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神が天地をつくったのか
- 神が天地を創造した初めの出来事についての質問。
- 神が光を創造し、光と闇を分けたという出来事についての疑問。
- 神の物語が人間の非思考の場であるのかを問いかけている。
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こんにちは、 私は聖地イスラエルから見ると日本と同じ、地の果てアメリカに住むキリスト教信者です。ですから衒学趣味で聖書を語ることはしません。 しかし、現在のアメリカ南部洗礼派(のうち特にセミナリオで博士号を取った方々)の見解をお知らせします。 まず、新約聖書は光であり、旧約聖書はその大いなる影であり、前奏曲である。 旧約聖書は救世主の誕生を預言するために存在する。 その旧約聖書の創世記の中でも、始祖アブラハム以前は信憑性が低い。 二人の作者がいて、かわるがわるに少しずつ視点の違う物語を説いている。 他の回答者産のご指摘どおり、周辺の地域の神話が随分と紛れ込んでいる。 神話を哲学で割ると一体何が生まれるのでしょう? 何かためになるものが生まれましたか? 皆さんの回答は勉強になりました。有難うございました。
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- temtem1
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・権力者による権威付け ・コミュニティ維持のための人工的カリスマ ・個々人の精神安定のためのシステム 等など、実際的な利益があるからこそ宗教は形を変え、あらゆる時代に蔓延してるわけですね。 貴方は聖書の描写に悩まれてるようですが、聖書ってようするに娯楽小説ですよ。 現代のファンタジーやSFに劣らない愛あり陵辱あり神や悪魔や天使に超能力が暴れ狂うハイスペクタクルファンタジー小説じゃないですか。 まさしく古代人の『ぼくのかんがえたちょうすごいしはいしゃさまのおはなし』ってやつです。 娯楽小説の描写にいちいち突っ込みを入れるのはあまり有意義とは言えません。 肩の力を抜いてそのまま楽しんではいかがでしょうか? まあ、突っ込みまくって強引に解釈するというのも娯楽小説の楽しみ方の一つではありますね。 とすると、私のこの回答はいささか無粋かもしれませんが。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。集団の宗教と個人の信仰とを分けて欲しいんですが まづはご議論に沿ってお尋ねして行きます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ ・(あ) 権力者による権威付け ・(い) コミュニティ維持のための人工的カリスマ ・(う) 個々人の精神安定のためのシステム 等など、実際的な利益があるからこそ宗教は形を変え、あらゆる時代に蔓延してるわけですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづ(う)も 《個々人》のことを扱っていますが 《システム》ということで個人の信仰というよりは組織の上に教義をもった宗教と見なします。 (い)は 《人工的》ということによって何を意味するか問題になりますが 《カリスマ》と言えば ひととして扱っていますか? でもそのときにも ここでは組織の長を言うととれば やはり宗教のことと見なせます。 そのつてで (あ)も宗教団体とのつながりであると見なします。 だとすればみな 組織宗教そのものにおいてとともに 外部の人びとにとっても 組織宗教に拠ることによって ★ 実際的な利益がある ☆ という見方であるようです。 ところで そのようにいわゆる現世利益のために組織内外の人びとが宗教を持ちあげるというのは いったいどんな得があるのでしょうか? 権威づけが出来るのですか? コミュニティ維持が出来ますか? 精神安定がかないますか? おそらく答えは イエス&ノ―であるでしょう。 ノーであるというのは いっさいがっさいその組織の活動はくだらんということが分かっていると考えられるからです。 イエスというのは その教義は もともと個人の信仰から得られた観想(=テオーリア=理論)あるいは実践をめぐる命題から規範化して成ったものだからです。言いかえると 個人の信仰については 《くだる》のであり 意義があると考えられるからです。 趣旨説明に挙げた(δ)の観想は もしそれに意義があるとすれば おそらく信仰(非思考の場)からしか得られない命題だと考えます。 もしこのイエスの側面 つまり個人の信仰としての意義のある側面 これがなかったなら 宗教を ★ 宗教は形を変え、あらゆる時代に蔓延してるわけですね。 ☆ というかたちで したい放題にさせているわれわれ人間は よほどの阿呆になるでしょう。バカと阿呆の化かし合いでしかなくなります 世界は。そうではないでしょうか? ★ まさしく古代人の『ぼくのかんがえたちょうすごいしはいしゃさまのおはなし』ってやつです。 ☆ 趣旨説明の(γ)などを見てください。神は《支配者》などではないと言おうとしています。 ★ 現代のファンタジーやSFに劣らない愛あり陵辱あり神や悪魔や天使に超能力が暴れ狂うハイスペクタクルファンタジー小説じゃないですか。 ☆ という読みは なぜ起きるのか? なぜ文字どおり〔のみ〕に読んでしまうのか? これが問いです。《神が天地を創造した》という文字どおりの読みしか なぜひとは出来ないのか? これです。
- aokii
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いいえ。天地が神をつくったのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 天地が神をつくったのです。 ☆ 天地に住まう人間が ということでしょうか? だったら その神は人工のもので おそらくまやかしであるでしょう。要らないはずです。 なぜ《神を信じる・信じない》というようないさかいが今なおつづいているのでしょう? われわれ人間は それほど阿呆なのでしょうか? あるいは人びとが一般には知らない特殊な目的があってつくったのでしょうか?
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お礼
ワグヒューストンさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですか。この哲学カテゴリにはもうひとりアメリカから文章を送って来ておられる方がいますが お二人目にお会いしました。 さっそく本題に入りますと もし ★ 神話を哲学で割ると一体何が生まれるのでしょう? / 何かためになるものが生まれましたか? ☆ がワグさんのお考えだとしますと そうですね。この創世記のひとくだりについては 《4.神は光を見て、良しとした》あたりに注目します。 すなわち 神が創造主であったかどうかをいま別として 絶対者であることはまちがいないわけですから その立ち場の者(擬人化していますが)に宇宙ないし人間の世界について《良しとする / 祝福する》ことを聖書記者は為さしめた。この記述は 注目してもいいかなと思っています。 すなわち(δ)および(γ)の項目ですが 《1:2 ・・・神の霊が水の面を動いていた》というのなら 世界は世界現象のみではなく その上に何かあると語っていませんか? 哲学や経験科学で割ると それら科学の目をすり抜けるものがある。と語っていませんか? そうでなければ アブラハムがわざわざ故郷を去ってほかの土地へ出かけていく謂われがなくなるでしょうし。そのかれが義しい人とされたのは おこないによってではなく 何か《余計なもの》としての信仰によってであった。モーセとてその律法を遵守することによってではなく アブラハムと同じように召命され信じることによって神の国の外交官とされた。 そういったことを考えます。 ★ 旧約聖書は救世主の誕生を預言するために存在する。 ☆ ではあるでしょうが そこにはもっと地道な基礎(歩み)が このアブラハムの時代から築かれて来ている。モーセの律法〔による生活態度〕を超えてアブラハムの信仰にもとづく生活がなかったなら いくら救世主だと言っても その信仰という非思考の場は 容易に示され得なかったかも知れません。 アメリカでは いわゆる原理主義にもとづき 創世記の記述をそのまま史実だとして受け取っている人びとがいると聞いています。そうではなかった事例を挙げていただきましたが ちょっと合理的な傾向のようには感じました。 いえ まだまだ片言隻句からの判断でしたから そこのところはご容赦ください。そういった情報なりご見解なりは たのしくおもしろくお受け取りしました。ありがとうございました。