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自己の分裂とは
最近、哲学を学び始めたものです。 ある哲学書の文章で、次のようにありました。 「たしかに、日常生活において、(自己)という言葉は、それだけで用いられることは少ない。一見すると、その固い言葉は日常生活に根ざしていないかのように見える。しかし、(自己)という言葉が単独で使用されることは少ないにしても、他の名詞や動詞と結びつけて用いられることは多い。 たとえば、自己批判、自己分析、自己暗示、自己満足、自己卑下などといった多様な表現がしばしば用いられている側面を見れば、すでになんらかの仕方で自己が了解されている。そうした漠然とした了解の仕方を反省して、その背後に隠されているものを明らかにする作業は、安易に否定されるべきではない。自己批判、自己分析といった表現において、自己は、批判の対象、分析の対象、満足、卑下の対象、めざされるべき対象として把握されている。こうした言い方が可能になる背景には、自己が、自己との間で分裂するという現実がある。」 最後の 【自己が、自己との間で分裂するという現実がある。】の部分が分かりにくいです。自己の分裂とはどいううことですか?
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心の矛盾とか、対立とか、分裂と言う言葉があります。又『葛藤』という言葉もありますが、これ等に共通している事があります。それは『二つの考えが在って、その考えが』違っていると言う意味です。 精神疾患というものが在りますが、これに付いても同じことが言えます。二つの意識が在って、その意識の違いを人間は『苦悩』と感じていると言う意味です。 悩みや苦しみに付いても、当てはまります。人間の苦悩や、苦しみとは『心の矛盾』という事です。その意識同士の意識のギャップを『苦しみ』として感じています。従ってそのギャップが大きければ、大きいほど苦悩が深刻と言う事になります。 簡単に説明するならば、自我意識は『精神』を形成するうちの片方、という意味になります。もう片方とは『事実に即して事実を見ている存在』と言う事ですが、分かり難いと思います。 例えば、歩くという事を例にした場合、一人で自由に野原を歩いたとした場合ですが、心は『小鳥の鳴き声や野の花や、木々の美しさの中で』自然を堪能しています。自我意識は『歩く事には』使われていません。では『自分の手足は』誰が働かせていますか? その反対の例です、大勢の人の前で、慣れないことをしようとする場合です。壇上まで歩いてゆき、話をする場合です。自我意識が歩こうとします、自我意識で話をしようとします。動きは『不自然になり』ぎこちなくなります。 オリンピックなどのメダルを獲得できる場面です。その人の自我意識は何もしていません、只引っ込んでいます。自我意識が引っ込んでいる間は、その人の体は『誰が』働かせていますか? 没我の思想と言うものがあります、『無為自然』というものです。人為ではないもので、人間が働く時に一番人間は自然と働いて、そうしてうまく行く、という思想の事です。東洋の『無の思想と』言う事ですが、この思想はこの自我意識が働かないで『働いている者』を重視すると言う事を説いています。 又キリスト教の究極なもの『神に会って和解せよ』という事も同じ事を説いています。自分自身の中に在るもう一つの意識と和解せよ、という事です。 そのもう一つの意識とは『自我意識』と共に働いている者の事です。その者とは『無意識の意識』の事です。精神疾患であるならばその症状を感じさせている者の事です。高い所に上がった時には『怖い』と思わせている者の事です。人に会った場合には、その人の印象を自我意識に教えている者の事です。 突然の出来事の時には『心臓の速さでも、ホルモンの働きでも、脈拍でも、替える事ができる者』の事です。人間の精神と、心と、体との全体としての全体像が『まだ分かっていないとされている者』の事です。この事が分からなくて、今の精神科医たちも「内因性精神疾患の本態が今日までわかっていないのは精神医学の恥辱である。 」という風に言っているのかと思います。 人間の心が左脳に自我意識という人格。右脳に無意識や潜在意識を統率している意識(人格)が存在しています。その二人の出会いがキリスト教では『神に会って和解する』仏教では『不安の元になっているその元の者に出会って、その不安の正体が分かってその不安が根こそぎ解消される』=『生死の問題が解決する』という事になります。 道に至る(悟りを開く)という事で、全ての障害が解消できます。全てを肯定している者と、自我意識が折り合えなくなっている事が人間の苦悩を醸し出しています。全てを受け入れる事が苦悩を、安楽に替えてくれます。苦悩とは(心の分裂)とは自我意識が『現状を』受入れられないところに有るからです。全てを肯定できた時が人間の天国となります。 人間の自我意識が『受入れられないと思っている事が』地獄を作り出しています。ストレスとは『受入れられないもの』の総称という事が云えます。何事も受入れてゆく所に『ストレスが無い』安楽な境涯というものが出来て来ます。
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なるほど自己が分裂するということがわからないということですね。 「ある哲学書の文章」というのは誰が書いたのか知りたいところですが、 自己が分裂するというのが本来あり得ない、 若しくは、常識的に考えられないということということを前提で 書かれた書物かと思います。 これは自己が自己を観ている状態だと思われます。 「観察」「観照」という状態でしょう。 過去の自己は、記憶に残っている過去の行いに対して、 現在の自己が批判やら分析できます。 これは自己を自己が観察している状況と思われます。 そういう意味で【観察している自己】と【観察される自己】の分裂があるということだと思います。 しかし、【観察している自己】を観察するとなると、 【観察している自己】は【観察されている自己】となり、 《観察している自己》を知ることは永遠にできないということになります。 愚見ですが、そういった難しさなのかと思われます。
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お礼
回答ありがとうございます。
補足
>【観察している自己】は【観察されている自己】となり、 《観察している自己》を知ることは永遠にできないということになります。 この部分が、まだよく分かりません。 【観察している自己】が【観察されている自己】となると、なぜ《観察している自己》を永遠に知ることができないのでしょうか?