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ものの考え方次第かもしれない話ですが―
ものの考え方次第かもしれない話ですが― まず1点目の質問です。 以前に、 「ペットの動物が子供を産み、人がそれを育てきれなくなり 捨てる行為は、自然界で生存競争で淘汰される事と同じであり 気にする事は愚か者の考えである。」 という意見を言われた事があります。 非常に悪い言い方になるのですが、 私個人としてはこういう考えの人を非常に不快に思えます。 (恐らく人間相手でもその程度で見るという怖さかもですが。) 皆様は客観的に、この(セリフの)考え方をどう思われますか? 2点目の質問は、 「全ての生命の生きる目的は種の存続であり、 家畜は自ら望んで人間に適応するよう進化してきた。」 という説なのですが、 私は、 個体はそんなスケールの大きな視野で生きてなど居ない。 むしろ家畜は人間が意図的に淘汰と繁殖を繰り返させて あまり望んで適応した等とは言えたもんじゃないような? と思えてしまいますが、 皆様は客観的に、この(セリフの)考え方をどう思われますか? 色々なお考えを伺わせて頂けますと幸いです。
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- temtem1
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>>2について。 なるほど。文学的表現方法。確かにそういう言い方をする専門家って じみに結構居ますね。 これは元の文は2行でなく十数行語ってらっしゃったのですが、 「当たり前の事実」を当然に理解している者同士の上で話す話し方 であって、素人相手に話せば頭大丈夫かな?と思ってしまう。 専門家と素人の認識の差なのでしょうか。 この件についてちょっと補足しておきますと、「全ての生命の生きる目的は種の存続であり、 家畜は自ら望んで人間に適応するよう進化してきた。」という言い方は専門家ならそうそうしない言い方です。 文学的表現、と言ったのは科学者系の人間ならまずしない言い方、というのを言いたかったからです。 おそらくこれを発言した人間は文系ではないでしょうか? もしその人物が理系であれば 「生命は種の存続を行おうとする性質を保有している。家畜は、野生種が偶然、人間に対して有益な性質を持っていたことから人間によってその形質を操作されながら繁殖するという種の保存形態を取ることになった」 という言い方をすると思います。 ようは、そこに善悪とか道徳的な言い方を排除して結果論的に語るのが理系です。 家畜が望んだかどうかはおいておいて、結果的に人間という他種との相互作用でその数や遺伝的形質を左右されている、という事実だけを語ります。 この場合、人間も単なる化学反応を引き起こす触媒として語るのが非文学的表現。 ただ、こうした表現は一般的には嫌がられることもあるので、実際には擬人化的表現をすることもありますが。 ちなみに野生でも人間に限らずアリなどの一部の生き物が他の種を家畜のように繁殖させて餌にする性質がありますので、家畜化自体は人間の特権などではない、単なる生物学な現象にすぎないわけですね、科学的観点から見れば。
- temtem1
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あらかじめ言っておくと、これはどちらも生物学の問題ではなく道徳や哲学の問題ですね。 生物学カテゴリーではなく哲学カテゴリーで質問すべきことがらです。 科学的な解説も何もしようがありません。 1については、客観的に見れば、ただの個人の主張です。それ以上でもそれ以下でもありません。そういう考え方を持つこと自体はその個人の自由です。 ただし法的にはそれを実行すれば罰されますが。 主観的に見れば、私としては不愉快に思います。 2について、これは、ただの擬人化ですね。 ある現象を分かりやすく説明するために、しばしばこうした擬人化した表現をすることがあります。 例えば進化論で、キリンは高いところの植物を食べるために首を伸ばした、というように擬人化する言い方がありますが、これはキリンが自分の意志で首を伸ばしたわけではなく、進化という現象の結果、首が伸びたことを分かりやすく説明するための文学的表現方法でしかありません。 言うまでもありませんが家畜は別に望んで人間にしたがって進化したわけではなく、人間の行動によって結果的にそうなっただけですね。 さらにいうと、生物の目的が種の存続、というのも科学的根拠はありません。 ただの文学的表現です。
- HANANOKEIJ
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テレビで、動物の番組をみると、人間をやっていることが、ばかばかしくなります。だまし、だまされ、裏切りと暴力、殺人、戦争などなどの、人間世界より、動物のほうが、よほど、まっとうに生きています。 本当に、動物と向き合ったことがあるひとは、命のかけがえのなさを知ることができます。 宮崎県の畜産農家の人が話していました。動物、家畜といっても、名前をつけて、我が子のように育てているのですね。それは、相手の動物、生き物にもわかります。動物は、自分の命がなくなることを知っているのです。自分の子どものように育てている家畜を殺されると、こころがおかしくなるでしょう。 動物といえども、一緒に暮らすようになると、気になるものです。病気をしていないか、食欲はあるか、今日は元気か? ネコを放し飼いで飼ったことがありました。冬は、布団に入れて、暖房のかわりにしました。3人で、だれがネコを布団に入れるか、争いになりますが、最後は、ネコの好きな布団にもぐりこんでくるので、ネコの勝手でした。 人間には、まだわからないことがたくさんあります。でも、ネコをみていると、ねぐらがあって、えさがあれば、のんびり暮らしています。死ぬときも、いさぎよく死ぬのだろうと思います。 動物は、自分のことを動物とは思っていないような気がします。言葉が話せないだけで、自分のことを人間と思っているようです。家族か、兄弟と思っているのでしょう。それが、わかるひとと、わからないひとがいる、ということです。動物の気持ちがわからないのだから、人間の気持ちがわかるかな?わからないだろうな?
お礼
酪農家の生の話を聞く事が有る土地に住んでいたので そういう話などを思い出しました。 確かに動物を身近に感じていれば、命に代わりない事から そんな無機的な発想には至らないのかもしれませんね。 価値観は個人の自由ですが、私には彼らは受け入れきれない。 ただそれだけのような気がしてきました。
1.淘汰の方はそれでも良いでしょう。 でも買ってきたものを捨てるのは反社会的行為ですから、捨てないか、「殺す」かを選ぶべきでしょう。 捨てるのは許されません。 2.イヌやネコは自ら望んで人間と暮らすようになりました。 家畜のうち幾らかも人間に保護されないと死に絶えるので喰われても仕方がないから人間と一緒にいるのでしょう。 でも人間が一方的に捕獲して「品種改良」して人間の都合の良いようにねじ曲げた生物は人間の犠牲になった哀れな生き物です。 ただ、鯨やマグロのように自由に生きているのを殺して喰うのと人間が育てて喰うのとどちらが倫理的により許されるかという問題は難しすぎて分かりません。 この件は動物だけでなく植物の場合にも当てはまるので余計話しがややこしいです。
お礼
1について。捨てるのは許されない意味合いと具体的には理解できませんが、 やはり他人の迷惑である事は変わりないですよね。 2について。哀れですよね・・私もそれに頼っている人間の一員ですが。 >自由に生きているのを殺して喰うのと人間が育てて喰うのとどちらが倫理的により許されるかという問題は難しすぎて分かりません。 >この件は動物だけでなく植物の場合にも当てはまるので余計話しがややこしいです。 そうですね。 ご回答、ありがとうございました。参考になります。
- tindallin
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あくまでわたしの考え方です。 <1について> いちばん根本に考え違いがあるように見受けられます。お話にあるのは「ペット」です。 自然界で、その生物が自らの意図で産み、そこから能力のあるものが淘汰されていくのは自然だと思います。しかし「ペット」は意図してその飼い主のもとに来たわけではありません。そして自らの意図で子どもを生んだわけではありません。すべて、ニンゲンの思惑で操作されています。それならば、生まれた子もニンゲンが責任を持つべきだと考えます。 生まれた子すべてを育て上げろ、という意味ではありません。責任をもって、良い引き取り先を探すという行為も大事です。「捨てる」という行為はペットに対してだけでなく、人間社会においても反社会的迷惑行為です。 <2について> 地球上においてニンゲン様がいちばんエライんだ、という考え方に賛同できるかどうかで、見方が変わってくると思います。 望んだかどうかは牛さんや豚さんに聞いてみないとわかりませんね(汗)。順応させた、のはニンゲンですからねぇ。 「俺らが雇ってやってることでいい生活ができているじゃないか。おまえら望んでここへ来ただろ」と言って奴隷を囲う悪徳農場主のイメージがわいてきました(笑)
お礼
1はやはり反社会的ですよね。死に行く捨て猫達を見ていると個人的にも不快ですし。 2について。そういう見方もできるのですね。 何か私には少し頭の悪い神にでもなったかのような視点で語ってる妄想家に見えてしまったものですから。 ご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 まず、カテゴリ違いなのは薄々承知で、申し訳ないです。 以前ここではないカテゴリで質問し頂いた意見の一部だったので、 生物に対して多少なりと深めのお考えを持つ方々がどう考えるのか を聞きたくここで質問させて頂きました。 1について。そうですね。考え方は個人の自由ですね。 2について。 なるほど。文学的表現方法。確かにそういう言い方をする専門家って じみに結構居ますね。 これは元の文は2行でなく十数行語ってらっしゃったのですが、 「当たり前の事実」を当然に理解している者同士の上で話す話し方 であって、素人相手に話せば頭大丈夫かな?と思ってしまう。 専門家と素人の認識の差なのでしょうか。 文学的表現。そういう表現の世界をもう少し私は知るべきですね。 ご回答ありがとうございました。