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ヴェルサイユの失敗

1919年6月26日に調印されたヴェルサイユ条約(対独講和条約)についてですが、なぜ連合国はドイツと所謂"過酷な割に甘く、甘い割に過酷な"条約を結んだのでしょうか? 厭くまでドイツに報復するつもりならば、後世に禍根を断つため徹底的(ドイツ解体を視野に入れた)にやるべきではなかったでしょうか? 現にオーストリアやトルコは弱体な小国(民族国家)に解体されています。 ドイツには条約不履行の自由も認められています。 ドイツに対しては、なぜこの様な恨みだけを残すような最悪で中途半端な条約になってしまったのでしょうか?

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回答No.2

ソ連の存在が大きいと思います。1917年のロシア革命によって共産主義国家が 成立したことは資本主義国家にとって大きな脅威でした。連合国側にとって、 ドイツとソ連が再び大国化することは同時に避けなければならないという至上 命題が存在しました。そこで緩衝地帯として東欧に多くの民族国家を作る必要が あり、民族自決の原則を適用することでオーストリアとトルコを解体しました。 フランスとイタリアは、こうして出来た東欧諸国と網の目のような同盟を結び ました。これはドイツとソ連の両方に備えるためでした。 しかし、ドイツを同じように完全に解体することは民族自決の原則からすれば 不可能であり、また、ドイツが解体された場合、ソ連とフランス・イタリアの 間には弱小の東欧諸国と細切れにしたドイツしか障害物がなくなります。同盟 関係を結んではいても、新興の東欧諸国と細切れのドイツでは軍事的に弱小で あって、各個撃破される可能性が高く、ソ連に対する軍事的防波堤としての役割 があまり期待できません。ドイツをある程度の勢力のままにしておくことは、 ソ連に対する抑えという意味から不可欠なことでした。当時のヨーロッパ諸国に とって、ドイツよりもソ連の方が不気味な存在で、革命が波及することは最も 避けなければならないことでした。オーストリアとトルコを多数の民族国家に 解体した理由も、民族国家であれば共産主義革命が波及しにくいという側面が あったと思われます。仮に民族自決を採用せずに、トルコとオーストリアを多民 族国家のまま残していたら、多民族国家のロシア帝国がそうであったように、 革命が波及して力を持つ恐れが強かったでしょう。 つまり、ドイツは弱体化しなければならない対象であると同時に、ソ連に対する 抑えとしての役割も同時に期待されたために、この両方の必要性から来る矛盾を うまく解消できなかった結果、"過酷な割に甘く、甘い割に過酷な"ヴェルサイユ 条約という中途半端なものができあがってしまったのでしょう。 後にヒトラーは、ソ連に対する抑えという役割をドイツが果たすかのような態度を 示しながらイギリス・フランスから宥和を引き出して多くの領土を回復した後に、 今度はその役割を放棄して、ソ連と同盟を結ぶことによってヴェルサイユ体制を 完全に葬り去ったわけですが、ヒトラーはヴェルサイユ体制構築の理由を理解し、 その欠点を巧みに突いた外交戦略を行ったといえるのではないでしょうか。

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  • tanuki4u
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回答No.1

ウィルソンの原則がいいとこ取りされたからではないですかね、英仏によって。 旧敵国を弱体化させるための原則は実施されて、そうでないものは実施されない。 東欧諸国の民族自決 → オーストリアとトルコの弱体化 OK 賠償金は、使った金以上をふんだくるのがそれまでの原則だから、その原則どおりに実施した。