• ベストアンサー

奇形に対する差別

身体に奇形のある人に対する差別について考えるということは、自分を「正常」とする人間の優越感のあらわれでしかないのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ipa222
  • ベストアンサー率20% (903/4455)
回答No.3

それは極論だと思います。 奇形と言う言葉は、頻度の少ない珍しい形をしていると言うことです。 日常、見慣れていれば何とも思いませんが、珍しい人がいれば、最初はびっくりするでしょうね。 それと差別とは別問題です。 ご本人が感じる差別的感覚と、現実の差別とは大きな差があると思います。 日本人はまじめだから、どう対応していいか迷ってしまうので、対応がぎこちなくなってしまう人が多いと思います。 本質的な差別行為は、非常にまれだと思います。

yosoy
質問者

お礼

ありがとうございます。 そもそも自分の想定した「差別」とは何か またしても考えさせられました。

その他の回答 (4)

  • 3691819
  • ベストアンサー率18% (162/873)
回答No.5

 こんにちは。 それは違います。自民党政権は徹底した障害者隔離政策を取ってきた為、 我々健常者が障害者との接する機会が極端に少なくなってしまい、障害者 との触れ合いに慣れていないのです。  それと最近は改善されてきた面もありますが、日本の街は障害者にとって 実に不親切に出来ているので、そういう意味でも障害者と触れ合う機会が 奪われています。  障害者自立支援法も障害者は家でじっとしていろと言わんばかりの悪法 ですが、公明党までが賛成しちゃっていますよね。  金持ち優遇の自民党公明党政権が続く限り、その対極にいる障害者に 対する差別も永久に続くのではないでしょうか。  友達が障害者になったら差別しますか?  家族が障害者になったら差別しますか? 環境と教育が差別意識を生むのです。今の日本の教育と環境はある意味 世界で最低なのではと、時々思う事があります。

yosoy
質問者

お礼

ありがとうございます。 「珍しい」とはつまり普段から接していないというだけのことなのかもしれませんね。

  • jk7
  • ベストアンサー率18% (46/247)
回答No.4

人間は、「ふつう」でない人を見ると、凄い!と思ったり、逆に差別的に見たりするものです。 学生時代の先生が、こんな話をしてくれました。 家で猫を数匹飼っていたが、途中から交通事故に遭い満足に脚が使えない猫も飼うことにした。その猫は、移動する際にはっていくしかないので、次第にお腹の毛がみな抜けて奇妙な、奇異な身体になってしまった。それを見たもとからの飼い猫は、みなその猫を避けた。 結局、人間も動物も同じなのです。 ただし人間には理性があるので、奇異に見えたからと言って差別してはいけないのです。

yosoy
質問者

お礼

ありがとうございます。 猫に人間の本能を垣間見られるような気がします。 そもそも差異を差別の根拠する必要がはたしてあるのか。

  • Elim03
  • ベストアンサー率23% (146/632)
回答No.2

 「差別」については、おっしゃるとおり「自分は奴とは違って奇形ではない」という、人間の醜い情念の表れだと思います。  これは、明らかに、社会的に払拭すべき問題です。  ただし、「差別」ではなく「本能的な違和感」となると、話が微妙です。  生物学的観点から言うと、人類に限らず動物(特にほ乳類)は、「同種族としての特徴が一定の枠組みからはずれるもの」に、恐怖や嫌悪感を、本能的に感じてしまうようです。  良い例が、生殖行為に際しての反応です。  もちろんこのようなことは、社会的・人道的・倫理的には許されないことですが、生物学的なことまでは止めようがないのも事実でしょう。  人間は社会的動物としての誇りを持つべきですから、このような本能的恐怖に負けないよう、倫理観を磨くことが重要なのだと愚考します。 

yosoy
質問者

お礼

ありがとうございます。 そもそも自分の想定した「差別」とは何か ということを考えさせられました。

  • murmed
  • ベストアンサー率47% (66/140)
回答No.1

 差別について考えることは、決して優越感に基づくものではありません。きっと優しい方なんでしょうね。  そもそも、奇形それ自体は何ら恥じることではありません。また、本人がそれで困っていなければ良いのです。  しかしそれを周囲が「可哀相」と思うことは、既に差別であり優越感の表れです。そのまま受け入れれば良いことに過ぎません。  現実では、そうやって受け入れられない人も実際多いのです。髪の色、肌の色、体型、生まれなど、奇形に限らず我々人間には、非常に下らないことで差別と優越の意識を持ちたがる人がいます。そういう人に「差別するな!」と言ってもなかなか改められるものではないでしょう。  しかし、例えばあなたの友達が事故で体の一部を欠損したらどうでしょうか。それでも、「あなたの友達」であることは変わらないでしょう?  障害は、本人あるいは周囲の助けで乗り越えられるものが多いのです。困っているときに救いの手を差し伸べられれば、それで良いのではないでしょうか。  反対に、「可哀相可哀相」と過剰に援助することも「逆差別」です。「自分は援助されて当然だ」と障害者に勘違いさせてしまう点で、罪深いことと思います。  回答になりましたでしょうか。

yosoy
質問者

お礼

ありがとうございます。 「可哀想に思う」ことは、自分はそうはなりたくないと思うことの裏返しなのかもしれませんね。

関連するQ&A