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神について勘違いが多いのはなぜでしょう?
- 神について勘違いが多いのは、神を精神と勘違いしていることや、宗教や教義を信じることに矛盾があると考えること、教義を信じることが人間信仰になってしまうことなどが主な理由です。
- また、神を人間の理性や想像力で表象できると思い込むことや、偶像崇拝という勘違いが多く見られます。
- 偶像は信仰内容の表現であると捉えるべきであり、偶像自体を重要視する片向きな考え方が存在するため、神についての勘違いが生じているようです。
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>> それでも《勘違いが是正されなかった》ならどうするか? > ――さじを投げます。 そう仰るだろうとは思ってました。 bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。 自己完結を目指されているのだろうな、と。 でも、本来、神とはそういうものなのかも知れませんね。 神は世直しのためにあるのではない。 > わたしは自分の子を信じる。 それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。 言葉に拘泥しすぎてませんか。 教えを絶対視するのと同じ過ちを犯していると誤解されちゃいますよ。 非経験の領域を想定するメリットは この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。 少なくとも自分にとっては。 そもそもの勘違いは 非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。 神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。
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ANo.12お礼に対し 分析主義が間違っているから、「神が存在する」ということは、いえない。 存在しないという想定をまず受け入れるべきです。 思考するということに対する想定の違いで、話をかみ合わせたくないということなら、 無心(神)論者を無心(神)論者として そこにおいておくということが必要であると思います。
お礼
★ 存在しないという想定 ☆ この表現にまちがいがある。 ★ 存在しない ☆ という命題(ないし判断)は 経験世界のものごとについて述べています。つまり《有る》か《無い》かです。どちらかですし どちらか一方であることに決まるものです。経験合理性にもとづくかぎりで 有るか無いかのどちらかに決まるという性質の命題です。 ところが 神は これが決まらない。決まるか決まらないかが 決まらない。だから 非経験の領域だとか 非思考の場だとか さんざん説明しています。 だから ○ 存在しない(あるいは する)という規定 ☆ であり ○ 非経験の領域を想定する / 非思考の場を想定する / 神については人間の理性等の能力によって分かるか分からないかが 分からないというかたちで想定する ☆ のです。なぜなら そのほかの設定の仕方によれば すべて経験思考ないし精神の作用のおよぶ範囲におさまるというものだからです。
ANo11お礼へのほそくもかねて >精神は 物質(質料)の運動を翻訳したものである。 精神と物質につながりがない。 という前提で話を進めるべきでしょう。 精神を運動として解釈しようとするとき、 必然的に、空間的・時系列的思考様式が、考えるプロセスの中に組み込まれてくる。 コレが誤謬の原因です。 つまり、点を説明しようとする為に、線及び空間と行ったさらに高次元の「もの」を援用してくる。 簡単なことをより難しく説明しようとしているのです。 神は、精神であるということは、神に、精分(エッセンス)を付加して、分析しようという事です。 エッセンスの分析は神の分析ではありません。 エッセンスの分析をしている人間は哲学者であり、哲学者は神ではありません。 エッセンスをもっているかいないかということは更に、「てつがくしゃのめんじょう」うんぬんとは かんけいのないことです。
お礼
☆☆ 精神は 物質(質料)の運動を翻訳したものである。 ☆ という見方に仮りに立つならうんぬんという話であるに過ぎない。そういう見方で応答するなら 話は早いという事例を挙げたのみ。 けれどもあなたは この唯物論に近い発言をしているようにもうかがえる。これは 決定版ではないようなので いまはまだ例示しません。今後その決定版が現われたら 例証しましょう。 ★ 精神と物質につながりがない。 / という前提で話を進めるべきでしょう。 ☆ それならそれで対処しましょう。 けれども 《物質と精神につながりがない》というときにも 《翻訳という作業を介している》と言えば つながりがあるとも言えるし ないとも言える。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 精神を運動として解釈しようとするとき、 必然的に、空間的・時系列的思考様式が、考えるプロセスの中に組み込まれてくる。 コレが誤謬の原因です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは あいまいな表現である。 (1) 《精神を〔その翻訳としてだが 物質の〕運動として解釈しようとするとき》とも読める。その場合には すでにおこなった例証による反論が有効である。 (2) 《運動》をただ単に 《記憶‐知解‐意志》の動態であるという意味だとすれば ★ 空間的・時系列的思考様式が、考えるプロセスの中に組み込まれてくる。 ☆ は そのままを言ったものである。特に《知解》の行為過程のそれである。 (3) そのとき ★ コレが誤謬の原因です。 ☆ というのは はっきりしない。次である。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり、点を説明しようとする為に、線及び空間と行ったさらに高次元の「もの」を援用してくる。 簡単なことをより難しく説明しようとしているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしは《点》だという説明を採らないが もし精神が点だとした場合 その場合にも この《点》が 人間の存在じたいがそうである時空間のこととしてひろがるというふうに捉えられる。つまり 精神は動態であり過程であると。つまり ひとが生きているということにほぼひとしい。 ここに易しいも難しいもないと言うべきでしょう。 ★ 神は、精神であるということは、神に、精分(エッセンス)を付加して、分析しようという事です。 ☆ たぶん違うでしょう。ただ ○ 神は 人間の精神のうち 至上のものである。 ☆ と言っているのです。またそれだけのことです。何か別のものをつけ加えようというものではありません。もともと人間にそなわる精神のすぐれた徳といった意味合いでのみ言っているのです。また そういう場合を捉えて それを勘違いだと言おうとしています。 だから ★ エッセンスの分析は神の分析ではありません。 ☆ そうですよ。そのとおりですよ。
★ ~~~~~~~~~~~~~ さて、それは、まず、それ以外のやり方を知らないからでしょう。 何につけ、どこか自分の経験の範囲内で安定させたいという衝動がありますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということは たとえば精神修養のようなものだと思っているということでしょうか? 信じるということをです。 神が神であるが如く神であることを人間が自分の経験の範囲内で把握することは不可能だけれども、何とかして捉えるなり、自分のものにしたいという衝動です。 その不可能を知りつつ継続した追求をすれば精神修養となるでしょう。その根底が信じるということ。 >問題は けっきょく窓をたたく音に耳を傾けるかどうか 自分が〈信じる〉をやっているのか、〈信じる〉がやってくるのか、その瞬間は、風にゆれる木の葉の如く。
お礼
つづきまして。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 神が神であるが如く神であることを人間が自分の経験の範囲内で把握することは不可能だけれども、何とかして捉えるなり、自分のものにしたいという衝動です。 その不可能を知りつつ継続した追求をすれば精神修養となるでしょう。その根底が信じるということ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もしこの説明を定義のごとく見なすなら たしかに ★ 自分が〈信じる〉をやっているのか、 ☆ のほうをえらんでいると思われます。つまり 神が窓をノックするのを待たずに ノックがあったと見なして(もしくは そういうシナリオを描いて) そのいわば神の道を走りつづけているというように受け取ります。そういう修行をしているというふうにです。 ★ 〈信じる〉がやってくるのか ☆ これは微妙な表現のあやであるかも知れませんが やはり ○ なぞの何ものかがやって来る。→その訪れを受け容れる。→その領収証の発行が 《信じる》という行為である。 ☆ 言いかえると これらの過程をちぢめただけとすれば 違いはありません。 ふたつをきびしく分けてみましたが 表現として外に出たものから受ける印象でその区分を決めたようにも思います。さて。
いづれにしても その《精神》という概念において《神》を規定しまた実際に抱くことが見られる。つまりそういう表現が見られる。 勘違いではないかという疑問に答えています。 勘違いではありません。 神と精神を記号論的に比べてみると、妥当性という観点から、 神は精神的「神」と物理的「精」として「分析可能」であるというないようです。 存在しないものを存在すると仮定して分析するとすれば、精神としてみていくしか方法はないのです。 コレをやってはいけないというならば、 「神が存在しないという」か、「人間は無能であると述べる」か の「2つに1つ」しかありません。 大前提が「分析」であるというのが間違っているだけです。何の問題もありません。
お礼
次の前提が違っています。 ★ 存在しないものを存在すると仮定して分析するとすれば、 ☆ すなわち この質問のばあいには――趣旨説明には書いていませんが これまでの回答No.1からの質疑応答で書いて来ているように―― ○ 神は《存在しないもの》とは前提していません。 ○ 神は《存在するかしないか 人間には分からない》非思考の場として想定する。 ○ そもそも神は 非経験の領域にのみ想定する。そうでなければ 《信じる》という言葉をひとは使わない。経験領域は むろん 《考える》の場である。 ○ 精神は 経験世界のもの・ことである。ゆえに 神ではありえない。 ○ あらためて言って 《信じる》という言語習慣をどう解釈するかで その信じる対象である神の定義は 決まってくるはず。いまのところ ここに述べている定義が もっとも妥当だと考えた上での質問である。 ★ 神と精神を記号論的に比べてみると ☆ これは 別の議論になる。
精神という表現が髪を規定するものではないという説明も出来ます。 神は精神的であると述べたとき、神がそれによって厳密的に規定されるはずもないのです。
お礼
ちょっと待ちなさい。 ★ 神は精神的であると述べたとき ☆ というのは この質問にかかわっていない。そんなことを言っていない。
A. 神は 精神であるは勘違いではない。 おぢぢ様の意見は 〔《知に根ざす信条》が《究極のもの》であると言われる場合のあるその〕精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。 というものですが 知に根ざす信条》が《究極のもの》が、接点であり、もつ事の出来ないこと(物ではないこと)であるという批判です。 そのまま神であるというのは、おぢぢさまの解釈です。 批判の焦点は、おぢぢさまの解釈が不明瞭であるということです。接点と所有の間には、関係がなく それをつなげる根拠がないということです。
お礼
★★ (回答No.9) ~~~~~~~~~~~~~~ 世界精神と自己精神を考えてみてください。精神は精神であり、自己も世界も関係ありません。外と内という次元の違う概念を、精神という言葉でつなげていますが、 述べている内容というのは、世界のことであり、一方、自己の内容です。 精神はオブジェクトを貫く、論旨でしかないのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《オブジェクトを貫く、論旨でしかない》ところの《精神》ということばで 《神》のことを説明する文章に出会うことがある。その表現は 神について勘違いをしているのではないか。 なぜなら その精神ということを述べたのは 人間だからです。あるいは 述べるという作用は 人間のものです。 あなたの論旨がいささか傾いているところの唯物論をたとえに持って来て話せば 分かりやすい。 ○ 精神は 物質(質料)の運動を翻訳したものである。 ☆ こうだとすれば 次のように言いかえれば済むことです。 A‐5 神は身体運動を翻訳した精神のいと高きところなり。これは 勘違いである。なぜなら 身体運動は 人間の〔持つ〕ことであるから 人間が神であることになる。
Mは、Nである。 といった場合、 おおまかに、 Mという局面を、想定すると、Nは、存在する。 Mは、形容すれば、Nである。 Mは、Nという属性を持つ。 (人間というカテゴリーがあるとすれば、一人の人間はそれに属する。) Mという話題に関しては、Nである。(存在の様態) という意味があります。 A1神は、精神である。 A2神は、精神的である。 A3神は、神である。 A4神は、神的である。 B1人間は、精神である。 B2人間は、精神的である。 B3人間は、人間である。 B4人間は、人間的である。 論点Aに対する批判1 神は精神であるといった場合、神が精神を持っているわけではなく、 更に、人間が精神を持っているわけでもありません。物理的に存在しないものを所有及び占有することは出来ない。 おぢぢ様の勘違いは、「占有」という行為を説明的に優先している部分です。占有が人生ではありません。機能が、人生です。 精神とは、(時空)局面の範疇に当てはまらない、繋がり(ノード)のことです。物理的表現としては点である。点は物理的に存在しません。精神的にだけ存在します。 世界精神と自己精神を考えてみてください。精神は精神であり、自己も世界も関係ありません。外と内という次元の違う概念を、精神という言葉でつなげていますが、 述べている内容というのは、世界のことであり、一方、自己の内容です。 精神はオブジェクトを貫く、論旨でしかないのです。 精神の究極は知に根ざす信条です。それ以上でもそれ以下でもない。 社会心理学/政治心理学といったところで、心理学の内容というのは共通していないのと同じです。 更に簡単にのべるとすると、 OXスクリーンという映画雑誌があるとして、 雑誌の内容として語られる映画に関して内容が統一されるはずがないし、 統一されたとしてもそれはあくまで編者の方針に則ったものであり、 恣意的な(もしくは積極的に見ても歴史的な)ものでしかありません。 精神を持つ、人間が神である。というのは、「持つ」という言葉が、原因となった誤謬を表す文章になっているのです。 「精神を持つ、人間が神である。」が誤謬であるから、「神は、精神である」が誤謬であるというのは、間違った論的解釈です。
お礼
☆☆ (趣旨説明)~~~~~~~~~~~~~~ A. 神は 精神であるという勘違い。 ――勘違いでなければ 〔《知に根ざす信条》が《究極のもの》であると言われる場合のあるその〕精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なお ○ 精神は たしかに質料とその運動の反映です。その一対一の反映を超えて想像を――たとえ編集するだけだとしても――作りだすこともある。 ☆ いづれにしても その《精神》という概念において《神》を規定しまた実際に抱くことが見られる。つまりそういう表現が見られる。それは 勘違いではないか? なぜならうんぬんという問いです。
- AXIS_
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>神について勘違いが多いのは なぜでしょう? なるほど、こういった疑問が生じるからには「神」について質問者は正確に把握しているということですね。
お礼
《神》は何でないか こういう切り口でなら妥当性のある説明ができるということです。それを A B C D として扱っています。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonneさん、いつも素晴らしいご質問に驚きを持っております。 今回のもなんとか、コメントできないものかた思いましたが、普段何も考えていませんので只只ご回答を拝読するだけです。 ただご質問の事柄は、小うるさく私なりに理解しようとすると、神に関する事柄についての<勘違い>ということかなと存じました。 間違いかも知れませんね。 間違いかもしれませんので、私なりに、普段考えていることについて質問を起しましたことを報告申し上げ、でき得れば多くの方のお教えを賜りたいと存じます。 以下の質問です。 http://okwave.jp/qa/q6127394.html どうかよろしくお願い申しあげます。
お礼
首狩り族は 相手の首をとってそのたましいを自分のものにするということです。
>わざわざ精神の想像力の範囲の中にどうして引き寄せ引っ張りこもうとするのか? さて、それは、まず、それ以外のやり方を知らないからでしょう。 代理については、偶像と同質なところがあるでしょうけど、 そのままにしておく事ができないのでしょうね。 何につけ、どこか自分の経験の範囲内で安定させたいという衝動がありますね。 そこに 神についての勘違い の大きな原因があるのかもしれません。 >《信じる》とは どういう行為か? これが分からないのでしょうか? 行為というのか状態というんでしょうか、よくわかりませんが、自分の《信じる》については、自分の《信じ》ですから、明確です。 >この非経験のなぞの何ものかを受け容れるというのは けっこう思いきりが必要です。 理知的であればあるほど、そのハードルは高くなりそうですね。跳べないと否定にまわるということか。 >あっ それと そのほんもののをほうを精神の胃袋に飲み込むという(受け容れるという)行為も必要ですね。そう言えば。 そうですね。丸飲みですかね。 それにしても、神について勘違い甚だしい状況で、それを信じるとはどういう事かとも思いますが、 それは、その人の神ですし、その人の《信じ》であるわけで、その人に中に神が厳然と存在しているのですから、 それはそれで神々しいことではありませんか。
お礼
問い求めをつづけていただきありがとうございます。こんばんは 地勢ペンさん。 ★ それは、その人の神ですし、その人の《信じ》であるわけで、その人に中に神が厳然と存在しているのですから、 / それはそれで神々しいことではありませんか。 ☆ これは これとして そのとおりなのです。つまり《勘違い》は 自己表現・特には文章にして神を扱ったときの表現に現われると考えられるものです。つまり 表現されなければ分かりません。 そして 表現の自由は 批判の自由を含みます。 ★ 行為というのか状態というんでしょうか、よくわかりませんが、自分の《信じる》については、自分の《信じ》ですから、明確です。 ☆ これも まづ《自分の〈信じ〉ですから、明確です》の部分は 問題ありません。 《行為と状態》というのは 初めに心の窓をノックしてきたその音をつうじて神を受け容れるというときが《行為》であり その後の動態が《信じている状態にある》ことだと考えます。最初の賭けのような・清水の舞台から飛び降りるかのような決断が 信じるという行為です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ さて、それは、まず、それ以外のやり方を知らないからでしょう。 何につけ、どこか自分の経験の範囲内で安定させたいという衝動がありますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということは たとえば精神修養のようなものだと思っているということでしょうか? 信じるということをです。 《信念》とか《信条》という言葉もあります。これは 精神修養だとか人格の陶冶あるいは倫理の実践といったカテゴリでしょうね。《信》が入っていますが 経験思考あるいは修行によって自分のものとするものでしょうね。つまり《信じる》とは別でしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 精神の胃袋に飲み込むという(受け容れるという)行為も必要ですね。そう言えば。 そうですね。丸飲みですかね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いえ そうでもあるでしょうけれど いくら《賭け》と言っても 心で同意して飲み込むのだとおもいます。けれども 非思考ということは その《心で同意する》行為を超えています。《心で同意する》には どうなんでしょう 思考を超えた決断という要素はあるでしょうか? 心の同意も 結局は思考だとすれば やはり賭けになるでしょうか。さいころを振るわけでしょうか。 でも考えてみれば さいころを振るのは けっきょく心の窓を訪れた神を受け容れるか受け容れないか(つまり 無い神として受け容れるか)ですから その選択は 大したものにも思われません。問題は けっきょく窓をたたく音に耳を傾けるかどうか その判断に賭けがあるかも知れません。まぼろしだと思ってしまうかも知れないからです。 いづれにしましても 精神修養と信仰とを分けて考えることは――表現において・つまりはコミュニケーションにおいて―― 大事だと思うんですけれど。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 非経験の領域を想定するメリットは この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。 少なくとも自分にとっては。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ うまいことおっしゃる。 ただ ようく考えると 非経験の領域を想定したそのとき この世の狂気から自由になった。というふうに捉えられます。《メリット》は たぶんひとつの目的になっているような主題ですよね。つまり 非思考の場は そういう経験世界における目的や狙いといったことがくっついて来るのではない主題なのだとは思いますよ。 ★ ~~~~~~~~~~ そもそもの勘違いは 非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。 神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん《特異点》のごとく位置づけすればいいのだと思うのですけれど。 この経験世界の善悪や利害を超えている〔と想定される〕場として。 ★ ~~~~~~~~~~~~ > わたしは自分の子を信じる。 それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから《誤用》と言ったのは舌足らずでしたが 《転用》しているわけです。本来の意味での使用ではないと言おうとしたのでした。 ★ ~~~~~~~~~~~~ ・・・ そう仰るだろうとは思ってました。 bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。 自己完結を目指されているのだろうな、と。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《そういう姿勢》=《自己完結を目指す姿勢》でしょうか? よく分からない。と言うよりも わたしが《さじを投げる》と言ったのは もうそれ以上は力が――少なくとも人間の力が――及ばないと見たという意味です。それ以上の意味はないと思うのですけれど。・・・