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神が創造した天地と光に関する質問
- 創世記第一章(第一節~第五節)に関する質問です。神が天地を創造したとき、神はすでに存在していたのでしょうか?また、光の出現の前に存在したものは光よりも本源的だと言えるのでしょうか?光とは可視光線なのでしょうか?そして、神は光とやみをどのように区分しているのでしょうか?
- 創世記第一章(第一節~第五節)に関する質問です。神が創造した天地について明確に理解したいです。創世記には神が天と地を創造したと書かれていますが、創造の際に神は存在していたのでしょうか?また、光の出現の前に存在したものは何なのでしょうか?
- 創世記第一章(第一節~第五節)に関する質問です。創造の際に神は存在していたのでしょうか?光の出現の前に存在したものは何なのでしょうか?光とは可視光線なのでしょうか?また、神は光とやみをどのように区分しているのでしょうか?
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お答えします。 ( a ) 神は 人間にとって表象し得ません。象(かたち)に表わし得ません。絵でも音でも文字でも考えでも表わし得ません。もし表象し得たなら それは 神ではありません。人間の精神における想像力による産物としての《観念》であるに過ぎなくなります。 ( b ) わづかにしかも じんるいは《かみ》あるいは《信じる》という言葉を持つに到っており いまも使っています。これは如何に? では これらは何を意味する言葉なのか? ( c ) 言葉は一般にこの経験世界のものごとに対応した内容をその意味とします。ところが 神という言葉は 端的に言って その対応がありません。表象し得ないのですから。 ( d ) おそらくこの《非経験の領域なる神》と《経験的な存在である人間》とを結ぶものは それがあるとしたなら 《信じる》という行為である。 ( e ) 信じるというのは ひとつに 経験世界における《考える(表象する)》を超えた行為である。言いかえると 考えることの出来ない(表象しえない)何ものかとの対面である。 ひとつにはしかも その神と人間もしくは《わたし》を結ぶというのなら そこで 結ばれたという事件が起きると言わざるを得ない。言いかえるとそれは 《わたし》の時間的な意志行為である。 ( f ) わたしの時間的経験的な意志行為であろうと見ているが おそらくそれは わたしからの行動や操作によってはついぞ叶えられない事件であろう。その意味は わづかにどこかから・何ものかによって与えられたものを受け取るという意志行為であろう。その受領証を発行することが わづかに人間に出来る行為であり それが《信じる》であろう。 ( g ) さて 神はどこにいるか? ――どこにでもいるでしょうし どこにもいないでしょう。《わたし》の中にいるでしょうし それはわたしの自由になる持ち物などとしては いない。 ( h ) 神は いつ いるか? ――いつでもいるでしょうし いつも いないでしょう。《わたし》のいま・ここにいるでしょうし それはわたしの自由にすることができる持ち物などとしては いない。 ( i ) この宇宙が出来たとするならその出来たとき 神はとうぜんその宇宙を超えているのだから 擬人化して言えば その宇宙の生成を神は見守っていたことでしょう。その後の経過やじんるいの歴史などなどすべての経験的な現象やことがらに対しても 同じであるでしょう。 ( j ) ここで言うとすれば 経験世界である宇宙を超えて存在すると想定される神については 見守っていたと仮りするならば その天と地をその神がつくったと表現してもそれほどおかしくはない。その世界を超えているからです。覆っているし含んでいるとさえ表現されうる。経験世界が神をつくったとは ぎゃくに 言えないわけです。 ( k ) 《はじめ・創造する・天・地・形・やみ・淵・水・おもて・おおう・光・ある・言う・見る・良し・分ける・昼・夜・名づける・夕べ・朝・なる・第一・日》は すべて 経験世界のものごとであり それを表わす言葉です。これらを超えているのが 神です。超えていることによりそれらを覆い包み含むとも表わされ得ます。 ( l ) 神は光速をむろん超えています。歴史を超えています。世界をつつんでいます。 神は 宇宙の初めもその前をもそのあとをも超えています。宇宙の生成は それなりに(そのモノの運動にしたがって)出来たし そこから経過して来ていると考えます。 ( m ) もしそのほかに何かプラス α があるすればそれは ◆ 1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 ☆ の中の《神の霊》 これは何を言うのかです。あるいは ◆ 1:4 神はその光を見て、良しとされた。 ☆ の中の《良しとする》とは どういうことか? おそらく上の《神の霊》と関係するのではないか。なぜなら《良し悪し》となれば モノの自己運動とは別の――神にとってのとは言わないまでも 人にとっての――世界連関があるかも知れないゆえ。言いかえると ひとそれぞれの主観的な判断 つまり意志行為 の問題であるかも知れません。良し悪し ないし 善悪のことです。 ◆ 1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 ☆ ここで《夕べとなり》のあと 《夜に入り》とか書かれていない。そのまますでに明くる《朝となった》と書いてある。もしこのように人も夜に渡されずに 眠りの世界を経るのだとすれば そうだとすれば 上の《神の霊 あるいは 人間にとっての善悪(価値観)》とかかわらないであろうか? (あぁニ千字)
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- kigurumi
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えっとですね。 聖書の創世記の内容は、宇宙の誕生の時、人間が既に存在しており目撃した内容が書かれているのか? 宇宙の誕生については諸説があるが、どれも科学的検証を元に仮説が成り立っている。 そういう科学的根拠無しの宇宙の誕生説を取る場合は宗教 あるいは神話と呼ばれる。 フレッド・ホイルが「ガモフたちは宇宙は大爆発(big bang)で始まったなどバカげたこと(big ban)を言っている」と批判し、ガモフらはそれが気に入って、自分たちの考えをビッグバンって呼ぶようになったらしい。 ガモフたちが発想することになったきっかけは、キリスト教聖職者であり科学者でもある人の考えに影響をされたからだったはず。 キリスト教会は、そういう発想をする聖職者であり科学者である人を、断罪(big ban)するどころか、援助していた。 中世のキリスト教は科学を否定(ban)していたか? ノー。 banしていたのは知識の無い層のキリスト教信者たち。 無知は罪(「big ban)。 さて、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教では、神が赤い土に息吹を吹きか人間に生命を宿したというのが常識になっている。 それとは違う説を出したら信者は「BiG BAN!」と叫ぶ。 だが、聖書の創世記と合致している説を出した人を「神がこの世を作ったのんだから、お前の考えは聖書と矛盾するからBIG BANだ」って言う盲目の信者であり科学者って・・・ それこそ BIG BANG(ドキュン! にひっかけました 笑) 19世紀、えっと1849年ニネベの図書館から粘土板が発掘された。 ニネベといえば、ヨナは神にニネベの人々に40日後に滅ぼされると伝えに行けって言われたが、ヨナは拒否ったので大魚に読み込まれた。 しかしヨナは3日後に復活し、ニネベの人が滅ぼされないよう改心をさせ、ニネベの人達は神によって滅ぼされなかったって内容。(ヨナ物語) 新約聖書は4世紀より以前に書かれたものは見つかっていない。 新約聖書の確立は4世紀ってことですね。(元となる神話は少なくとも5千年くらい前からありましたが) そのニネベの図書館から発掘されたのが世界最古の聖書! ではなく、後にエヌマエリシュと呼ばれることになる粘土板に書かれた神話。 http://www.sacred-texts.com/ane/enuma.htm これが3大宗教の創世記の部分になった。 とフィールドワークし発掘資料から過去を知るのが考古学。 エヌマエリシュの物語があの地方に一般的に流布されている神話で無かったら、創世記の部分は別な物語になっていた。 結局聖書とビッグバン理論は合致しているので、聖書は正しかったと証明されたか? いいや。 ビッグバン理論以外にも宇宙創造説はある。 何も無いところには何もできない。 水が無いところに水たまりができた。 雨が降ったから。 天にこんな重さの水溜りは無い。 気化してたから。 水素2と酸素1で気体が液体になる。 液体としては存在していなくても、別な物質として既に存在しているわけです。 合成したことで、新たなものになった。 「その合成は神の意志だ 神は意志を持ってすべてを創造(合成)した」という説を、私は否定します。 人によっては「貧乏な家に生まれたのには理由がある」という人がいる。 それを正しいとするため、輪廻とかあの世とか持ち出して、整合性を取ろうとする人もいる。 それはこの世はどうしてあるのかを説明するため、神話を作った人達と同じ。 Aの説はBとCから成り立っているのなら、BとCが正しいことを証明しない限り、Aの説が正しいということを証明したことにはならない。 聖書の天地創造はは、ヘテ人(ハティ人)・アッカド人たちが持っていた神話が元になっている。 だったら、その神話が史実であると証明しない限り、聖書の内容は正しいとは言えないわけで。 それを証明することをしないで、いくつかの物語が組み合わさったできた聖書の内容を事実だと言うのは、横着だと思う。 いや 別にあなたを批判しているわけじゃないです。 信者全般に、「もうちょっと自分は知らないということを知りましょう、私も知らないことはいっぱいありますが、少なくとも信者さんたちより調べることを横着していませんよ」って感じです。 「信者とは、事実を確かめることをせず他人から言われたことを鵜呑みにし妄信する横着な人」って書かれるかどうかは、今後の信者の動向次第な気がする。
お礼
聖書の創世記の内容は、宇宙の誕生の時、人間が既に存在しており目撃した内容が書かれているのか? 【木胡桃さんありがとう。仰せのお話も解釈には重要ですね。わたしは警察や検察の論証ではないので、科学や論理理性をここでは問題にしないのです。創世は最初であり、そして今であり、そして最後だということなんです。人間とは神であり、神とは人間である、という思考です。】 仰せのことを全文ワードに取りました。よく読ませてもらいます。 聖書やその中の創世の母系が何かは大変興味のある話ですね。 そして歴史的にどのように歩んできているかも。 そういう科学、学問を否定したり、そういうことを蹴飛ばして、我が世界にいるんだ、とはいかないでしょうね。 しかし科学や学問、その成果というものの限界、その発言領域というのもありますからね。 ありがとう御座いました。拝読します。
- kigurumi
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要するにこういうことを考えているんじゃないか と。 ・自分 あるいは 宇宙は 何かが意図して作ったんじゃないか。 ・その何かを人々は神と呼んでいるのではないか ・人間や宇宙など いろいろなものは何かからできているが、素材の時は名前がついていない つまり闇と呼び、できあがったものを光 すなわち 人間 あるいは 宇宙 など名づけているのではなか。 昆虫の名前がわからないときは、何物かわからないが、蛍という名前がわかると、どういう昆虫かアバウトだがわかるように。 ・何物かわからない状態=名前が無い 何物かと定義するとき、人は名前をつけた。 ・名づけ者はどっちにいるのか。 闇(名前が無い)か光(名前がある)か 例えば太郎君の行動。 明るくて見知らぬ人にもどんどん話しかけるが、おおっとぉ というようなことも平気でズバズバ言い、相手を困惑させることがある。 買い物を頼んでも店ではレジに並んでいられず買い物をやめてしまう。 宿題はほとんどしていかないし教科書すらロクに持っていかない 「宿題は済んだの? 明日の支度は済んだの?」と聞くと必ず「今やるよ」と返事があるが、宿題をやっていったことが無い。 必用な教科書を持っていかず、毎日先生から呆れられている。 授業中は身体をゆすって常に動いている。 他の子に質問していても、太郎君が横から答えを言ってしまい、どんなに注意してもやめない。 そのうち 周りの子から「太郎君 変」と言われだす。 親しいと思っていた友達からも「変」と言われ、自分は普通じゃなく「変」なんだと思うようになる。 そして太郎君は神様はどうして僕をこんな変だと周りから言われる人間に作ったんだと思い、自分が変じゃない人間として産まれた可能性を考えるようになる。 マトモな人間に生まれる、マトモじゃない人間に生まれる。 この差はなんだったのかと考える。 前世のたたりか? 来世のために今世で修行をしろということなのか? そんなことを考えていたある日、テレビで生命の誕生の番組を見る。 生命が存在できない火の魂だった地球がやがてひえていき、プラズマが地球にまわりを漂い、そのプラズマが物質に変化をもたらし、DNAとなる物質を作り出した という話を聞いて、「物質が生命を宿す 不思議だなぁ」と思う。 プラズマ現象は神の仕業じゃなく物質の性質なわけで、、、とか思い、自分のプラズマ減少 つまり他の子とは違う行動をするこの現象について深く考え出す。 何か目的があった上でこうなったのか、それとも。 太郎君は夜空を眺め、「生命にならなかった星たちよ」と思い、生命を宿した星である自分の存在を思う。 何か目的があって生命を宿したのか、それとも生命を宿したからそう思うようになったのか。 ツラツラと考えていたが、飽きっぽい太郎君はやがて冷蔵庫におやつがあることを思いだし、「今一番大事なのは おやつを兄弟に食べられる前に食うことだ」と思った。 次回太郎君がまた変から脱却して、宇宙について考える機会は。。。いつ来るんでしょうね。 ちなみにこの太郎君は架空の人物ですので、あなたや私とは一切関係が無いです。
お礼
#14がありましたね。 失礼しました。よく読ませていただきます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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ひとことお邪魔します。 まづ次の記事を見てください。 ◆ (ヰキぺ:ティアマト) ~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%88 ティアマト(Tiamat)は、古代バビロニア神話の女神であり、全ての神々を生み出した母なる神である。その名は「苦い水(塩水)」を意味し、伴侶である神アプスーは「甘い水(淡水)」の意である。 アプスーとティアマトは多くの神々を生んだが、彼らとの生活が煩わしかったアプスーは、ティアマトに彼らを殺すよう持ちかけた。しかし、母なるティアマトはそれを拒み、逆に息子達へアプスーの企みを教えて、警告した。〔息子の〕エアは、ティアマトの警告を聞くと、兄弟姉妹と語らってアプスーを殺してしまった。 ティアマトは太母として敬われたが、やがてエアたちは権威を欲し、ティアマトに神々の主の座を降りてくれるように願った。この要求はティアマトを激怒させ、使いの神を吊るし上げて辱めた上で、返した。ティアマトの力に恐れをなした神々だが、彼女を怒らせた以上、退く事も出来なくなってしまった。 さて、孫の世代に当たる神々に、マルドゥク(エアの息子)という勇猛な神がいた。 最強の武神たるマルドゥクは、ティアマトへ宣戦布告する。ティアマトのほうも、権威の象徴たる「天の石版」をキングーという神に授け、マルドゥクを迎え撃った。しかし、マルドゥクの力の前にキングーはあっさりと敗れてしまう。 ティアマトはその巨体で戦いに臨み、マルドゥクを飲み込もうと襲い掛かったが、マルドゥクには秘策があった。ティアマトが彼を飲み込もうと口をあけた瞬間、暴風を叩きつけて口が閉じられないようにし、ティアマトの体の中へ剣を突き通した。さしものティアマトも、これには耐え切れず死んだ。 マルドゥクは彼女の体を二つに引き裂き、一方を天に、一方を地に変えた。彼女の乳房は山になり、そのそばに泉が作られ、その眼からはチグリスとユーフラテスの二大河川が生じたとされる。こうして、母なる神ティアマトは、世界の基となった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さてもしこの神話の神々を 創世記の神とひとしいと見るならば それは哲学とは何のかかわりもないと明らかにしなければならないのではないでしょうか。単なる人間の社会的な歴史を語っているに過ぎないでしょう。これを放っておくことは 哲学カテゴリの参加者にとって 恥辱ではありませんか。
お礼
bragelonneさん ありがとう御座いました。 母なる自然、自ら出てきたガンガに身を沈め、天界にもどる(不可視になる)ガンガなる女神妻。 そしてガンガに光(観念)を反射させて可視なる宇宙をつむぎだしているシャンターヌ。 夢、架空なる創造界。 それは創世記には通底するかのようですが、ご紹介の古代の創成のお話は、記紀に通じるみたいですね。 私はそれ以上の思考ができませんが。
補足
どうも創世記の神とは異なる、一つの古代人の創造民話ではないかと存じます。聖書の創世記の神とはかけ離れていると存じます。 私はそれ以上の思考ができませんが。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.2です。補足要求のつづきにお答えします。 ★ (l)【ここも全く異論がありません。そして“生成”ということばで神を離れて、経験界が自然に展開する意味を受け取ります。だから“見守る”ということなのでしょうね。これは神と創造界、森羅万象の関係を思うのにとても示唆的なタームですね。“生成”と“見守る”は対になりうると存じますし、神と経験界との関係を示す大事な言葉ですね。】 ☆ 人間が《見守る神》そのものに成ることは 無理だと考えます。もし仮りに梵我一如よろしくわれこそはブラフマンなりと言う人がいたとして その場合もそれこそお釈迦さんの掌の中で遊んでいるということでしょう。梵我一如は 望んで・願って・修行を積むことそのもののみによって 成るものだとは見ません。われわれは初めっから かの者につつまれているのですから。 ★ (m) ◆1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。【私はここの《神の霊》は《神の意志と意識そして、force》かなと思います。】 ☆ ブラフマンが主宰神と呼ばれるに止どまらず 創造神ブラフマーそして保守神ヰ゛シュヌおよび破壊神シワ゛とに分けて説明するといった派生的な認識に及べば そのように《神の意志と意識そして ちからとそのはたらき》として説明するようになると思います。 ★ ◆1:4 神はその光を見て、良しとされた。【私は関連的な善悪の評価判断ではなく、単純にbless、嘉すだとくらいにしか読み取れませんでした。つまり神はそこに自己を見た(自己とした)。ということだと思いました。】 ☆ 異存ありません。と同時にわたしの見方は 人間の側からどう見るかという側面でも何か捉えられないかと思ってのことです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◆1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 {☆・・・・上の《神の霊 あるいは 人間にとっての善悪(価値観)》とかかわらないであろうか?} 【私はそういう方向に思えませんが、bragelonneさんの今後のご思索を期待します。】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 現代人の見方からすると 地球の自転によって昼と夜とがある。でもそれは 同じところに留まる場合です。別に太陽が照るのをやめて夜になるのではない。となれば その意味でも特に《夜になった》と言う必要もないかも知れない。 となれば もし仮りに上の《神の み心》あるいは《神による bless, 嘉するところ》といったプラス α の側面とつなげて解釈するならば 《夜 つまり 夜になった》とは書いてないということは その心の問題だと見られなくありません。 神のふところに抱かれているならば ひとはその心が 夕べとなったあと 夜に入ることなく夜に渡されることなく 眠りを経て あくる朝を迎える。こう言おうとしていると読みました。そういうブレッシングであると。 聖なる質疑応答の場を汚しはしなかったかとおそれます。たいへん失礼しました。
お礼
bragelonneさん、力作連続。ありがとう御座いました。 大変勉強になりました。
補足
◆私達は初めからかのものに包まれ、見守られている。そして生成していく。私達における生成を、かのものに見守られていいる。という理解でした。 ◆1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 ここのコメントも読み取りとして理解でき、異論はありません。 私達の教えでは、人の経験能力や認識能力、あるいは紡ぎ能力ですね。 そういうものとして機能し、働いている二重性の原理の中の一つ、或いはそういうものの象徴的代表として光と影、とか、夜と昼が表現方法が出されているという見かたをします。 そして更にこれとは異なり、昼はwakeful意識界、つまり創造界の意識であるという象徴ということでもあります。 進歩の人は、この照り輝く仮想の意識界ではなく、もっと根源界に自己を持つということであります。 そして光と闇の境界を地平線として、地平線を見つめることが勧められています。 そういうことからbragelonneさんの創造のご質問に関心を持ったのです。 ともかく私達は境界というもの性格について大きく重点をもちます。 さて、昼と夜、闇と光ですが。 この境界があるとすればなにかというコメントが欲しかったのです。 ≪余談≫ 白鳥は悲しからずや空の青. 海の青にも染まずただよう(牧水) (白鳥とか白馬はいろいろにつかわれていますが。)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.2です。補足要求にお答えします。 ★ (b)【やはり信じるということにいくのですね。】 ☆ このことは案外大事だと思います。釈迦に説法でしょうが ヒンドゥーイズム(バラモン教)において 神はブラフマンですが この中性名詞とは別に 男性名詞でブラフマーなる創造神が立てられます。創造されたものの維持は ヰ゛シュヌ神そして 破壊はシワ゛神でしたね。そして再創造になるようなのですが こういった説明になると 《神》といっても すでに認識の問題になっています。《つくる・たもつ・こわす》といった経験事象をあつかっているからです。 むろん表象し得ぬ唯一神ブラフマンについて その属性とやらとして細かく説明しているのだと思います。言いかえると 宇宙の生成や世界の成り立ちと営みについて ブラフマンが見守るということを さらに詳しく そしてその経験事象に介入するかたちで 説明しています。 つまり 言いたいことは ここでもいづれにしても 根本の《信じる》を介してのブラフマンとの対面 これが大事だということだと考えます。それを外さなければ あとの説明は派生的なものだと捉えておけばよいはずです。 ★ (d)《非経験の領域なる神》と《経験的な存在である人間》とを結ぶものがあるとしたなら それは《信じる》という行為である。【そしてまた、神を求める、愛するという事ですね】 ☆ 《神を愛する》のは この《信じる》の事件が起きてからのその同じ信仰の持続としての動態のことです。《神を求める》のは 信じる事件の前にも後にもひとは起こすことがありますが 一般には《ここにわたしはいます》という訴えのようなものだと考えます。なぜなら もし神に祈り願うというのならば 神はそのあなたの求めるまえにその願いを知っているからです。信仰とはそういうものだと考えます。 ★ (f)わづかにどこかから・何ものかによって与えられたものを受け取るという意志行為、【ということも信じるということな(になる)のですね。】 ☆ たとえば梵我一如と言います。《わたし〔の中核としてのアートマン〕》とブラフマンとの合一だとか言われます。ひとつだけ注意があります。人間の精神においてこれを思ったり念じたりしても それは信仰とは違うということです。 梵我一如は 単純にひとの精神の中にあるのではなく ひとがブラフマンの懐に抱かれてこそ成るものではないでしょうか。それは 人間の精神の能力やあるいは言うとすれば修行のみによって成るものではない。こうも帰結されます。上に《神をもとめる》のは わが存在をアピールするものだと言いましたが 修行も同じだと見るものです。 或る日或る時ブラフマンからのわが心の窓へのおとづれがある。このおとづれを俟って それを受け容れる。これが信じるだと見ます。何かを念じるのでもなく 修行の成果それ自体のことでもないと見ます。 ★ (j)【・・・コメントが欲しいところです。】~~~~~~ 経験世界を超え、見守り、覆う。そして含む。これに異論はありません。でもbragelonneさん、まさかこの超え、見守り、覆うものが、自己に異質なものを含んでいるんではないでしょうね。 “含む”って自己の中におくことでしょうね。ならばその被含存在は神たるものの自己自身ではないのでしょうかね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《回答No.2 ( g )神は〈わたし〉の中にいるでしょう》という意味で ★ ならばその被含存在は神たるものの自己自身ではないのでしょうかね。 ☆ ということでしょうが それは すぐ上にも触れたように 自分が念じたり修行したりしたそのことの結果であるとはわたしは見ません。あくまで神が神のほうからおとづれ これをわたしが迎え入れ受け容れた(つまり 信じた)その結果であるという見方です。 別の見方がありましたら おしえてください。 ★ 自己に異質なものを含んでいるんではないでしょうね。 ☆ 《異質なものを含む》場合は 人間どうしの関係においてその交通のあり方から 相手の意識や感情を或る意味でアース役となってのように受け取り受う止めるときでしょうか。でもこれも案外 神に仕えるがゆえにこのアース役を引き受けているということかも知れません。
お礼
No.2にお礼をかかきました。 どうもありがとう御座いました。 今後ともどうかお教えを賜れますように。
補足
bragelonneさん、再度のご回答に感謝します。それにbragelonneさんというご本家に無沙汰申し上げていますことをお詫びします。 創造意識以前の、不可視のブラフマンとの介在としての、根本の《信じる》についての詳述に感謝します。 そしてbragelonneさんは、この《信じる》の動態的延長が《神を愛する》とご説明されています。 これはよく受け入れることのできるお話です。 そして、《神を求める》は 信じる事件の前にも後にも生起しえ、《ここにわたしはいます》という存在性に繋がるのであり、信仰とはそういうものだという事ですね。これもよく納得できます。 ≪梵我一如≫の成立とその構造、その以ってもたらされるプロセス的性質についても、私達の教えのとおりであります。 《神をもとめる》は、《わが存在のアピール》であり、これは《修行》ともいえる。ということも異論はありません。 ≪梵我一如≫は溶け込みということで、神の神の中への合一ということなのでしょう。 人間がシャッキリ立って、がんがんやることを超えてしまったところで、ある日あるとき窓からブラフマンの訪れがある、ということでありましょうね。 私達はブラフマンの大洋の中に波が消えるとかいうのですが。 或いは塩でできた私達が、大洋に入って、塩が溶け、自分が全て、全てが自分になるというのですが。 そして上とは場面を異にして、ブラフマンは創造物の宇宙を含むという問題なんですが、私が確認を求めていますのは、修行と訪れでなく、創造した結果の宇宙をブラフマンが含んでいるというご説明のことなのです。 ブラフマが創造した宇宙はブラフマンと同質なのか、一体なのか。 同じものなのか?ということでした。それとも、修行の成就や訪れ前の私達や、創造界自体、或いは創造界の様々なものはブラフマンには異物なのか、という質問でした。いかがでしょうか? そして更に、ここまでお話をして頂けると、人の側のこの根本の《信じる》という機能ないし、能力というものの淵源性や由縁についてのお話も欲しくなります。
さとりはそれぞれの生における通過点に過ぎないけれども それを通過したものは それを境に意識は確実に変容し始める しかし 哀れにも理解しようとする努力によって 伝言ゲームの中の誤謬までしっかり固定化し定着させてしまうものは その誤謬がこびりついてしまっていて落とせない かおなしっていう妖怪状態 糞味噌を一緒くたにして飲み込んでいて峻別できない 何か原因があって長年瞑想のワークショップに通ってもさとれなかったり など 様々な要因で人がさとりに至ることが妨げられる
お礼
ブロックしているのか、お礼ができない。
小さいものから大きなものまで様々あるさとりのなかで 大きいものは境界を生ずる 境界はその明晰性によって 光 慈悲 自立 含まれ 闇 愛 依存 との間には言葉以上の明確な切断がある
お礼
ありがとうございました。
釈尊はさとりへの道だけを説いたと言われている さとりを啓くということがないから 誤謬は起こる これは何を意味してるか そのものを見てはいけない ´
お礼
ありがとうございました。
- mmky
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○全知全能の神といわれる存在は高次元の巨大な意識エネルギー体と呼ばれるものですね。 その高次元のエネルギーの意思が低次元に展開していく様を断片的に表現しているのが創世記ということです。 つまり、はじめに神の「かくあれという」念いがあり、その念いにより、3次元宇宙意識、3次元宇宙意識が銀河意識を創造し、銀河意識が恒星意識を創造し、恒星意識が惑星意識を創造し、その後「光あれ」という念いで世に言われる「ビッグバン」が3次元宇宙意識のいたるところであったのですね。これ以降の話ということでしょうね。以降、恒星は光を担い、それ以外は闇を担っているということですね。 この後、惑星に生命を創造するために全知全能の神の意識体がいくつかの惑星に次元を落として投網をかけるように張り巡らされたということでしょう。その各意識体が各惑星に生命の創造を行ったという流れですね。 聖書や宗教で言うところの全知全能の神は高次元の根本の神ではなく、各惑星に存在する根本神の一部である次元を落とした意識体ですね。この意識体は救世主とも呼ばれますが、救世主の中の救世主、主の主が根本神の直系ということでしょうね。地球は主の主が存在する選ばれた惑星ですね。 高次元の根本神の念いと低次元の創造主の念いは同根ではあるが違うものですね。根本神の念いを体現する現場の責任者ですからね。 このような流れで、整理して創世記を読めば理解できるのではないでしょうか。 つまり、次元の異なるものを同じ土俵で考えても到底理解できないという話なのですね。 聖書の記述は断片的ですし、強いて言えば、書いた者の理解の程度でしかないですから参考程度にしかならないものですね。 参考程度に
お礼
mmkyさんいつもありがとうございます。 聖書や宗教のいう創造神のまえに、創造の意識以前の存在については、私達のSelf-Realization Fellowshipでも説いておりますので、mmkyさんのお話をそれにそって、理解しようと努力しました。ありがとうございました。 ○全知全能の神といわれる存在は高次元の巨大な意識エネルギー体と呼ばれるものですね。 【であるかもしれませんね。そして以下は意識体でもある高次元の巨大な意識エネルギー体の創造ということを、自然科学的に読み解いてくださっているのですね。そして聖書などの創造神には、更に根本神、全体神が系統的にあるというお話ですね。そのことについては私も異論を挟みません。】 ありがとう御座いました。
- kigurumi
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<その時> 上にある天は名づけられておらず、下にある地もまだ名づけられていなかった頃。 <その時(この時)>はですね、「はじめにアプスーがあり、すべてが生まれ出た。混沌をあらわすティアマトもまたすべてを生み出す母であった。水は互いにまざりあっており、野は形無く湿った場所も見られなかった。神々の中で生まれているものはいなかった> とありますので、1の答えは「どこにもいなかった」ですね。 2. アプス(真水) ティアマト(塩水) ムンム(霧)と例えられていますが、要するにプラスとマイナスと・・何かなんかじゃないかと。 3. 「神の姿に似せて天体を作った」とありますので、太陽は神に似姿なわけで。 人間の視覚は限界があり、非常に狭い光の波長しか認識できませんので、その狭い領域の波長を人間は「可視光線」と言っているわけで。 >反射しないと見えません。 太陽そのものを見ると目がやられてしまいますが、蛍光灯やロウソクの灯り程度なら直接見ても大丈夫。 >反射しない状況を私たちは闇といいます 例えば太陽はもともと惑星だったわけで。 それがどんどん小さくなって、臨界点に達したとき爆発して外にエネルギーを放出するようになったわけで。 電子かなにか知りませんが、それが激しく衝突して火花が散っているわけで。 太陽って巨大な原子炉ですから、オゾンホールができると、直接有害な宇宙線を浴びてしまい、皮膚がんとかになるわけで。 そうじゃなくても大気だけでは防げないので、日々我々は被爆してますけどね。 4. 要するに地球が時点しているからでしょ? 太陽とは逆の方にいると太陽光線が届かないので夜になるわけでしょ? 地球が時点していなければ、太陽に面した面は常に昼だし、逆は暗闇。(他の惑星が無いと限定して) 太陽がぼっかーんと爆発して、太陽の引力と外に向かった力の均衡が取れた位置に今地球がいて、衛星のように回っているわけでしょ? この軌道に乗らずに地球がそのまままっすぐ進んでいってたら、太陽が届かない場所にいるわけだから、まっくらなわけで、人間なんて存在しなかったわけです。 たまたま偶然に稀なることが起こって、今の軌道あたりをグルグル回ることになったので、生命が誕生しては滅びを繰り返し、人間もできちゃって「おてんとうさんは生命の源だ ありがたやー」ってなっているわけです。 宇宙船で地球の外に出たら、昼と夜の区別はありません。 5.ナンセンスだと思います。 だって他の星みてください。生命が生存できない環境の星ばかりじゃないですか。 太陽に近ければ水分がひあがってしまうし、遠いと氷点下の世界になる。 自転しないと、片方は常に昼で水がひあがり砂漠になるし、片方はいつまでも夜で氷が解けない状態になり植物が育たない。 うまくバランスが取れたくるくるまわる地球であっても、火の玉だった頃は生命は存在できなかったし、氷に覆われていたときも、人間は誕生しても集団は数十人で、氷に覆われていたので食べ物があまりなく子孫を増やすのがとても難しかったわけで。 人間が急激の増殖しだしたのは、農耕を発見してからと言われています。 そうなると他の動物のように、一日中食料を求めて移動するってことをしなくて済むようになり、天体を観察することで、いつ種をまけばいいかがわかりだし、貯蔵をしてとれないときもそれ食べて生き延びたわけだし、太陽は生命にとってとても大切な存在だと知っていたから、太陽信仰が起こったわけです。 月が突然小さくなり、大爆発をしたら、もう一個プチ太陽ができることになり、気候も変わるでしょうね。
お礼
木胡桃さん、こんにちは。ありがとう御座います。お話はそのとおりと存じます。 1.上にある天は名づけられておらず、下にある地もまだ名づけられていなかった頃。【つまり人間の認識となっていない状態ですね】 【人間の認識を神がする段階まで、1の答えは「どこにもいなかった」ということでもありえますね】 私も人間を通して全てがなされているという理解を持っており、精進しているヒンドゥの思想もそのような言い方になっています 2.要するにプラスとマイナスと・・何かなんかじゃないかと。【私もそう存じます。精進している思想もそういう創造論になっています】 3.異論がありません。 4.お話はお話として、異論ありません。 5.はいそのとおりです。 至極科学的だと存じます。だから異論はありません。ありがとう御座いました。
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お礼
bragelonneさん 素晴らしいことをお教えいただき心よりお礼申し上げます。 宇宙創成説のような神話的仮説は、その時代、文化圏の科学的エトス (http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6153187.html) とかいう難しい質問があるようですが、私としては時代や文化圏のエトスがどうのということなどは問題にしていない中での質問でありました。 確かにそういう面からも思考の対象にできるかも知れませんが、聖書の完璧性はともかく、創世の部分は、私は宇宙や人という経験界を超えたところでの問題だと思っております、そう捉えています。 万世そして森羅万象において、万人において、世界の何処でも通じる真理の上の真理だという考えです。 森羅万象の創世と構造であり、人間の創世と構造であると思っています。 神を語る事は人間を、そして森羅万象を語ることだと思っています。 人生の勝利とは神を語り、森羅万象を祝福して出て行くことだと思っています。 エトスだのパトスだのということばで、50年も前に若い教員が教授会で発言していたが、まぁ今は一本の花草として祝福しております。
補足
bragelonneさん お忙しいところ、ご本家様よりお越し下さり心よりお礼申し上げます。大変触発的なご回答をありがとう御座います。 (a)【神が人間にとって表象し得ないという事をよく理解します。】 (b)【やはり信じるということにいくのですね。】 (c)【経験界には神ということばに対応がないということを理解します。】 (d)《非経験の領域なる神》と《経験的な存在である人間》とを結ぶものがあるとしたなら それは《信じる》という行為である。【そしてまた、神を求める、愛するという事ですね】 (e)【《わたし》時間的意志行為ということを教えてもらいました】 (f)わづかにどこかから・何ものかによって与えられたものを受け取るという意志行為、【ということも信じるということな(になる)のですね。】 (g)【異論はありません。】 (h)【異論はありません】 (i)【この“超える”、そして“見守る”というフレーズはよく出会うのですが注意して使う必要がありますね。感覚をよく表現しているのですが。】 (j)【bragelonneさんにわたしが、確認を求めるというか、コメントが欲しいところです。】 経験世界を超え、見守り、覆う。そして含む。これに異論はありません。でもbragelonneさん、まさかこの超え、見守り、覆うものが、自己に異質なものを含んでいるんではないでしょうね。 “含む”って自己の中におくことでしょうね。ならばその被含存在は神たるものの自己自身ではないのでしょうかね。 なお無論、経験世界から神を産出するということは、わたしとしても問題外のことです。 (k)よくわかります。 (l)【ここも全く異論がありません。そして“生成”ということばで神を離れて、経験界が自然に展開する意味を受け取ります。だから“見守る”ということなのでしょうね。これは神と創造界、森羅万象の関係を思うのにとても示唆的なタームですね。“生成”と“見守る”は対になりうると存じますし、神と経験界との関係を示す大事な言葉ですね。】 (m) ◆1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。【私はここの《神の霊》は《神の意志と意識そして、force》かなと思います。】 ◆1:4 神はその光を見て、良しとされた。【私は関連的な善悪の評価判断ではなく、単純にbless、嘉すだとくらいにしか読み取れませんでした。 つまり神はそこに自己を見た(自己とした)。ということだと思いました。】 ◆1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 {☆・・・・上の《神の霊 あるいは 人間にとっての善悪(価値観)》とかかわらないであろうか?} 【私はそういう方向に思えませんが、bragelonneさんの今後のご思索を期待します。】