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あるサイトの週刊スモールトークというのがありますが、
あるサイトの週刊スモールトークというのがありますが、 物心ついたときから、「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」と教えられた。無口でふさぎがちな息子を励ますための親心からだと思うが、生まれてこのかた納得したことは一度もない。というか、完全に間違っている、とさえ思っている。そもそも天才とは、読んで字のごとし、「天から降ってくる人」である。大地からにじみ出たわれら凡人の中の優等生とは違う。優等生の切り札は努力、つまり、自らの目的意識によって奮い立たせた悲壮な精神力であり、天才の努力とは才能と完全に一体化していて、その接点において間然とするところがない。これは、本質的に異なるものである。 「天才は天から降ってくる炎である」、ナポレオンの言葉である。人目を忍んで積み重ねた努力も、泥水をすすって生きのびた苦労話も、すべて空しく思えるほど、神々しい才能が存在する。 などなどありますが、 天才の努力とは才能と完全に一体化しているとありますがいまいち意味がわかりません。 それに優等生の切り札は努力、つまり、自らの目的意識によって奮い立たせた”悲壮な精神力”というのも なんか難解です。 それに、 この文章を読むとつまり凡人は努力しても無駄だ、所詮人生は才能だ、という文章に捕らえられ、非常に腹が立つ文章に思えました。
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もう一度貴方が拘泥される一文を見てみましょう。 >物心ついたときから、「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」と教えられた。無口でふさぎがちな息子を励ますための親心からだと思うが、生まれてこのかた納得したことは一度もない。というか、完全に間違っている、とさえ思っている。 なぜ筆者は納得し間違っていると思うのでしょうか? A:>そもそも天才とは、読んで字のごとし、「天から降ってくる人」である。大地からにじみ出たわれら凡人の中の優等生とは違う。 「天才」は”われわれ”一般人とは本質で異なる、だからどれだけ努力したって「天才」にはなれっこない、という主張のようです。 B:>優等生の切り札は努力、つまり、自らの目的意識によって奮い立たせた悲壮な精神力であり、 優等生にも切り札があるといっています。天才よりも賛美すべき点が、凡才に見られるこういった点だというのでしょうね。 C:>天才の努力とは才能と完全に一体化していて、その接点において間然とするところがない。これは、本質的に異なるものである。 しかし天才はこれこれこういう理由で本質的に異なっている、というAの繰り返しです。小林秀雄でしたか、天才は努力する才(能)であるというようなことを書いていましたが、苦労なしにがんがん傍目から見れば努力して(できて)しまう、そんな意味でしょうか。 D:>「天才は天から降ってくる炎である」、ナポレオンの言葉である。人目を忍んで積み重ねた努力も、泥水をすすって生きのびた苦労話も、すべて空しく思えるほど、神々しい才能が存在する。 別格の天才=才能が存在するという筆者の主張ですね。ま、最大限マイナーに考えて、すごい才能にはどうしても勝てないよ、という天才賛美論ですね。 私に言わせれば、ここについては勝手に賛美していなさいよ。としかいえませんね。 >この文章を読むとつまり凡人は努力しても無駄だ、所詮人生は才能だ 全体としてそういったニューアンスは私には認められません。B はむしろ普通人の賛美とも取れます。 ご参考まで。
- takashians
- ベストアンサー率66% (2/3)
こんにちは。 私も努力について考える事がしばしばあります。私もあなたと同じく悩んでいますが、今私が努力について思ってる事を書かさせて下さい。 努力するというのは当たり前のことではないかと思います。現実として実現不可能な事はありますが、それなら他のことを精一杯やるべきで、その中から才能を見出し、それを伸ばした人を周りの人間が天才と言うのです。ですから、努力するのではなく、当たり前にこなす、これが大事だと思います。一生懸命にやっているのを、努力だなんて言うのは間違いだと思います。また、何も挑戦しないのは別の話ではないかと思います。
- takashians
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こんにちは。 私も努力について考える事がしばしばあります。私もあなたと同じく悩んでいますが、今私が努力について思ってる事を書かさせて下さい。 努力するというのは当たり前のことではないかと思います。現実として実現不可能な事はありますが、それなら他のことを精一杯やるべきで、その中から才能を見出し、それを伸ばした人を周りの人間が天才と言うのです。ですから、努力するのではなく、当たり前にこなす、これが大事だと思います。一生懸命にやっているのを、努力だなんて言うのは間違いだと思います。また、何も挑戦しないのは別の話ではないかと思います。
最低レベルの凡人 についてその定義という事でしか、貢献できませんが・・・ 自分が天才であると主張し、くだらないチラうらコメントを「投稿」として、せっせと書き込む ぼけ老人は、最低の凡人です。 人間として認められているのに感謝の心がない 生い先短い二重あごは糾弾されるべきです。
- CJ4ARS
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こんにちは。 そもそも人間の才能など、すべからく「相対的」なものでしかありません。 上の文章を書かれた人からみれば「神々しい才能」でも、同程度の能力をもった人間からすれば「天才」ではないかもしれません。 要は「程度」の問題です。「視点」をどこに置くかによります。 いかに才能にめぐまれたアスリートといえど、物理法則からは逃れられません。けして「限界」を超えられないのです。より「限界」に近づくことのできる人間というだけであって、「限界」を超えた「絶対的な存在」ではありません。 ところが、才能にめぐまれなかった人間からすれば、いわゆる「天才」が限界にちかづく営為を「天から降って」きたように見えてしまうのです。 「本質的に異なるもの」に錯覚してしまうわけです。 なので、「あれ」を書かれた方は、よほど才能面で苦労されてきた方だと推察されます。 逆に「99%の努力」と断じることができるのは、よほど才能にめぐまれた方のみが口にできる言葉なわけで、それゆえ、あの短文の著者が「完全に間違っている」と腹をたてるのです(笑)。 一個の才能の前に打ちひしがれ、「すべて空しく思」ってしまったのでしょう(笑)。 すなわち、あの文章は「凡人の絶望と嘆き」を表現したものにすぎません。 そして、不幸にも「天才」の足元にすら及ばなかった人間の「言い訳」でもあるのです。 「本質的に異なる」人間など、この世には存在しません。 「本質的に異な」ってしまったら、もはや人間ではないからです。 あるのは才能、センスなどによる「差異」のみです。いわゆる「努力」とは、その「差異」を埋める作業にほかなりません。人によって埋めることのできる「差異」もあれば、不可能な「差異」もありますけれども、人間は本質的になんら変わらないのです。 昔からあの手のレトリックを用いる人間は大勢おりました。 「天才」を絶対視し、自らの「怠慢」を正当化したり、「天才」を神格化することで、なんらかの「利」をえようと目論む連中です。 おそらく質問者さまは、あの文章から、そうした「胡散臭さ」を感じとったのかもしれませんね。
- kigurumi
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<天才は1%のひらめきと99%の汗> これをエジソンは「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」と言う意味で言ったという人いますね。 エジソンのことを「1%のひらめきと99%の訴訟の男」と言う人もいますね。 エジソン、彼はパクリ屋。 他人の発明を、自分の発明として発表しようとした人。 彼は天才。 どういう意味で天才かというと、こだわったら諦めない。納得するまで調査をやめることができない。 普通はある程度で目線を別に移すが、エジソンは納得しないと移せないというある意味生きづらさがあったわけです。 えじそんくらぶという団体があるが、エジソンにちなんでつけられた名前。 AD/HD:注意欠損、多動性障害。 私もこの傾向にあるが言動がちょっと変わっている。 こだわるととことんこだわるが、注意すべきことがちゃんと頭に入っているいるのに注意を維持し続けることが難しい。 回路がちょっと普通と違う。 回路が違う人にアインシュタインがいる。 彼は脳のある部分が欠損していたため、言語の発達が著しく遅れたため、言葉を話せず小学校を退学になっている。 彼の脳はがけ崩れの部分を迂回する回路を張り巡らしたため、普通に人が考え付かないことを考えることができるようになった。 ゆえに通常はできない迂回回路ができ、その思考をもって他人が納得する理論を出せたので、天才と呼ばれたわけです。 迂回回路ができても、それが現実に即さないと狂人とみなされる。 または、現実に利用価値が高くないが普通に人ができないことができてしまうという ある分野だけ抜きん出た人で他はまったく駄目な人はサヴァン症候群と呼ばれる。 知的障害でありながら天才でもあるわけです。 バカと天才は紙一重といいますが、要するに人々の役にたつことを考え付けば天才で、素数などを何桁もいえても、それが日常生活で役にたたづ自立して生活できなければ障害者ってなるわけです。 >むとつまり凡人は努力しても無駄だ、所詮人生は才能だ、という文章に捕らえられ、非常に腹が立つ文章に思えました。 イチロー選手は天才。 努力型の天才と言われますが、彼と同じくらい努力をしたところで、彼と同じことができるわけじゃない。 既に抜きん出た才能を基盤で持っており、それを磨き続けたために、人ができないことができるわけです。 中田選手も空間把握能力が秀でている。 努力したところで、彼を超える空間把握能力は獲得できない。 彼もその能力を使って磨いていなければ凡人。 子どもの頃から一回で単語を覚えられるとか、計算を一度も間違わず全問正解してしまうとか、抜きん出た才能を持った子どもを20年以上調査している人がいる。 その天才とされた子どもたちは大人になってどうなったか? 普通のサラリーマンや主婦になっていた。 どいういことが途中で起こったのかというと、授業はゆっくり進むので退屈なわけです。 間違うことが無いので、間違えた単語を10回づつ書けという宿題を出されたとき、先生は間違いが無いので、全部を10回書けという宿題を出したそうです。 意味の無いことをずっとやらされたため、学習する意欲をなくしてしまった。 天才なので学業だけじゃなくスポーツも優秀で、音楽や美術も抜きん出た才能を発揮したため、そっちの方に興味を持ったが、コンテストなど人と競って上にたつことを目標とする教育だったため、これまた興味をなくした。 そして、天才だったので平凡が一番幸福だと見抜いた。 優雅に水に上を泳いでいるかのようで、実は水面下で激しく足をばたつかせているみせかけの天才とは違い、生粋の天才は、努力することなく優雅に平凡な暮らしをしているってことですね。 才能があることと、裕福さは比例しない。 そして裕福であることと幸福は比例しない。 才能が既にあり、それを努力して維持し続け、他人に評価されることで自分の存在価値を確認することができるという人は、他人から注目されなくなったとき もろい。 天才は他人に自分が評価されることを求めない。 だから訴訟合戦して自分の他人の発明を自分の発明だと言い張るズルは駄目だよ。 そんなの凡人のやることだよ。エジソンくん。とエジソンに誰か言ってくれたら殺人マシンの研究に没頭しなかっただろうにね。 「ライバルを殺せば自分の発明になるって」オイオイオイな狂人ですね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.2です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ この文章で優等生と天才の違いって何なのでしょうか? 優等生はただ大学に入るのが目標・・? 天才はまた別とか・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この文章の《優等生》は ふつうの人を言っていると採ればどうでしょう? 一般の人びとです。怠惰であってはまづいかも知れませんが。 ですから大きく広く捉えれば 《ただ大学に入るのが目標》である場合もあるでしょうし さらに目標を大きく持つ場合もあると思います。要は 天才以外の人を言っているのだと思います。 《悲壮な精神力を奮い立たせる》といった場合も 時にはあるというくらいに採っておけばよいのではないでしょうか。 《凡人は努力しても無駄だ》は そうではなく これも《天才》と普通の人とを区別するために何やかやと言おうとしているのだと思います。 で 天才ですが これは こう捉えています。いままでの天才ですが 周りの人びとの願い・望み・そして実際には 野望や欲望やおそれやねたみの気持ちなどなど 何もかもをおのれの身〔と心〕に受け取り受け容れ自分の思いにしてしまうことが出来る。そういう人間だと思います。そしてそこから そのような人びとの望むところを身に帯びて 人びとをみちびいていくことが起こる。と捉えます。 ほかにも 別の種類の天才があるかと思います。数学が出来るとか音楽の才能が抜きん出ているとか その分野でのずば抜けた才能の場合があるかも知れません。これはもう放っておいてもよいのではないでしょうか。それぞれの分野でというところが みそですから。 つまりは 天才とほかの凡人(でも優秀)とがいて 天才には 公共の一般的な仕事に就く者の場合と それぞれの分野でその才能を発揮するという場合とがあると考えました。 それだけなのだと採ってよいのではないでしょうか? そしてこの分類は いままでの人類の歴史においてのことです。人間が変わるかも知れません。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
#1です。 質問者さんは「どうせモーツァルトに敵わんのだから音楽で努力するのは無駄だ」という主張ですね。 回答者の主張は、「モーツァルトになれないからって、努力をあきらめなければピアノが引けるようになって他人を喜ばすことができるようになりますよ」です。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 努力が報われるかどうかは 分かりませんが 天才や英雄という主題は 人びとがそれらを求めているかどうかという問題である。のではないでしょうか? 努力が報われるかどうかは その目指した目標を達成するかどうかで言えば まったくと言っていいほど 報われないのほうが多いと思います。そうではないでしょうか? ひとが多いからです。 で ★ つまり凡人は努力しても無駄だ、所詮人生は才能だ、 ☆ かどうかについてですが でしたら 一人ひとりにそれぞれ才能がそなわっており しかもこれを発揮することができるコツもそれぞれ自分で得ることができる ということであれば よいのでしょう? これなら だいじょうぶだと思いますよ。ひらきますって。 ふるい人を脱ぎ あたらしい人を着る。これによってであり これによってのみ成し得ると思います。そうでなければ たしかに人によってバラツキがあると思います。どうでしょう? つまり わたしたちが今考えている人間 という前提であれば無理なのでしょうよ。 人間(=現実)が変わる ってとこで。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
一体化しているとは、才能を持っている人と努力をした人が一致している、同一人物である場合に天才が現れると言っているのです。才能がないのに努力しても出来ない事が有る。才能があっても努力しなければどうしようもない。 あなたが天才でないからといって、努力しても無駄だという結論にはならないでしょう? 普通に人様の役に立つ人間になる可能性は残されています。 その文章のどこから「努力しても無駄だ」という命題を読み取ったのですか?
補足
”人目を忍んで積み重ねた努力も、泥水をすすって生きのびた苦労話も、すべて空しく思えるほど、神々しい才能が存在する。” という文章ですよ。 才能があるやつには凡才は死ぬほど努力しても無理ってことですよ つまり努力は報われないってことにつながりませんか?
補足
この文章で優等生と天才の違いって何なのでしょうか? 優等生はただ大学に入るのが目標・・? 天才はまた別とか・・