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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:〔存在性のアッピール力(力)〕ということに感慨することはありませんか?)
存在性のアッピール力とは?
このQ&Aのポイント
- 存在性のアッピール力とは、特定の言葉や表現が持つ力や魅力について考えることです。
- 存在性のアッピール力の本質は何でしょうか?同じ言葉でも、説得力や存在感には個人差があることを経験します。
- 言葉や表現の力であるいうことを言霊といいますが、その力は個人によって異なるようです。
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お礼
(補足欄から) 3. 私たちは対象界に対するという仮想的主格性を与えられ、この世界を対象客体としてみる。 しかし、『其処には、決して明瞭な言葉にはならないものがある。語りかけて来る自然の恐ろしさは、何とは知れぬ親しさを秘めているし、自然の美しい心は、異様な奇怪なものを含んでいる。』 そして、『言葉にならぬ自然という実在に面したその直接な経験が、言葉にならぬというその事が、私達に表現を求めて止まないの。』 つまり、『実在は人という道具を信じ、君の信ずるところを語れと迫る。人は心を躍らし、その最上と思われる着想、すなわち先ず自分自身が驚くような着想によって、実在を語る。』 マシュマロ2さん、URLなどの紹介は引用ではなく、本文をここまで書いてくれたことを心より感謝します。 小林秀雄さんの文章中、“猟師”という主語を“私達”とか“私”という語に書き換えておりますことをお詫びし、お断り申し上げます。 有り難う御座いました。
補足
mashumaro2さん、再度のご訪問に感謝します。 ご紹介の「信ずることと知ること(小林秀雄 全作品26新潮社より p194-p197)」は人間の存在や自分の今のあるべき生き方の纏めにたいへん有益でした。 有り難うございます。 ●>本能的にというか直感的に見分ける何かが、未だ私達に残存存続していやしないか● ◇mashumaro2さん ⇒ 【はい、単に事後的に外から習得する知識とは異なるところの自ら湧き出る直感的な力や方向性のような、そういった一連の謎めいた人間の精神現象(感応)とは一体何なのでしょうね。】 ●krya1998 ⇒ 【世の中にたくさんの創造論がありますが、やはりある意識(根源)創造の意識の側面を機能開始(目的や理由、価値や理念は全くない。究極ですから自己以外に存在しないし、目指すものがない。)して、そのプロセスでそういう機能・能力を通して紡ぎ出すことにより、つまり解釈することより創造の一部とほんに一側面を創出しているのだと存じます。その能力の塊を一応人間という夢の中の行為主格としているのでしょうね。創造とはつまり、創造の意識とは唯一根源者のが夢を見ている意識だということだと存じております。】 ◇mashumaro2さん ⇒ 【「未だ私達に残存存続していやしないか」は──日常の知性・認知力、経験受け取りと紡ぎに対するある種のアンチ・テーゼ的な──近代科学合理主義から零れおちた何か──の意なのでしょうか。】 ●krya1998 ⇒ 【つまり、創造界(夢界)の事項としては考察する対象できない。物質現出以前のことなんですね。目が見えない。目が目を見る事はできない。意識が意識の結果や内容物(客体存在)を知る事はできても、意識は意識を意識できない。別の方法か、意識の上の存在の立場から意識する以外には不可能だという事になりませんか。】 ●krya1998 ⇒ 【以下、私の勉強に即して、ご紹介の著述を読んだリポートです。】 1.●フレーズ:「信ずることと知ること(小林秀雄 全作品26新潮社より p194-p197)」● 最初に小林秀雄さんの著述からの引用文の内容に触れることなく、この著述の題名を単に一つのフレーズとして思うことを、申し述べます。 “信ずること”と“知ること”とは往々対峙した事柄として取り上げられています。しかし“知ること”や “理解すること”なく“信ずること”は無理が伴うと存じます。 “盲目的信仰”とか、“不合理なるが故に信ずる”などという言い方が生じてくるのは、“信ずること”と“知ること”の間の懸隔の故だと存じます。 私達は“信ずること”とは一つの生き方としての“献身”という動作に過ぎなく、“知ること”とは対峙できないものです。 知らないものを信ずる事はできない。愚生が学び精進していることは哲理であるから、そうだと確信し生き方として“献身”するだけです。献身の生活を信仰と呼んでいます。 2. 名うての猟師が対象を見間違えた。このような話は私達の勉強する哲理の中にも出てまいります。 それは見間違えたのか。白鹿は神であれば、白岩を置いて身を翻して去っているかもしれない。 そしてこの幻蒙界の辻褄が合うように、なんだ白岩であったとなさしめているかもしれない。 はりつめた情況の中で白鹿とみている意識心理情況と、それがだらしもなく普通界に戻った認知力での確認とどちらが真実存在か。だからこそ、「全く魔障の仕業なりけり」とも湧き上がってきていることなのでしょう。このようにこの世では全てのことに二重の側面があるように思います。 この世としての合理とされる生活と、そうでない世界。それはともに併存しながら、その両面を私達は存在し生きていく。現実と超現実。どちらが真実実在か。 そこの綾が唯一存在であり、個々たる我らの意識の世界の悩ましい綾ということなのでしょう。猟師は現実界で現実の生き方で生きるが、決して他の一面のない世界にはなりえない。 猟師はそれを許容して、自己が存在している界とその界自体としての自己をそのまま自己としているので、自己の存在している界や自己に対して自己主張をする必要を感じない。 そういう存在性と認識と処理の能力は、この世的な『人生の意味や価値を生み出す力』とは関ることがない。自分は猟師である、それ以上でもそれ以下でもない。 白鹿は白鹿、神である。それだけである。ということなのでしょうね。 (お礼欄へ)