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根本悪はあるのか
また善と悪とが、喜びと悲しみとがどうしてあるのか?
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悪とは うそをつくことです。 そこに含まれるのは 認識をゆがめることや 説明を求められているのにその正当性にも逆らって拒むことや あるいは 伝えるべきことを伝えず明らかにすべきことを隠すことなどなどです。もうひとつ事例を挙げるなら ひとを殺すのは自分の気持ちに逆らうことだと どう考えても分かっているのにこの気持ちに逆らって実行しようとすること これも うそ・偽りのたぐいに含めます。 《気持ち》と言いましたが それは 胸騒ぎや心の動揺が伴うことを意味します。顔を赤らめたり心にやましさを感じたりします。 この広い意味での《うそ》が 悪です。 この定義によると 《悪》は――よく考えれば――何ものかに逆らうという要素を持ちます。つねにそうです。気持ちに逆らう あるいは 心に背向くという事態です。 だとすれば 次のように定義し直すことができるようです。 悪とは 何ものかに対する負の気持ちでありその実行であると。 この何ものかをじんるいは 善と言っているのだと思います。必ずしも確実ではないのですが そして絶対的に確定してもいませんが いわばウソの構造としては ひとに備わった自然の本性であると考えられ それは普遍的であろうと想定されています。 すなわち 悪とは 善の損傷(負の善 あるいは 善の欠如)であるという――想定を交えての――定義です。 ★ 善と悪とが、どうしてあるのか? ☆ に関して半分ほどを答え得たと思います。あとの半分は ではなぜ 善である心にひとは逆らうのか? といった問いが残ります。 これは これも一般的には ひとという存在は 相対的な記憶や知解そして意志の行為能力しか備わっていないというやはり自然本性のあり方として説明されます。しかもその生も有限だと来ています。 言いかえると 生きる時空間に限りがあるということは 一方で なぁんだどうせ生きたって百年ぢゃないか 面白おかしく生きてやれ 少々ウソをついたって 百年でちゃらになる――こう考える場合も現われ得ますし。他方で なるほど 知解の能力も有限で相対的であるなら われはその限りで能力を究めて行ってやろう できるだけ――相対性の範囲ででも――人間と世界についての真実を知ろうという場合も現われます。 あるいは後者については 一体どういう神経組織のはたらきによって成り立っているのか知らぬが――いま《真実》という言葉を使ったが そのように判断するところの心が だいたいすべての人間にやはり備わっているようだ それゆえそのこととつながった形で――どうも心にその自然本性としてのあり方として善の状態があるというもののようだ。だからわたしは この短い人生をこの《心の善》の状態を確立するように生きてみようかという場合です。 これを確立(サンキーレ)した状態が 《聖なる(サンクトゥス)》と呼ばれます。(人間である限り 相対的な状態です)。 ぎゃくに――ここで 《根本悪》の問題ですが それは―― 或るときからの人生すべてをウソで固めたものにすること これが考えられます。気持ちも心も 自然に湧き上がり意識されるもののすべてに逆らう こういう人生です。善の完全なる欠如 これです。 自然本性としてのふつうの意志 これをすべて棄ててしまった人間。つまり言ってみれば特に精神の側面において そしてそれは意志において――というのもたぶん 記憶や知解の能力は いわば中立のものとしてはたらくようだからですが―― すでに骸骨となってしまった状態にある。そういう人間のありさま これが究極の悪の状態です。 でもこうも言われています。 根本悪を擬人化して(何らかの存在と見なして)悪魔と呼ぶことがありますが この悪魔も――驚くなかれ しかも驚くに当たらない―― 天使(あたかも純粋善)に身をつくってみせます。これが ウソの究極です。根本悪です。 根本悪が何を為すか これは さまざまであるでしょう。 またブディズムそして特に浄土系では この究極の悪も救われるのだそうです。さて どうでしょう? ★ 喜びと悲しみとがどうしてあるのか? ☆ 善とそしてこの善の部分的な損傷としての悪が 一般に誰にもありますから それらの綯い交ぜによって 起こるのでしょうね。 なお 悪あるいは根本悪について それは《状態》ですから その状態ないし現象として《ある》と言いますが そもそも善の損傷としての状態であり現象なのですから 悪そのものとしては――ここでの定義に従うかぎりで―― 存在しません。 善の存在がある。善のみが存在する。この善が欠けていくとき悪が生じる。生じた悪の状態がくせになる。くせがならわしになると あたかもそこに悪が存在していると見える。じっさい悪というおこない・現象が 町の中を大手を振って歩いています。 世の中は 見方によりますが 悪貨が良貨を駆逐している状態の慢性化だと見えるようです。(ブディズムは この状態が 無明だと言います。これを明知へ転換するのが さとりだそうです。その空観によると さて どう世の中が見えるのでしょう?)。
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- 雪中庵(@psytex)
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最後にくっついている「喜びと悲しみ」は、人に意思があるからで、善悪とは全く別の質問です。 悪についてなら、下記のような定義が成り立ちます; 悪(あく):深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属する。
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- maimaisus
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根本悪は存在しない。何故ならば、悪と言うモノだけでの存在が無いから。 また善と悪は、人間がモノを考える為の基準。 喜びと悲しみは、感情であり、その人間を構成しているモノにより、脳が、感じるもの。
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- yaki_29_u
- ベストアンサー率25% (63/245)
悪、善は、人間社会(動物も)が作り上げた生存本能に基づく概念。 (近代政治的、古い形態の社会モデルでの政治的(=宗教的)な概念に内包される) 喜び、悲しみは、人間(哺乳類だけかな)が作り上げた、仲間同士でのコミュニケーションで使われる単純な感情。 (喜怒哀は哺乳類のうち集団行動を好むあるいは知能が高い動物のみが有すように観察される。) もし、動物がいなければ、そのような概念や感情は生まれない。よって、生命活動がある程度進化しているから、生まれた。それ以外でも何ものでもない。 根本悪とは、どのような社会形態での政治的判断によっても、悪とみなされる事象である。しかし、数多くの議論があるが、歴史的には真の意味での根本悪は存在しない。一方で、根本善はほとんど議論されることは無い。これは様々な形態での政治的判断で善であることがみなされる事象が無い為、あるいは悪の対比が全て善であると認識されるためである。
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- ペケ(@peke0119)
- ベストアンサー率23% (5/21)
「悪とは社会的な秩序を乱す、政治的に許されない行為、または思い」だとする説もありますが、私はそのような社会的に作り出された概念ではないと思います。 例えば、動物を見て、“かわいい”と思う感情は何故あると思いますか? おそらく、人間がむやみに弱者である他の動物を殺さないためにある、としか思えません。 その感情は、地球全体で異種が共存共栄していくためにある、目的に沿ったプログラムなのだと思います。 それが神の意志なのか、仏の意志なのかは分かりません。 同じように善や悪というものも、時代によってうつろうものではなく、人間の根源的な本能なのだと思います。 人を傷つけることは、いかなる時代のどんな人種であろうと悪だと思いますし(あくまでも基本的には…) 人のために何かをすることは、同じく善だ思います。 喜びや悲しみも、根源的な本能である愛に繋がっていると思います。 愛もまた、神か仏か、さだまさしかは分かりませんが、人知を超えた目的にそったプログラムなのだと思います。 そういったことを追求することが哲学だったり、宗教だったりするのでしょうが、私自身の結論としては “人間で生きてるうちは分からん”ということでした。すみません…。
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- cowstep
- ベストアンサー率36% (756/2081)
善悪は、道義的価値判断で、それを失えば、弱肉強食の無法社会になります。喜びと悲しみというのは、感情的価値判断で、それを失えば、無感動になります。人生は悲喜こもごもあってこそ…
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ご回答いただきありがとうございました。
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