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引きこもりこそ、空間、時間、構造、身体を考える上の現代のキーになると思います。
引きこもり、空間の奴隷。外に出れない。同情の対象。 さあ、BREAK THROUGH THE OTHER SIDE. どうすればBREAK OUT するのか 空間を引き裂き、構造をくずせるのか。
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地球には、一億人のホームレス。 貧困、飢餓、災害、戦争などで難民になんている人々も含めてです。 こんなところで鬱になって引きこもろうにも、引きこもる場所がない。 引きこもりを考えることが自由を考えることになる。 なりえるでしょう。 ホームレスを考えることは、生きていくということはどういうことかを考えることになります。 引きこもりは、空間、時間の奴隷という訳では在りません。 そう思っているだけです。実際には、足も手も、ついているのですが、精神を去勢されています。 いわば、自分自身の、思考の獄(牢)、逆オナニーです。昇天ではなく、堕落です。 思考(仮想)をかくはんし、崩せるのは、現実なのです。ただし、outsideの現実です。 insideの現実(都市や社会構造)は、基本的に思考によって組み立てられたものですので、それは(仮想現実)です。そんな物見たって、二重の牢屋になるだけです。 自分自身が、ある時空そのものであるのであり、 自分が何かの個体で、ある時空に存在している個物だと言う考え方ではなく、ある時空に、私という時空がある。 そういうような見方もできます。 だけれども、思考の牢屋の住人、逆オナニーの常習犯は、そういう考え方はまだ身についていないと思います。 偉そうなことを言いますが、そう思います。 時空の奴隷になった理由は、体験した時空が少なすぎるからだと思います。 「どうせやっても変わらない(でも、ほんとは何かして、あんなことやこんなこと(エロいことも含めて)、やってみたい!)」その気持ちを、TVやインターネット、漫画、ゲームで誤魔化すのです。 たしかに、漫画はかなり素晴らしい。インターネットも、TVも悪くない。だけれども、それらはどちらかというと、飯屋で言うところの、「のれん」であり、なくても飯には関係ない。入り口にはなります。 例を出します。(小さいですが) ◎ 上の二重丸の、内側の円の中が、inside(社会や都市、TV、漫画、自分の思考)、外側の円と、内側の円の間が、「間」その外側が、outside。 円を引いている線を、取り去ってみると、全部outsideと変わりません。何にもないのです。 内側の円と外側の円の間の空間が、「自分という間」であると、思います。 このような二重円が、いっぱいあるのですが、「間」は、insideしか見えていません。中心にアタックしている。中心の方を向いているのです。 そうではなく、内と外を分けている、「間」、自分という時空を、意識すれば、「あんなことやこんなこと」も、少しはできるようになるぞ、と、言いたいのです。 なんか、ネガティブに引きこもりの話をしてしまいましたが、まだそんなに状況は悪くない。 引きこもり当人にとっては大問題だが。 それでも、悪くはない。 昔の時代だって、問題はあった。今もある。 生きているということは、時空を超えて起こっていうことなので、breakoutするならば、中心にアタックして、時空に穴でも空けれたら、まじでブレイクアウトするかもしれません。
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- ghostbuster
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#8です。 ご質問に興味を喚起されて、ふたたびドゥルーズ=ガタリを読んでみました。 『カフカ』では、“変身”を読み解いているのですが、これが大変興味深いものでした。 ある朝、目を覚ましたら、一匹の巨大な甲虫になっていたグレゴール・ザムザは、「ひき こもり」のメタファーと読むことも可能です。 ここで注意しておきたいのは、ドゥルーズ=ガタリが、従来の「不条理」であるとか、カ フカの父親との関係にみられる「フロイト的な解釈」を否定していることです。 逆に、主人公が変身した自分の姿に驚いていないことに注意を向けようとする。 本書はやはりむずかしいので、自分がここで雑ぱくにまとめるより、ぜひご一読されるこ とをおすすめしますが、その上で、自分としては、この点を指摘したいと思います。 社会問題を考える観点からならば、「ひきこもり」の「解決」は必要かもしれない、ただ、 哲学の役目は、この問題を別の角度から見ることではないか、と。 内側から「壁」をこわせば、そこに自由があるのか? デリダはそうではない、と言います。 人間は「言葉」というシステム(壁)から逃れられない、けれども言葉をずらして使って いくことの中に、自由、精神の空間がある、と考えているのです。 浅田のいう「逃走」も、システムを打ち壊すのではなく、そのシステムの隙間をつけ、と 言っているのだと自分は理解しています(『逃走論』未見)。 デリダ、ドゥルーズ、浅田の考え方を受け継いでいくならば、「ひきこもり」を外に出し ていくのを考えるのではなく、見方を逆転する。 具体的には、ひきこもったままで可能な「交通」システム(ネットワークの作り方や、ひ いては生産関係への参与)を構築することにむけて考えていくことが、 哲学から見た解決への道筋ではないでしょうか。
ちょいとつけたしです。(ながながとこの質問に食いつきますが) おっしゃる「ゆらぎ」は、不定の「間」という意味でしょうか。 そういう人間にある無限のゆらぎ空間に捕まっているが、ゆらぎをとめたら、間がなくなり息苦しい。 こんな感じ。 なんか、おっしゃりたいことが分かったような分からんような。 間が揺らぐには、insideか、outside、最低どちらかが揺らいでいないと、間は揺らがないと思います。 間そのものが揺らいでいると言うのなら、「間」が「ゆらぎ」であるということになります。 次に考えられるのは、 ・もともとoutsideがゆらいでいる。 ・ゆらぎが生じたとき、insideが現れる。同時に間も現れる。 ゆらぎを克服する(とめる)と言うことが、息苦しくなるというのなら、それはoutsideではない。outsideが閉じるというのは意味が分からない。 止められたゆらぎは、固化したinsideであるような気もします。 そうならば、そのinsideにアタックすると言うのは、わかないでもない。 どうも、中途半端な回答が続いてすみませんが。 もうひとつ、outsideと思っていたものがinsideだったってことがあります。 それならば、「間を克服したと思ったら、息苦しくなった」という現象は起こりえるでしょう。
あ、ごめんなさい。もう1回だけ……(補足です) 【直感】と【直観】。 打ち間違いではありません、一応使い分けていますので。 ……以上です。 あまり私ごときが何度も回答するのも気が引けるので、 これにて失礼します。。ごゆっくり考えてください。
お礼
自殺した人を悪くいうのは、良くありませんが、「どうせ生きてても」というのは、人間には、無限の可能性があるというのは、嘘くさく、校長とか社長が士気をたかめるための道具てきに使いますが、「人間には、無限のゆらぎがある」 自殺した人、引きこもった人は、空間、時間の奴隷であります。「ゆらぎを、止めた」、「ゆらぎを克服した」と思った瞬間、息苦しい空間になった。 直感と直観の違いがあったのを、今しりました。ありがとう。
補足
長崎の幼児誘拐刹人事件で、驚いたことは、商店街に、高精度な監視カメラがあったことです。このことで、事件解決に役にたちましたが、誰が、いくらの肉を買っているとか、どんな米を買っているかとか、閉店後、それをみながらデーターベースにしたいという欲望が見えてきます。
さまざまな方の回答、そしてpassagen1919さんの「お礼」大変興味深く読ませていただきました。 まだまだ勉強しなければならないなという思いもしました。 【直感】という言葉が出てきましたので、私もすこしだけ直感で語らせていただきます。 現代社会において、人間の「直感」は だいぶん鈍ってきているように思います。それは社会がさまざまな身体感覚を必要としないのですから、当然の結果であると思います。そこで【「引きこもり」になったら、直感は無くなるのか】と考えてみます。 おそらくそんな事は無いでしょう。むしろ空間・時間の制限の中で、本来自己が持っている感覚を研ぎ澄ます事すら、あるかも知れません。大都会で毎日マラソンをする事は体を強くするでしょうが、汚れた空気を余計に吸ってしまう事にもなります。 狩猟社会を根底に持っている欧米とは違い、日本人は個人主義になじみにくい体質です。ですから、世界的なグローバリゼーションの流れの中で、引きこもりが増えてしまうのも しごく当然の結果なのかも知れません。これから未曾有の危機が人類に訪れるのであれば、引きこもりの直感が【吉】と出る可能性は大いにあるでしょう。こればかりは「未曾有」なのですから、分かりません。 では俗に「引きこもり」と言われる人々の問題点はなにか。それは直感はあれど、【直観】ができない事だと思うのです。 その理由はおっしゃる通り、「空間・時間の奴隷」であるから。人間にのみ許されているであろう「直観」は、この空間・時間をおのおのの外から捉える試みによって、初めてなされるものです。かつての哲学者たちは、この【直観】により、世界をとらえてきたのです。 現代の状況が20年後30年後、思ったほどに変わらなければ、やはり「直観」が重要な事にも変わりはないと思うのです。 ・うつ病(&躁鬱病) ・分裂気質 ・循環気質 ・てんかん気質 それぞれの得手不得手がキーワードとなるでしょう。空間・時間を考える際に【直感】でもって それをなすならば、それは「引きこもる/こもらない」にかかわらず、空間・時間の奴隷であることに変わりは無いのです。
お礼
ジョン ケージという作曲家は、直感を大事にします。直感こそ音楽の本質だとしています。 直感って何?と質問されたら、直感とは、わからないことに、ぶつかった時にたよりにするものだと思います。人間わからない物事にたいしての、エネルギーは、すばらしく、うつくしいです。子供のわからないことにぶつかった時の質問するとき「お母さん、あれ何」の連続です。 SEA_OF_LOVEさんのいう通り、引きこもりには、直感が薄くなっています。結果ありきで、目標、結果の連続であって、偶然は、必然に還元され、偶然を偶然として、受け入れる感性もにぶっています。結果が常に先にあって、それを追い掛けるのが目標の役割になってます。その思考法は、偶然は排除され、非常に、安定していて、科学的です。わからないことにぶつからないです。家に閉じこもっていたら。 引きこもりを、考えることは、今の時代をしることだと思います。引きこもりの考え方、「どうせやっても、無駄だ」このことは、安定をもたらす反面、わからないことにぶつからず、独りよがりな、考え方です。 答えがまとまらないので、また考えます。
社会の割れ目に流れていく人は、エネルギーの高いところから低いところへ行く水と一緒で、 惰性的、動物的。 途上国のような間は、天災が起こっても、日本には出現しないと思います。一度近代化したという歴史が、皆の記憶にあるからです。 学校も、衣食住の次くらいに、優先して再建される。また、引きこもりの出現率は高くなっていきます。 滝を上に登って龍になる、鯉の生き方。 人間が水なれば、上から下へ、というような、安直なものではないとおもいます。 引きこもり現象は、吉と見れるところがある。 欠点は、自分の居場所、間を形成するための材料となる体験、情報量が圧倒的に少ない。 だから、自分で道を切り開くか、そこにある空間に気づくか、そういうことができるようになるチャンスだと、私は思います。こういう状況は、分裂系に多いのでは。 切れたり、病んだりする引きこもりは、inside的社会、冒険のない所でずっと育ってきたために、栄養不足になっているのではないか。 そういう場合は、鬱的、outside方向へ遊びに連れて行くのがいいのでは。 天災で救われるのは鬱。 分裂系は、天災では救われないと思います。 都市部に間がないというのは怪しい。確かに自然はないですが。 子供の足で歩いて渡れない都市は、日本では東京か大阪くらい。大概の町は、それなりに歩けば田舎に出れる。 outsideをめざせば、間なんて途中にごろごろ転がってる。 都市の中にも、夜は交通量の下がる道路、神社の建物の中、工場跡、建造中のビル、幾らでもある。 引きこもりが多くなったのは、そんな生き方も、実現しえる複雑な社会なっていくからではないですか? inside発信のメディアが高度化し、TV漬けになる、外へ出たいという欲求を、TVで誤魔化す。そういう場合は、所詮自分の部屋も、outsideだということを、心のどっかにでもとめておけば、束縛も薄れると思う。
お礼
引きこもりを考えることは、自由を考えることだと思います。中心から、周縁にスピンアウトして、それらが、周縁にとどまることは、健康的じゃありません。くだらない中心を強化するイデオロギーになるでしょう。引きこもりが、50万人いるそうです。その人らが、中心にアタックしていく。そのことは、今までくり返し繰り広げてきた、日本の歴史じゃないでしょうか。
- ghostbuster
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まず、自分は哲学的な議論をするつもりはありません。 また、ある事象を“構造主義的に見るとどうなるか”というような話を、友人同士ならいざ知らず、こうした公の場ですることも好みません。 とりわけ、その話題が「引きこもり」のように、具体的に苦しんでおられる方がいらっしゃるような問題である場合は。 その上で。 すでに多くの方がそれぞれにお考えになって、述べていらっしゃるのですが、ただ、passagen1919さんの問題意識とは若干ずれているかな、と思うので、あえて自分が感じていることを書かせていただきます。 >『彼のリゾームはこわされ』『彼の地図はよごされ』、その地図は、位置は正され、あらゆる出口はふさがれて、ついに彼は、自分自身の恥辱と、罪悪感を望むに至り 彼のうちに恥辱と罪悪感「恐怖症」が根を生やす<彼に対して建物のリゾーム、街路のリゾームが封鎖され、フロイト先生に金縛りにされる これは、ドゥールズ=ガタリの『アンチオイディプス』のことでしょうか。 フロイトはエディプス・コンプレックスで全部説明しようとすることで、リゾーム的な欲望の流れに枠をはめてしまっている、と。 現実の諸問題を、ポスト・モダニズムの思想で読み解くのは、非常に重要なことであるとは思うのです。 ただ、それは諸問題を思想の図式に当てはめることではないのではないでしょうか(これはpassagen1919さんに対する批判ではなく、自分が過去やってきたことに対する自戒もこめて、という意味です)。 たとえば、自分はスラボイ・ジジェクが好きで、9/11をめぐるジジェクの発言なんかは大変おもしろく読みました。 参考URLでは、ジジェクが映画“トゥルーマンショー”に触れつつ、アメリカの隔離された状況の内と外について述べています。これなどは引きこもりについて考えようとするpassagen1919さんの問題意識とも関係してくるかな、と思います。 よかったら、参考になさってください。
お礼
われわれは、いかなる時代にいきているのか? スラボイ・ジジェクもラカンの用語、概念を駆使して、解明しようとしています。木村敏にしても、スラボイ・ジジェクにしても、臨床心理学は、じかに患者と摂して、患者のとりまく環境や、時代と対決しなければならないので、ただ薬で押さえ付けるとかじゃなくて、言葉が重いくて、「はっ」とされます。 同時多発的に、引きこもりが大量発生した日本は、過去体験したことがありません。引きこもりは、外にでれない。家の中でも満足できない。まさしく空間の奴隷であり、このことを考えると、都市設計、建築、流通の敗北だと思いますが、それらは、敗北したとも思ってない。敗北の自覚さえないのです。 敗北の自覚がないから、バリアフリーだとか、ユニバーサルデザインとかの、新たな、バリエーションが反省なしに出てくると思います。 なぜ金縛りになったのか?その金縛りをほどきかたがあるのか? 僕がおもうに、社会や学校にうまくなじんでる人も、金縛りにあってるんだと思います。金縛りの度合いが、強いと、引きこもり、金縛りがないと、暴れ出す。だから、引きこもりは社会とは、別じゃなくて、社会の延長上に、引きこもりがあると思います。 この社会は、必然的に、引きこもりを生産しているにもかかわらず、そのことを、隠ぺいして、自覚さえないんじゃないかと推測してます。
- rainman
- ベストアンサー率27% (5/18)
#4です。 ここは回答者同士の会話や論争をする為の掲示板ではないので 質問者の方から再度の質問がないかぎり 私からは回答はこれまでとさせて頂きます。 まず「必死こく」という言い回しはおかしかったですね。 訂正いたします。 再度簡単に説明させて頂きますと、 たしかに引きこもりの方々には大きな心の傷や 社会的に不適切な性分があるのだろうと思えます。 しかしそれと同レベル(と言い切れはしませんが)の 心の傷や人間的な欠点を誰もが持っているんです。 誰もが痛みや欠点を抱えながらそれでもなんとか社会との折り合いをつけ、 自分を騙し、傷つけながら生きています。 仕事をしながら(或いは自分で学費を稼ぎながら) 大学を目指す人間、大学に通っている人間。 家族を養っている人間。 子供を育ててる人間。 それらの人達も同様にです。 引きこもりがただたんに同情の対象であり、 社会的に許されるなら皆引きこもります。 私だって引きこもりたい。 しかし私は親と自分の家族とを私一人の稼ぎで養っています。 そんな甘ったるい事言ってられません。 働きもせず義務教育も受けずなら、 そりゃあなんでも目指せますよ。 それって生真面目と言えますかね? 皆さんが引きこもりの人々に同情するのもわかりますよ。 「気持ちがわかる」というのでしょう。 当たり前です。 傷ついていない人間なんていないのですから。 引きこもりはさなぎではありません。 働きアリです。 「俺は疲れてるんだ~」 「俺は傷ついてるんだ~」 そんな甘ったれた事を言って一人列を離れて 仲間の運んできた飴をなめているアリ。 「みんな疲れてるんだよ!傷ついてるんだ!手前も働け!」 というのが正直な気持ちです。 長文失礼。
お礼
引きこもりを、怠け者とみる見方こそ、問題を複雑とするんじゃないかと思います。引きこもりを、鬱病気質とみるか、分裂病気質とみるか、そこが問題です。 直感で思うに、もし大地震がきて、目の前の物が破壊され、会社も金融制度も破壊され、空間にあらゆる所に、はざまが生まれるとき、引きこもりは、激減すると思います。 鬱病気質の人は、現実にはまって、必死こいでがんばります。寝る間もおしんで勉強したり、働いたり、所詮人間は、身体をもっていますので、無理もそんなにできません。無理しすぎると、波状して、発病します。 引きこもりこそ、がんばり屋さんで、自分に夢中になるべき何かをさがして、傷付き、最後に社会を呪い、自分を呪い、その呪っていることさえ、抑圧して、忘れているから、パワーがでないと思うンですが。
補足
どんな時代もなまけ者はいました。働かずに、パチンコしたり、酒のんだり、博打したり、時間にルーズで、職をてんてんとして、 引きこもりは、それと同じレベルで考えると、うまくいきません。たいがい引きこもりの親は、子供を理解して、優しく、教養豊かな人間から、そだっており、決して、ダメ人間の暴力、酒、博打から、そだってないのが、罪深いと思うンですけど。
> 引きこもりこそ、空間、時間、構造、身体を考える上の現代のキーになると思います。 ―→なりますよ。ハイ。でもその場合「考える」のは第三者ということになりませんか? BREAK OUT するために空間、時間、構造、身体を考える ―→問題点を発見する ―→それが上記のいずれによるものかを考える ―→動かない事には、問題の原因がいずれによるものか、正確に把握できない ……こうなります。 ※例――15年ぶりのシャバ 以前暮らしていた田舎を離れ、新たな地で俺は新生活をスタートさせた。 ところが出所1日目にして、俺は思わぬ体験をした。 近所の女子高生のスカートの、なんと短い事よ!! 俺は憂いた。 「このごろの女子高生は……」 しかし次の瞬間、別の考えが頭に浮かんだ。 「この辺の女子高生は……」 どっちだ、どっちなんだ!? 俺の新生活は、早くも窮地に立たされていた…… (この物語はフィクションです。) こうなると、引きこもった本人を第三者に研究してもらうか、 いったん外へ出てみて、過去に引きこもっていた自分との比較検証の いずれかが必要になりますね。 いったん旅にでも出てみて、それから引きこもって研究するなら、BREAK OUT の期待は大です。 なお、これは学問的研究法の序説ですが passagen1919さんの「考える」が別の意味であるならば、 (たとえば思索ではなく、詩作の材料等であるならば) QandAサイトで尋ねるよりも、別の方法をお勧めします。 中国の詩人が、しばしケータイもインターネットも何もない世界で孤独に暮らしていた事実が 大いに参考になるものと思われます。
お礼
引きこもりが、大量発生し、自殺者が3万人を超える現代、もっと真剣に考えてみてもいいと思います。 将来に絶望して死んだ、三島由紀夫。もっと絶望してもいい人たくさんいるのに、彼は、教養もあり、やさしく、知性もありながら、家族をのこして自己満足のすえ自殺した。 アウシュビッツの残虐な行為をした人は、家に帰れば、優しい父であり、芸術を愛する人が残虐きあまりない行為をした。 引きこもりも、教養があり、小学校勉強ができて、知的レベルが高いにもかかわらず、引きこもった。 あほならなんぼでもいるし、引きこもったほうが、いいのに、学校にくるわ、めちゃくちゃするわ、 眠い。
都市の中でも自分で道は切り開けます。 そこに自分がある限り、何処でも道は切り開けるから、「自分で道を切り開く」という台詞に力強さがあるのではないでしょうか? さなぎはどうやってブレイクアウトするのでしょうか? 動かないさなぎを動け動けとせっついてしまっては、どろどろに融けた中身は死んでしまうのではないですか? 引きこもりも、さなぎと似た部分があると思います。 引きこもりをせっつくのは一番よくないと思います。 もし、他人が何かするのなら、軽く話しかける程度が、いいのではないでしょうか? 必死こく(何時死んでもおかしくない)ほど、現代の日本の社会が厳しいとは少しも思えませんが、自殺者も多く、何かの社会病理が働いているとは思います。 引きこもりが、社会で生きている人たちに対し失礼で、扶養主に迷惑だと言うのなら、小乗仏教の坊主達は皆、駄目人間でしょう。 引きこもりと変わりません。 それを、既存の社会に引きずり出し、そこに漬け込もうと言う発想は、自分で道を切り開けず、この日本社会で必死こかねばならないような人の、正当性を確保するために、引きこもり(きちんとしていない、自分より弱そうに見える人)を犠牲にするようなもので、多数社会の陰に隠れた、卑怯者の意気地のない発想だろうと思います。 別に引きこもりは駄目ではなく、坊主も駄目ではないと思います。 insiderよりもoutsideに近いであろう間に住む引きこもりは、outsiderが持つような、無限の深みを持つ、広大な精神の持ち主である可能性があります。 孤独な戦いに勝ち、見事、さなぎから成虫に飛躍して欲しいと思います。 insiderは幼虫、間はさなぎ、outsiderは成虫といえる面があるでしょう。 私は、引きこもりだけでなく、精神的な孤独者の多い現代社会から、さまざまなタイプの蝶が生まれて飛び立つのだと思って、現代社会を見ています。
お礼
引きこもりを、怠け者と見て、やる気のなさに還元して考えるのは、より問題を複雑にするような気がします。 Dragon_Brainさんの、引きこもりは、インサイドでもなく、アウトサイドでもない、はざま的存在というのが、一番しっくりきます。 引きこもりの大量発生とはざまの消滅。 直感的にいえば、もし大地震がおきて、学校が崩壊して、交通機関がマヒして、金融制度がぐちゃくちゃになり、そこには、あらゆる所に、はざまが生まれ、闇市や、個人商店、外国人などが、うまれる時、引きこもりは、激減するでしょう。 最近の物語りは、はざま的がおおいのは、マトリックスしかり、ドラゴンヘットとか、あの世とこの世のはざまの物語りだとか、おおいと思います。 引きこもりが大量に発生した、わたしたちは、どんな時代に生きているか、もっと考えたいです。
- rainman
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(;--)・・・(ぐちぐちとなんか言い訳っぽいなあ。) 引きこもりと呼ばれる人達は何かしら大きな失態や心の傷、 性分上社会に適応する事のできなかった人達であると思われます。 しかし、 心に傷を抱えていない人間なんているでしょうか? 生まれてこのかた失態を犯した事のない人間なんていません。 社会に適応する為にあたって不十分な要素でさえ 実は誰にでも必ずあるものです。 それでも通常の人々は、 そういった傷や負い目を背負い、隠し、時には許し合い生きています。 それが「社会」です。 いわゆる引きこもりと呼ばれる人々、 中途半端なヤンキーや悪ガキ、 法を犯す少年少女達、 そのほぼ全ては 自分(とその仲間うち)のみを悲劇の主人公に作り上げ、 自分中心の勝手な枠組みや思いこみから 行動しているだけだと思われます。 要は「浅はか」ぶっちゃけて言うところ「たんなる甘え」です。 引きこもりに対する一番の対応、 一番の優しさは引きずり出す事だと思いますが。 鋼鉄の扉に鋼鉄の南京錠がかかっている訳ではないのですから。 枠組みを作ったのは社会ではなく自分である。 頭の中で思い描いている社会が事実かどうかその目で見させる。 様々な立場性格の人間の思想思考を見せ、 自分の思想の甘っちょろさをわからせる。 いずれにせよまず一番最初にするべき事は引きずり出す事です。 手前一人が部屋に引きこもってだらだらしている事で どれだけ親に迷惑をかけ、 必死こいて社会で生きている人達への 礼儀に反していると思っているのでしょうか。
お礼
引きこもりと呼ばれる人達は何かしら大きな失態や心の傷、 性分上社会に適応する事のできなかった人達であると思われます。 わたしもそう思います。 『彼のリゾームはこわされ』『彼の地図はよごされ』、その地図は、位置は正され、あらゆる出口はふさがれて、ついに彼は、自分自身の恥辱と、罪悪感を望むに至り 彼のうちに恥辱と罪悪感「恐怖症」が根を生やす<彼に対して建物のリゾーム、街路のリゾームが封鎖され、フロイト先生に金縛りにされる。 引きこもりこそ、学校が合わないにもかかわらず、生真面目に、学校にこだわり、大けんを受けたりすると、思われます。 引きこもり、だらだらしてなく、逆に几帳面で、きびきびしていて、優等生がなることもあると思うンですが。
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お礼
空間を、inside outside で、すべて説明しようとするのが、本来無理じゃないかと思うンですけど。浅田 彰という学者が、20年前書いた「構造と力」という本があります。それまで、うだうだ哲学をやっていた日本の学問の世界を、圧倒的ちからで、つぶしてしまう。最後の本にしてやる、という迫力があるほんです。空間を、インとアウトにわけてうまくいくのは、本能をもっている、動物の世界で、エロスとタナトスが、沸騰するカオスがいつ噴き出すかわからない人間の空間は、絶対他者だとか、超コードだとかの象徴を必要とし、inside outside を巻き込むクラインの壷のような空間なんだと思います。そのエロスとタナトスが、沸騰するカオスがいつ噴き出すかわからないからこそ、ゆらぎを隠ぺいすると思います。
補足
近年、引きこもりが、大量発生して、それを受け入れる経済的豊かさというか、親のすねがあって、汗をかかなくても、頭を下げなくても、プライドをきずつけられなく、生きていけることは、母親の子宮の中で、自己 他者の区別なく、ねっちょり生きることで、それを禁止して、そこから、引き離すのが、父親の役目だと思いますが、父親不在であり、暴力的に家から、ほうり出す。勘当すべきで、主従、親子、師弟の縁を切って追放して、義絶してしまい、母権的権力構造の外にだすこと。 自分の中のヘルメスの風を感じること。終止型の思考の中には、母親的権力を見破り、虚構のマンダラをひきさくこと。色即是空、、空即是色こそ、ものごとの真実であり、それを、止めて、固定しようとするのは、母親の役目なのでは、ないでしょうか。 引きこもりは、家を出て、淀川の風にあたり、川の流れを感じ、鼻歌うたいながら、そこから、はじめましょう。