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神について勘違いが多いのはなぜでしょう?
- 神について勘違いが多いのは、神を精神と勘違いしていることや、宗教や教義を信じることに矛盾があると考えること、教義を信じることが人間信仰になってしまうことなどが主な理由です。
- また、神を人間の理性や想像力で表象できると思い込むことや、偶像崇拝という勘違いが多く見られます。
- 偶像は信仰内容の表現であると捉えるべきであり、偶像自体を重要視する片向きな考え方が存在するため、神についての勘違いが生じているようです。
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>> それでも《勘違いが是正されなかった》ならどうするか? > ――さじを投げます。 そう仰るだろうとは思ってました。 bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。 自己完結を目指されているのだろうな、と。 でも、本来、神とはそういうものなのかも知れませんね。 神は世直しのためにあるのではない。 > わたしは自分の子を信じる。 それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。 言葉に拘泥しすぎてませんか。 教えを絶対視するのと同じ過ちを犯していると誤解されちゃいますよ。 非経験の領域を想定するメリットは この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。 少なくとも自分にとっては。 そもそもの勘違いは 非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。 神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。
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- AXIS_
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まとめると、 「《神とは何かについて把握していない}}かいるか それにまつわるすべてのことは、非思考の場としての信仰におさまっている」 ということですね。なぜこのように考えるのかというと、 >☆ 信仰を持つ者として そのように捉えているという状態をそのまま伝えているという意味です。なぜかと問われれば そこまでしか知らないからとなります。そこまでは体験して知っている。 であると。 結局、そこまでしか知らず、そこまでの体験として言っているだけですね。つまり質問者も把握していないのでしょう。 従って、「神について勘違いしている」と質問者が言うのは欺瞞ですね。 しかし「自分が体験と非思考を通して知っている神が真の神である」と考えるなら別です。
お礼
微妙にちがいます。主題をきちんと把握するなら わたしの《知っていることの不十分さ》の理由が分かります。 言いかえると 知っていることが不十分でも しっかりとした議論ができるという意味です。 なぜなら 《神》について・つまりは同じことで《人間が信じるとはどういうことか》についてという主題は どの一人の人間をとっても けっきょくその知識としては不十分なのです。 ぎゃくに言えば 不十分な知識(もしくは むしろ無知)の上に《神ないし無い神を信じる》という事件が起こるということです。 信仰の成立という事件が起きたあとでも 知識が質の差をともなって増えるというものでもありません。分かりやすいたとえとしては 神の代理を自認するひとであっても 神についての知識は どこまで行っても不十分だということです。 そういったあやぶい道を渡りながら それでも《信じる》という言語習慣について その人間的な自然本性に合ったあり方は どうであるのか。(合っていない場合は 勘違いであるはず)。あるいは この世には組織のもとに個人の信仰を扱うという慣習も現われている。これは 無効の行為であるということ。こういった主題について 何がしかの議論を提出することができる。そしてそれは 人間と社会にとって大事なことである。 ★ しかし「自分が体験と非思考を通して知っている神が真の神である」と考えるなら別です。 ☆ すでにさんざん神について偽札かほんものの紙幣かを論じて来ていますが 今度は 《真の神》という言い方には 抵抗をおぼえます。 神は 《真の神》しかあり得ません。ほかには その代理表現としての偶像があるのみです。偶像を神とすれば 偽札になります。 けれども 偽りの神というのは 存在しません。存在し得ません。 だから たとえ偶像を抱いていたとしても ほんものの神にかかわっています。だから ★ 「自分が体験と非思考を通して知っている神 ☆ が――たとえ勘違いに落ち入っていたとしても その偶像をとおして―― ほかのひとが抱いている神とまったく同等なかたちにおいて ほんものの神なのです。真でない神がいて 真の神がいるというようなことは ありません。 そういう意味でも 知識が不十分でも 安心してゆったりとまた誰もが自由に堂々と 神を抱くことができるし 望むなら やはり自由に表現してひとと対話をすることができます。 世界はうまく出来ていますね。 こういった事情のもとにあります。
- AXIS_
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>☆ いま考えている《神 / 信じる》という事態のすべてです。 / はどういう意味ですか。 神 と 信じる と言う言葉を使って別の表現で書いてください。
お礼
☆☆(No.27お礼欄) ~~~~~~~~~~~~ ★ ということは、神とは何かについて把握していないということでしょうか。 ☆ まづ基本的な答えは こうです。 (1) すべては 非思考の場としての信仰におさまっています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《すべて》とは何を指しているのか? こういう問いですよね。 あらためて答えなおすとすれば こうなりましょうか。 ○ 《神とは何かについて把握していない》かいるか それにまつわるすべてのこと ☆ どうでしょう? そしてあるいは つぎです。 ○ 《神》について考えること――それは もっと詳しく言い直せば 《神》を説明せよという問いに答えること―― そのすべて。および・または或るいは 人間が《信じる》ということはどういうことか? この問いの答えることのすべて。
補足
お礼欄の最後の一文に入力のまちがいがありました。 まちがい:この問いの答えることのすべて。 ただしい:この問いに答えることのすべて。
- kobarero
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> ☆ 《物性》というのは 要するに《かたちのあるもの・表象しうるもの》ということですよね。その《背後》というのが ここではあいまいですね。つまり両義的です。 物性とは物質の性質のこと。もし、この世界が物質だけでできているとしたら、人間存在を説明できない。人間存在を説明するには、物質以外に何らかの働きがなければならない。その働きが精神です。 > ☆ ただしこの《理》は けっきょくのところ 神を《人間を越えた働き、方向性、意図》と捉えたその中身を 人間精神が把握しうるという前提に立っています。 中身を人間精神が把握するのではなく、中身の分からない、すなわち、得たいの知れないものを身近なもので、見立てただけです。幽霊を幽霊と呼ぶのと同じです。
お礼
こばれろさん ご投稿はありがたいのですが どうもふつうの問い求めの道を逸れてしまっている部分が見え隠れします。 だってそうぢゃないですか。 ☆☆ (No.25お礼欄) ~~~~~~~~~~ つまり ★ 神をも精神に見立てることは理にかなっている。 ☆ ただしこの《理》は けっきょくのところ 神を《人間を越えた働き、方向性、意図》と捉えたその中身を 人間精神が把握しうるという前提に立っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《理》について ★ 中身の分からない、すなわち、得たいの知れないものを身近なもので、見立てただけです。幽霊を幽霊と呼ぶのと同じです。 ☆ とは口が裂けても言えない。《理にかなっている》というのは 精神の知解作用および意志行為がはたらき 合理性いかんを認識し妥当性いかんを判断するということです。《隠喩》の問題ではありません。 ★★(回答No.25) ~~~~~~~~~~~ > A. 神は 精神であるという勘違い。 精神とは物性の背後にある物性とは異なるもう一つの働きである。従って、人間のみならず、神をも精神に見立てることは理にかなっている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もしこれに従うなら 《人間は 神である》となります。これを経験合理性に反する命題だという前提で話をすすめています。 ★ 物性とは物質の性質のこと。 ☆ ならば 質料で出来ている身体の神経組織――つまりそれとしての質料(いわゆる物質)――の《性質》といえば そのはたらきのあたかも翻訳としての精神作用であるとなります。精神のうちの知解(その想像力)は 神経細胞のはたらき以上の思惟をこなすと思われますが それとても 神経組織のはたらきを基礎として成り立っています。つまり 物質の性質であることから 精神作用は始まっています。 ですから もし《人間は神である》という不合理な命題を避けるとすれば 神はこの人間存在についての《身体=精神》のはたらきを超えたところに想定するしかないはずです。 そこのところを問うています。互いにはっきりさせましょうと。 ★ 中身の分からない、 ☆ ではなく そうではなく 《中身が分かるか分からないかが分からない非思考の場》です。 ★ すなわち、得たいの知れないものを身近なもので、見立てただけです。幽霊を幽霊と呼ぶのと同じです。 ☆ この《隠喩》は分かりました。そのように隠喩で呼ばなければならないところのその何ものかは では この世界のどこに位置すると見るのか。これを問うています。 わたしの出したたたき台は この経験世界を超えたところ・すなわち非経験の領域。すなわち 非思考の場というものです。 この非思考の場は 人間にとって――しかしながら―― あたかも心の窓のごとくでありしかも或る種の動態としてそなわっているのではないか。神が 或る日その窓をたたく。これを迎え入れるなら それが 《考える》ではないところの《信じる》なのだと言っています。この神であれば 《幽霊を幽霊と呼ぶ》場合にたとえても大丈夫なはずです。 そこのところを どうもあいまいにしようとしていると 感じてしまうように話をすすめておられる。こういう率直な感想です。
- AXIS_
- ベストアンサー率12% (9/71)
>いま考えている《神 / 信じる》という事態のすべてです。 神 と 信じる の間にある / は、どういう意味でしょうか。
お礼
主題として挙げているという意味です。二つを挙げています。
- ztb00540
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bragelonneさん、殆ど同意見と思います。 >たぶんそれは やはり仮りのもの(代理表現つまり偶像)になるのではないかと思うんですが どうで >しょう? 目に見えるものしか信じられない人の為に偶像があるのではないでしょうか。 > ★ 序でに、あらゆるところに神様の痕跡が残っているとね。 > ☆ ですから大きくは《痕跡》も 偶像(偶有的にして像となっている)だとは思います。 痕跡とは、動植物の命、鉱物の存在と考えています。 他全て同感です。
お礼
★ 目に見えるものしか信じられない人の為に偶像があるのではないでしょうか。 ☆ あぁ そうなんですか。ぢゃあ 例のトマスのように 体の傷跡に触って確認するというタイプということでしょうか。あぁ そういうふうに見ればよいのですか。偶像も用を足すのでしょうか。ううーん。たしかに手段や途中の道は どうでもよいかも知れません。ううーん。 ズィーティービーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 偶像はまづ重要視するなんていうようなことはなかったです。そうですか。幅を広げなくてはいけないかも知れません。 ★ 痕跡とは、動植物の命、鉱物の存在と考えています。 ☆ これも偶像としてということですね。 ★ 他全て同感です。 ☆ ありがとうございます。 分かりました。まづは決着ですね。ほかの投稿にも注意してまいります。 それでは ひとまづでしょうか。
- ztb00540
- ベストアンサー率18% (119/647)
今日は、こちらで頑張っていたのですね。 基本的に神は1つと信じています。 この宇宙、地球上の自然、他惑星の自然を作ったエネルギーと考えます。 そもそも、浅はかな人間は宇宙を理解できていないから目に見えるもの、何か感じるものを神としたと思いますよ。日本には神様が沢山居るじゃないですか。 その時、その時の人間の理性の範囲で作られたと思います。昔は太陽がなにで、月はどうして満ち欠けるか分からないし、お星様はなにかなんて知る由もない。更に宇宙が出来て約140億年とまだ新しいなんてね。最近分かったことなんですよね。 この理性を考えれば、その先は、宇宙を創造したエネルギーだと思っています。 序でに、あらゆるところに神様の痕跡が残っているとね。 この痕跡は信じる人のみに、何となく分かるものと思っています。 私?言うまでもないでしょう。bragelonne さん。
お礼
ズィーティービーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 けっこういくつか質問していますよ。 ★ この理性を考えれば、その先は、宇宙を創造したエネルギーだと思っています。 ★ この宇宙、地球上の自然、他惑星の自然を作ったエネルギーと考えます。 ☆ そうですね。わたしの考えにしたがって げんかくに捉えるならば: 理性によって究極の何ものかを探るというところですよね。 たぶんそれは やはり仮りのもの(代理表現つまり偶像)になるのではないかと思うんですが どうでしょう? こういうふうに神を わたしは説明として捉えます。 1. この世界は いま分からなくてもいづれかのときに科学の手段によって人間が理性において分かるようになるものごとである。経験合理性で説明がつく世界である。 2. この世界を超えたところを――つまり言いかえると 非経験の領域を――想定するとどうなるか? これは 経験世界の有限に対して 無限であり 相対に対して絶対であり 可変性に対して不可変性といった属性が与えられる。 3. おそらく神は この非経験の領域のことであるだろう。 4. この神は 絶対であるなら 擬人化して絶対者と呼ばれる。さらに 全知全能といった属性も与えられる。 5. このような属性において 《創造主》だという物語も 説明として添えられる。創造主であれば その創造のときの《エネルギー》を含むであろう。 ☆ と。 ただ エネルギーは 経験世界のものごとなんですよね。象(かたち)に表わせます。しかるに 絶対・無限・不可変性なる神は 人間には 表象し得ません。 ★ 序でに、あらゆるところに神様の痕跡が残っているとね。 ☆ ですから大きくは《痕跡》も 偶像(偶有的にして像となっている)だとは思います。 たぶん 目に見えるものを例に出して分かりやすく説明しているのかと思うんです。でもげんみつには わたしは上のように考えていますよ。 ★ 基本的に神は1つと信じています。 ☆ この数字の《一》ですが これも一つ二つの個々のものとしてではなく 《全体》だと思うのです。《神》といえば 神しかない。ただ その名前はいろいろに変わっている。しかも《無い神》 これとても《全体》としての神の別名であるのではないか。こういうふうにわたしは考えています。どうでしょう?
- moumougoo
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「偶像そのものを 後生大事にする片向き」がどれくらいあるかは知りませんが、なにかを後生大事にするという行為と(あなたが勝手に言っている)正しさが矛盾したとしても不思議ではないと思います。なぜなぜと聞くんですか?
お礼
もうもうグ-さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( a ) なにかを後生大事にするという行為と ( b ) (あなたが勝手に言っている)正しさが ( c ) 矛盾したとしても不思議ではないと思います。 ( d ) なぜなぜと聞くんですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづ特には次の箇所ですよね。 ☆☆(趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに≫ 偶像そのものを ≪ 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづ (1) ( b )の《正しさ》について これは簡単に使えることばではないと考えます。(つまりこういうふうに《勘違い》とそうでない場合とを比べる場合にはです)。たとえばわたしも ☆☆ (No.16お礼欄)~~~~~~~~~ ★ 正しい / 間違った ☆ という言葉をこのように安易に使ってはなりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とすでに述べています。言いかえると 《妥当性があると多くの人の同意が得られる》といった意味でわたしは用いています。 (2) 次に ★ ( a ) なにかを後生大事にする ☆ というふうに表現を変えてはいけません。《なにかを》ではなくて あくまで《偶像そのものを》です。 (3) さらに ★ ( c ) 矛盾したとしても不思議ではないと思います。 ☆ これは 精確な表現に直した( a )と同じく妥当な見方として言い替えた( b )とが《矛盾する》というのは ここでもやはりあくまで《神とは何か》をめぐってのことだという前提があります。 言いかえると端的に言って 《偶像を後生大事にする》ということは 偶像崇拝であり――つまりは 《むさぼるなかれ》という偶像をその文字どおりに鵜呑みにしてわき目も振らずに守り通すというのが 崇拝の事例なのですが―― これは もしそのことが神のこころにかなうことだと言うのであれば 勘違いであると言おうとしてです。それが 《なぜ》への答えです。 重ねて述べるなら むさぼるなかれという・神にかかわる命題を それだけでは神の真理の仮りの姿・つまり偶像でしかないのに そのまま至上命題だと受け取って実行するということは もしそれが神の心にかなうことなのだと言うのであれば 勘違いである。と言おうとしています。こう言おうとすることが 《なぜ》への答えです。 むろん おっしゃるように 神のことを勘違いすることも 何らかの偶像(要するにアイドルですね)を崇拝することも まったくひとの自由ですよ。 ただし神にかかわらせた議論においては 勘違いは勘違いだと言うのが 哲学だと思います。 アイドル崇拝の場合でさえ そのアイドルを神だとは――文学的な表現として言ったとしても 哲学思想としては――言わないと思います。
- AXIS_
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>(1) すべては 非思考の場としての信仰におさまっています。 「すべて」とは何のことを指しているのでしょうか。 また、「すべてが非思考の場としての信仰におさまっている」と考えるのはなぜでしょうか。 >(2) たとえばとして A B C D のような勘違いがあるにもかかわらず《神 / 信じる》という言葉はなくなりません。それは ほんものについての現実性があるからではないか。 神について述べた、あるいは神ではないものについて定義した「A B C D 」が 勘違いである と判断できるのはなぜでしょうか。 いずれにせよ、「ほんもの」の神は何でしょうか。勘違いではない神は、言葉でどのように表現できるのでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「すべて」とは何のことを指しているのでしょうか。 ☆ いま考えている《神 / 信じる》という事態のすべてです。 ★ また、「すべてが非思考の場としての信仰におさまっている」と考えるのはなぜでしょうか。 ☆ 信仰を持つ者として そのように捉えているという状態をそのまま伝えているという意味です。なぜかと問われれば そこまでしか知らないからとなります。そこまでは体験して知っている。 ★ 神について述べた、あるいは神ではないものについて定義した「A B C D 」が 勘違いである と判断できるのはなぜでしょうか。 ☆ そこにしるした推論によってのみ判断したものです。これまでにおいては まだその論理が破られていないという段階での判断です。 ★ いずれにせよ、「ほんもの」の神は何でしょうか。勘違いではない神は、言葉でどのように表現できるのでしょうか。 ☆ ひとつの側面として じんるい社会において《信じる》という言語習慣がおこなわれているということ(単純にそれです)。ひとつには それが非思考の場としてあると思われるということ。もしくはその非思考の場を飲み込む意志行為として成ったということ。 このような側面を合わせて わが主観において つまり《信じる》としての体験が成ったのであり そのようにわたしが認識しているということ。 これにもとづいて ここに信じる神は ほんものであると感じている。ただしその神が 何であるか。これは 分からない。説明のために たとえば《信じさせる表現を与えるちから》などと規定することはしますが 分かっているというわけではない。 つまりもう少し詳しく上のたとえを敷衍するならば いまこのように質問を受けて その考えるところを述べるということではあっても その過程の途中で こう考えればよいとか そこにはまだまだ関連する主題がいくつかあるとか 説明の仕方や表現のためにどういう言葉をえらぶかなどなどについて 或る種の仕方ではわたしをみちびいてくれる。 つまりは わたしが自分の人間としての能力でまかなう部分とそしてそれ以上に何ものかのちからがはたらいてその推論や表現の筋道をみちびくかに思われる部分とがある。 これが 《信じさせる表現を与えるちから》だと認められるように思う。 そこに勘違いがあったら 必ずそれを修正して表現することができると思っている。そういう状態もしくは情況が いまのわたしの現実だということをもって 間接的に神は わたしの中でほんものだという予感を得ている。こんな情況でしょうか。
- AXIS_
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>《神》は何でないか こういう切り口でなら妥当性のある説明ができるということです。それを A B C D として扱っています。 ということは、神とは何かについて把握していないということでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 するどく突いて来ます。いい質問だと思います。 ★ ということは、神とは何かについて把握していないということでしょうか。 ☆ まづ基本的な答えは こうです。 (1) すべては 非思考の場としての信仰におさまっています。 1-1. すなわち わが主観内面の問題であるに過ぎません。 1-2. 主観内面においては それでは 神を把握しているのか? 否です。そして主観としては 確信があるというものです。 1-3. 神とは 人間の能力によっては《表象し得ない》ものです。感性ないし予感として把握しているといえば 主観において そのとおりなのです。そして そこまでなのです。 1-4. ちなみに それゆえ 個人の信仰が 第一であり そのものとして完結します。 1-5. それゆえ この信仰を組織において 先輩後輩の関係によって優劣の順序をつけたりする宗教は 信教・良心の自由の侵害なのです。無条件にほぼ犯罪行為に準じる振る舞いだと考えます。 1-6. 繰り返しますが その組織において信仰度合いを どういう基準によってか測ってそれにもとづき権限関係をつくり 人の価値づけとしての位置づけを平気でおこなう。こういうような宗教は 非人道的であると断言しうると考えます。ローマ教会を初めとする宗教には 自己解体を勧めたい。 1-7. という提案をする程度には 《神とは何かについて把握して》いるわけです。と言っても その直接の答えでは やはり ないのです。 ☆ 情況証拠あるいは 違った観点からの情況証拠の補強として考えてみましょう。 (2) たとえばとして A B C D のような勘違いがあるにもかかわらず《神 / 信じる》という言葉はなくなりません。それは ほんものについての現実性があるからではないか。 2-1. その現実性を 人びとは理屈抜きに 感じているのであろうから。 2-2. 言いかえると それらの《勘違い》は おおよそ《偶像崇拝》という類型において発生しているとも捉えられます。すなわち 《仮りのもの》を《ほんもの》として錯覚しているということです。 2-3. 錯覚するということは たとえばコップの水の中に入ったストローが曲がって見えるようなもので 偶像を偶像として・錯覚を錯覚として扱えるようになれば ほんものが分かる〔と感じる状態に入る〕と思われます。 2-4. それにしても 古来ひとびとは この《神 / 信じる》という言葉を持ちえたということ自体が それは何故でどういうふうにしてかと考えるなら 不思議な事態であると考えられる。 2-5. つねにへびの誘惑にさらされているというのも現実だけれども 誘惑によって連れ去られて行くということは その元いた場があるということにもなる。言いかえると 現実は 偽札と本物の紙幣との入り交じって混在する情況だとも言える。なら そこに《ほんものの神とその信仰》は まぎれもなく存在するではないか。 2-6. 人びとは見よ。このなぞを。表象し得ぬほどにまぎれもなく存在する現実であるそのなぞのちからを。その香りを。 2-7. という程度には 神を把握しています。でもすべては このわたしも偶像としての人間の言語でのみ仮りの姿をえがこうとしているのみです。 2-8. 信仰とは 信じさせるものです。心の窓をノックした神のおとづれを受け容れたという《信じるとしての意志行為》に始まっていますが その動態においては 信じさせるものだとも考えられます。 2-9. ところが この非思考の場ばっかりは 他人から信じさせられて信じるということはあり得ません。仮りの偶像としてのあり方でなら あり得るでしょうが ほんものに関してはウソの信仰というのはあり得ません。自分の心で同意してでなければ 発動し得ません。うまい具合いになっています。 2-10. これも 神が現実だからです。人びとは見よ。この非存在にしてつねにどこにも遍在するわれらが存在のみなもとのちからを。その香りを。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ANo.7 狩っても狩っても、出てくる首ですが。 刈り取るつもりはありませんで、回答ではなく質問文の確認をし、タイトルの質問フレーズでの質問なら、こういうことになりませんか? という私の拙い見解を提示しました。ぶらじぇろんぬさんの質問に対応しませんで申し訳ありません。 でも通りすがって、タイトルのフレーズをそのまま放置していくこともぶらじぇろんぬさんを彼岸に出した態度になるかと思い、ご質問のタイトルフレーズではこんな質問となりませんか、という提示をさせていただきました。 失礼の段どうかご宥恕いただけますように。 私質問への回答は無論、門は大きく開いております。お教えいただければ幸いです。 知能が少し足りなくなってきていますので、高度なご回答にはコメントができないかも知れませんが、どうかお許しください。 先のご質問への投稿にきちんと対応してくださり、なかなかこちらが更なる対応を致しかねていますが、こちらの知能がもう限界でして複雑高度な事は困難を極めます。
お礼
★★ ただご質問の事柄は、小うるさく私なりに理解しようとすると、神に関する事柄についての<勘違い>ということかなと存じました。 ☆ 神について勘違いが多いのは なぜでしょう? = 勘違いが神について多いのは なぜでしょう? ★ 硬度なご回答にはコメントができない ☆ ところです。 ★ 先のご質問への投稿にきちんと対応してくださり、なかなかこちらが更なる対応を致しかねていますが、こちらの知能がもう限界でして複雑高度な事は困難を極めます。 ☆ このようなウワベのことがらで 十年一日あるいは ブッダが出てから千年ニ千年も一日で過ぎて来ています。哲学の虚数のようなものなのでしょうか 日本語表現の主流は。 だいたいみなさん 多神教が寛容であるとおっしゃる。やほよろづの神々の共存があるからだと。 どうでしょう。多神の共存というひとつのまとまり これを後生大事に守るというじつは一神教 なのではないでしょうかねぇ。 ただし ブディズムは 仏教としてこの日本教という一神教の傘下に入った。道徳宗教としてのキリスト教もたぶん 入った。普遍性をおびた個人の信仰を基礎とするクリスチアニズムは 入りえない。つまり 理解し得ないという結論をもって 入れることがない。 ひとえにこのクリスチアニズムを排除しようとするエネルギを保ちながら 多神教という名の一神教を守ろうとしている。 言いかえると 組織宗教であるキリスト教という一神教としてしか把握することはなく その一神教・対・一神教という構図のもとに 自己保存を敢行している。それが 日本教であるようです。 神は 同じなのです。名前がちがうだけです。多神は 早くいえば 分身です。だから いづれにしても 唯一神としての非思考の場をひとは持つのです。ここから 人間の自由が開けます。無神論のいだく《無い神》も この唯一神と同じ非思考の場のなぞです。 これが 人間の普遍的な存在形式です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 非経験の領域を想定するメリットは この世の狂気に侵されない領域を確保しておく、ということです。 少なくとも自分にとっては。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ うまいことおっしゃる。 ただ ようく考えると 非経験の領域を想定したそのとき この世の狂気から自由になった。というふうに捉えられます。《メリット》は たぶんひとつの目的になっているような主題ですよね。つまり 非思考の場は そういう経験世界における目的や狙いといったことがくっついて来るのではない主題なのだとは思いますよ。 ★ ~~~~~~~~~~ そもそもの勘違いは 非経験領域を特別扱いしちゃうからじゃないですかね。 神が特別への憧れの受け皿になってしまっている。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん《特異点》のごとく位置づけすればいいのだと思うのですけれど。 この経験世界の善悪や利害を超えている〔と想定される〕場として。 ★ ~~~~~~~~~~~~ > わたしは自分の子を信じる。 それは「私は自分の子を守る」という意味(意思表示)ですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから《誤用》と言ったのは舌足らずでしたが 《転用》しているわけです。本来の意味での使用ではないと言おうとしたのでした。 ★ ~~~~~~~~~~~~ ・・・ そう仰るだろうとは思ってました。 bragelonneさんには最初からときどきそういう姿勢が感じられました。 自己完結を目指されているのだろうな、と。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《そういう姿勢》=《自己完結を目指す姿勢》でしょうか? よく分からない。と言うよりも わたしが《さじを投げる》と言ったのは もうそれ以上は力が――少なくとも人間の力が――及ばないと見たという意味です。それ以上の意味はないと思うのですけれど。・・・