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自由と規制の意味を定義してそのあとに関係を定義して下さい。

自由と規制の意味を定義してそのあとに関係を定義して下さい。

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回答No.5

量子論的世界像において、有限的存在性は観察において派生する= 「全ては、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完」 だと言うなら、宇宙は自己の必要であり、完全に自由であるはずです。 しかし、物にぶつかり人と争うのはなぜかというと、その場合の自己は 「物理的根源にまで遡った」ものではなく、現象表面的&刹那的な 「自己チュー」なものだからです。 いわば、「存在」とは自己矛盾であり、自己チューな意識に対する 「規制」なのです。 そうした短絡的自己から、認識の深まりによって“環境”を自己として 自覚化し、社会に対しては他我(愛=社会生命的自覚=自律的社会行動)に おいて生きるなら、その意志は永遠の未来においても、宇宙の果てにおいても、 予め達成されるものとなり、完全なる自由と無限の幸福が約束されるのです。

回答No.4

 こんにちは。  自由とは このわたしたち人間が生まれ生きているというその存在のあり方を 別様に言ったことばです。  人間存在のあり方は なぜそうあるのかが分かりません。仮りに分かるという場合にも その根拠が分かりません。むしろ 根拠はありません。(分かるかたちでは無いし 分かったという主観にとっても ほかの主観に対して説得することができるかたちでは無い)。  ところがこの無根拠ということが むしろ根拠となって 人の存在は 自由だという公理が これまでのじんるいの歴史においては得られています。  存在は自由である。  《わたし》は 自由である。  信教・良心の自由。生存と共存の自由。そのほかもろもろの表現の自由。・・・  ところで 《わたし》の生存の自由は ほかの人の《わたし》の生存の自由でもあります。それらは 同時に成り立ちます。すなわち 共存の自由ということですが となると実際に社会的な共同の生活がいとなまれていくことになります。  この共生の自由は――ということは けっきょくもろもろの表現の自由ということにほかなりませんが―― ここで生活ないしそこにおける自己表現の自由について おそらく互いに考えの違い(良心の自由および信教の自由より現われるか?)によって 互いに共通の取り決めをしておかなければならないことになります。  それぞれ自由な自己表現をし合っているその社会的な交通において その交通の規則を取り決め合っておく必要があるでしょう。ひとはよくむさぼり合うので けんかになります。だから 規則が必要になります。  この交通の規則が 一般に 《規制》ということです。  《関係》は すでに《わたしの生存の自由》がほかの人のそれと同時に同等であるということを見ています。すなわち この自由どうしの平等は 関係性という言葉で表わされます。  自由が 無根拠という根拠(つまり 公理)によって成ると考えられたとき この平等をその内容とする関係も 同じ成り立ちをしているということにほかなりません。  その意味では 《関係の絶対性》という言い方をすることがあります。  したがって そこから言えることは 社会的な交通の規則としての《規制》は 《無条件に認められる自由》すなわち《絶対性としてさえ捉えられる互いの平等》といった公理のもとに もともと 含まれていると考えて間違いではないでしょう。  時代や民族の歴史的な伝統に合った《社会的な規制》が取り決め合われるといいですね。それには よい市民政府(その議員)をえらばねばなりません。

noname#131234
noname#131234
回答No.3

自称哲学者=自己ちゅーの 「自由と規制」 1 規制とは、かいくぐる為の対象。 2 自由とは ひげを生やすこと。 (他人は真実を啓蒙する「おいら」に従うべきであると思考すること +他人にとっての「おいら」に従う自由) 3 関係とは、押し売りの嫌がらせ。 その構成要素: 世の中を甘く見ている自分。 そして、くさい屁理屈という公害を意図的にばら撒くこと。 特徴としては、誰も読まない自分の自費出版本をコピペした文章が、 最高だとワガママに主張するという内容です。 「おいらの存在」をありがたいとおもえというのが、基本モチーフ。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

自由と規制の意味を定義してそのあとに関係を定義して下さい。 ○ 自由とは何をしてもいいことですね。一方、規制とは何かをしてはいけないということですね。 各人は完全な自由を所有しているのですが、それでは多数の存在下では自由と自由の相克が生まれるのですね。相克はつまり争いごとと同じことですから、争いごとを最小限にするために各人の自由に規制を与えるということですね。 社会を形成するための法律では、自由といわず「自由権」といって権利はあるが、規制により行使できないようにしているのですね。当然自由権の完全行使は出来るわけですが、規制の対象の行為は刑法や民法で刑事罰の対象にしているわけです。 つまり、自由と自由の間に規制やその結果としての罰を持ち込んで多数が争いなく生活できるようにしているということですね。 これは、多数が生きるための方便ですからね。他方、あなたの心には規制をかけることは誰も出来ませんので、心はいつも完全な自由状態ですね。その心の自由に規制を掛けられるのはあなただけということもまた事実ですよ。

回答No.1

規制とは存在(確定性)、自由とはその可能性(空間)。

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