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”社会淘汰”は淘汰と言えるのか
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/08446000/ しゃかい‐とうた〔シヤクワイタウタ〕【社会×淘汰】 社会的条件によって、人間の寿命・出生率・死亡率が影響される現象。 ******* この社会淘汰とは生物学でいう淘汰なのでしょうか?それともただの言葉の綾というか例えなのでしょうか。 淘汰ということは”どんな遺伝要素が環境に適することが出来ずに消えるか”という視点があるとおもうのですが、社会的条件にそういうものってありましたか。 例えばある気候に適応できない個体が消えるというようなことだとおもうのですが。 実際人間社会的には病気は治したり、うまく適応する方法を探しますし、生きる力については仕事をしてお金をもらうのですから遺伝ではなく後天的な能力の話になります。 仮に能力が遺伝していると仮定しても、先祖代々全く同じ職業をしている人って世の中に何%いるんでしょうか。 大体、社会的条件ということは、適応できずに”淘汰”される要素が、制度や景気が変わったら同じように変わるという事になると思いますがそれって淘汰ですか? 個体が消えればそれだけで淘汰と言えるなら、病死も事故死も寿命も殺人事件も全て淘汰って事になってしまう気がします。 なんていうか、どういう時に使う言葉なのか分かりません。
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- thegenus
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質問者さんのお考えで正しいですよ。 >『なんていうか、どういう時に使う言葉なのか分かりません。』 反資本主義の扇動をお膳立てする時に使われます。 たとえば、東大の学生の親の所得が高いという調査結果から、貧困層が社会淘汰されるなどのように。 社会淘汰は社会学系の用語です。生物学の概念ではありません。 学歴が低い者は(所得が低いから)出生率が下がるというようなものでしょ。この因果関係はインチキですね。子供を作るかどうかは不妊症をでなければ意思の問題です。 ------------------- 進化しない先生がいますね。縄張り争いみたいにすぐに他の回答者を牽制してしまう後天的な性格は、動物的本能という説明で正当化できません。育ちの問題です。親が他の日本人に負けるなと教え続けたのでしょう。 (No.5) >『でもそれは「生物学の法則をそのまま社会学に持ち込んだ」からなのではなく、「生物学の法則を誤解または曲解してねじ曲げて社会学に持ち込んだから」です。』 曲解しようが、しまいが、生物学を社会学に持ち込んだら、どのみち間違いなんですよ(笑) (No.1) >『遺伝的要素なしの「能力」があると思いますか?』 この切り口は、事実を無差別に結び付けている詭弁です。多少の能力が遺伝する事実と、生後の教育や努力が支配的になる事実は、別々の事実です。 たとえば大学入試の合否は遺伝しません。この能力を受験能力というのが社会学でしょ。それを遺伝するかのように扱ったら間違いなのです。大学入試の当落は生物現象ではありません。知識をどうやって親から子に移すの? ほんとに人と動物の区別がついていないのですね。動物を扱いすぎるとそうなるんですかね。 人間の行動が遺伝子に支配されている訳ないだろ。 出生率が下がった原因を生物学で説明できるの?そういう不必要な試みをしているうちに生物学も常識も歪むんですよ。 社会淘汰という言葉は、その原理まで生物学と共有しているわけではないんでしょ。社会淘汰は自然淘汰を「文字った」だけで。名前が類似しているだけなら無関係なんですよ。 社会淘汰は、そもそも社会を正しく説明していない概念だと思いますが、それは、生物学とは無関係に、間違っているんです。 その間違った社会淘汰という社会現象論に、生物学を持ち込むのがさらに困り者なのです。大混乱です。 進化論が適用できない対象に、進化論を使い、何でも進化論で決める、進化論原理主義者。進化論という学説が正しくても、それは生物学に適応しているからなのだから、分別のつかない進化論原理主義者の方は異常です。人畜のけじめがある「普通の生活」をしていて、進化論で説明できることはむしろ少ないですよ。 分別のない人は何事にもそうで、進化論の旗をかざした自分は何を言っても正しいと勘違いしている。生物学の旗を振り回して社会科学に入ったらダメなんですよ。商売っ気のある社会学から依頼があってもです。
Jagar39です。 要するに私は、質問の >淘汰ということは”どんな遺伝要素が環境に適することが出来ずに消えるか”という視点があるとおもうのですが、社会的条件にそういうものってありましたか という問いに「ある」と答えているだけです。 というより、「環境」に「社会的要素」も含まれる、ということなのですが。 ラッツェンホーファーの本は読んだことがありますが、確かにそれは「笑止」以外の何者でもありません。 でもそれは「生物学の法則をそのまま社会学に持ち込んだ」からなのではなく、「生物学の法則を誤解または曲解してねじ曲げて社会学に持ち込んだから」です。 まあ、100年前の本ですから、生物学についての知見そのものが今とは比較にならないほど少なかった時代なので、単に知られていなかったか誤解したのか曲解したのかの判別は困難です。ですがダーウィンの「種の起源」すらねじ曲げて持ち込まれているところも非常に多いので(というより進化論からの引用ほとんど全てが間違っている、と言って良いくらい)、まあ自分のイデオロギーの主張に進化論を利用しただけなのだろうな、とは思います。 ただ、そのことと、「社会的な要因で淘汰が起きるか否か」という問題は別、ということです。 生物学的には、生理的な変異だけが淘汰の対象になるわけではないし、人間社会も自然界の内、ということには変わりありません。 人間社会はもちろん自然界です。チンパンジーの社会は自然界で人間社会は自然界ではない、というのは、「人間だけは特別」という1つのイデオロギーでしょう。しかも生物学的な誤解に基づく。 また生理的な変異や形態的な変異だけが自然淘汰の対象になるのではなく、「あらゆる変異」が淘汰圧の高低はあるにせよ、淘汰の対象になります。 ですから、 >病死も事故死も寿命も殺人事件も全て淘汰って事になってしまう気がします。 これはもちろんそのとおりです。全て「淘汰」です。 ただし、個体だけを見ても淘汰は判りません。淘汰されるのは個体ではなく遺伝子ですから。 なので事故死したり病死した1人の人を見ても、その人の何が淘汰されたのかは判りません。もちろん生き残って子供をたくさん作った人にも「淘汰されるべき」遺伝子はありますし、事故死した人にも「選択されるべき遺伝子」はあるわけです。 ですから、病死や事故死、寿命や殺人事件が全て淘汰、というのは、淘汰を調べるために集計されるべき個体、という意味合いでしょうかね。
お礼
ありがとうございます。
- wakame300
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No2 wakame300です。 どなたかの熱い‘個人的主張‘はともかくとして・・(#^.^#) 【社会淘汰】をどう思うか?ではなく、淘汰という言葉が妥当なのか?・・というrozawa-aaさんの疑問については、妥当でない、との結論がすでになされていますので、以下を参考になさってください。 私も、社会ダーウィニズムに基づいた【社会淘汰】という概念に、意義を見出すことは、およそ無意味であると思いますね。。。 【社会淘汰とは】 自然淘汰に対応する概念であり、人間の寿命、出生率、死亡率が、その社会の制度、規範、職業、収入、生活様式などの社会的諸条件によって影響される過程を意味する。具体的には、保健・衛生や医学上の知識、婚姻を規制する法律、一定の租税や賃金などのように、直接的な淘汰を示す事例と、職業上の疾病のように、結果として淘汰の作用を示す事例、の二つの種類がある。ダーウィン主義の影響を強く受けた考え方であり、生存競争と適者生存の結び付きを社会現象のレベルに応用しようとした【*グンプロビッチ】や【*ラッツェンホーファー】によって主張されたが、今日ではあまり大きな理論的影響力をもたない。 【*グンプロビッチ】(1838~1909) オーストリアの社会学者。社会学研究に自然科学的方法を取り入れ、社会発展の原因を集団の間の対立・抗争にあるとする、いわゆる社会ダーウィニズムを提唱。著「種族闘争論」「社会学的国家観」など。 【*ラッツェンホーファー】(1842―1904) オーストリアの社会学者、政治学者、軍人。社会ダーウィン主義者で、その思想は、その著『政治の本質と目的』三巻(1893)、『社会学的認識』(1898)、『社会学』(1907)のうちに展開されている。すなわち社会過程は、関心を中心として他人と闘争しまたは一致する個人の反応であるとみた。彼はまた、グンプロビッチと同じく、国家の発生を種族闘争に求める征服国家説を主張している。その闘争説は自然淘汰(とうた)説の社会集団への適用である。彼の関心説はアメリカのスモールに、また種族闘争説はウォードに大きな影響を与えている。 【社会ダーウィニズム】 ダーウィンの生物進化論を適用して社会現象を説明しようとする立場。特にダーウィンの生存競争による最適者生存の理論を誤解ないし拡大解釈して,社会進化における自然淘汰説を導き出そうとする。 ここは質問者への回答の場であって、回答者同士が議論することは避けたいと願います。m(__)m
お礼
ありがとうございます。
No.1のJagar39です。 まず、生理的な形質だけが淘汰の対象というわけではない、ということ。 頭脳や手先の器用さといった能力的なものから他人とのコミュニケーション能力や怒りやすいとか冷静だとかいう気質的なものまで、遺伝的な要因であるならば(もちろん遺伝子だけでそういったことが決まるのではありませんが)、それは「自然淘汰(あるいは選択)」の対象となっています。 能力や気質は遺伝だけで決まるのではない、という反論もあるでしょうが、No.1で述べた「大きな集団、長い世代数で見れば平均的に」ということを再確認してみてください。 ある気質に影響を与える遺伝子があるとして、それがどの程度その個体の「性格」に影響を及ぼすかは後天的な影響で決まります。 ですが十分多い個体数と世代数を見れば、後天的な影響はその遺伝子を持つグループと持たないグループで等しい、と見なすことができます。 するとそこには、遺伝子による差、が出てくるはずです。 自然淘汰は個体だけを見ていては判らない、ということです。 次に、人間の社会も自然界の一部である、ということです。 人間社会を作っているのは人間なのですが、その人間は生物としての呪縛から完全に自由になっているわけではありません。 富めるものがますます富む、といった社会は別に人間社会の唯一の普遍的なあり方ではありませんが、それも一度成功者となった個体が自分の子孫を残しやすくするような社会を作っているだけの話で、「生物学的に」理不尽な話でもありませんし、それは他の動物にも似たような例がないわけでもありません。 それも含めて、「自然淘汰」の一部なのです。 ある程度高度な社会を形成する動物には、彼らには彼らの「社会」があり、一般にイメージしやすい形態的な、あるいは生理的な要因以外の「社会的な」要因による生存競争というものが普通に見られています。それらはなんの疑問もなく「自然淘汰」と見なされていますが、人間だけは違うとする理由はないでしょう。 「自然淘汰」というものの概念を正しく掴めば、優生学や強者の理論といったものが、どれだけ生物学としての自然淘汰の概念をねじ曲げているか、ということも理解できると思います。 社会学に生物学をそのまま適用した時に危険な思想が生まれるのではなく、生物学をねじ曲げて適用するときに危険な思想が生まれるのです。 また、正確な知識がないから、世の中もねじ曲げられた生物学を持ち込んだ理論に騙されるのです。 ほんの僅かの知識があれば、優生学は自然淘汰ではなく人為淘汰であり、人間が家畜に対して行っている品種改良ほとんどそのまま、であることは容易に理解できると思いますし、自らを家畜と見なすことに等しい思想に賛同する人がいるとも思えません。(自分は別、と思い込んでいる一部を除いて) また、強者の理論(生き残ったことが正当性を担保する、といったような)も、個体の生存あるいは繁殖成功性は自然淘汰と直接関係がない、ということも判るはずです。 ま、「社会淘汰」という言葉が使われるとき、それがどういう意図でどういう意味合いで使われているかは判りません。その時の文脈次第だと思います。 まあ、形態的な要因であろうと生理的な要因であろうと社会的な要因であろうと、遺伝的な要因は基本的に全て自然淘汰の対象なので、「社会淘汰」として社会的な要因だけを切り離して取り沙汰する意義はないことが多いでしょうから、「社会淘汰」という言葉に何となく胡散臭さを感じるのは確かです。それだけを特別視する必然性がなければ。 だからといって、社会的な要因も自然淘汰の一部、ということには変わりありません。人間が作った社会も自然の一部ですから。
お礼
ありがとうございます。
補足
人間について「遺伝子による差、が出てくるはずです」の根拠が良く分かりません。 他の箇所は言いたい事がわかりました。
- wakame300
- ベストアンサー率70% (334/474)
>この社会淘汰とは生物学でいう淘汰なのでしょうか?それともただの言葉の綾というか例えなのでしょうか。 社会活動に生物学的整合性を持たせるためのアヤというか、詭弁みたいなもの でしょうね。。。 「生物学」とりわけ進化論における‘自然淘汰‘は、自然発生した変異体のうち、 より適応度の高い個体が選択的に生き残っていくことをさします。 一方、社会条件による個体数の増減は、生理的な変異とはほとんど無関係ですし、 自然界の出来事でもありません。 「富める者がより富んでゆく」のが社会であって、適応度の高さとは一致しない 傾向も強いですしね。。。 そもそも寿命・出生率・死亡率は「文化人類学・社会人類学」で扱うべき問題で あって、自然科学の法則(または傾向)を、そのまま社会科学に持ち込むような 手法は、何かにつけ問題が多いと思いますよ。 優生学にあるように、往々にして、強者の論理やナチズムに陥ることも多いです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E7%94%9F%E5%AD%A6 「クルマは進化する」というくらいは、あまり気にもなりませんが、社会淘汰と いう言葉自体、慎重さに欠けるように思えますね。
お礼
ありがとうございます。
全部が全部ではありませんが、言えると思いますよ。 淘汰というのは、生物学的には「ある遺伝的要素を持った個体が、持っていない個体と比較して後代に自らの遺伝子を残す確率が低く(あるいは高く)なること」を指します。個体の生き死には淘汰には直接は結びつきません。 例えば、「頭脳はとても優秀だが身体が弱い」という特徴を持った個体は、ある者は生き延びて何人も子孫を残し、ある者は結婚前に死んで子孫を残すことに失敗するでしょう。でも後者は子孫を残すことに失敗して「淘汰された」ように見えますが、では「身体が弱い」という遺伝的要素は「選抜された」のでしょうか?違いますよね。 世の中には頭脳は優秀でなおかつ身体も強い個体や、頭脳は弱いけれど身体が強い個体、また頭脳も身体も弱い個体など、様々な個体がいます。今は例えとして遺伝的要素は2つしか考えていませんが、あらゆる遺伝的要素による無限の組み合わせがあるわけです。 で、個体ではなく遺伝的要素に注目すると、十分な個体数と世代数をサンプリングすれば、「頭脳が優秀」な遺伝的要素も「身体が強い」要素も、それぞれそれを持っていない個体と比較すると、平均した子孫数が多い、という結果が出るはずです。 その時、「頭脳が優秀」な遺伝子も、「身体が強い」遺伝子も、「選抜された」と表現するわけです。逆から見れば、「頭脳が弱い」遺伝子や「身体が弱い」遺伝子は淘汰された、というわけです。 個体だけを見れば、 >適応できずに”淘汰”される要素が、制度や景気が変わったら同じように変わるという事になると思いますがそれって淘汰ですか? これが純粋に生物学的な形質だけを見ても同じことです。 平均より寒冷に弱い、という個体がいたとして、その個体が必ず「淘汰される」かどうかは判りません。他にもっと有利な継室を持っていれば生き残るかもしれませんし、たまたま20年ほど温暖な気候が続けばそれらの個体も生き残る確率は高くなるでしょう。 平均より寒冷に強い個体がいたとしても、1個体だけを見ればたまたま洪水で死んでしまった個体もいるでしょう。 なので淘汰は「個体」だけを見ていては理解できません。 これが生物学的な「淘汰」の概念の基本なので、それを念頭に置いてください。 さて、「社会的条件」ですが、これはヒトの大半の資質(もちろん遺伝的な)が該当するのではないですか? 前述の「頭脳が優秀」という遺伝的要素ですら、社会的な条件によってはさして有利ではなくなるでしょう。人類史の大半の時代は、頭脳よりも頑強な身体を持つ方が遙かに有利だったでしょう。 その「頑強な身体」という形質も、昔の王侯貴族に生まれていればさほど有利とも言えなかったでしょう。非常に身体が弱くても20歳まで生きることができれば子孫の10人くらいは簡単に残せたわけですから。 ですから、質問者さんが「生物学的な形質」と考えるものも、ヒトにおいては実際はほとんどが社会的条件によって有利さや不利さが変わります。モノによっては有利と不利が逆転する場合すらあるでしょう。 >生きる力については仕事をしてお金をもらうのですから遺伝ではなく後天的な能力の話になります 遺伝的要素なしの「能力」があると思いますか? 同じ訓練をしても上達には個人差があるでしょう。同じ職人に弟子入りしても達人になる人もいれば一人前にすらなれない人もいますよね。前者は金を稼ぐことができ、従って家族を十分養うことができるため子孫を多く残せるでしょうし、後者は金を稼げず、子孫を残せる数も少なくなるはずです。 >仮に能力が遺伝していると仮定しても、先祖代々全く同じ職業をしている人って世の中に何%いるんでしょうか ほんの100年くらい前までの数百年は全ての人がそうだったんですが。 これも社会的な制約があったわけで、農家に生まれながら農業に向いていない人、武家に生まれながら武士に向いていない人も大勢いたでしょうし、そんな人の「子孫を残せる数」も少なかったでしょうね。 それと、「能力」と「仕事」は1対1で対応しているわけではありません。ある「能力」は多くの仕事で生かせるでしょうし、同じ仕事であっても社会的条件によって要求される「能力」が異なることもあるでしょう。 >大体、社会的条件ということは、適応できずに”淘汰”される要素が、制度や景気が変わったら同じように変わるという事になると思いますがそれって淘汰ですか? 単純な生物学的要素も時代や地域によって変わります。同じです。
お礼
ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。
補足
皆さん、お世話になりました。 ベストアンサーは決めにくいためあえて該当なしとさせていただきます。