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「エゴ」とは?
- 「エゴ」とは、人間の自己中心的な欲求や利益を追求する心の働きを指します。
- 「エゴ」とは、善意の行動や幸福な結果を否定し、自己満足や批判的な視点を持つ人の心理や理屈を解説します。
- 「エゴ」とは、他者への思いやりや善意を否定するものではなく、個々人の心理的な要素として理解する必要があります。
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ここで言っておられる「エゴ」とは、私見によればいわゆる「いーごー・せんちゅりっく」といわれている観念のことではないかと思われます。日本語で「利己主義者」、自分のことを(常に)思考の中心に据えて考える種類の人間(エゴイスト)のことで、そういったひとたちの集団の思考形式を「民主主義」ともいいますね(笑)。つまり、大多数の人間がこのカテに属するものだということです。 さて、ご質問で「小さな善意」を行っているひとのことと、それらのひとの行動を「エゴ」と決め付け(て批判す)るひとのことが出ましたが、私見ではそれらのどれも「エゴ」とは無関係ではないかと思われます。一般的に自発的善行者(いわゆるボランテア)たちの行動はいわゆる「利己主義者」とは反対の性格を帯びたものだと考えられており、世間的には少数者で、それゆえに世間からは一定の賛仰と尊敬を受けているようです。 それをとりまく他人たちのなかで、そういったひとにはとてもなれないと悟ったひとがいて、しかし尊敬を受ける人の存在が妬ましくてしかたがない、なんとかして彼らも自分達と変らない人間であると決め付け、引きずり降ろして自分を慰めたい、そういう歪んだ精神が見つけた方便のひとつとして発明された非難の形式が「彼らは自己満足の手段として結果的にそういった善行をしているのであり、彼らを褒め称える理由は何もないのだ」という理論なのです。一見整っているようであり、しかし八方やぶれの取るに足りないいいがかりだといえましょう。 小汚い精神の保持者である彼らに耳を傾けることはないと思います。理屈で反論などすれば、彼らの思う壺です。 ご参考まで。
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- 柊 うろん(@uronly)
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エゴ=否定せず利用すると有益な経済要素=発展変数
お礼
ご回答ありがとうございます。 とても興味深い式ですね。具体例などでさらに説明してくださればさいわいです。
善意が動機、結果も相手が喜んでいる、という明らかに幸福な図が許せない人たちがいます。 →許せない人の心に傲慢があるからです。 ボランティアという形式をとることもありますしそんなそれ以前の小さな善意・・・ →「エゴ」「自己満足」「自慰行為」などと言う人の心に、傲慢や驕りたかぶりがあるからです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 でも言われる方は傷ついているのにまじめに受け取って考えてしまうんです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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ほんの少しだけですが。 エゴを自我と言ったりあるいは利己主義や自己中心的などに絡めて漢語でも言うのでわかりづらくなっていませんか? 《わたしは / わたしが》という意味の言葉です。イッヒだとかアイだとか言うのとまったく同じです。イーヨもヨもジュもヤーもみな エゴーの訛ったかたちです。( / g / は / w / と交替したり―― go-went-gone ―― 時に / y / に成り変わったり あるいは全く無くなったりします)。 ひとの生きることは すべて自己表現です。つまり《わたし=エゴ》の振る舞いであり行ないです。 それを ★ 「エゴだ」といって批判する ☆ というのは どういう魂胆でしょうか? どういう料簡なのでしょう? エゴでない表現があるでしょうか? エゴの中から花を咲かせてまいりましょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 > エゴを自我と言ったりあるいは利己主義や自己中心的などに絡めて漢語でも言うのでわかりづらくなっていませんか? 確かにそうですね。 「我思うゆえに我あり」ですね。
- Mokuzo100nenn
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エゴとは、自分が生きるために豚さんや牛さんを殺して(殺してもらって)その肉を食ってしまい、養分だけを自分で利用して、残りは糞として環境に排出するような行為、すなわち生きる営みの事です。 エゴがなくなると、個体は生きてゆけないし、そういう個体が増えた種は他の種とのすみわけができずに、段々、生息域が狭められ、最終的に絶滅することになります。 大局的に言うと、エゴは絶滅を回避するために神(自然界の摂理)がすべての生物に組み込んだ、基本ソフトウェアですね。 多分、私の回答はお門違いに思われると思いますが、正しい質問をしないと正しい答えは得られないという哲学問答の典型になっていると思います。 「エゴ」って何?を改め、嫉妬って何? と自問してみますと、自らの価値が高いと誤解している者が、その誤解を解く事実が現れた時に抱く感情ですよね。 つまり、奉仕活動をしない人々は、自分の価値よりも奉仕活動を実践する方々の価値が上等である事実に直面し、その事実を認めたくない=嫉妬心から、上等である行為をすべての生物が備えている基本ソフトウェアであるエゴに置き換え、合理化してしまう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >エゴは絶滅を回避するために神(自然界の摂理)がすべての生物に組み込んだ、基本ソフトウェアですね。 確かにそうですね。心理学でいう自我(エゴ)とは「適応すること」だそうです。でもこれは一般的、社会的な生き物として、という意味です。でも生物としてのエゴは「我先に」という負のイメージです。「彼ら」は前者の代表者という顔をしながらこの肯定的イメージを無意識のうちに逆手に使っているのかもしれません。「人間はエゴイスト」という哲学的に、皆共通してもっている後ろめたい自覚に対し、あえてそれを刺激すれば何も言えまいという思惑があるのかなあと思いました。 でもこれはひとつの防衛本能ともいえるものかもしれませんね。そういえば「防衛は最大の攻撃なり」という言葉がありますが。
- 雪中庵(@psytex)
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本来の「エゴ」の意味は、自我意識のことですが、日本語英語では、 「エゴイスティック(=自己中心主義、短絡的利己主義)」のことを、 指すようになっています。 生物が生きるのは、本質的に(淘汰に対する反力としての)生き ようとする意思により、自己満足以外の何ものもあり得ません。 ただ、人類がその進化における社会生命性発達において、その自己 の生存の一環としての他人を自覚化(自律的社会行動=愛)せず、 お金や出世といった“馬車馬の目の前のニンジン”を奪い合うことで 他律的に社会行動をとらせる方法論をとったのです。 その結果、モラルや法規といった他律的社会性に従わず、短絡的な 自我意識(自己チュー)をダイレクトに発露させると、非社会的な 行動(エゴイスティック)になるのです。 そうではない(社会性に沿った)「自己満足」であれば、それこそ 自己存在の本質に根ざした真理であって、お金や出世といった目に 見えない足かせに縛られて、苦痛から逃げるだけのネガティブな生を 過ごしている経済奴隷に何を言われようと、気にすることはありません (あの人たちはもう、半分死んでいるのですから)。
お礼
ご回答ありがとうございます。 世の中には認知症や統合失調症の人がいます。彼らは自分の意思決定ができません。なので後見人と言われる人が裁判所などから認められ、彼らに代わって彼らが本来すべき生活上のことや重要な法律行為をすることができます。 ですが本人は自分のために何がされているかは分っていません。任意ではない場合ならおせっかいだと思われるかもしれない。後見人は法的な義務ではありませんよね。ではこの意思は「エゴ」なのか?という疑問なのですが、実例として挙げるにしても適切かどうか少々自信がありませんが・・・w
- kigurumi
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>「エゴ」って何? 日本語で<自我>のこと。 エゴ(自我>自体は良いとも悪いとも定義できない。 エゴイスト、これは利己主義のことで、他人の不利益を省みない独善的な行為をする人に対して言われる。 >小さな善意からでも「エゴ」「自己満足」「自慰行為」などと言う人の出現です。 手品でも物まねでも芸って視聴者が喜ぶことを売りにするわけですよね。 芸を売って生活をするわけですが、日本はボランティアというのを無料奉仕と解釈し、売ればお金になる芸をお金を取らずに無料で披露するというのを、ボランティアと一般的に呼び、有料でやる場合はわざわざ有料ボランティアとしている。 へんなの って思いますが。 例えば傾聴は通常カウンセラーや臨床心理士が、依頼者からお金をもらってやります。 傾聴する技術を持っており、それを売り、見返りにお金をもらうわけです。 傾聴技術を習得している人に傾聴されると心の整理がつくから、人はずっと黙って聞いているだけの人に大金を払って受けるわけです。 本来お金になるこの芸を、お金をとらずに行う人を傾聴ボランティアと呼ぶ。 お金を取って商売にしている人が傾聴に失敗すれば、顧客は満足せず「対価を得られなかったから金返せ」となるか、来なくなるので技術の未熟さがわかるが、無料の場合、金返せとはならないので、成果が出たかよくわからない。 礼儀で「本日はありがとうございました」と言われて満足したら、実際は傾聴される側は満足していなければやった人のみ満足したという構図で、やった人はエゴイストになる。 以前スピリチュアルカウンセラーのある人が、顧客を激怒させました。 相談したところ、ご先祖供養をせず、ボランティア活動ばかりしているから、ご先祖様が怒っているみたいなことをそのスピリチュアルカウンセラーは言った。 相談者はボランティア活動で確かな手ごたえを感じ、奉仕される側と自分とが相互に喜びを感じていると思っていたのだと思う。 ところが、その行為をカウンセラーは悪だと言ったので、カンカンに怒ったわけです。 何故人を喜ばせ、自分もその喜びに生きがいを感じているのに、ご先祖様はそれを不満に思うというのか。 私のご先祖様は自分だけ満足で他人などどーでもいいと思っているようなエゴイストだとでも言うのか と。 このプロのカウンセラーは、プロでありながら傾聴技術を持っていない。 顧客がどこに喜びや生きがいを感じているのか、見抜く技術を持っていないので、それで失敗した。 上から物言いで一方的な独善の価値観を強引に顧客に押し付けたことも、さらにクレームを増大させる原因になった。 テレビ局から高額の出演料をもらって相談者が楽になるようにするべきところを、相談者ではなく自分の快楽のためだけにやり、相談者を不愉快にさせた。 この相談者がそれによって生活に支障を来たし生活が行き詰った場合は、加害者であることのスピリチュアルカウンセラーは裁判を起され、賠償を求められることになるわけです。 これはコミュニケーション不全が原因。 要するにボランティアで演奏をするにしても、歌うにしても、視聴する側が満足すれば実施する側も満足を得られ、お互いハッピー(満足)。 独善じゃないですよね? 視聴する側の顔や反応を見てハッピーかどうかわかりますよね? やる側だけがハッピーなら独善。 両方ハッピーなら独善奉仕じゃないです。 このサイトは無料で相談できて、無料で知識を得られますよね。 時には相談者を激怒させたり、回答者が激怒したり。笑 時には口論となり、第三者が中に入って「この人はこう言っているんですよ」と解説し、誤解から生じた諍いを沈めたり。 「おまいら 質問者の満足するような回答をしやがれ。それがボランティアっちゅうーもんだろう さっさとやれ!!」とか言う人いますよね。 んーー 奉仕の精神でやっているわけじゃないし無料サービスとしてやっているわけじゃない。 ここってギブアンドテイクじゃなかったの?とボソっと思ったりします。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >売ればお金になる芸をお金を取らずに無料で披露するというのを、ボランティアと一般的に呼び、有料でやる場合はわざわざ有料ボランティアとしている。 たとえばレストランなどで、駐車場代にもならない程度のギャラをもらって(出ない方がほとんどですが)演奏しているミュージシャン。彼らの練習や努力は無償奉仕されているわけですが謙虚な人は「演れる場」があるだけでいいと思っているかもしれませんし、私の知る限りではボランティアと思っている人はいないと思います。それは趣味や自己表現の場ですから。でもお客からお金を頂いてプロでやっている人はあまりのギャラの低さに「有料ボランティア」だと思っているかもしれません。今度訊いてみますw >通常カウンセラーや臨床心理士が、依頼者からお金をもらってやります ここ重要なのですが、お金や時間を決めるのはクライエントのためです。「枠組み」を決めないと転移・逆転移の理解が曖昧になったり、クライエントのカウンセラーに対する依存を防ぐことにもなります。 たぶんとても有名なあのスピリチュアルカウンセラーだと思いますが・・・私は霊の存在は信じますが、見えないものに依存する、させるとやっぱりおかしなことになると思いますよ。でも訴えてやりたいのはスピリチュアルカウンセラーに限らず精神科医、臨床心理士、いろいろいますが(笑) >両方ハッピーなら独善奉仕じゃないです。 独善かどうかは結果いかんである、いうわけですね。しかしいつも両者がハッピーになるとは限りません。両方がハッピーになることが成功である、という定義なら失敗の場合はいずれかがハッピーになったわけです。それは与える方かもしれませんし受け止めた方かもしれませんが、与えた方=エゴ、という予定調和的な図式、思い込みから離れるわけです。 >このサイトは無料で相談できて、無料で知識を得られますよね。 「このサイトはボランティアの場なのだからあまりいい回答を期待しない方がいい」と書かれた回答をみたことがありますが、そうだったのか、私ボランティアやってたんだ、とハタと思わされたことがありますw利用者はボランティアかどうかすら意識していないでしょう。でもそれが結果無償行為であってもそれに関わった人やシチュエイションが何らかの有意義な影響を与えているだけでそれはもう単なる自然なこと、なんですよね。
考えをまとめるために 快楽税を払わないといけない国があったとしたらどうでしょうか? 個人が、いい気分になると、税金を納税する義務が生じるという風に考えてみてください。 そうすると問題を具体的に解決するために 基本的な対象・誰に何を言わなければならないのかというようなことについて整理がつきます。 AさんがBさんに親切な態度を取って、AさんもBさんもどちらも、精神的に充実した気持ちになって、快楽に近い感情・情緒を抱いたとします。 Cさんは、それに対し、「わはは、またいい気持ちになったな!税金を払いナ!いい気持ちになった代償だ!これだから、集金はやめられない!いっひっひ・・・」 基本的に、人間を監視する側と監視される側に分ける見方です。ある種の管理主義です。極論するとして、何もしない人間にエゴはないという考え方であるといってもよいでしょう。制度のない官僚主義=独善です。 理論的には、 全ての人間はエゴをもっている。エゴの存在を尊重すべきである。 エゴを認めてこそ自由。行動は、全てエゴから出発する。エゴを認めないものは、偽善者。全てがエゴである。という短絡的な考えです。 自分の価値観こそ絶対であるということと言い換えることが出来ます。 Cさんが、 Aさん・Bさんを理解すること及び Aさん・Bさんが、 Cさんを理解することはいずれも不可能です。Cさんグループと、 Aさん・Bさんグループは、違う世界に人生を過ごしているのであり、それはそれで現実として、介入する必要もないでしょう。学校文化が、会社文化を駆逐した結果です。 Cさんの精神は、奴隷の精神です。「わしが、おまえに注意してやっているのだ!他人がこうするべきである!」と死ぬまでいい続けるボケ老人です。 エゴのない瞬間があるということさえ想定できなくなった人々=エゴイストたちの言い分です。「もっともっと自由に」とエゴの呪文を唱える人です。 人頭税・消費税もコレに似た考えです。生きているお前ら・資源を消費するバカどもに、税金を払わせるのは当然という考え方です。 そういう人たちとは、基本的に関わること自体を避けるべきです。そういう人たちは、いろいろと他人を批判して、守りが甘くなったところを利用して何かを掠め取ろうとするだけです。 いやな気分になったら、ご褒美(常習性のある麻薬及びそれに準じる毒)をもらえる国というのを考えると、同じような結果にたどり着きます。経済学でしか思考の出来ない自称哲学者たちの生き様です。 医者・患者・厚生省の役人 教師・生徒・文部省の役人 生産者・消費者・政治屋 と区分して具体的に考えてみてください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 それぞれの立場にエゴがあるということですね。でも偽善やエゴとみえようと、両者に合意形成されているのであればそれに干渉するのは余計なお世話です。 ところで最近ここで「価値観の押し付け」というテーマがあがりました。 http://virus.okwave.jp/qa5898201.html これを読んで価値観の押し付けもエゴのおしつけに通じるのかもしれないと想いました。 私のイメージとしてそれは、都合のよい場面に前面に押し出すことができる「水戸黄門の印籠」です。また感情面でいえばこの印籠を掲げるときカタルシスも感じることができるという「おまけ」もついてきます。 一見譲歩しているようで実は違う。「価値観」という抽象的なものなのですから、それを持ち出されるとこちらは何も言えません。暗黙に了解されている攻撃材料、または和解のためのルールなのかもしれませんが、個人的には一見大人の態度を示しつつ、決して自分の価値観は間違っていないという強い意志表示だと思います。 もともと「価値観」が違うからこそ争いにも発展するわけで、印籠を出すまでにいろいろな背景があったわけです。言葉の場合なら「あなたの考えはおかしい」と主張しているのは具体的な圧力、次にでてくる「価値観の違いだからとやかく言うな」というのは抽象的な圧力という感じがします。 エゴも抽象的なものですから同義語だと感じました。
- sheep67
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視野が狭いよー、と言ってあげてください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 参考にします。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 人生をかけてボランティアをやっている人も知っておりますが、本当にそういう方達は本気でまじめにやればやるほど自己内、自己外の矛盾に苦しんでいます。いわれのない中傷や嫉妬、人間関係のしがらみや確執、またその人自身の弱さもありますが、情熱と強さでそれを乗り越えていくのをみると後光を感じさせられます。 まさに >「利己主義者」とは反対の性格を帯びたものだと考えられており のような人の歩む「道」とはそうやって手に入れていくのだと本当に感じ入っています。 そのような「非難の形式」を用いる人はその後光によって自分が見たくないものを見せられてしまうのでしょう。ひとつの反動形成なのでしょうね。