の典型だと考えます。 《アース役はつらいよ》の人びとの悩みを 精神分析はその理論の枠組みの中に寝かしつけてじつは慢性化させようとしている。こういう見立てです。
私の説は面白ければよいという範囲なので、特に戦ったり、整理されたりする必要が無いのです。それに引用もないので、議論の基盤もないのです。同意できなければ、それでよいという程度の書き方です。ある程度の尊重は求めるとしても。 ただ質問者の方が、設問の際に何を考えていたのかは気になりました。ある程度、目論見はあったのでしょう。その方が私にとっては気になることです。失礼ながら、もしかしたら次のようなことを考えていたのではありませんか。 (1)木下順二の夕鶴のラストが単純な別離だと考えると単純すぎて、面白くない(つうが大人げない)。すると何か裏があるはずだ。 (2)考えてもみれば、夕鶴の話は、神話に似ている。ギリシア神話ではどうなったかを思い返してみよう。たとえば牧神パーンが水の精霊シュリンクスを追って得られなかった時は、葦の笛が手元に残ったのだった。 (3)となれば、夕鶴においても、千羽鶴の織物が残っているではないか。夕鶴を神話になぞらえるとするなら、つうは織物に姿を変えたと考えることができないか(去っていない)。 この解釈、当初の設問に書いてあるシェーマに沿うと5になるでしょうか。 (2)で木下順二が鶴の恩返しという伝承を悲劇になぞらえようとしたということが十全に示せれば(前のコメントに書いたように民間伝承と戯曲の差異を検証するという手続きが一案ですが)、この説も説得力があるかもしれません。今の段階だと何とも言えませんが。 そして(3)のところですが、つうが身を削ったという以上は、織物はつうの身体の一部でしょう。シュリンクスの話と違うところは、どうやら女は織物だけになったのではなく、鶴にもなったということで、身体が分離したとみなせることです。 これを以下のように想像もできるかもしれません。鶴の羽は彼女が人間として姿を保つための重要なアイテムだったが、それを織物という形で自ら投げ打つことで、もはや人間としての姿を保てない領域まで接近してしまったのだ、と。 ではその羽はどういうメタファーだったかという解釈をせねばなりませんが、ここには二重性があると言えます。織物はつうにとっては助けてもらった喜びが生んだ真心ではあったのでしょう。しかしそれが織物となってしまうと、人間社会でおかねへと換金できる商品になってしまいます(庄屋が欲しがっています)。この二重性が、与ひょうに自らの気持ちが伝わらなかった、つうの苦しみをうまくあらわしていると言えます。 すなわち無償の贈与を交換し合うという関係で、与ひょうとつうは結ばれていたのに、次第にそれは人間社会の貨幣交換に蝕まれていったのですから。 最後に質問者の方が気になさっている、つうが戻ってくるのか・否かという点を考えると、どうなのでしょうね。鶴を見つけ出して、魔法の変身アイテムである織物を返せばつうは女に戻るんでしょうか。それに返却すれば、無償でお互いを思いやる気持ちは復活するわけですから、修復する可能性はあると言えます(つうもそれを期待して織物を残していったし、与ひょうも織物を売らなかった?)。これがアニメで続きを書くのだとすれば、そういう手も無きにしも非ずかもしれません。 こういう空想は、物語の一回性という悲劇的な側面を緩和してしまう気はするのです。ただギリシア悲劇のような強烈な「取り返しのつかない」という気持ちは日本人には馴染まないと木下順二が思ったのかどうか。空想の余地も残されてはいるでしょう。大体、夕鶴だと人が死にませんものね。完全に悲劇にするなら、ラストでどちらかを死なせた方が効果的ではあったのでしょう。 夕鶴における悲しみは、オイディウス王のように目を抉って自傷する狂った悲しみではなく、ぎゅっと手を握る悲しさに留まるというところが、日本人のメンタリティをよくあらわしているような気もします。与ひょうは悔しいし、庄屋に踊らされたのも恨めしいし、という気持ちなのでしょう。オヴィディウスのように自らの宿命を呪うという究極の地点にまでは至っていない気がします。 そしてカップルは両人共に生きているのだから、もし鶴を見つけ出して、再び愛情を注げば元に戻るのかもしれないな、と空想することも不可能ではないという、遊びが残されているなと思えます。でもそれはテキストに書いていないことなので、あとは個人の自由な解釈というところなのですが。ただこれは文献的に議論はできないですね。 私自体はどう思うかと言われると、子供の時は戻ったらいいなという気持ちからいろいろ空想はしてみました。ただ今読むと、ボヴァリー夫人的にも献身を愛情だと勘違いしていたつうという姿の方が、再解釈する際に新しさを感じるというだけのことなのです。
お礼
アレアさん いやぁ 困った困った そんなに文学の話にすすまれると いくらぶっつけ本番と言い訳していても 知らないものは知らないのですから 困るというものです。 つまりわたしに出来ることは――おっと ご回答をありがとうございます―― たとえばオイディプス王の話は読んだことがありますので例に取りますが ★ 夕鶴における悲しみは、オイディウス王のように目を抉って自傷する狂った悲しみではなく、ぎゅっと手を握る悲しさに留まるというところが、日本人のメンタリティをよくあらわしているような気もします。 ☆ とその文面としてなるほどと思うと同時に・つまりそのような文学的解説があるのだなぁと思うと同時に――わたくしの狙いといったところは―― オイディプスはその神話において両目を潰したあと王位から降りたというその反面で そのテーバイ王の位から降りなかったという言い伝えもあると聞いています。(高津春繁の訳本解説でしたか)。そういった伝説やら解釈の多様性に注目をしたいという一面があります。 それは 社会的な交通や対話が どう成されて行くかにかかわってです。つまりあるいは個人の悲しみやさまざまな事情を超えて 話し合いがどう展開するか。といったところです。 ★ ただ今読むと、ボヴァリー夫人的にも献身を愛情だと勘違いしていたつうという姿の方が、再解釈する際に新しさを感じるというだけのことなのです。 ☆ そういう趣きと言いますか そういう趣旨で文学談義が出来ればそれに越したことはないのですが 情緒でしょうか なかなかわたしにはむつかしいようです。あるいは所謂る心理学でしょうし ひとに固有の時間(人生の過程)といったところでしょうか。 いえ 面と向かって話しているぶんには 人それぞれの独自性を捉えて話し合うわけです。そういう談義が 文学作品をとおして どうなんでしょう 苦手ですね。 ★ ボヴァリー夫人的にも献身を愛情だと勘違いしていたつうという姿 ☆ 申し訳ないです。ピンと来ないんです。あぁ いえ これまでの問い求めから言えば 愛情が初めからあった場合と 初めにはなかって途中から芽生えたというように思われる場合と そして勘違いとして愛情もあったと見る場合とですね。いままで分かったようにこう言って来ましたが この三番目の場合というのは 想像がほんとうには焦点を結びがたいですね。どうもそういう問題もあったようですね。文学的繊細さのもんだいでしょうか。 気持ちだけで話しをしてよいとしますと ★ そしてカップルは両人共に生きているのだから、もし鶴を見つけ出して、再び愛情を注げば元に戻るのかもしれないな、と空想することも不可能ではないという、遊びが残されているなと思えます。 ☆ ここがいちばんわたしのお気に入りです。対話が伸びる。それがいちばんいいと感じます。同じ趣旨でほかにも述べられています。 ★ ・・・それに返却すれば、無償でお互いを思いやる気持ちは復活するわけですから、修復する可能性はあると言えます(つうもそれを期待して織物を残していったし、与ひょうも織物を売らなかった?)。これがアニメで続きを書くのだとすれば、そういう手も無きにしも非ずかもしれません。 ☆ アニメに限定しなくともいいように思うのです。 ★ たとえば牧神パーンが水の精霊シュリンクスを追って得られなかった時は、葦の笛が手元に残ったのだった。 ☆ ここから談義を伸ばして行くというかたちを取ってもおられるわけですが なかなかしゃれた応答を考え得ずにいるわたしがいます。あぁ この場合は パーンが神々のひとりであるからでしょうか。つまり 与ひょうやつうとの類似性をどう見つけようかというときのこととして。 こうやってやり取りをつづけて来て やはり――すでに触れてもいるかと思いますが―― 見るなの禁止やらおカネの威力の問題を超えて つうもそして与ひょうも 明るく笑い飛ばしてすすんで行って欲しい。そんな思いで いまは いっぱいです。 井戸端会議と言ったことが言い訳の前触れであったわけではありませんが ちょっとそういう文面に終始してしまいました。 ★(要約) 羽根のメタファーの二重性 ☆ もそのとおりに受けとめるかたちですねぇ。 つつしみまして になります。
- hakobulu
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#27です。 > わたしの中に自我・超自我・エスをわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのです。二重人格などありえません :このへんは専門家の見解を聞きたいところですが、私見では、分裂という捉え方自体が誤っているのだと思います。 まず、「>わたしの中に自我・超自我・エスをわざわざ取り上げ取り出し」ているわけではありません。 今、私が「わたしは勤勉な労働者だ」と言う場合、こう対外的に表明しているのは「わたしの自我」です。 なぜ「わたし」ではなく、わざわざ「わたしの自我」と言うのか。 エスは「銀行強盗でもやって一気に金を手にしたい」と思い、 超自我は「いや~、それはやっぱまずいんじゃないの」と抑制を掛けます。 どれもが「わたし」です。 (自覚するしないに拘わらず)「これはわたしではない」と言えるものはありません。 むろん、日常的に、いちいち区別する必要はありません。 ただ、 「どうしても銀行強盗をやりたい」 「お金そのものが汚いものだ」 などのように「極端なわたし」が顔を覗かせる、という程度を遙かに超えて、あるいは、心底からそう思い込んでしまう場合が人にはあります。 自我がエス、あるいは超自我に乗っ取られた状態と言えますが、なんのためにこのような見方をするのかということになるのでしょう。 それは、乗っ取られるには乗っ取られるだけの理由があるからです。 「悪いことだからやめなさい」 「そこまで考えすぎる必要はない」 などという論理は通じない状況です。 そうなってしまう要因を過去に遡って探ろうとするときに、3層構造で考えるとわかりやすくなる、ということだろうと思います。 なぜわかりやすくなるといいのか、というと、納得しやすくなるからです。 納得できると、人は「縛り」を解きやすくなります。 そのための方法論のツールとしての3層、と私は捉えています。 >自己表現をとおして生きること・そして共生すること これが ひとの目的です :おっしゃるとおりと思います。 自己表現をするために安定したいという願望を持つ場合もある、ということです。 >特に分析して取り出せば 世界を認識したことがらを記憶の倉庫において 秩序立てることによって精神のまともさを保っているそのはたらき。これが初めに成っています。 :これもおっしゃるとおりだと思います。 これがおできになっている方に精神分析はおそらく無用でしょうね。 ただ、「>初めに成っている」と認識できない場合に有効になるひとつのツールたり得ると私は思います。 > フロイトはこの記憶野をわざわざさらにパーツに分けて どうしても病理状態が起こってもらわねば困るとでも言いたげに そのパーツじたいの研究をすすめたのとちがいますか? :私はフロイトに詳しいわけではないので、断定はできませんが、病理状態(最初の例はヒステリーでした)が起こり、それの治療として始まったのがこの学問と聞いています。 >互いにとって相手がいるにもかかわらず まるで相手はいないという設定をわざわざつくり 自分ひとりがこの世界に存在していてその《精神を安定させる》目的を持つのだと言おうとしています :これはたぶん違うと思います。 「相手、あるいは社会に対する認識の仕方そのもの」に「精神が安定していないために生じる不都合」が存在する場合、その「精神の不安定に至った要因」を探りつまびらかにすることによって、「自らの内なる縛り」から《わたし》を解放するための手段、と捉えることができると思います。 >永遠のジグソーパズルを始めてしまいました。まるで病理がこの世にはあってもらわねば困ると言っているようなものです。 :これも違いますね、たぶんですが。 人が動物から進化した際に、すでに病理の種は撒かれていたと思います。 不安定という種です。ですが、不安定とは希望であり、可能性でもあるでしょう。 ですから、個人的には病理という表現は適さないと思っているのですが、いずれにせよ、シグドーパズルは最初から用意されていたわけで、そのワンピースに着目せざるを得ないようになっているように思います。 >精神分析がもし学問であったなら へそが茶を沸かすでしょう。 :エコですね。 精神分析と言っても多様です。 フロイトは先駆者ですから、力強いのですが荒削りです。そのまま受け取ると色々な誤解も生じやすいでしょう。 私のような素人の言を真に受ける必要はありませんが、フロイトがアインシュタインに回答する形で、精神分析は物理学としての要素を持つことを述懐したことがあります。 基本的には引力と斥力ですが、科学的と言えますし、整合する部分も多いです。 一素人としては、興味分野での言いたいことを引き出していただき感謝いたします。 ありがとうございました。
お礼
前回(No.27)に言いたい放題を言いましたので このようなわたしも気が引けます。 次のくだりについて 別様の見方もあるのではないかというお話ということにいたします。 ★ 「相手、あるいは社会に対する認識の仕方そのもの」に「精神が安定していないために生じる不都合」が存在する場合、その「精神の不安定に至った要因」を探りつまびらかにすることによって、「自らの内なる縛り」から《わたし》を解放するための手段、と捉えることができると思います。 ☆ 《相手、あるいは社会に対する認識の仕方》に もしそうだとしたら《均衡》を図る場があると考えます。そういう社会的な交通のあり方としてであり そこでの調和です。 交通(まじわり)において自己表現をするということは けっきょく相手と対話をすることです。 つまり 対話において もしそうだとしたら 均衡もしくは調和を持とうとするのだと考えます。 〔もしそうだとしないなら 均衡を求めるのではなく 相手の言おうとしていることを徹底的に知ること・理解することを求めます。言いかえると この相互の理解とその過程が すでに《わたし》たちの目的です。むろん調和や均衡がそこにも得られればよいでしょうが 問題は その相互理解の進展です。どこまでも 口けんかをもしつつ この対話を前へすすませる。これのみと言ってもいいのではないでしょうか。〕 いちばん乱暴な言い方をしてみるなら ★ 「精神が安定していないために生じる不都合」 ☆ と言いますか ★ 精神が安定していないこと ☆ はどうでもよいという見方です。話し合いをともかくすすめること それだけでよいという意味です。 ○ 《わたし》はすでに解放されています。 ☆ そうでなければ 《精神の安定を求める》ことすら出来ません。《解放された状態》があるのでなければ 未解放や精神の不安定が いったいどの程度において解放されていないかも どれだけ精神が安定していないかも 分かりません。 《解放されている状態》を知らなければ 解放をのぞむことはありません。精神が不安定だと分かることは その安定の状態を知っているからです。 どれだけ《病理の種が蒔かれていた》としても 同じです。病理からの自由をひとは――もしおのぞみなら 無意識のうちに――知っているのです。 と知ることが ★ 《わたし》を解放するための手段 ☆ なのです。そのさとりを不問に付すことこそが ★ 「自らの内なる縛り」 ☆ です。この観念こそが 病理の種だと考えます。つまり病理がそこここにあってもらわねば 自分の生活が困るという人びとの言い分です。 窓をあける。これだけで健康な社会はあゆみを始めると思います。
- hakobulu
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#23です。 >超自我の突出によってみづからの行動において無理をしてしまう その結果人びととのいきさつがあって我に還るという類型があてはまるとすれば :という点についてですが、つうとしては「我に還った」ことはおそらくないでしょう。 「恩返しという形で与ひょうと一緒になったのは失敗だったなあ。こんなに好きになるとは思わなかったし・・・。」という程度のことです、たぶん。 恩返しという形は夫婦成立にとって無効である、という本質に気づいた(=我に還った)ということは無かったように思います。 本当に気づいたのであれば、こういった不純な動機で一緒になってしまったので、一旦別れを告げさせてください。時間を置いて改めて訪れたいと思います。 てな展開も予測でき、この場合はハッピーエンドに結びつきやすくなる。 しかし、そうではなかったため、 「でも、形としては本当に好きになったのと同じことをやっているわけだし、与ひょうさえ本質に気づかなければ、それでいっか~。私の胸のうちに収めておけばたぶんオッケー」 と推移してしまった。 つまり、最初は勘違い、中頃からは嘘、という構図になるでしょうか。 この嘘さえも、二人のため、という超自我的大義名分によって許されるものだと解釈していたことでしょう。 ですから、最初から最後まで勘違いと評することも可能かもしれません。 去った理由は、つうに言わせれば、「なぜ見たのですか。私の(必要悪としての)嘘がばれてしまったじゃありませんか」となるでしょう。 やや穿った見方かもしれませんが、私としてはこれが本質だろうと思います。 もう少し素直に純粋な気持ちで解釈すれば、「献身=善」となり、畏れ多くもその献身者であるつうとの約束を破った与ひょうは、金に目がくらんだ大ばか者、ということになるのでしょうが。 前回、エディプスコンプレックスについて偶々述べることになりましたが、そのせいで、というかお陰で、どうもこの話はそれにも通じるところがあるような気がしてきました。 なんでもありかい!と突っ込まれる前に補足しておくと、与ひょうのだらしなさはある意味のマザコンの典型を示しているようにも見えます。 コンプレックスとは錯綜ですから、つまり、つうを母親と錯綜して過剰に依存した、という構図です。 無論、それを引き出したのは、つうの過剰な献身です。 与ひょうの愛をつなぎとめるための過剰な献身、それに乗っかる与ひょうとなれば、エディプスコンプレックスそのままですね。 与ひょうは、つうが去ったことでおそらく自立の道を踏み出すことでしょう。 しかし、つうの場合は、愛したはずなのになぜ報われなかったのか、というもやもやを抱えたままでの飛び去りで、本質に気づかないまま全てを失う、という結末が悲話を形成しているように思います。 純粋民話として捉えるならば、裏切りによる悲嘆、という解釈になるのでしょうが、与ひょうは結果としてその要素を体現したことは間違いないわけで、これを否定するものではありません。 ただ、裏切りという行為を誘発する結果となった要因のほうに私としては興味が湧くわけです。 > No.20のお礼欄と補足欄 :について返答させていただきます。 > ☆ この意味が取りにくいです。なんで《物自体としての意志》になるのか。 :意志自体も経験の影響を受けて変遷するものだろう、とういことを言いたかったのです。 「>取捨選択する」と言っても、その基準は基本的には変化せざるを得ず、「これが私の意志の基準だ」という【絶対的価値観】を持っているわけではないように思う、ということです。 今、皆さんの助けをお借りしながらカントを読んでいる最中なので、つい生半可に使いたくなってしまいます。自戒しましょう。いずれにせよ、 >《わたし》の自己表現 :の《わたし》を3層に分ける不必要性に関してのことでしょうから次へすすみます。 >そのわたしは 記憶のみではなく 意志そのものでもなく 存在もしくは人格の全体なのですから。 :おっしゃるとおりですが、全体の対概念としての部分的概念として3層を想定することで特に瑕疵が生じるとは思えません。この点に関しても言及されていそうですから、さらに先へすすみます。 >どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。 > すべては――無意識であろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです :特に反論点も無いのですが、「自然本性」という表現は漠然としていませんかね。 3層構造不要論の意図がまだわかりません。 (字数が尽きそうなので、次へ続けます)
お礼
ふうむ。まだまだ これまでの議論は・つまりわたしの受け取り方は大雑把でしたか。ハコブルさん ご回答をありがとうございます。 要するに 去った時点において つうはまだおとなに成ったとは言えない状態なのですね。 そうして与ひょうにしても まだ決して目覚めてはいない。こういうご見解ですね。 そうですね。こういう思考実験をしてみましょうか。これは ハコブルさんのご見解からは離れるのですが フロイト理論を応用するかたちで物語をつくった場合には これこれの不都合が生じる。のではないかという実験です。 偶像 つまり絵や彫像としてのそれではなくここでは理想やら理念やらの観念の偶像を取り上げたいと思います。さしづめ 《恩 そして 恩返し》という理念 あるいは《愛》というそれなどなどです。 三層構造に分けてしまっていると ややもするとたとえば超自我性としての理念が 三層の全体としての《わたし》から単独で分立してしまう。独立してしまう。つまり それは観念の偶像になりやすい。果てはあたかも《恩返しをすること》が 《わたし》の神になってしまうという事態です。 つまりそれが――もし起こるとしたら―― 超自我性の過剰な発揮となる。という事態です。超自我を言わないときにも 観念の偶像への崇拝は起こり得ますが あらたに精神分析という視点が加わったという事態であり そういう新たな演出ということかと考えられます。 もしこの恩返しというとうとい心づもりにしても わたしのほかの意志(したいこと)やほかの生活の部分をも犠牲にして為そうというのであれば 超自我性の突出であり 観念の偶像をわき目も振らずに追いかけるということになります。 つまりこのとき超自我性という概念がなかったなら それは単なる観念の偶像崇拝としてきわめて空想的・幻想的な観念論の世界になるかと思われます。あれば その超自我性が独立したかたちのものとして見なされますから 愛なり恩返しなりの概念や理念が それ独自の世界として追い求められて行くという寸法です。 つまりは エスがそのときには抑圧されるけれども そうであってこそ献身的な理念の実践であるとされるでしょうし あるいはいやいや自我が均衡を取ってくれるというときにも そうだとしたら こんどは 三層構造よろしく超自我性とエス性とそして自我性とのあいだで 観念の均衡理論がきわめて真面目なかたちで追究されることと思われます。 つまり 存在あるいは人格の全体としての《わたし》からすでに離れてそのあたかも外側に 観念として 恩返しという超自我性 いやいやそうではない男女の性関係としてのエス性があるのだというそれ そしていやいや現実の感覚であり知性があるのだというその自我性 つごうこれらの三つが それぞれ自立したかのごとくに――命綱をつけてかつけないでか 宇宙遊泳のごとくに―― 理論体系化ごっこを始めるという寸法です。 理論体系化ごっこは むろん人間が・つまり《わたし》が始めるのですが もはや主役は その三つの分身のほうであるようなのです。エス性あるいは無意識の領域というのは 奥が深い きわめて研究に値する領域であるなどなどと うそぶくようになるでしょう。 じっさいにそうであるなら それもいいでしょうが まづはそれらの総元締めは 《わたし》であることを知って欲しい。忘れないで欲しい。つまり忘れないなら 三つの分身の理論体系化などというのは どうでもよいとさえまづは前提として把握しているはずなのです。しっぽが犬を振りまわすこともあるかも知れませんが しっぽは犬の《わたし》に属するものです。三つの分身は それぞれしっぽであるとわきまえていなければ話になりません。 たとえばこのような思考実験で見ようとした事柄を無理にそして乱暴に 述べておられるつう論にあてはめればどうなるか。 ★ もう少し素直に純粋な気持ちで解釈すれば、「献身=善」となり、畏れ多くもその献身者であるつうとの約束を破った与ひょうは、金に目がくらんだ大ばか者、ということになるのでしょうが。 ☆ つまり ★ 「献身=善」となり、 ★ 畏れ多くもその献身者であるつう ★ (その反対概念として) 金に目がくらんだ大ばか者 ☆ などの単独分立した観念〔の偶像〕のことです。さいわいこれらについては ★ もう少し素直に純粋な気持ちで解釈すれば /〔それらの観念の偶像化〕/ということになるのでしょうが。 ☆ として自粛しておられます。 けれども次はどうでしょうか。 ★ 与ひょうの愛をつなぎとめるための過剰な献身、それに乗っかる与ひょうとなれば、エディプスコンプレックスそのままですね。 ☆ このオイディプス構造そのものが 理論ごっこの産物なのでは?
- heartmind
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例えば、もしつうが艶めかしくうら若い美しい娘以外の人物に変身したと 設定してみるると分かりやすいと思います。 例えばおばあさんや、おじいさんが「見ないでください。」と言った ところで、「はい、はい、見ませんよ」とか、又は打ち解けた中に なっていたとしたら、「アホかだれがみるか」とか冗談になるぐらいで あって、 艶めかしくうら若い美しい娘が一つ屋根の下に住んでて 「見ないでください」って言われるシュチュエーションとそうとう かけ離れてますよね。 それで本当に見ないとしたら、もう普通の健康な男の人じゃないでしょう。 美しい娘に変身したところに、このお話の味噌がある訳です。 それじゃなかったら、 「ああ、あの時のつるだったのか。いやーみずくさいなあー 工賃はずむから、もうすこしいてくれないかなあ」 「いやー、実は隣町にもこの後頼まれてて」 「じゃあ、そこの見積もりとるの任せてくれてもいいし、 材料の調達や、これからはマネージメント全般まかせてもらっていいから」 「いやー、あきんどでんなー、まあ工賃しだいってことで」 そうとうビジネスライクに話ができちゃって、まーさっぱりした、 ただのサクセスストーリーになっちゃうじゃないですか。 あのー、人生の無常感とか、人間の業とかが、全然感じられないんですけど。 だからね、そういうんじゃなくってもっと、ねちっこくって、 どろどろとしててさー。 ていう具合に、日本の文学から逸脱しちゃいます。さわやかすぎー。 例えば、これが第一次作業であっても、あんまり変わらないと思いますよ。 畑で働くか、工房を営むかって違いであって。 やっぱりそれいうなら、ビジネスには痴情は禁物、所帯持つならいいけど。 セクシー部長みたいだけど。
お礼
ハートマインドさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 なるほど。情況や対処の仕方が違って来ますね。 ということは いくつかの場合に分かれましょうか。 ――これは 賽は投げられたさんへのお応えをする前に ちょうどみなさんのご見解をきちんと全体として見渡せるようにするにはどう考えればよいかを考えているところで 先にこのハートマインドさんへのお応えをしたためていますが―― A. 独り身の男である与ひょうにとって ★ もしつうが艶めかしくうら若い美しい娘以外の人物に変身したと設定してみる〔場合〕 ・たしかに恩返しが――それが どういう内容であれ―― それとしてきちんとおこなわれて お互いにありがとうございましたと言って おしまいになるようですね。 B. 作品に沿って 若い娘としてのつうであった場合 B‐1. 報恩の気持ちと愛情とをきちんと分けて捉えている場合。 B‐1a. しかも愛情は起こさなかった場合:これは A.の場合と同じでしょうね。 B‐1b. 愛情をも持つに到ったが 恩返しのおこないとその恋の告白とはあくまで分けて振る舞った場合:これも 別々にそのストーリが展開するということになるでしょうね。つまり鶴の恩返しという筋のほうは A. の場合と同じとなり それだけの話となるようです。 ・ むろん恋の告白のほうは いかようにも筋が展開するということになるはずで ここで扱う必要もないようです。別とし得ます。 ・ 或る日ふと《女房にしてくれ》と言って訪ねてくるにしても 恩返しと結婚とを別々のこととしてわきまえて振る舞ったとしたら 同じである。 B‐2. さらにあるいは 報恩の気持ちと恋心とふたつともあって それらをごちゃまぜにして与ひょうのところに赴き向き合った場合。 ・ この場合にも こんどは恩返しの中身が ひとにとってそのわざがあれば普通に出来ることであるなら 特に問題は起こらないのではないでしょうか? ・ その仕事が身を粉にしてはたらなければならないような内容であったなら:これは 夫婦のあいだで けんかをし合ってでも 互いに相談し落ち着くところに落ち着かせればよいのではないでしょうか。 B‐3. ここで一気にハコブルさん説(≒賽は投げられたさん説)に移ってもよいでしょうか。 (1) 初めは 純然とした恩返しの気持ちである。 (2) この心づもりを恩人との間の異性どうしの愛および愛情と取り違える。 (3) 結婚という生活の形の中で恩返しを果たそうとする。 (3-1) 羽根を抜いて織物を織るというのは かなり無理をしているという要素もあるようだ。 (4) その生活を重ねるあいだにふつうに夫婦としての愛情をも持つに到る。 (5) つまりはこのように愛情もすでに芽生えているところで 初めの恩返しなる心づもりをつらぬこうとする。 (6) つうにしても やがて与ひょうにしても この別離はそれぞれにとって おとなげある決断であった。 (6-1) 賽は投げられた( iacta-alea-est )さん説は (1)の初心にまったきかたちで還った(我れに還った)という見方のようです。きっぱりとした意志に戻っているのだと。 ☆ 果てさてどうなりましょう? すなわち B‐3説は 簡単に言えばこうでしょうね。 ○(B‐3説の明らかにした問題点) ~~~~~~~~~ (あ) 報恩と愛情との取り違えからことは始まる。つまり初めには愛情は錯覚でしかない。 (い) 報恩としておこなうことは いささか無理を強いる仕事である。それでもそれを みづからの思い(つまり勘違い)としても夫の与ひょうへの伝え方としても愛情の現われとしておこなっている。 (う) 幸か不幸か 夫への愛情が うそでなくなって来ている。 (え) それでも 恩返しのことはそれをしおおそうと努める。 (お) 恩返しを果たせたと思ったときには 初心に戻った。ウソであろうとホントであろうと与ひょうとの愛情のことはもはや返り見ない。はいさようならとなる。 (か) でもそこで つうは 一人前のおとなになることが出来た。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ どなたでも添削をもお願いしておきます。 * 《見るな》いや《見る気など起こらん》の問題は 若い娘か否かの観点のほかに 愛情と報恩の取り違え および 仕事で無理をしていること の二点がからんでいるように思われます。その点 精神分析派が勢いを持つようです。
もう十分議論なさっているようなので、今更というのもどうかと思いますが、一応、最初の辺りに回答を試みたものとして、感想を述べさせていただきましょう。まず設問の仕方ですが、これには一言いっておきたいことがあります。他の方へのレスポンスを見てわかりましたが、おそらく質問者の方は、夕鶴の別離について民俗学的な見地から解釈を試みたいと考えてらっしゃるのでしょう。 しかし設問が、より広範に開かれているので、別離そのものを広義にどう解釈しうるかというテーマになってらっしゃる。従って、他の回答者の方とのやりとりを見て思いましたが、質問者の方の関心と話がうまくかみ合わないのです。設問でもう少しテーマを絞るべきであると感じられるのです。 文学ということにこだわりがおありになるようですが、文学自体は多義的に解釈できてよいものなので、どれが正解ということはないでしょう。解釈するシェーマが違うというだけのことでしょう。ここのところは意識的になった方がより議論が豊かになると思います。 ましてや「正解」を出す時には、文献学的に資料を使わないとならないはずです(アカデミズム云々のところで書いてらっしゃいましたね)。質問者は資料集をお持ちかもしれないが、素人は無いわけです。またそもそも原典のコーパスも木下順二のものが引用されているが、民話の鶴の恩返しなのか、木下順二の夕鶴を議論するのか、それも確定させていないので、設問自体、非常に大らかなのです。そうしてみると、他の回答者とのやりとりですが、何が正解か(あるいは文学として王道か)という話の仕方をなさっているのは、あまりいただけません。 私の回答は、「恩を返したとはっと気がついたので帰った」というものでしたが、文学の議論でも、精神分析的なものではあります。当初は好きだと思ったけれど、やはりそうでもなかったのじゃないかと我にかえって帰郷した――というようなものです。嫌いになったと言われればそうなのでしょう。しかし、愛情とは何だったのかを問うているわけです、 私へのレスポンスでは、質問者の方はそもそも愛情という観念をアプリオリに認めるように思えましたが、逆にそれを前提としてしまうと、誰でもわかることですから、わざわざ議論する必要がありますまい。私に言わせると、この二者択一では文学的にはならないのです(この理由は下に少し書きます)。 民俗学的に関心を深めたいという問題設定で考え直せば、まず私の意見では、筋書きを分析するにあたって、悲劇と民間伝承を区分することが、最初に必要だと思います。 というのも、悲劇の型にはめれば、理想と現実のギャップから恋人同士が別離するというのは話の筋書き上、ごく当たり前のことです。ニーチェを引くまでもありませんが、最後は別離するのが起承転結の型なのです。すると、これは型なので、なぜを問うてもあまり発展性は無いということになります。したがって、精神分析的にも「我に返った」説が面白いのではないかと思ったのです。 しかし質問者の方にはお考えがおありなのでしょう。一回性と書いていますが、むしろ夕鶴と悲劇の接点を探っているのかもしれません。 一案としては、鶴の恩返しという伝承のレヴェルの言説が、木下順二によって戯曲化された時に、どういう変更を加えられ、悲劇の型になったかという風に文献を検証してから設問するとすると有意義な気がします。 (私は調べていないのでわかりませんが)結末について、ヴァリエーションはいくつかあるかもしれません。たとえば能楽だと民間伝承が能の演目になった際に、どういう変更が加えられたかという研究があるようですね(こういう手法は参考になるでしょう)。 その上で、元々の民間伝承にそもそも悲劇との接点が元々あったのか否か、ニーチェにせよ、あるいはオヴィディウスの『変身譚』にせよ紐解くなどして議論すれば、説得的なのではないでしょうか。ご存じでしょうが、ゼウスはしばしば鳥に姿を変え、最後には去っていきますから、話の接点はあると思います。 大人げない云々は、また別の議論であって、それを言い出したら、悲劇の主人公は大体が大人げないことになります。それで精神分析的なアプローチで議論をした方がよいような気が少なくても私にはしたのです。そしておそらく「大人げないか否か」の一言があったから、登場人物の内面を分析するような回答が多く寄せられたのではないでしょうか。
お礼
賽は投げられたさんこんにちは。なるほど 前回は わたしには舌足らずと映ったからでもあるでしょうし あるいはわたしが不明ゆえにそのご回答の先のほうやらもしくは基礎のほうやらを見通したりしっかり把握したりし得なかったからでもあるでしょう 内容に対応し得るお応えをお返しできなかったと申し開きせねばならないご回答だったと思います。 ご回答をありがとうございます。 昼過ぎのしばらくのあいだ出かけていましたが その間に ハコブルさんからさらに詳しい《つう》論および《与ひょう》論をいただいています(回答No.27)。 そうしますと みなさんからのご回答を出来るものなら分類して見渡せるようにしようという試みは いましばらくハコブルさんのご見解をわたしが確認してからということになります。 そこで ヤクタ‐アレア‐エストさんのご回答そのものへのご返事をいまは したためます。 つまりハコブルさんのご見解は ヤクタさんのごとくに最後のところでつうが《きっぱりと初心に還った》というのではなく どうもまだまだあいまいである。言いかえると そこでおとなに成ったとも言えない状態で ともかく自分が献身的に振る舞っているときのその姿を見られたことへの憤りの大きさから 去った。ということのように思われます。 ヤクタさんのご見解としては: ★ ~~~~~~~~~~~~~ 私の回答は、「恩を返したとはっと気がついたので帰った」というものでしたが、文学の議論でも、精神分析的なものではあります。 当初は好きだと思ったけれど、やはりそうでもなかったのじゃないかと我にかえって帰郷した――というようなものです。嫌いになったと言われればそうなのでしょう。しかし、愛情とは何だったのかを問うているわけです、 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ しかしながら どうもその基礎としての推論は これまたむつかしいもののようですね。一たんは はっきりしたと捉えていたのですが。 ★ ~~~~~~~~~~~~ まず・・・悲劇と民間伝承を区分することが、最初に必要だと思います。 というのも、悲劇の型にはめれば、理想と現実のギャップから恋人同士が別離するというのは話の筋書き上、ごく当たり前のことです。ニーチェを引くまでもありませんが、最後は別離するのが起承転結の型なのです。すると、これは型なので、なぜを問うてもあまり発展性は無いということになります。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《〈鶴と人間とは愛せない〉という決まりごと》という言い方が kentkun さんにありましたし あるいは民話は民話でそれとして完結しているのだという見方も cxe さんや komaas さんがされていますが そういうたぐいの一定のジャンルということになるのでしょうか。それでよろしいでしょうか。 もし文学としての《一回性》を唱え 民間伝承と悲劇とを分けて考えようとするのならば そしてクリヤさんとのやり取りで ☆☆(No.12お礼欄) 《アカデミック》は あくまで資料であり或る種の仕方で探究の出発点です。 ☆ などと豪語しているのならば ★ 一案としては、鶴の恩返しという伝承のレヴェルの言説が、木下順二によって戯曲化された時に、どういう変更を加えられ、悲劇の型になったかという風に文献を検証してから設問するとすると有意義な気がします。 ☆ うんぬんとつづくお考えを明らかにしてもらっています。そういう準備もなければ素養すらないわけで つまり言いかえるとぶっつけ本番でこの質問に臨んでいるわけなのですが 大上段に振りかざした刀を降ろすことも出来なくなって さてどうしたもんでしょう。 どしどしおしえてもらいつつ すすむよりほかにないでしょうか。 個々の事項で 少し違うかなと思われるところについて触れておきます。 ★ 他の回答者とのやりとりですが、何が正解か(あるいは文学として王道か)という話の仕方をなさっているのは、あまりいただけません。 ☆ この《正解》は いくつかあるであろう解釈のうち 一見単純に見えても無理がないというところを捉えれば 比較的に欠点のない解であるように思えるという意味です。 ★ おそらく質問者の方は、夕鶴の別離について民俗学的な見地から解釈を試みたいと考えてらっしゃるのでしょう。 ☆ 基本的な見地は 《自己表現において生きる。それが社会的な共生につながるように生きる》です。学問は 基礎資料として出発点であり あとは或る種の仕方で学問からも自由に互いにつねに自己の向上を目指す井戸端会議です。 ただしぶっつけ本番であり その場で軌道修正をしつつ進むというやり方です。無手勝流です。 今回も取りも敢えずにてになってしまいましたが。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#21です。 > 言いかえると フロイト理論の解説としてなら なるほどと思って受けとめるかも分かりませんが 人間どうしの社会的交通の哲学談義をいささかでも誘発するような文学作品として見れば おもしろくありません。だって 結論は決まっているのですから。 :たまたま興味のある分野に当てはめて解釈しただけですから、作者の意図に対する確信があるわけではありません。 正直なところ、どのような解釈がなされても、特別な論理不整合がない限り構わないように思います。 精神分析では日本の、世界の神話を読むことをよく勧めているらしいのですが、自ずと、つまり、作者すらも意図しないうちに人間の深性が表現されている場合が多いかららしいです。 私は殆んど読みませんが、たとえば、これは神話ではなく絵なのですが、ギュスタフ・モローという画家が1864年に「オイディプスとスフィンクス」という作品を発表しています。 http://art.pro.tok2.com/M/Moreau/mor01.jpg フロイトが生まれたのは1856年ですから、まだ「エディプスコンプレクス」という言葉も無かった時代です。 しかし、この絵を見ると、明らかにスフィンクスがエディプスに媚を売り、取り入ろうとしており、エディプスも満更でもない表情をしているところがリアルに描かれているように見えませんか。 ソフォクレスのギリシア悲劇「エディプス王」はご存知だと思いますが、幼児の両親に対する心理状態がエディプスの体験過程に酷似しているところから、フロイトがいたく感動してこのコンプレックスの名が生まれたようです。 これもおそらくご存知と思います。 スフィンクスは母親の象徴である、というのが精神分析学の定説であるらしく、この絵はそれを適確に捉えているように見えます。 少し補足させていただくと、エディプスコンプレックスというのは、単に性的な要素だけではなく、その要素を基調とした、幼児の親に対する尊敬と反抗の矛盾した心理を表しているものです。 釈迦に説法するつもりはなく、何が言いたかったかというと、作者が「>フロイト理論の解説」を意図していたかどうかはわかりませんが、人間である以上、そういった要素を含む民話に無意識的に仕立てたとしても、特に驚くには値しないかもしれない、ということです。 >それよりは 羽根を抜くというかたちの《身を削って》の部分を軽いかたちにして たとえ約束を破って姿を見られても あぁそんなことは大したことはないわねと言って笑い飛ばす そしてハッピーエンドとなる。こういう筋のほうがよさそうに思えるのです。つまり去って行ったとしたら それはまだ二人のあいだのやり取りの途中なのであって おとなげないと映ります。 :おっしゃっていることはよくわかります。 そして、こちらのほうが確かに難題で、哲学的考察として、つまり、人間の幸せに資するものとしての値打ちはあるかもしれません。 そこで、羽を抜く行為を軽い形として捉えて考えてみましたが、多様な解釈ができそうで私には断定できないようです。 しかし、「>まだ二人のあいだのやり取りの途中」であるのならば「>おとなげない」という判断には同意いたします。 一点だけ述べさせていただくと、これはそれぞれのキャパシテイの問題が絡んできそうな気がします。 相手のそれをどこまで斟酌、想像できるか、といったあたりが鍵になりそう・・・といったところでしょうか。 私の現段階では、このぐらいしか表現できないようです。 >このあと考えて書きこみます。 :の内容とはまた別にとりあえずの投稿です。 ただ、専門家ではありませんのでお手柔らかにお願いいたします。
お礼
No.20のお礼欄と補足欄とで いい加減言いたいことを言わせてもらったので もう黙ります。 話素あるいは神話素というパーツが 世界の神話・伝説・民話などにおいて 互いに共通の中身を持つというのは 言われていると思います。 つまりそのつてで考えれば 木下順二があくまで独自の発想や構想力からこの作品を書いたということをうたがうために フロイト理論と軌を一にしているのではないかと述べたわけではありません。 問題は 文学であるなら 出来ごとの一回性という条件が必要かと思います。そうではなく――超自我の突出によってみづからの行動において無理をしてしまう その結果人びととのいきさつがあって我に還るという類型があてはまるとすれば―― 一回性ではなく多回性となり 文学の値打ちが下がるものと思います。民話がそういうものであり そういうものとしての民話であれば よくあるパタンだなと思っても あぁなつかしいなぁとも感じるのではないでしょうか。 そうでなく 一般にむしろ名声を博している戯曲であるのに どうも吟味してみたら それほどでもなかった。という感想のもんだいになると思います。 そういう意味では ほかの回答者の中に けっきょく言ってみれば民話として受けとめるというご見解がありましたが そちらのほうが 正解であるとも言えるかと思うのです。 そんな主題であったと 思っているのですが どうでしょう? あっ あとは 純粋日本語をしゃべるという性格については 世間のゴミにまみれた言葉からはその自己保持の能力によって一歩離れ 言葉は分かりやすいので使いますが引きこもりになるという場合もあるかと思われます。そういう主題も派生しているかに思います。 ということは それは一般に経済の分野において疎外と物象化とが起きているという事態とかかわっている。こうも考えます。そういった課題につながるかに思われます。 もう少しお応えを ありましたら 待ちたいと思います。みなさんの反応も見られるものなら見たいと考えます。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
ぶらじゅろーぬさん。たびたび失敬。 タコの吸盤みたくしつこい宙ぶらりんですが、 はい?と思ったところだけ一言です。 つうの「言い分」には、 いろいろ混ざっているのでしょうが、 混ざっててもいいと思うのですが、 この辺は区別した方がよいのでは? ・言い訳・弁解・自己正当化 ・理由説明・事情説明 ・交渉 それでは一言で消えます。ポツッ。
お礼
ご回答をありがとうございます。これからハコブルさんとのやり取りです。こんどはわたしのフロイト批判になるかと考えます。 その前にお応えしていますが ★ ~~~~~~~~~~ この辺は区別した方がよいのでは? ・言い訳・弁解・自己正当化 ・理由説明・事情説明 ・交渉 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ ごもっともなのですが おっしゃるとおりなのですが どう言いましょうか つうは要するにこの世のゴミにまみれた世界とは 別の世界の住人だという設定のようです。だとしたら これらの主題――つまり言い訳するかどうか そこに自己正当化を挟むかどうか いえいえその前にしっかりと事情も自己の持つ理由も説明するか否か そして交渉などは ほとんど知らないと思わせるほどで ただ与ひょうにお願いするかたちかとも思われる様子などなど――とは 一歩離れたところに立っているという前提をおかねばならなくなるのではないか。そういう感じが色濃くあるのですが? しかもそういう設定というのは 人物描写として どうなりましょう? 捉えがたくないですか? もししっかりとした成案があってこの区別を提示してくださっているのでしたら 申し訳ないですが 惜しまずにおしえてくださいませんか? 《純粋日本語をしゃべる》という人間類型とすれば それは 或る種の仕方で そのみづからの固有の言葉を守るという能力によって 世間からは一歩離れて引きこもりのような状態になるのではないか。そいうふうにつなげても解釈することができるのではないか。とも思ったりするのですが こちらのほうはどうですか? なぐり書きのようではありますが。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#20です。 > ★ 超自我的な私、本能的な私、という《わたし》というものは人間である以上(神でも獣でもない以上)存在し得ません。 ☆ これはわたしは言っていません。《超自我性》も《無意識のものがが意識されるようになったエス性》も 《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであるという見方です。 : これは、 >あとは 《 Ich 》をなぜ《わたし》と取らずに《自我》と訳し独自の――つまりわたし( bragelonne )に言わせれば人格にとって部分的な――概念にしてしまうのか。 : という部分を受けたものです。 自我は部分的なものではない、ということを述べたかったわけです。 超自我性なりエスなりが直接的に思惟や行動の材料となるわけではなく、(意識するしないに関わりなく)「選択」という作業に自我は必然的に関わってくる、両者のバランスの結果としての自我、という位置づけについて述べた箇所です。 > 欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それは《わたし》です。 :#!8で大体のところは述べましたが、この<総合する役割>が自我と言えます。 内部的自我の、相対的表現、あるいは対外的顔が《わたし》でしょう。 > ☆ そしてわたしとしては 鳥の換羽期(羽根が生え換わる)のことと織り物が高価で売れることをつうが知っていたと思われること このふたつの点で そこまでの《無理》をつう自身がすると考えることにブレーキがかかるという前提論議をしています。 :これは前提というよりも、誘導尋問のように感じますよ。^^; つまり、「何ら身を削ったわけではない」という前提から導き出される結論はおおよそ想定済みと言えるのではないでしょうか。 逆の場合も同じことが言えるだろうと反論されそうですが、身を削った、つまり、【必死の人間の行為】の有無という点が重要なわけで、ここは反論の余地はないような気がします。 >次の一点にかかっていることになりませんか? すなわち つうは初めは恩人を夫婦関係としての相手だという思い違いから出発したのだが その後その夫婦関係が社会的な認知を得るまでになったとしたとき 欠点だらけの与ひょうではあるけれど 初めの恩返しという意図を超えて 連れ合いとして受け容れるようになったかどうか。 :おっしゃるように、この点でも見解の相違があるのかもしれません。 ただ、連れ合いとして受け容れるようになったのでなければ、単に「約束を破ってはいけません」という道徳民話にすぎなくなってしまうでしょうね。 つうの葛藤はそこにしか無くなるはずですから。 > ここからは 二人でこの生活を続けいい家庭を持とうと考えるように到ったか それとも愛情の対象ではなかったという初めの気持ちを確認しそれをつらぬいたか いづれとも自由に考えられるということではないでしょうか? ;前段と同様の理由で、前者しかないと思いますが。 > 夫婦としての暮らしが初めからおしまいまであくまで勘違いからの仮りのものであったという場合には 恩返しが出来たあと去っていくことが確かにおとなげある判断だとなるでしょうね。 : 構図(背景)としては、「夫婦としての暮らしが初めからおしまいまであくまで勘違い」だったわけですが、つうの気持ちの変遷が重要だと思います。 まず「恩返しとしての夫婦関係成立が可能だと思った」 →しかし「次第に与ひょうに情が移っていった」 →そこで「恩返しではない愛情に基づいた夫婦関係になりたいと思った」 →しかし「恩返しの証と愛情の証を同じ機織という手法でしか表現できないため、それは無理だと悟った」 →せめて「表面的にだけでも愛情に基づいた夫婦でい続けようと考えた」 →だが「愛情の証と与ひょうに思い続けて欲しかった織物が、恩返しのために身を削るという結果できた織物と同じものだ、ということが与ひょうにわかってしまった」 →これは「手料理だと言って食べてもらっていた毎日の夕食を、スーパーの惣菜コーナーで買っているところを見られたようなものだ」 →この例が悪ければ、「あなたの給料をためたお陰でやっと家が買えたわ、と与ひょうと共に喜んでいたら、実際にはつうが売春をして貯めたお金が原資だった、ということがばれたようなものだ」 →「言い訳は虚しい。去ろう・・・」 こんな感じですかね。 考えてみれば、結構独断的解釈かもしれません。 まあ、変わり種としてご参考まで。 >ちょっと上から目線ですかね。 :底意が無いことは承知していますので 全く問題はありません。
お礼
ハコブルさん ご回答をありがとうございます。 No.19のニュウトラルさんへのお応えで 作品から原文を抜き書きしたものを掲げました。 《純粋日本語をしゃべる》ということは そのつうが《おカネとは何か》が分からなかったという内容をともなっているということでした。おどろきです。 ハコブル説――つまり (1)初めは 純然とした恩返しの心づもりを持ち しかも (2)この意図を恩人との間の異性どうしとしての愛および愛情と取り違え (3)結婚という生活の形の中で恩返しを果たす ただし (4)その生活を重ねるあいだにふつうに夫婦としての愛情も持つに到った (5)つまりはこのように愛情もすでに芽生えているところで 初めの恩返しなる心づもりをつらぬこうとするつうがいる。 (6) つうにしても やがて与ひょうにしても この別離はそれぞれにとって おとなげある決断であった。 ――にとって 合致するような中身です。しかも (3-1)羽根を抜いて織物を織るというのは かなり無理をしているという要素もあるようだ。 ☆ ということですから 筋としては ぴったりであると思います。 どうでしょうかねぇ。ぴったり過ぎませんか? 型を初めに――木下が――決めてつくっているように こんどは 映ります。つまりこれは 与ひょうの側の主題もあるでしょうが 基本的には つうという女がおとなの人間になるという話だと考えられます。 愛情の芽生え(5)がもしなければ 単なる道徳譚――ひとは約束を守りましょうという――に成り下がるのだとも解説をもらったそのようにですが どうでしょう この要素も もしそうだとしますと 最初の型にはまっているのみといういささかの味気なさを感じないでしょうか? つまり別の言い方をすれば 意図・意識してかどうかは分かりませんが 木下は あたかもフロイトの理論をそのまま物語の筋に応用した。過剰な超自我性の発揮とその失敗という話ですね。このようなあと味が色濃くないですか? 言いかえると フロイト理論の解説としてなら なるほどと思って受けとめるかも分かりませんが 人間どうしの社会的交通の哲学談義をいささかでも誘発するような文学作品として見れば おもしろくありません。だって 結論は決まっているのですから。 ★ つうの気持ちの変遷が重要だと思います。 ☆ たしかに元々の心づもりを思い出すということ そのことに気づいたというその過程は 読ませるところなのでしょうが いかんせん――とわたしには思われるのですが―― それでも結論はすでに軌道が敷かれてあったのだという感想をまぬかれるわけには行きません。 それよりは 羽根を抜くというかたちの《身を削って》の部分を軽いかたちにして たとえ約束を破って姿を見られても あぁそんなことは大したことはないわねと言って笑い飛ばす そしてハッピーエンドとなる。こういう筋のほうがよさそうに思えるのです。つまり去って行ったとしたら それはまだ二人のあいだのやり取りの途中なのであって おとなげないと映ります。 あるいは もとに戻って 恩返しの具体的なかたちが――ニュウトラルさんの言うように―― 布を織ることのほかにもっとないか 開発しようと思えば思いつくはずではないかという問い求めに移行してもよさそうなのです。つまり物語としては その可能性をほんの少し示唆しておくならば おもしろい。こう思われてなりません。 解釈は ハコブル説に完敗ですが 物語としての主題およびその展開としては ここは ゆづるわけには行かないようにまだ思いますね。 その課題にいくらかかかわる問題は フロイト理論についてです。《自我》もんだいです。このあと考えて書きこみます。
- hakobulu
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#18です。 > ☆ このように聞きますと 《本能・エス》はまだヒトにあってはたらいているのですね? :そのつもりで述べました。 > つまりは 能力行為こそ分かれていますが すべてはそれが表現されたというときには 《わたし》の自己表現ということになります。特にその中核を取りだすなら 意志です。その基礎(歩み)が 知解であり 記憶は秩序立ったみなもとのような場です。 :この意志というのが実は曲者ですよね、たぶん。 中核と注釈されていますから、なんですが、物自体としての意志は果たして存在するのかというとやや疑問です。 意志は大部分、経験によって醸成されるはずで、しかし、同時に経験とは意志による選択とも言えるはずです。(無論、強制が関与する場合は別で、大分前にお話したことがあったと思いますが、原則として強制こそ悪、と考えるのはこのためです) 経験は記憶されますから、記憶によって意志は左右されるでしょう。 ただ、意識できない記憶もこれに含まれるということがあるので厄介と言えば厄介です。 > ★★(No.16)自我とは超自我と本能(エス=イド)のバランス機構そのものですが ☆ というようにさらに自我がはたらくというのは まだるっこしいと感じるわけなのです。それに たぶん知解した選択肢のどれをエスと捉えどれを超自我性と見るかも 互いに相関的であれば どちらでもよいとさえ考えられます。どちらが《本来的》かも それは本能や超自我性という分け方によるというよりも 自分の心(胸騒ぎや赤面にかかわるそれ)とのかかわりにおいて決めたほうが分かりやすいように考えます。 あとは 最終の判断としての意志行為があるのみです。意志行為として《わたし》がおこなう自己表現です。 : 精神を3層構造にわけるのは、あくまで便宜上でしょうが、どんな便宜があるのか、ということになります。 フロイトの最終目的は(おそらく)精神の安定であったはずです。 その心理把握法は一見すると物理学のようにも見えます。 頭(超自我)が重すぎると不安定になり、足(エス)が弱ると立つ力(生命力)が弱くなる。 自我はさしづめ、腰や骨盤といったところでしょうか。 両者の丁度良いバランスを常に求めることでしょう。 頭が低い(超自我性のない、あるいは薄い)動物にとってバランスを取ることは人間よりも容易です。 手が足となりエス(本能)面では優れていることになります。 このように、超自我はエスを犠牲にすることによって人間に付与された能力(と言ってよければですが)と言えるでしょう。 しかし、犠牲にしすぎると立っていられなくなる、ということになります。 端的に言うと、こういった3層構造の捉え方の長所は、(無論、精神的に)正常な歩行を維持するために有効なのではないか、と思います。 「>自分の心(胸騒ぎや赤面にかかわるそれ)とのかかわりにおいて決めたほうが分かりやすい」 とおっしゃる点についてはよく理解できていないのですが、 >つまり 《本能的なもの》であろうと《本来的なもの》であろうと それに従う意志行為もあればそれにさからうものもある。 :ということをおっしゃっているのだとすれば、たしかに「胸騒ぎや赤面」を超自我性の現われと捉えることも可能かもしれませんね。 しかし、逆にエスの表出の場合にも同じような現象が起きるような気がします。 また、必要が無いのにそうなってしまう場合も多いわけで、その意味でも私にとっては「わかりやすい」とは言えないようです。 >そしてその行為主体は 自我ではなく《わたし》だと思います。つまり自我は もし言うとすれば わたしの自我なのですから。 :国を、国民ーエス、国会ー自我、天皇ー超自我となぞらえることがあります。 国会の決めたことではなく国の決めたことだと(特に対外的には)言うこともできるでしょうね。 ただ、国会で決めたこと、と捉えると、突き上げている国民や、自国利益一途に暴走することに対する暗黙的な抑制力としての天皇制といった、国家の大まかな構造が把握しやくなるということはあるように思われます。 (続く)
お礼
ご回答をありがとうございます。 ここは――フロイト批判ですが―― 個々のことがらに対応して述べていくのがよいようです。 ★ ~~~~~~~~~~~ ただ、国会で決めたこと、と捉えると、突き上げている国民や、自国利益一途に暴走することに対する暗黙的な抑制力としての天皇制といった、国家の大まかな構造が把握しやくなるということはあるように思われます。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたくしは 一介の市民として横町の構造に毬のように接したりころがったりして生活していますが 上空に向かっては嵐の種族であります。お二階にもあるいは雲の上にも台風となって吹き荒れています。《均衡》だとか《中庸》だとかの言葉を知らない人間です。 ですがこの種の主題でかつてハコブルさんとやり取りして 暗礁に乗り上げたわけですから ここは 具体的にそちらの文章に沿って考えてまいります。 ★ 中核と注釈されていますから、なんですが、物自体としての意志は果たして存在するのかというとやや疑問です。 ☆ この意味が取りにくいです。なんで《物自体としての意志》になるのか。選択肢を用意するのは言わば知解行為です。これを取捨選択する判断は 意志がおこないます。つまり《わたし》が最終的におこなうのですが その判断のはたらきを為すのは 意志と呼ぶということです。またそれだけのことです。そういう作業は人間はおこないますから そのことをそのように説明しているだけのことです。 物自体についてそれがあるか無いか そういう設定をするかどうか これには一切かかわっていません。 現象そのものを説明するために用いているのみです。 ★ 経験は記憶されますから、記憶によって意志は左右されるでしょう。 ☆ 記憶によって意志が左右されたなら その左右されたと認識しやむを得ないならやむを得ない判断(選択肢の選択)として 大きくはおのれの意志とするということです。なぜなら 《わたし》が控えています。そのわたしは 記憶のみではなく 意志そのものでもなく 存在もしくは人格の全体なのですから。 まだるっこいというのは そういう意味になります。このまだるっこさは 精神分析の全般にわたって 構造的に見られるのではないでしょうか。なぜなら ★ 精神を3層構造にわける ☆ ことをしているからです。しかもそれを言わば必殺技としているでしょう? ★ ただ、意識できない記憶もこれに含まれるということがあるので厄介と言えば厄介です。 ☆ この《無意識》というのも こちらから言わせれば厄介な分析道具なのです。つまり 要らないはずです。 意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。 なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志の決断を省みずに――行動に移ったという場合 すでに触れてもいますが それは事後的にわたしの意志行為であると見なせばよいわけです。 これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしている〔だけな〕のです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。 すべては――無意識であろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが わたしのほうがむろん全体的なのですから その意志が無意識であるゆえに関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。 わたしの中に自我・超自我・エスをわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのです。二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としてのわたしから単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのです。超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。 無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。 なぜわたしを分けてしまい引き裂いてしまうのか。そのどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものです。 ★ フロイトの最終目的は(おそらく)精神の安定であったはずです。 ☆ そうかも知れませんが 間違いです。自己表現をとおして生きること・そして共生すること これが ひとの目的です
補足
補足欄とお礼欄の順番をまちがいました。お礼欄からのつづきです。 ★ フロイトの最終目的は(おそらく)精神の安定であったはずです。 ☆ そうかも知れませんが――フロイトに従ってそうかも知れませんが その見方は―― 間違いです。自己表現をとおして生きること・そして共生すること これが ひとの目的です。 ★ 精神の安定 ☆ はすでに初めに成っていることです。わたしがわたしであることにおいてです。特に分析して取り出せば 世界を認識したことがらを記憶の倉庫において 秩序立てることによって精神のまともさを保っているそのはたらき。これが初めに成っています。 あるいは 成っていると言っても そのこと自体が 過程であり動態であるのですから 多少はゆらいでいてもかまいません。ですが つまりそのわけは 社会的な存在でもあるわたしとして 相手のあることだからです。目の前にいなくても 社会という人間関係とその錯綜する構造が相手であるわけです。それは 絶えず動いている。潮が流れている。ひとの動きがある。もし《均衡》ということを言おうと思えば ここです。つまり社会という相手との均衡が つねなる動態の過程じたいとして成っている。 これは一般に――特に規定しようと思えば―― 自然本性のうちの記憶という能力行為だと捉えます。 そこにおいて 意識だの潜在意識あるいは無意識だのという区分は 要りません。意識にのぼればそれを考えるでしょうし のぼらなければ放っておきます。 《精神の安定》は 最終の目的ではなく 初めの前提です。もしどうしてもそのことにも触れて欲しいというのであれば 誰もが自然本性としてその安定そして安寧として記憶野がむしろ――自然の力として 秩序作用として 自己組織化(?)として――成り立っています。 フロイトはこの記憶野をわざわざさらにパーツに分けて どうしても病理状態が起こってもらわねば困るとでも言いたげに そのパーツじたいの研究をすすめたのとちがいますか? でも ソファに横たわるかどうかを別として ふたりの対話が自然で楽なかたちで続けられるというその装置は わるくないとは考えます。世の中 何が方法としてあるかと言って 話し合いであり それのみですから。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 頭(超自我)が重すぎると不安定になり、足(エス)が弱ると立つ力(生命力)が弱くなる。 自我はさしづめ、腰や骨盤といったところでしょうか。 両者の丁度良いバランスを常に求めることでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは おのれという蛸つぼをわざわざつくってそこに入ってしまうかたちではありませんか? 社会を相手にしていないからです。社会を相手にしていないのです。社会が見えていないのです。わざわざ目をつむろうとしているのとちがいますか? ガミガミ役であるにしろアース役であるにしろ 互いにとって相手がいるにもかかわらず まるで相手はいないという設定をわざわざつくり 自分ひとりがこの世界に存在していてその《精神を安定させる》目的を持つのだと言おうとしています。ちゃんちゃらおかしくありませんか? なんでひとりぼっちになりたがるのですか? 宇宙の見なし子になって初めて《わたし》を自覚するようになるのではないかとは ニュウトラルさんの命題です。 なんで? つまり対症療法を考えるのではなく つねに初めに《わたしがわたしである》であり そこでは動態的にすでにわたしは安定しておりこころは安寧である。なぜならそう生まれて来ているからです。わざわざ仏性がやどるとか 神の霊がやどると言ったりしますが 自然本性とは そういうものだということではないですか? しかも人びとはしきりに さとりを追い求めて行く。なぜなら フロイトらが 自我と超自我とエスとをわざわざ《わたし》から分けてそれらを一つひとつ独立させてしまったからです。永遠のジグソーパズルを始めてしまいました。まるで病理がこの世にはあってもらわねば困ると言っているようなものです。 精神医学者あるいは精神分析家 これらはややもするとそこらへんの金儲けの宗教団体と同じ類型であるでしょう。病理があってもらわねば困ると言っていて その情況に乗じて金を儲け生活をしているとするならばです。 ちょこざいな。精神分析がもし学問であったなら へそが茶を沸かすでしょう。
お礼
おもしろい。ですね。 その答えじたいは つまりつうが去ったのは 永遠にと見せかけて じつはそうではなく ★ 勉強しに帰ったのかもしれません。 ☆ という答え自体は あたかもハコブル説(≒賽は投げられたさん説)とわたくしブラジュロンヌ説との中間と言いますか ――あっ リトルキスさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。―― 足して二で割ったと言いますか そういう安易なと一見見られてしまうことで一つの損をするとすれば けっきょく三方一両損といった大岡裁きにも似たところがあって ただしそういう格好だけで その答え自体は ある あるのですが 問題は 人生をこれからもつづいて行くものと見ている ところにあるようだと思ったので おもしろいと受け取りました。 人生は 過程である。動態である。そして 相手のあることである。いいぢゃないですか。と思いました。そういうもんだいですよね 文学とは。そしてそういう扱い方を 文学に対して哲学はするのだと。 けど 刑法・商法・労働法とはなんですか? 法律はいま関係ないっしょ? ったく とぼけたお人ぢゃわい。 * あぁ つうの仕事ぶりが 労働基準法違反ってことですか。なぁっとく。ごめん。m(_ _)m