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《公地公民制》とは 民主制への道程か?
- 公地公民制(こうちこうみんせい)とは、日本の飛鳥時代~奈良時代までの律令制が構築される過程において発生したとされる、全ての土地と人民は公――すなわち天皇に帰属するとした制度である。
- 大化以前は、天皇や豪族らは各自で私的に土地・人民を所有・支配していた。しかし、大化改新の詔第1条により、私地私民制から公地公民制への転換が宣言された。
- 公地公民制の下で、朝廷は人民に口分田を与え、租税の納める義務を課した。この制度を考えると、敗戦後の社会の革命を経て、民主制および自由への道程と捉えることができる。
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ANo.7 bragelonneさん。仰せの事は大分りかいできたような気がします。 この日本列島は“公”を万世一系にしてきている中での地域的にして政争事情での支配権という二重構造で来ているのは、独特だと存じますし、そういうことが日本的文化、心情や心性、そして民主主義につながっているということは仰せのとおりでしょう。 世界の諸外国の何処にも見ることのできない独特性ですね。日本的な文化受け入れの仕方もこういうことが素地になっているのでしょうね。 秩序も秩序の意識も。面白い事にお気づきで、更なる深化と整理を期待しております。的外れの理解での投稿になっているかも知れませんが。 日本性の分析の有益な視座ともなるでしょう。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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歴史のことであっても歴史のことではなく、思想や哲学次元での思索ということですが、一応次のような質問もありますので、ご参考になるかもしれません。 http://okwave.jp/qa/q5969305.html このほか、荘園や武士の勃興、土地制度などについてもお調べになるとご参考になると存じます。 このことは我妻さんの民法大意など多くの民法書が敷衍しているところでもあります。 どうかご参照ください。
お礼
ご回答をありがとうございます。 今回おっしゃろうとしたことは おおむね回答No.6のご趣旨と同じように思ったのですが いかがでしょう? つまり 改新の詔にうたう公地公民制と実際の情況とのちがいを やはりどう捉えるのか? そのことをきちんと処理したうえでないと 答えは出ないのではないか? というようなです。 ヰキぺ:公地公民制における《新たな見解》の記事には 荘園につながっていくまでの歴史のみを書いていると思います。そのあとの歴史の一端を 次のように捉えることができるのだとわたしも思います。 ◆ (【Q:荘園と武士について】回答No.3) ~~~~~~~~~~ http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5969305.html 公地公民により、全ての土地の所有者は法的には天皇ということになっています。 平安時代に入っても開墾真っ只中だった関東地方の場合、開墾した土地が、次から次へ法的に天皇のものになってしまったのですが、開墾主たちは法律に逆らって土地を違法に占有しました。その「お目こぼし」を期待して、開墾した土地の一部を有力貴族に荘園として寄贈したりしました。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たしかに自分で新しい土地を開墾したのに すべて――平たく言って――巻き上げられるというのでは腑に落ちないでしょうね。制度もしくは理念に逆らう考えや行動が現われるのも ふつうのことであるように思います。 そうですね。そのような《お目こぼし》の事実をどう認識しどう処理するのか? ですが 特に大きな問題点を構成するとも思えないのですが どうでしょう? つまり早い話をしますと 要するに明治維新では 《王政復古》と言うように 《お目こぼし》を包み込んだ上で 初めの理念ないし制度に戻ったわけです。その前の幕末のときからすでに 《尊王攘夷や勤皇の志士》を生んでいます。平たく言って《空気》は残っていたということではないでしょうか? ですから――ここからは 憶測ですが―― 理念もしくは空気のような公地公民制≒天皇家の家産国家制が消えていなかったからこそ 敗戦時には 民主制が滞りなく進められて行けた。と思えたわけです。逆に言えば 《お目こぼし》が大きな部分を占めていて やがて《公=天皇》という観念が消えてしまっていたとすれば そしてそのときに新たな《公》の概念がきちんとかたちづくられていなかったとすれば 敗戦時からの新しい社会は 混乱をきわめたかも知れません。 江戸の将軍は 《公方》だったわけですが どうなんでしょう 初期国家の《公》の概念に取って代わることのできる内実を持ったでしょうか? ――たぶん 現実的だったという意味では 持ったとわたしも思うのですが 概念としてあるいは空気としてそれをも上回るものが 京都にはあった(いた)ということではないでしょうか? ですから もしこの憶測がまぁ妥当であろうということでしたら 《土地制度》の具体的なくわしい変遷の歴史も それほど――いまの問い求めに関する限りですが―― 大勢に影響を持たない。と思われたのですが どうでしょう?
- oosimaneed
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土地や建物を万人が所有=私有することができる社会のことを民主制と仮に定義すれば、仰るとおり公地公民制とは、現代の民主制に繋がっていく制度だったと思います。 「全ての土地と人民は天皇に帰属する」とありますが、実際は、それまでの有力な地方豪族や、共同体として所有していた土地が国に奪われ、一旦国土を収奪した上で、いくつかの土地に分割し、有力な貴族や寺社が実質所有するとう形態に変わっていきます。そのことにより、一般の農民レベルは開墾や水路をつくることはできなくなってしまいます。 従って、公地公民制とは、それまでの共同体や共同体に近い地方豪族達から土地を奪い、私的に所有することができる権利を天皇の名の下に正当化した制度です。これらは時の権力者による既存勢力の基盤解体という意図で行なわれたものだと推測できます。 正当化とは、その当時は有力な貴族や寺社にとって都合の良いという意味ですが、近代以降は誰もが私有権を獲得できることが保障される社会へと変ってきます。つまり、日本では弥生以降、一貫して私権を獲得できる主体が、共同体の解体を契機に広まってきたと考えることができます。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 たぶん 実際はどうだったかを問題にしておられるのではないでしょうか? たとえば ▲ (ヰキぺ:公地公民制) ~~~~~~~ § 新たな見解 ・・・また、豪族による田荘・部曲の支配は、改新の詔で禁止されたはずだったが、その後も朝廷が田荘・部曲の領有を豪族へ認めた事例が散見される。つまり、土地・人民の所有禁止は実際には発令されなかったか、もしくは所有禁止の実効性がなかなか各地へ浸透しなかったことを表す。 これは、公地公民の原則が、当時の社会へ強力に貫徹していた訳ではなく、あくまで理念として掲げられていた側面が強かったことを示唆する。 さらに、従来、公地と考えられてきた口分田は、律令施行の当時、実際のところ、私田・私地と認識されていた。 公地公民制の基礎と言える「公地」の概念は、当時存在しておらず、口分田が「公田」と認識されるのは、墾田永年私財法(743年)以降である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで二点に注目します。 (1) ▲ あくまで理念として掲げられていた側面が強かったことを示唆する。 ☆ この《理念》としての側面 これ〔だけ〕をもとにして 勝手な歴史的展望をしてみてください。というのが この問いです。 (2) ▲ 公地公民制の基礎と言える「公地」の概念は、当時存在しておらず、口分田が「公田」と認識されるのは、墾田永年私財法(743年)以降である。 ☆ という《新たな見解》が意味するところはと言うと この《墾田永年私財法(743年)》の発令によって ともかくムラの戸別に耕作される《口分田が 「公田」と認識される》ようになった。という実際であるようです。つまりそのことの意味はと言えば この法律が 豪族やら誰やらほかの誰でもなく 中央政府によって効力を持たせられているのだということ。つまりは 天皇の名で発布されそれに人びとは従うというかたちなのだと思います。 そのように権力は この《新たな見解》のもとにおいても 一極に集中していると考えられます。 ★ つまり、日本では弥生以降、一貫して私権を獲得できる主体が、共同体の解体を契機に広まってきたと考えることができます。 ☆ という場合にも 大枠では――人びとがもはや忘れていたとしても つまり律令制度が有名無実になってしまっていたとしても 大枠では―― 《公=天皇家》の所有するところだという観念は消えていなかった。と読んだのですが どうなのでしょう? 自信があって言っているのでなくて ごめんなさいなのですが そういう観念――そして もっとあいまいなことを言えば 世の中の空気――が消えていなかったとすれば 思考実験が きわめて徹底した究極へと及んでいたのではないか? これを問う・言ってみれば一種のおあそびでもあります。 次がおあそびだと言う意味ではありませんが つまり ★ 公地公民制とは、それまでの共同体や共同体に近い地方豪族達から土地を奪い、私的に所有することができる権利を天皇の名の下に正当化した制度です。 ☆ という見方を経たという歴史経験が 民主制への道程となった。のではないか? こういう展望の可否を 半ばおあそびですが 問うています。どうでしょう? * 観念や空気が消えていなかったというその事例は 先の世界大戦において わが日本国が究極の家産国家の様相を帯びたことに見られるのではないでしょうか? あるいはつまり 明治憲法は 天皇を神聖にして侵すべからずとはっきりとうたっています。そのようにうたうことが出来たのは 理念ないし観念としての公地公民制の系譜が消えていなかった・生きていたからではないか? しかも《戦後》は これが溶けたし 溶けたにもかかわらず 民主制を曲りなりにも目指して来れたのは ほかならぬ究極の思考実験としての公地公民制その観念があったからであった。のではないか? ・・・
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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自分の言語観念で一生懸命理解しようとしております。 要するに、割拠権力、治外法権、不輸租権(課税徴収という統治権の排除)の歴史経験を経ながらの、そういう権力の制限、否定、集約の経験。 これは日本と日本人心性に大きな影響をしていると存じます(少し横道の事項)。 上記のことは確かに日本の民主主義の根付きと展開に特徴を与えてきていると存じます。 権力集約の動きは、大化の改新、明治維新、そしてGHQの占領ということに何か類似と共通性がりますね。 直属的権力(職場で言えば直属上司の横暴権力)を削いだり、枠に嵌めてくれる結果と効果になるこういう改革は、一番下の人民にはありがたいこともあったかもしれませんね。 そういうことが、いわゆる民主主義的な状況を醸し出したかもしれませんね。 そういうことで、民主主義の道程といえるかも知れませんが、一般の観念にはたいへん慣れない、独創的着想だと思います。 そういう観点から評価分析する事は先ず、最初はたくさんの異論・反論が既成観念から出されるでしょう。今後の展開を期待します。
お礼
クリヤさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ そういう観点から評価分析する事は先ず、最初はたくさんの異論・反論が既成観念から出されるでしょう。今後の展開を期待します。 ☆ とにもかくにも ふと浮かんだ考えだったんですが お一人の賛成票をいただいておりますし それでは しばらく《異論・反論》を俟ちたいと思います。そうします。 少しづつ何を考えようとしたのか分かってくるという始末ですが ひとつは要するに 《公=天皇〔家〕》ということがらです。 用語としてわたしは 《スサノヲ》を市民とし《わたくし》としていますが それに対しては《アマテラス》が公民であり《おほやけ》です。 あるいはまた スサノヲ語を何でも話す人間語とし アマテラス語をそこから抽象した概念をもとにして推論を組み立てる科学語・普遍客観語と見立て さらにあるいは 幅広い人間語に対しては人格語として捉えています。人格語は 品行方正で規則を守り わるく言えば四角四面・しゃくし定規にもなり得ます。 そこで要するに 《公》という一点もしくはひとつの極に集中したということは 一方では《天皇家》というヒトが当てられていますから ゆるい見方として《家産国家》というたぐいに成り得ますが 他方ではその思考から言って 人間の・答責性をともなった自由ということがらに近づくというのも実際であったろう。こう思われます。 でも少々物言いを持つのですが クリヤさんは むしろ賛成票を投じるかに思われるほど その例示をしておられます。わざと引用してみますと ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 要するに、割拠権力、治外法権、不輸租権(課税徴収という統治権の排除)の歴史経験を経ながらの、そういう権力の制限、否定、集約の経験。 これは日本と日本人心性に大きな影響をしていると存じます(少し横道の事項)。 上記のことは確かに日本の民主主義の根付きと展開に特徴を与えてきていると存じます。 権力集約の動きは、大化の改新、明治維新、そしてGHQの占領ということに何か類似と共通性がありますね。 直属的権力(職場で言えば直属上司の横暴権力)を削いだり、枠に嵌めてくれる結果と効果になるこういう改革は、一番下の人民にはありがたいこともあったかもしれませんね。 そういうことが、いわゆる民主主義的な状況を醸し出したかもしれませんね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちこれを承けて まづは ★ そういうことで、民主主義の道程といえるかも知れませんが、 ☆ と継いだあとに ★ 一般の観念にはたいへん慣れない、独創的着想だと思います。 ☆ と結んでおられます。 つまり ご自身の中では 《異論・反論》が見当たらないといったことでしょうか? でも慎重にということでしょうか? いわば理念としての公地公民制――それは いわゆる天皇制とともに志向された――の歴史経験は たとえば千五百年を経て 民主制として 開花した。理念としての歴史経験だけによっても 効果があった。こういう見立てであり――これも ひとつの――史観です。いかがでしょう?
No.3です。返答ありがとうございます。 なるほど賛成します。 中央集権体制運営のノウハウの蓄積と工業化が結びつき明治以降の段階的民主化になるのかと思います。
お礼
あぁ ありがたい。と思ったということは――あっ にきさん ご回答をありがとうございます―― わたしも案外 小心者だったんでしょうか。あれだけ心臓に毛の生えたように いぢわる専門だったのに。・・・ いやぁ それにしても ありがたい賛成票をいただいたと思います。 ★ 中央集権体制運営のノウハウの蓄積と工業化が結びつき明治以降の段階的民主化になるのかと思います。 ☆ きょう(14日)の夕刊に勝海舟の記事があって かれは明治新政府の中でも生き抜いていて 幕末を乗り切りそのあと 閥末をもうまく乗り切るように活躍したとありました。 閥末というのは 薩長藩閥の政府がやがて古くなって来ているということだったそうです。そのときにはまだ 新しい公民・政治家がじゅうぶんには育っていないと見て もうしばらくはこれまでの薩長人でやってくれと言ったとか。 ★ 明治以降の段階的民主化 ☆ いちばんの紆余曲折は 敗戦に到る戦争だったでしょうが それをも乗り越えてすすみゆく道筋は 案外 中央集権制での成功であり経験の中にあったのかも知れません。たぶん――単純ですが―― 極にまで到る経験をすると 他方の極のことが分かるようになるでしょうし この両極の均衡を取って 全体観をえがくことにそれほど難しさを感じなくなるからかも分かりません。 たぶん そういう展望を得られないかと思ったところが 設問のきっかけだったのだと思います。 この展望を得られたなら もうひとまづは 次の主題にすすみたいと思いますが いましばらくは開いていることとします。 ありがとうございました。さらに添えることなどありましたら どうぞご寄稿ください。
単なる中央集権化だと思います。 飛鳥時代~奈良時代においては、豪族の力を削ぎ天皇の支配を安定化させる。 占領軍政策としては、戦争の核になった軍部・財閥と天皇・華族の力を削ぎワシントン政府の元で比較的中央集権的に管理できるよう目指す。 構造的にはまったく同じ動きです。
お礼
にきさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 直前のご回答へのお応えとして書きましたが――そして書いて分かったことですが―― どうも設問は舌足らずだったようです。 その話に入りますが ☆☆ (趣旨説明) 公地公民制を・・・思想として捉えるとすれば そのまま1945(昭和20)年の敗戦による社会の革命を経て 民主制および自由への道程であると考えることができますか? ☆ この《道程》の意味ですが こうです。 ○ おっしゃるところの《中央集権制》――しかも 土地も人も王家の財産であるといった究極の一極集中なる制度 または そういう思想―― これを経ていたからこそ 敗戦のあと民主制へ〔その民主制が 上から外から与えられたものであったにもかかわらず〕移行することが出来た。のではないか? ☆ こう言おうとしていたのでした。 そうしますと どうでしょうか にきさんのご見解との違いは 占領軍の統治の仕方について触れておられますが それをいまは脇に措いておいてもらえるとするならば ★ 単なる中央集権化 ☆ の《単なる》の度合いがどうであったのか? これに焦点があることになるでしょうか? でも どうなんでしょう? No.2のお礼欄に掲げましたヰキぺの記事――家産国家や家産制――をもちょっとにらんでおいていただくといいかと思うのですが けっきょく《中央集権》というのは たとえ《単なる》であっても 権力の集中は 中央の一極にであって 二極や三極に分かれているわけではないのだと思います。そういう意味では 《単なる》がすでに 完成のすがたであるとも考えるのですが どうでしょう? そういう究極のかたちを たとえ思想としてだけとしても 経験して来ているというのは その後の民主制への移行を容易にするのではないか? こんな限りなく思弁だけに成りかねない歴史の展望の一端なのですが どうでしょうか? 焦点が定まらなかった段 申し訳ございませんでした。もう少し答えてやろうと思っていただけるなら よろしくお願いいたします。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.1:大化の改新の公地公民がいわゆる、仰せの家産国家を創成したかどうかは疑問だとする判断もあるでしょうね。 本来公地公民であったのが有名無実になってきた。それを復旧するのだという所謂る、過去に正しい事があって、それへの回復だという、改革の正当化・正統化の理論根拠化もあったとぞんじます。 そしてでは何処まで実を復旧回復できたか、疑問でありますね。 そして第三に戦乱や武士の政権の実質支配と朝廷の祭祀権威化ということもありますね。 所謂る再確認であるという、公地公民は家産国家への移行か戦後の民主主義に通じるか。というご趣旨でしょうか? 家産制にもならなかったし、それに質問の題目としての民主制との通底というのは、観想的には奇抜すぎるかと存じますが。 民主制は今更申し上げるまでもなく、個たる人間意志の最終価値を根拠とする、意志の自由と尊厳からの被統治と統治の同一性を確保する擬制ですね。 それは更なる擬制として、人権、平等などを伴うものですね。選挙などの意志表明に権威と根拠を求める政治体制ですね。 公地公民はそういうものを目指してもいないし、主張もしていない。 朝廷の者だという事でしょう。では家産制はどうかというと、そうもなっていないですよね。 だから、戦後民主主義とは関係も連携もないし、理論や考え方としても通じるものはないと存じますが。 何か冷水をぶっ掛けるみたいですが(冷水にもならない生半可な歴史知識ですが)。 では事実として公地公民により、農民たちの立場や権利は強化されたか?向上したか? そういう効果があったか?そのことは実は私も想ったのですが、日常の直接支配者や権力者の力を抑制してくれることになったことの歴史事実は見出せませんでした。 恰も、小さな職場で独裁横暴な上司がその個性で牛耳っていて、トップの意志やメッセージを活用して下っ端がどこまで防御できるかという事情にも似ていますが。 当時この布令を実際の農民たちがどこまで知ることができたか。 あて先は農民か、現地の支配権力か。豪族や皇族か。 単なる号令でしかなかったか。 だから無意味なご高察になると、残念に想うのですが、私の歴史知識の浅さかそれとも、ご質問の誤読かも知れません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 史実としてよりは 思想として どう歴史を眺めるか。この点は おこわり書きをし得たかと思いますが まだまだ趣旨悦明には舌足らずがあったようです。 繰り返しますが 史実がどうであったか・あるいは史実として見るとどういう捉え方が出来るか こういった観点ではなく そうではなく むしろ史実からいくらかは浮いてしまったとしても 或る程度すでに形作られている(いた)思潮といった観点 これを基にして問います。 要するに 日本国の正史に載った大化の改新なわけです。どれだけの史実性あるいはつまりその実現の度合い これらについては見方において薄められて来ているようなんですが それでも或る種の仕方で捉えるなら 人びとの目指すところとしての思想を表わしたかとも考えられます。 そういう意味で 捉えたものです。 しかも おっしゃるように武家政権の時代もあったわけですが 明治以降は ともかくも《家産国家》の様相を帯びて来ていたのではないですか? 戦時中の政策の一環としてでも たとえば国民は天皇の赤子であったわけです。赤子ではあっても 軍隊においては人は馬よりも値打ちがなく扱いも酷かったとも言いますが 全体としての意味では 人も物も土地もすべては君主の財産であったのではないでしょうか? そしてそれは 昔にさかのぼれば公地公民制に行き着くであろうし その後を見れば 敗戦を境に新しい憲法のもとでは その公地公民=家産国家制が溶けた。と見たわけです。 ではなぜ 公地公民制と民主制がつながるか? ですがこれは いわゆる地域の豪族が土地と領民を私有するのではなく そうではなくそのような段階を一次元高いところへ揚げて棄てた。つまり中央集権制のもとに公地公民制という〔ここでは あくまで〕思想へと次元を挙げた。 そしてこの天皇家の一極集中的な所有(その私有でもあり社会として公有のようにも見える)という思想を経たからこそ 主権が一人ひとりの市民に有るとする民主制へと移行し得た。つまり外から上から与えられたものであったとしても その民主制が 実際に動き出した。のではないか? と考えたのです。 素朴に家族や部族があつまって生活する社会のあり方から 次元をひとつ挙げてしかもその国家の中央政府の権力にすべてを集中するという段階を経たからこそ 民主制への移行がなめらかに進められた。のではないか? と思ったのでした。 ちょっとややこしかったですね。 アメリカは ヨーロッパの歴史を引き継ぐとみれば この中央集権的なそして家産制といった国家形態をも経て来ているわけですが アメリカ一国の歴史から見ると 別だとなるかも知れない。 家産国家は 或る意味で 社会主義国家のようでもあります。独裁制のあり方が 家産制とはずいぶん違うでしょうが 中央集権的な一極集中を《公》という概念のもとに行なう場合には 究極の私有であると同時に 公有といった様相を見せると考えられるのではないか? だとすれば そこから民主制へ移行するのもやさしいかも知れない。 でも 社会主義国家の場合の公地公民制は どうも徹底していないのかも知れない。もしくは徹底しているとすれば その徹底のさせ方が どこかで間違いを犯していたかも知れない。 アメリカは その地での建国からの歴史だけを見れば 公地公民制を思想として持たなかった。 要するに ソ連や中国を一方に アメリカを他方に それぞれ睨みつつ 日本は 民主制への移行を何の憂いも気負いもなく進めて行ける。のではないか? と問おうとしていたのでした。 舌足らずの段 切におゆるしのほどをお願いいたします。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonneさん、かの人権の問題は謙遜して多少長く勉強してきた者の関心でしたが、解答欄投稿ができないものでした。 今回のご質問ですが、あの敗戦ですが革命という見かたを為されるのでしょうかね。 権力がひっくり返り、新たな統治原理と権力が天津神の如く現出しまたが、これはいうなれば被支配の関与しない正に天の革命ですね。西欧の市民革命も、そうでもあるし、ソ連のボリシェヴィキ革命だって結局はエリート階級の革命ですしね。 本当の“声なき声”の階級は関与してないですね。 明治維新は下層武士かも知れないが、まぁ政権交替ですね。鳩山さんから菅さんとかへの。 かの進駐軍とかがやったことの評価のことですかね。 農地や小作人の問題、入会権の問題、山林地主の問題、多々残存する事はありますが、旧権力の基盤というか構造の一部を破壊した事は、大変革ですね。 いろんな既得権力が残存しましたが。 小作人は小作人でいましたよ。いろんな隠れがあったのですね。つい最近までこの私の住いの近くには小崎人がいて、その子もやはりそうなんです。所属はそうなんです。 我が家も茨城では多大の農地の解放があったとのことです。 有島武郎なんかもそんな小説がありましたか。 構造的には上からの変革という意味で、公地公民と班田収受そして敗戦の農地解放は似ていますね。 そして、いろんな権力が一方で温存されているのではないかと存じます。 だからどちらも革命ではあっても、片手落ちのところはあったと存じます。 市民革命も、声なき声はのこされたきたのでしょうね。 そういう意味では、進駐軍の農地解放などや公地公民はやはり革命なんでしょうね。 歴史ってつらいですね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 まづあらためてのように 断り書きに触れます。 (1) ここでは 或る種の仕方で架空の歴史展望をしてみようとしています。それが出来るかです。 ★ 歴史ってつらいですね。 ☆ なのですが きわめて勝手な史観を引き出すことが出来るか こんなようなことです。 (2) 表現もきわめて勝手な使い方をしています。 ☆☆ (趣旨悦明) 敗戦による社会の革命 ☆ というのも お察しのように そうです。 で それでも実質的な中身を言ってみろと言われれば この(2)の《社会の革命》について 次のような意味あいを見ようとしていました。 ○ 土地も人民も その昔の国家成立のときに 《おほやけ(公)》の所有するところになったとすれば 1945年の革命によっては その意味での公地公民制が溶けた。 ☆ というようなことです。 《公》は 《天皇》のことでもありましたから その制度を言いかえるなら 《土地も人びともみな 天皇家の財産である》となります。これが溶けたであろうという意味でした。しかもその公地公民制は とおく民主制に到る道程をかたちづくっていただろうか? この問いです。 わたしも解説を参照してみました。 ▲ (ヰキぺ:家産国家) ~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E7%94%A3%E5%9B%BD%E5%AE%B6 家産国家(かさんこっか)とは、国家を封建制君主の私的な世襲財産と見る国家観。19世紀のドイツの貴族・政治学者であるカール・ルートヴィヒ・ハラーの提唱したPatrimonialstaatの訳。 ハラーは著書『国家学の復興』の中において、家産国家の中では国内の一切の関係は君主の私的な関係とみなされ、領土と人民は君主の所有物であり、財産は君主の私的収入で、戦争もまた君主の私的紛争とされる。そのために国家が君主の世襲財産のように扱われ、国家の統治権(支配権)と君主個人の所有権(財産権)との区別が存在しないような状況に置かれていると説いた(国政と家政の未分離)。 ハラーは一方ではジャン=ジャック・ルソーの社会契約論などの市民国家思想に対抗し、もう一方では皇帝を中心とする中央集権的な統一的国家観に対抗して、在来の諸侯・貴族の領邦国家・在地支配の権限を不可侵性を持った私的所有権の一環とすることでその正統性を擁護しようとした。 彼の理論は後にマックス・ウェーバーによって再構成されて「家産制」概念へと発展することになる。 ▲ (ヰキぺ:家産制) ~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E7%94%A3%E5%88%B6 家産制(かさんせい)とは、支配階級の長が土地や社会的地位を自らの家産のように扱い、家父長制支配をもって統治する支配形態のことをいう。 支配者は国家の統治権を自らの家計管理の一環として所有権的な行使を行い、その機構は国家の統治機能と家産の管理機能が融合されている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 国家というように《家》を当てていますが この点は関係あるのかないのか どうでしょう? 同じ記事にはこの《家産制》は 日本史に当てはめられるかどうか議論がなされているとあります。その点 あいまいな用い方になりますが 歴史事実としてよりは思想という側面において――つまりはもっと現実的に言えば 一種の《空気》としてです――捉えた結果となります。 そうして そのあとは 展望といった意味において どうでしょうか? と問うています。 歴史的な事件や事実については 触れていただきましたので 俯瞰というのはちょっと違うと思いますが やはり展望なのですが いくつかの社会現実的な変革と変化をまとめて 総論として どう捉えますか? と問うものです。どうでしょう?
お礼
クリヤさん ていねいにお答えをいただき まことにありがとうございます。 たぶん・おそらく クリヤさんは 単眼ではなく双眼ですらなく複眼で世界を見ておられるでしょうから 単純に賛成票を投じられたということでもないでしょう。 その意味は たぶん 《万世一系》の認識がわたしとは分かれるものと思います。 クリヤさんは 文字通りに捉えておられるかも知れませんが わたしは だいたい千五百年であり 高々千七百年だと捉えております。三世紀の卑弥呼――つまり よその国の史書によればですが いわゆる邪馬台国ですね――は ひょっとすると 同じ地域(大和・三輪山のふもと・纏向のあたり)で同じ家系でさえあるかも知れませんが 思想では時代や市政としての政権を異にしたと思います。したがって高々としては 西暦300年ころからの万世一系です。 (異なる家系が 政権・王権を奪ったという仮説も出ていますが いまそれには触れません。というのも そのアマテラスの家系というのは 泣いても笑っても スサノヲと同じなのですから。それに わたしたちの一人ひとりは 記録はありませんが みなそれぞれ万世一系として いまここに生まれて来ているわけです。例外はありません)。 しかも――これは わたしの憶測ですが―― そのように文字通りに万世一系を認識されるその傍らでは それに対して言わば批判的な観点をも持っておられる。そうだとすれば きわめて複雑な複眼でいられる。 ま これは 推測ですから 間違っていましたら ごめんなさいと前もってお伝えしつつ もう忘れてくださいとお願いしておきます。 ところがです。ところが ぶったまげた仮説が出ていたようです。所有の仕方 もしくは 社会秩序を保つための共同自治の形態 この主題にかんして 日本類型やあるいはアジア的形態のほかにさらには 《アフリカ的段階》があったのではないかという仮説のようです。 しかも意外と 中国の孟子には似ているようにも見えます。 この世に《アフリカ的段階》ということを言う人間がいるということは じつはわたしは知っていました。ですが その以前からとっくに その人間の著書は読まなくなっていたのでした。そのつけが廻ってきたと言うべきか いまその見解に直面するはめになったと言うべきか そういった事情のもとにあります。 ここまでをもって お付き合いいただいたことの感謝のことばに代えたいと思います。ありがとうございました。