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神について勘違いが多いのはなぜでしょう?
- 神について勘違いが多いのは、神を精神と勘違いしていることや、宗教や教義を信じることに矛盾があると考えること、教義を信じることが人間信仰になってしまうことなどが主な理由です。
- また、神を人間の理性や想像力で表象できると思い込むことや、偶像崇拝という勘違いが多く見られます。
- 偶像は信仰内容の表現であると捉えるべきであり、偶像自体を重要視する片向きな考え方が存在するため、神についての勘違いが生じているようです。
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>> それでも《勘違いが是正されなかった》ならどうするか? > ――さじを投げます。 そう仰るだろうとは思ってました。 bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。 自己完結を目指されているのだろうな、と。 でも、本来、神とはそういうものなのかも知れませんね。 神は世直しのためにあるのではない。 > わたしは自分の子を信じる。 それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。 言葉に拘泥しすぎてませんか。 教えを絶対視するのと同じ過ちを犯していると誤解されちゃいますよ。 非経験の領域を想定するメリットは この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。 少なくとも自分にとっては。 そもそもの勘違いは 非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。 神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。
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それは、経験の範囲外のことを自分のものにすることが絶望的に難しいからです。 その逆として、偶像崇拝は安直で簡単に 自分のもの になるからです。
お礼
地勢ペンさん こんにちは。いつもお世話になります。ご回答をありがとうございます。 としますと 二つの反応に分かれてしまうようなのです。どういうことかと言いますと: ★ それは、経験の範囲外のことを自分のものにすることが絶望的に難しいからです。 ☆ だとしたら わざわざ精神の想像力の範囲の中にどうして引き寄せ引っ張りこもうとするのか? それとも精神にかんして いと高きところの精神をもって 《自分のものにすることが難しいもの》(つまり 神ですが)のいわば代理とするということでしょうか? しかもこの場合の代理は その代理がすでに元の神そのものだという錯覚があるように思うのですが どうでしょう? ★ その逆として、偶像崇拝は安直で簡単に 自分のもの になるからです。 ☆ つまり上で見た《代理をほんものと錯覚するところがある》にもかかわらず 偶像崇拝で済ましておこうということでしょうか? つまりは 偶像は偶像なのだと分かっているのですよね? だったらそれは偶像である。代理である。ほんものではない。こう言い続けているなら 何も問題もないと思われるのに そうはしないのでしょうかねぇ? 《信じる》とは どういう行為か? これが分からないのでしょうか? ふとこう思いました。 信じるの対象(じつは 非対象)は 非思考の場ですから 非経験であるわけです。ですが この非経験のものを対象として(?) 信じるというのは 非思考の場において・つまりそのような心の窓において そこをノックする音あるいはその香りをただ受け容れるということだけなんですけれど。 つまり 受け容れるというのは 経験行為です。その対象は 非経験のものです。ですから 人と神との窓のような場が 心にあるのではないか。 あぁ 少し分かりました。この非経験のなぞの何ものかを受け容れるというのは けっこう思いきりが必要です。言ってみれば賭けをするような決断であり行ないであるかも知れません。ですから むしろ理知的な性格の場合には 躊躇する・もしくはさげすむかも分かりません。 でも神の弱さは人間の強さよりも強く 神の愚かさは人間の賢さよりも賢いとも言いますしねぇ。 《簡単に自分のものになった安直な偶像崇拝》で済ましたとしても それをわづかに仮りの姿(偶像)であり ほんものの代理なのだと気づけばいいのですけれど。あっ それと そのほんもののをほうを精神の胃袋に飲み込むという(受け容れるという)行為も必要ですね。そう言えば。 取り敢えずこんなところです。
- rin00077
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神の存在を証明した人もいないし、神が何なのかを証明 した人もいないため、神の正体は○○ではないのか? と、勝手に想像するようになる。 勘違いをさせないためには、神が何たるものかを証明する 必要がある。 神が人間の理性や想像力で表現できないくらい崇高なもの であれば、なぜ人間は神の存在を知りえたのか? 人間ごときが感じる事さえできないくらいの存在ではないのか? つまり人間が神の存在を知りえた、ということは、神は あんがい身近なものかもしれない。と、僕は思っています。 しょせんは、神は人間が想像し表現できる範囲のものでは ないのでしょうか?
お礼
りん00077さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 結びの言葉として 前半( a )で同意見で後半( b )で違って来ています。という見解の突き合わせになります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( a ) つまり人間が神の存在を知りえた、ということは、神は / あんがい身近なものかもしれない。と、僕は思っています。 ( b ) しょせんは、神は人間が想像し表現できる範囲のものでは / ないのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち ★( a ) 人間が神の存在を知りえた ☆ というところは 《知りえた》と思うくらいにその神を想定することが自然であると採ります。つまり 神は――その存在を証明し得ないわけですから――あくまで非思考の場として想定するだけのものです。 非思考の場という心の窓です。この窓を開けるなら 心の明けもしくは伸びがあります。それが 信仰であり 信じるというなら その対象(じつは 非対象)があるということで これを仮りに《かみ》と呼ぶということだと考えます。人によっては《無い神》であり得ます。 これらの想定のすべてが 自然である。人間にとってむしろその自然本性にもとづいて想定している。(つまり ひとが かなしいかな 朽ちるべき存在であるという本性のあり方と対応しています)。ゆえに ★( a ) 神は / あんがい身近なものかもしれない。と、僕は思っています。 ☆ とわたくしも思っています。 ただし そのあとの帰結では 見方を異にしています。 ★( b ) しょせんは、神は人間が想像し表現できる範囲のものでは / ないのでしょうか? ☆ なるほどわたしの心の窓にあたかもノックをして来るかに思われるほど身近なのですが それでは そのノックの主は どういうもので どこに存在するとみることになるでしょうか? わたしの見方としては 窓の外ではないかと考えます。あるいは 窓を超えている。 そして超えているということは じつは 窓を覆い包んでいるとも言える。あるいはさらに 窓の中・心に内にもやって来ているかも知れない。 とは思いますが そのときにも 考えるに ★( b ) 人間が想像し表現できる範囲のものでは ある ☆ とは思われない。のです。 精確に述べる必要があります。 非経験の領域が想定される。そこはわれわれ人間にとっては 非思考の場であるとして受け取ることが出来る。つまりはそれとしての心の窓である。或る日この窓をノックする音がする。この音は 人にとっての自然本性に合ったふさわしい香りであった。ゆえに 受け容れた。 だからこそ 心をふんわりと包むような場であり しかも心の中にもやって来るかに思われる。 ――こういう順序だと思うのです。すなわち (1) 非経験の領域と言えば 《人間が想像し表現できる範囲》を超えている。→ (2) その領域に相い対峙するとき わたしの心に非思考の場ができる。窓である。→ (3) 窓をノックするものがある。→受け容れる。→ (4) 心のうちにまで入って来る。→ (5) 中性子か何か知りませんが これは《人間の想像と思考と表象を超えている》からこそ入ってくると思われる。 (6) ちなみに 仏性ははじめから心のうちにあるという言い方がされている。 こんなところですが どうでしょう? つまり仏性とても 《人間の想像と思考などの能力のおよぶところのもの》であれば もっと自由にこの仏性をこき使うと思うのですが どうでしょう?
- Shin1994
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誰も見た事がないのに、想像であれこれやるからおかしな事になってしまう。 そもそも居るのかすらわからないものを信じ、その思想の違いで宗教的戦争をする人間は愚かですねェ… その戦争の原因にもなる"神"というのもまた人間を愚かにする原因の1つ…なんとも複雑ですね。
お礼
しん1994さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。《神》などの定義は No.1お礼欄に書いたところを見ていただきたいと申し上げておきますが わたしの見方は あなたと同じような筋をとおってぎゃくの結論に達している側面もあるのです。 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 誰も見た事がないのに、想像であれこれやるからおかしな事になってしまう。 / そもそも居るのかすらわからないもの ☆ であるのに 或るいは《居る》と言いきったり或るいは《居ない》と決めつけたりするという人間の愚かさ ここに《神〔と相向かい合う人間の心の伸び としての信仰〕》の問題があります。すなわち《決めつける》ことは 経験思考のみによっています。経験思考(コギト)をこの上なきとうとく有力なものと決め込んでいる。間違った信仰を持ってしまっている。 ★ そもそも居るのかすらわからないものを信じ、 ☆ という事情であるはずなのに この《信じる》を それは非思考の場であるのに 思考の場に落として築き上げた教義やらの ★ その思想の違いで宗教的戦争をする人間は愚かですねェ… ★ その戦争の原因にもなる ☆ のは あくまで人間の思考や思想の対立であるにすぎないにもかかわらず その原因を ★ "神"という ☆ 非経験のなぞに押しつける ★ のもまた人間を愚かにする原因の1つ…なんとも複雑ですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ どうでしょう?
>A. 神は 精神であるという勘違い。 ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。 これは以前の私の質問と他の方の回答を踏まえた問いかけと思いますのでお答えします。 神とは精神とは何かという問いは私にとって意味がなく、 道徳的に許される範囲内で力強く生きていくために人間に内在する力を尊んでいるだけのことです。 それを神と表現した時もありましたが、大多数が抱く神のイメージと干渉しあって誤解を与えたようですので反省して以後使っておりません。 要は、潜在能力等と表現すれば全くクレームにならない類のものかと思います。
お礼
ニキさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 結びとしての ★ 要は、潜在能力等と表現すれば全くクレームにならない類のものかと思います。 ☆ という趣旨で確かにこの質問を挙げております。そういうことかとわたしも思います。 たしかに昔は こうだったでしょうか。すなわち 非経験の領域とわたし(人間)が相い向かい合うとき そこに非思考の場ができると思うのですが その非思考つまり《思考に非ず》つまりその意味で《信じる》が ひとの心に起きると考えられます。 この信じるの対象(じつは 非対象)のおおもとを神と言う場合がまづあります。 そのあと この世界においてあたかも超自然的な現象やら超経験的な振る舞いやらに出会って その具体的な一つひとつのものごとをも 神と呼んだ。こういう場合もあります。 後者は それこそやほよろづ(八百万)の神々ということになります。これを ただ一つの(全体としての)神のあたかも分身であるかのごとくに取ってもそれほど不都合はないように思います。 ですから 神の分身と見なすかのごとき《人間の潜在能力〔の特に秀でたものやその発揮〕》を 神と呼ぶことは 伝統から逸れるものでもないかも知れません。ですが きちんと明らかにすべきときには きちんと分身と元の神とを峻別しなければならないと思います。 同じ見方であることを祈りつつ ご投稿に感謝申し上げます。ありがとうございました。
- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
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そもそも神がいないのに、その存在を信じているから。 ただ、思想は、正しいものが1つのみ存在します。 (思想証明のプロセスは現代、多数存在するが。。。) 精神性を高めるならば「環境認識」という観点からの思想が根底にあるべきで、 それらが全員に行き渡れば、誰もが聖人(神人)たりうる。 そのとき、あなたの疑問は発生しようがない、のは明白。
お礼
オタマFJWR さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 率直に申せば 前提として次の用語について互いに共通の認識を持っておくことが必要でしょうね。 ★ 神 / 信じる / 正しい / 環境 / 聖人(神人) ☆ 神についてわたしの側の定義を書いておきます。 ○ 移ろい行く存在である人間が その経験世界――すなわち宇宙のすべて――を超えたところに非経験という領域を想定した場合――それは 人にとって非思考の場という具合いになりますが――その非思考の場において人が非経験のなぞの何ものかと相い対するとき その関係を人の側から言って 《信じる》と言います。 ○ 信じるとは 《思考に非ず》つまり《〈考える〉を超えたところの心の志向性(明けもしくは伸び)》を言います。 ○ 信じるその対象は――むろん想定上 非経験の場ですから そもそも非対象なのですが―― 一般に世界史じょう 《かみ》と言って来ています。(それぞれの言語でそれに当たる言葉です)。そしてもしくは 《かみは無いものとして心の伸びを持つ(信じる)》もあり得ます。 ○ つまり要するに 人は経験思考とそのほかに非思考の場を持つ。後者の《信じる(信仰)》には いわゆる有神論と無神論とが 互いに同等の《場の具体的なかたち》として また自由において ありうる。 ☆ したがってもしこの定義によるならば ★ 神がいない ☆ ということは 人は言いきることができないと考えます。《神がいる》とも言い切ることが たしかに同じく できません。 ★ そもそも神がいないのに、その〔* 無神という何ものかの〕存在を信じている。 ☆ ということもあり得ます。細かく言えば 次のようです。 ○ 非思考の場を想定した上では 人はその心を――そこにあたかも心の窓を持つかのごとく――明けて(もしくは伸びさせて) ナゾの神が有るとして戻って来るか それとも無いとして戻ってくるかだと考えられる。いづれにしても 有る神も無い神も もともと非経験の領域において非存在である。 ○ すなわち 《神》ということばは そのナゾを仮りに人間の言葉で表わしたものである。この神が《有る》と《無い》とにさらに分かれるのは 人間にとって経験世界では《有るか無いか》のどちらか一つで表わすことしかできないからである。自由にどちらか一つに人はえらぶことになる。 ★ ただ、思想は、正しいものが1つのみ存在します。 / (思想証明のプロセスは現代、多数存在するが。。。) ☆ この経験世界に絶対という意味で《正しい》ということはあり得ません。せいぜい合理性を多く含むといった程度の内容を 正しいと言います。その《思想を証明》することは いまこの主題に関するかぎり 関係ないことです。経験思想であり 経験思考による優劣高低を判断するのみだからです。 ★ 「環境認識」という観点からの思想 ☆ そのものをよく知りませんが この思想も 同じく経験思想の範囲におさまる問題です。 あとも詳しく説明してもらわなければ 分かりませんと率直に申し上げざるを得ません。どうですか? なお そちらの定義がしっかりしない段階では これからは《定義を明らかにしてください》と応えていくことになるかと考えます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 非経験の領域を想定するメリットは この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。 少なくとも自分にとっては。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ うまいことおっしゃる。 ただ ようく考えると 非経験の領域を想定したそのとき この世の狂気から自由になった。というふうに捉えられます。《メリット》は たぶんひとつの目的になっているような主題ですよね。つまり 非思考の場は そういう経験世界における目的や狙いといったことがくっついて来るのではない主題なのだとは思いますよ。 ★ ~~~~~~~~~~ そもそもの勘違いは 非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。 神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん《特異点》のごとく位置づけすればいいのだと思うのですけれど。 この経験世界の善悪や利害を超えている〔と想定される〕場として。 ★ ~~~~~~~~~~~~ > わたしは自分の子を信じる。 それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから《誤用》と言ったのは舌足らずでしたが 《転用》しているわけです。本来の意味での使用ではないと言おうとしたのでした。 ★ ~~~~~~~~~~~~ ・・・ そう仰るだろうとは思ってました。 bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。 自己完結を目指されているのだろうな、と。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《そういう姿勢》=《自己完結を目指す姿勢》でしょうか? よく分からない。と言うよりも わたしが《さじを投げる》と言ったのは もうそれ以上は力が――少なくとも人間の力が――及ばないと見たという意味です。それ以上の意味はないと思うのですけれど。・・・