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電話の普及について質問です。
電話の普及について質問です。 昭和初期(満州事変)らへんで電話の普及率はどれくらいだったのでしょうか。 夫が他殺された件を妻に伝える方法で悩んでます。 よろしくお願いします。
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昭和ひとけたの頃の東京の話です。 父が役人(公務員)だったので、役所が自宅に電話を引いてくれました。 回り近所の10軒近くがうちの電話を利用していました。 結構電話を借りに来ますが、掛かってきて呼びに行くのもありました。 名刺をもらった事があり、見たら呼び出し電話が載っており、うちの 電話番号と名が書いてありました。(ちゃっかりしています) 50m位離れた知り合いもおり、呼びに行かされるのはいやでした。 相手が留守の時も多くありがっかりです。 利用者はいくらかの通話料(お礼か?)を置いていくようですが、細かい 話は不明。 公共施設か大きい店には電話があり、そちらの利用者が多かったようです。 うちの例で見ると、人口100人あたり2,3本の電話という事です。 ところで緊急時の電話連絡は、個人では難しかったと思います。 役所、会社、金持ち間などでしょうね。 庶民は先方に電話がなければ、先答にある電報を使いました。 田舎では電話を引いた家は殆ど無かったのではないでしょうか。 昭和9年茨城県の祖母がなくなり「ハハシス・・・・」の電報が来ました。 朝亡くなり葬儀の手配をし、昼ごろ打ったようですが、夕方早く来ました。 母が役所の父に電話し早く帰った父はその夜立ちました。 電報は以外に早く着き役に立ちました。 田舎でも電報電話局はあり、夜中でも電報は受付ます。 ただ伝送処理や配達がおくれるので、深夜受付は昼間の受付より時間が 掛かるようです。 うちの場合も深夜に依頼したと思われる「ハハキトクスグカエレ」の電報は 朝には間に合わず、「ハハシス・・・・」の少し前に着きました。 緊急時の電報連絡の見本は明治9年、熊本新風連の乱で、鎮台司令官の 種田中将が自宅で殺されたとき、一緒にいた妾が東京の親元へ打った電報 「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ(旦那はいけない、私は手傷)」 が有名です。 主人が死んだあと、自分の安否を気遣う両親に、軽傷は負ったが心配ない といち早く知らせ、新聞等より早かったかも知れません。
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- ohg-jiya
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小説ネタですか? 他の回答者様が詳しいように、一般の情報手段としてはお粗末な限りの普及率。 で、緊急連絡は電報が使われました。 身内の死亡連絡手段としては定番だったでしょう。 電報は今でもありますから、自分宛にでも一度打ってみればいいでしょう。 街中においそれと公衆電話もなかったので、 相手方が電話を持っていれば、発信方は電話局や中央郵便局に備え付けの公衆電話を使う手もあります。 また相手方の近所に電話呼び出しをしてくれる家があれば、この手も使えます。 要は発信人と受信人の近隣の状況設定次第で、さまざまな選択肢になるでしょうね。
- blackhill
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お屋敷といわれるようなお宅か、商売をしている店でなければ、電話はありませんでした。 緊急連絡は、電報が主に使われましたが、緊急時に近所のお宅や商店に電話する「呼び出し」という相互扶助システムが機能していました。 http://iizuka.tea-nifty.com/izk_tsh/2006/09/post_8ea6.html このため、個人のお宅には電話室(公衆電話BOXみたいなもの)があり、商店では店先に電話を置いていました。 なお、お話の内容だと、近所の交番のお巡りさんを通じて知らせが入るルートもあるのでは。 ご承知でしょうが、電話が即時にかかるのは同一電話局内で、市外電話はかなり時間がかかり、その間、電話機につきっきりなので大変でした。 また、電文の書き方は独特なので、古老に確認したほうがいいと思います。後期高齢者の私でも、自信がありません。
- dayone
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既に電報の方向に傾いていらっしゃるのかもしれませんが、 当初の御質問に沿ってカキコミさせて頂きますm(_"_)m NTT西日本>企業情報>データブックNTT西日本2009>電信電話のあゆみ http://www.ntt-west.co.jp/info/databook/34/index.html http://www.ntt-west.co.jp/info/databook/pdf/230-231.pdf [1830~1965年]内のPDFファイル中に 「1930(昭和5)年、東京の電話契約数10万突破(全国70万)」の記載があります。 因みに、昭和5年国勢調査の人口データによれば、 東京府/5,408,678人・約111万世帯 全国/64,450,005人・約1260万世帯 http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL02100104.do?tocd=00200521 また、WEB版「正論」の「ハイ、せいろん調査室です=5月号=」の質問・相談コーナーでは、 http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2004/0405/hi-se.html 「大阪市の加入電話数は、昭和十(一九三五)年末に七万五百九で、人口百人当たりの普及率は二・三台でした。 日本の電話が、戦前最高の百八万二千加入に達した昭和十八年の大阪市の加入数は不詳ですが、 東京ではその八年間に約倍増していますので、大阪市も同様とすれば、 仮に人口を同じとしても、普及率は百人当たり四・六台で…」の記載があります。 同様に、昭和10年国勢調査の人口データによれば、 大阪市/2,989,874人・約62万世帯 全国/69,254,148人・約1338万世帯 東京府/6,369,919人・約127万世帯 上記を単純計算すれば 昭和5年 東京府 10万/ 540万人=0.0185≒1.9%(10万/ 111万世帯=0.0900≒ 9.0%) 昭和5年 全国 70万/6445万人=0.0108≒1.1%(70万/1260万世帯=0.0555≒ 5.6%) 昭和10年 大阪市 7万/ 299万人=0.0234≒2.3%( 7万/ 62万世帯=0.1129≒11.3%) とはなりますが、一般世帯での普及率は割引いて考える必要があると思います。 少し古い資料ではありますが、 一般世帯とそれ以外の普及割合を推測するには電話帳も参考になるかもしれません。 京都電話番号簿(大正13年9月15日現在) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/909505/16
お礼
ありがとうございます。 主人公は東京と考えていますが、一般庶民を主人公に考えているので電話は厳しそうですね。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんくにちは。 よその人の質問を取ってごめんなさい。 >>電報はどういった形式で受け取るものなのでしょうか 各地の郵便局に電報依頼用紙があり、それに記入して郵便局員に提出すると、郵便局員は直ちに電話で相手の局へTELをし、 例えば、 「チチキトク」などは、 秩父の「チ」 秩父の「チ」 機関車の「キ」 戸締りの「ト」 車の「ク」 などと電報の読み合わせ用の合言葉で内容を伝え、受けた郵便局では電報配達用紙に記入して、局員が直ちに各家へ配達しました。 また、電話や電報の足跡を見てみると、 (1)1868年(明治元年)、官営に依る電信事業が廟議決定され、翌1869年(明治2年)に東京と横浜間で電信サービスが開始された。 (2)1876年(明治9年)にベルにより電話機が発明され、翌1877年(明治10年)に工部省が電話機を輸入して実験を行い、電話機の国産化に着手した。 (3)1890年(明治23年)、逓信省により東京市、横浜市、および東京市と横浜市間において、電話交換サービスが開始され、電信・電話は同省の下で運営管理されることになった。 (4)1943年(昭和18年)、逓信省と鉄道省を統合し、運輸通信省が設置され、電信、電話の事業は運輸通信省の外局である通信院が所管する事になった。その後、1945年(昭和20年)、運輸通信省の外局であった通信院は、内閣所属部局として逓信院となった。 (5)敗戦直後の1946年(昭和21年)に逓信院を廃止し逓信省に格上された。 (6)1947年(昭和22年)には、国際無線電信・電話設備の建設と保守を事業とした国際電気通信株式会社がGHQの財閥解体指示により解散され、逓信省に同社の国際通信設備と人員が移管された。これにより、逓信省は、国内国際電信電話事業と設備を所管するに至った。 (7)1949年(昭和24年)、逓信省は郵政省と電気通信省に分割され、国内国際電信電話事業とその設備は電気通信省が所管することとなった。 (8)ただし、現在に至っても、都会は別としても、例えば、山間部とか離島の地方の郵便局では、電報の取り扱い、および、配達業務を行っています。つまり、委託されているのです。 (9)電話の普及により、電報の数は年々減少しており、特に、携帯電話が普及してから電報は慶弔事用が多く、電話で115番へTELすればNTTで処理されるようになりました。しかし、先にも述べた通り、離島などでは、いまだに、郵便局員が配達の代行をしています。 (10)なお、電話交換業務も自動でつながるようになるまでの昭和30年代頃までは、各地の郵便局の本局で電話交換業務も請け負っていました。
お礼
ありがとうございます。 電話や電報について勉強になりました。
- fumiyahama
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大正11年に「鳥取市役所」発行の『大正の鳥取』という書物を見ますと、商店・旅館・証券会社・製造業者・新聞社などの電話番号が記載されています。 その番号は、すべて局番無しの3桁です。ちなみに一番大きな番号は「865」でした。この書物によると、明治末~大正初年で、鳥取市の電話設置数は600台だったようです。 大正11年といえば、昭和元年の数年前ですから、昭和初期もそう変わらなかったと思います。 1920年の鳥取県の人口は45万人・・現在は60万人・・現在の鳥取市の人口は20万人ですから、1920年の鳥取市域は15万人ですね。 大正11年頃の電話普及率は、『865台/15万人』ということになりますね。
お礼
ありがとうございます。 一般庶民を主人公に考えているので電話は厳しそうですね。
- RTO
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R 電報はどういった形式で受け取るものなのでしょうか A カタカナで電文が印刷された紙を 電報配達員が配ります。それだけ。 至急の場合は ウナ電といって特別料金で急ぎの配達を行うこともありました、 なお、以上は日本国内に限ってのお話です。満洲国を含む諸外国での事情は存じません。
お礼
ありがとうございます。 電報を使ってみようと思います!
- RTO
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村役場や軍施設、そこそこ大きな会社や商店、個人宅なら豪農や村長さんのお家でやっとといったところだったのでは。 http://www.kawara-ban.com/rensai28.html この時期で急ぎの連絡方法なら電報でしょう。 「**シス スグ カエレ」
補足
回答ありがとうございます。 電報はどういった形式で受け取るものなのでしょうか? もしわかれば教えていただけないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 一般庶民を主人公に考えているので電話は厳しそうですね。